第3節 道路
連絡会議」の席上、千歳市側からバイパスルートについて新たな案が出された。それは恵庭バイパスから分岐して南28号を通るというルート案であり、恵庭市も基本的には了承した。しかし、このルートは南28号がC経路という防衛事案の特殊性を持つほか、土地利用の誘発性や技術的側面などから難しいものだった。市は地元アンケートの実施や他の開発計画などを勘案した結果、ルートを南27号に変更することとし、63年には千歳市議会の承認、平成元( 1 9 8 9 )年には建設省から南27号をルート(千歳バイパス)とすることの承認を得た。市は3年に策定した千歳市第4期総合計画( H 312 )に千歳バイパス建設促進を盛り込み、建設促進期成会を設立し中央官庁等への要望活動を継続した。その間、昭和62年に着工した恵庭バイパスは8年に供用開始となつていた。北海道は、平成18年度から21年度にかけて「第4回道央都市圏パーソントリップ調査」を実施し、千歳バイパスの需要測定を行った。それによると、前回調査時より交通需要が減少見込みとなることが判明した。これは人口減少社会の到来などを踏まえた交通量の予測調査であるが、バイパスの必要性の低下を示すものであった。また、開発局でも千歳バイパスは新規道路の位置付けであり、すでに恵千バイパスとしての認識はなかった。
年2月、市は千歳市議会産業建設常任委員会において、千歳バイパス建設促進の要望活動断念と次期都市計画マスタープラン
( H24 • 3策定)の構想から削除することを報告した。関係者に事業中止に係る説明会を開催するとともに、国に対し要望活動中止を伝えた。このようにして昭和46年から継続してきた整備計画は、時代の趨勢に伴う将来的な交通量減少に加え、周辺道路網の強化で代替可能と結論づけられ終止符が打たれた。
国道453号
昭和24 (1949)年5月に支笏湖は支笏洞爺国立公園に指定されたが、当時札幌から支笏湖への道路は未開通であり、その整備は札幌市や近隣町村、観光関係者が強く希望するところであった。国立公園指定に先立つ24年4月には、札幌市と関係市町村による札幌地方綜合開発協議会が「支笏湖観光産業道路開設の件」の請願書を北海道知事と北海道議会議長あてに提出した。この請願は同年3月の道議会で採択され、31年11月に道費による開削が始まり、33年11月に石切山—丸駒温泉間の道路が開通した。施工は南恵庭駐屯地の陸自第一施設群が部外工事として行い、36年4月に道道308号丸駒札幌線として道路認定され。
38年には石山(常盤)—幌美内間の全面改良(線形•幅員等)工事と、幌美内—湖畔間の湖畔道路(後述•支笏湖畔有料道路)工事が着工し、第11回オリンピック冬季競技大会(札幌オリンピック)に間に合わせるため異例のスピードで42年9月に両区間が同時開通し、道道512号として路線認定された。(887その後、平成5 (1993)年4月1日に道道512号札幌支笏湖線札幌市豊平区〜千歳市水明郷)、道道723号洞爺湖大滝線の全区間、道道233号伊達洞爺線の一部区間を合わせ国道453号に昇格した。その結果、札幌市豊平区を起点とし、真駒内を縦貫し伊達市を終点とする延長88.7キロの一般国道となった。重複路線は苫小牧市丸山
(丸山交点)—伊達市大滝区三階滝町(三階滝町交点)の国道276号である。
支笏湖畔有料道路
支笏湖北岸の幌美内と支笏湖湖畔を結ぶ道は、支笏湖畔有料道路として昭和38年10月に建設着手し、42年9月に開通、59年4月に無料化された路線である。全長6.97キロ、幅員5.5m、2車線、総工費約6億1000万円であった。
有料道路が整備される以前は、湖畔と支笏湖北岸に位置する幌美内や丸駒温泉との間の交通手段は船のみであった。しかし、支笏湖観光を向上させるためにはこれらの地域と湖畔とを陸路で結び、かつ道道308号丸駒札幌線と連携させて札幌からの支笏湖畔への観光ルートを確立する必要が12あり道路を整備することとなったのである。
昭和37年7月10日に第2期北海道総合開発計画が閣議決定してから事業は具体性を帯びた。北海道は幌美内—湖畔の有料道路開設を検討し、36年に道路建設の認可申請を済ませ、38年度当初には建設方針を固めた。支笏湖の景観を損ねないよう、湖岸に沿って斜面を切り崩さずにコンクリート壁を築き、内部を埋め立てる工法で建設された。
料金徴収期間
•
時間は、5月から10月が午前7時から午後9時まで、4月と11月は午前9時から午後5時までとし、夜間は無料とされた。また、
月から
3月までは通行車両が少なく、また運営経費もかさむため料金所は閉鎖し徴収は行われなかった。
なお、通行料金は、次のとおりである。
この道路は当初、観光道路として利用されていたが、次第に混雑する国道36号を避け、札幌と千歳•苫小牧を結ぶ産業道路として利用する割合が増えたこともあり、道路整備費の起債分の償還が完了したことから59年3月末で有料道路事業は廃止され、4月1日から無料化された。
それまで支笏湖湖畔の商店街は夏季のみの営業であったが、冬季観光の目玉として、54年第1回千歳支笏湖氷濤まつりを湖畔第5駐車場を会場に開催した。まつり実行委員会では札幌からの観光客を呼び込むため、札幌—幌美内間の通年開通を要望したが、札幌土木現業所では維持管理費の増額、安全性の観点から難色を示した。市•地域の粘り強い要望の結果、まつり期間中の日中に限り冬期も通行できるようになったのは、有料道路事業が59年4月に廃止されてから4年後の63年度以降である。さらに24時間通年開通が実現したのは、雪崩対策がほぼ完了した平成10年度まで待つこととなつた。
平成26年9月U日支笏豪雨災害
平成26年( 2 0 1 4 ) 9月11日未明から明け方にかけて、支笏湖周辺を中心に局地的に猛烈な雨が降った。札幌管区気象台は同日午前5時35分に、数十年に一度の大雨が予想される「大雨特別警報(土砂災害、浸水害)」を北海道で初めて発表した。支笏湖畔の国道453号を管理する札幌開発建設部千歳道路事務所では、10日深夜の大雨警報発令以降、管理体制を強化していたが、11日未明から降雨が強まり、現場パトロールでも猛烈な雨が確認されたことから即時に通行止めを判断し、特別警報の発令よりも早く、11日午前3時に通行止めを開始した。この決断がこの大災害において犠牲者を一人も出さなかったことにつながった。
この大雨による冠水、土砂崩れ等のため、支笏湖周辺では国道453号
» 276号の国道2路線2区間をはじめとして各所で道路が寸断された。国道453号では札幌市南区滝野〜千歳市支笏湖温泉間(29 • 5キロ)において土砂崩れ、橋梁損傷、路肩の損傷等がみられた。国道453号のうち支笏湖畔沿いを走る千歳市幌美内から支笏湖温泉までの区間( 3。〇キロ)では、計7カ所の自然斜面において土砂崩れ等が発生し、崩れた土砂の一部は支笏湖にも流れ込み道路が寸断された。この影響で丸駒温泉が孤立し宿泊客が一時足止めされた。札幌開発建設部は宿泊客を直ちに避難誘導するため、優先的にこの道路の啓開作業を進め、即日ルートを確保し、翌12日朝には丸駒温泉に自家用車で来ていた客を道路パトロールカーの先導により避難誘導した。 一方、丸駒温泉でも&社所有のクルーザーで湖畔へ宿泊客をピストン輸送し避難させた。
豪雨により発生した大量の土石流は、支笏湖に向けて恵庭岳の沢伝いに急斜面を流れ下りながら国道453号の道路や橋を飲み込んだ。復旧に向けては、地域で国道工事を担当する建設会社の多くが支援のため緊急出動し、休日•昼夜関係なく24時間体制で作業にあたった。これら関係企業の総力により、10月9日13時に支笏湖周辺の紅葉シーズンに間に合わせるように通行止めが全面解除となった。当時、復旧作業を統括したのは札幌開発建設部次長の渡邊政義、現場指揮は千歳道路事務所長の坂憲浩であったー開通の数日後に湖畔で開催された「支笏湖紅葉まつり」には、千歳、苫小牧からはもとより、開通したばかりの国道453号を利用して札幌からも多くの観光客が訪れ、まつりは大盛況となった。わずか28日間での復旧に、開通を願っていた関係者•地域住民の喜びはひとしおであった。それとともに、道路管理を通じて日常生活を支える札幌開発建設部の圧倒的な総合力に賛辞を送ったのである。
国道2 7 6号(支笏国道•美笛峠新ルー卜)
一般国道276号はニセコ連峰を望む倶知安町を起点とし、支笏洞爺国立公園の中央に位置する支笏湖に沿い、勇払原野に広がる苫小牧市に至る路線である。
主な経過地は京極町、喜茂別町、伊達市(大滝地区)、千歳市となり、倶知安町から大滝地区美笛峠までの延長52 • 4キロを尻別国道、美笛峠から支笏湖畔モラップまでの延長23 • 9キロを支笏国道、モラップから苫小牧市に至る延長22.7キロを樽前国道と呼んでいる。
このうち、支笏国道の前身となる美笛峠から支笏湖畔に至る道路は、峠付近の森林資源の開発を目的とし、昭和29 ( 1 9 5 4 )
年に町村道大滝支笏湖線として13 • 9キロが国の開発道路の指定を受け着工された。難工事の末、まず美笛—大滝間道路が
33年に完成した。美笛からモラップ間の道路は、湖畔周りの林道として札幌営林局が33年に開削に着手し35年に完成した、冬季間は通行止めであった。また、樽前国道の前身となる湖畔から苫小牧に至る道路(産業道路)は、山線と呼ばれた王子軽便鉄道沿いに25年米軍貸与の機械により着工以来わずか7力月程度で完成した。尻別国道の開削の歴史は古く、明治後期には倶知安—大滝間は開拓道路として開通していた。本格的な整備は戦後になってからであり、それぞれ30年頃に道道認定を受けている。なお、大滝から美笛峠までの間は27年までに開通した。
これら、尻別国道、支笏国道、樽前国道の前身となる主要道道洞爺湖支笏湖線が、44年12月政令第2 8 0号建設省告示609号により、45年4月1日に倶知安—喜茂別—大滝—美笛—支笏湖畔—苫小牧を結ぶ全長O1745キロの一般国道276号に昇格した。
年の国道昇格を機に、急カーブ、急勾配が続き、危険個所が多く、冬期間通行止めとなる美笛峠をはじめとする支笏国道の整備計画が策定され改修工事が実施された。改修工事は、
45
53年の美笛市街道路改良工事や千歳橋架換工事に引き続く湖畔工区の改良工事、
54
59年の美笛峠新ルート工事を行う美笛工区、60年以降の湖畔沿いの未改良道路の改築とモラップキャンプ場付近の道路付替工事などを行う丸山工区の3期、3工区に分け実施された。国道昇格前は国立公園内であることと厳しい地形条件のため整備が遅れ、特に美笛峠から大滝方面へは落石や土砂崩落、雪崩など危険個所の多い未改良区間で、毎年12月から5月までの約半年間は通行止め主な経過地は京極町、喜茂別町、伊達市(大滝地区)、千歳市となり、倶知安町から大滝地区美笛峠までの延長52 • 4キロを尻別国道、美笛峠から支笏湖畔モラップまでの延長23 • 9キロを支笏国道、モラップから苫小牧市に至る延長22。7
キロを樽前国道と呼んでいる。このうち、支笏国道の前身となる美笛峠から支笏湖畔に至る道路は、峠付近の森林資源の開発を目的とし、昭和29 ( 1 9 5 4 )年に町村道大滝支笏湖線として13 • 9キロが国の開発道路の指定を受け着工された。難工事の末、まず美笛—大滝間道路が33年に完成した。美笛からモラップ間の道路は、湖畔周りの林道として札幌営林局が33年に開削に着手し35年に完成したが、冬季間は通行止めであった。また、樽前国道の前身となる湖畔から苫小牧に至る道路(産業道路)
は、山線と呼ばれた王子軽便鉄道沿いに25年米軍貸与の機械により着工以来わずか7力月程度で完成した。尻別国道の開削の歴史は古く、明治後期には倶知安—大滝間は開拓道路として開通していた。本格的な整備は戦後になってからであり、それぞれ30年頃に道道認定を受けている。なお、大滝から美笛峠までの間は27年までに開通した。
これら、尻別国道、支笏国道、樽前国道の前身となる主要道道洞爺湖支笏湖線が、44年12月政令第2 8 0号建設省告示609号により、45年4月1日に倶知安—喜茂別—大滝—美笛—支笏湖畔—苫小牧を結ぶ全長^
各種法面防護工事などが行われた。
49年の工事用道路として事業化されて以来、11年の歳月をかけ59年10月5日に開通、通年通行が実現した。風不死岳の麓から苔の洞門を経て、支笏トンネル手前までの改良と舗装工事が本格化したのは翌60年以降である。急勾配•急カーブを緩やかにし、モラツプのキャンプ場を回避するルートを新設した0189億8000万円を投じた事業は平成元(1989)年に終了した。
道道16号支笏湖公園線かつて千歳市街地から支笏湖畔までは、明治の頃に開削された本町4丁目交差点からママチ川沿いに御料林を抜ける支笏湖街道があったが、大正時代には廃れてしまっていた。大正11( 1 9 2 2 )年に王子軽便鉄道にーを余儀なくされていた。なお、支笏国道には、美笛、支笏、滝笛トンネルがあり、美笛トンネルの竣工が一番古く44年に完成し、次いで支笏トンネルが49年に完成した。54年、滝笛トンネルの着工にはじまる美笛峠の新ルートは延長6 • 533キロとなり、この区間が周囲を原生林に覆われた景勝地のうえ国立公園であることから、工事の計画•施工にあたっては、谷は全て橋梁で渡り、峠山頂はトンネルにするなど地形の改変を極力さけ自然と調和した道路づくりを目指した。この新ルート写真5 -40支笏大橋(H31.1.19/札幌開発建設部では、延長1• 545キロの滝笛トンネルをはじめとし、滝笛橋、春笛橋、夏笛橋、秋笛橋、冬笛橋、美笛橋、笹笛橋と中路式ローゼ桁が美しい支笏大橋など8橋と各種法面防護工事などが行われた。
49年の工事用道路として事業化されて以来、11年の歳月をかけ59年10月5日に開通、通年通行が実現した。風不死岳の麓から苔の洞門を経て、支笏トンネル手前までの改良と舗装工事が本格化したのは翌60年以降である。急勾配•急カーブを緩やかに
道道16号支笏湖公園線
かつて千歳市街地から支笏湖畔までは、明治の頃に開削された本町4丁目交差点からママチ川沿いに御料林を抜ける支笏湖街道があったが、大正時代には廃れてしまっていた。大正11( 1 9 2 2 )年に王子軽便鉄道にー般の乗車が認められると、人々は市街地から孵化場までの蘭越街道を通り、さらに1。5キロほどを王子千歳第四発電所まで歩き、そこから王子軽便鉄道に乗って支笏湖へ行くのが一般的となった。
当時の千歳は、支笏湖を幽谷の避暑観光地として売り出すためには、大都市札幌からの観光客の呼び込みが重要であると認識しており、それには千歳市街地から支笏湖への自動車道が何より必要だった。昭和8年、村の要望活動が実り、拓殖費支弁地方費道(現•道道)として自動車の通れる道に改修され、13年9月には地方費道千歳支笏湖線621 •に認定された。支笏湖と周辺一帯が24年5月に支笏洞爺国立公園に指定された後、29年に道道37号支笏湖公園線として路線認定され、平成6 ( 1 9 9 4 )年10
月には路線番号を16号に変更した。起点は千歳市錦町3丁目(国道36号と国道337号交点)、終点は苫小牧市丸山(国道276号交点
)の総延長 キロである。シーニツクバイウェイ北海道のルートとして春から秋にかけて格好のドライブコースとなっているが、現在のような快適な舗装道路に整備されたのは41年になってのことである。
現在は、観光道路のほかに道南への産業道路としての利用も多く、北海道では路側帯の拡張や中央分離帯の整備など安全対策を継続している。
サイクリングロード
昭和45 ( 1 9 7 0 )年に制定された「自転車道の整備に関する法律」により、翌46年度から交通安全施設整備事業の中に自転車道などの整備をー項目として取り上げ整備が進められた。自転車交通の安全を確保し、あわせて心身の健全な発達に資することを目的として、48年度より大規模な自転車道路のうち整備の必要性の極めて高いものについて都道府県に事業費の2分の1
を補助して整備を図ったものである。
このサイクリングロードは50年4月に道路認定され、正式名称は「北海道道872号支笏湖公園自転車道」といい、認定区間の起点は苫小牧市丸山、終点は千歳市春日町2丁目までの延長22 • 9キロである〇ただし、自転車道路としての起点は支笏湖岸のモラップであり、道道16号支笏湖公園線終点まで国道276号と重複し、終点は錦町1丁目の国道%号交点千歳橋)となる。そのほか大半の区間で道道16号と並行または重複しており、その区間の一部は王子軽便鉄道の廃線跡を利用している。なお、道道16号とほぼ並行していながら、自動車道とは起点終点が逆となっている。
年5月27日、着工から9年間の工事で全線開通した。当日は千歳サイクリング協会による「市民サイクリング」が開催され、市民が支笏湖公園線に沿って千歳川のほとりや国有林の中を走りぬけた。
現在も、サイクリングはもとよりランニングや散歩などで市民に親しまれている道である。また、毎年6月に開催される「千歳JAL国際マラソン」のコースとして、近年は陸上競技の実業団チームのトレーニングコースとして使用されることも多い。
シ—ニックバイウェイ
平成17 ( 2 0 0 5 )年3月より北海道開発局では、道路を通じた美しい景観づくり、活力ある地域づくり、魅力ある観光空間づくりと地域環境における雇用の創出を目的として、米国で取り組まれている制度を参考に独自の「シーニックバイウェイ北海道」制度の運用を開始した。取組の背景には、「道の駅」人気やドライブ観光による地域経済への波及効果、北海道観光の個人型への移行によるレンタカー需要の拡大、さらに休耕田やシャッタ—商店街にみられる沿道環境の荒廃などの社会情勢があった。シーニツクバイウェイとは景観。シーン(scene)の形容詞形シーニツクと、わき道、寄り道を意味するバイウェイ(Byway)を組み合わせた言葉である。当初、複数のモデルルートを選定したが、第1号として新千歳空港とニセコ方面をむすぶ「支笏洞爺ニセコルート」が指定された。国道号、国道276号、国道453号、道道16号支笏湖公園線はその中心的な路線の役割を果たしている。26年現在、全道12の指定ルート、2の候補ルートで、地域と行政が連携した取り組みが進められている。
主要市道の推移
・
第二停車場線
(中央大通•道道258号早来千歳線)
昭和41 ( 1 9 6 6 )年、日本の四輪車生産はアメリカ•西ドイツ(当時)に次ぐ世界第3位となり、市内の自動車登録台数も40
年からの5年で急増し、道央の小都市である千歳にも高度経済成長期とマイカーブームの波が押し寄せてきた。この時期、貨物自動車の増加は産業発達の象徴となり、乗用車の伸びは個人消費の増加を意味したが、これらの混在により国道36号は恒常的な渋滞を引き起こしていた。市は、市内中心部を経由している国道36号の通過交通量を緩和させるため、千歳駅前を経由し上長都(第2工業団地内、現・パナソニック前)から朝日町8丁目交差点までの4。66キロを直線的に結ぶバイパスを計画した。当時の第二停車場線は朝日町8丁目から東11線(現Oイオン千歳店前)までであり、東9線までの道路予定地にはブロック工場、
電子計算機学校や自動車学校があったことから、富丘団地方面への市内バスも東11線からは踏切を渡って鉄北通りを抜けていた。
都市計画道路事業である第二停車場線の事業認可は45年6月8日付で北海道知事より告示され、事業期間は45年度から49年度までの5カ年計画とされた。順調に整備が進むかと思われたが、45 046年度の事業は札幌オリンピツク冬季大会開催を47年2
月に控えた札幌市に国庫補助が重点的に配分され、年次計画は足踏み状態となった。市は年次計画の立ち遅れを取り戻すため、47年度予算に用地買収費”移転補償など約1億2000万円を要求し、先行して46年6月に事業用地買収に係る説明会を行っている。この時の買収対象地は68筆、5529•07平方孵、対象者は21人であったが、年度中に用地買収。建築物移転補償などを完了させた。48年度は要求額の満額に近い補助金交付により東11線から東9線に至る延長1387打の路盤整備と舗装工事を実施、同年12月4日に開通した。開通にあたっては、大型トラックの通過を制限するため50キロの速度規制や主要交差点4力所(東雲町5丁目、清水町6丁目、栄町6丁目、北栄2丁目)での一時停止規制など安全確保対策が講じられた。
49年度整備工事は清水町6丁目から朝日町8丁目の国道交差点区間とし、第二千歳橋の架け替え、車道4車線化のための拡幅工事が実施された。同年7月北海道告示により都市計画道路中央大通と呼称されることとなり、50年度には工業団地内2キロの整備工事を終えて51年に完全4車線のバイパスが完成した。完成の直後から大消費地札幌と苫小牧、道南を結ぶ産業道路として通過交通量が増大し、その機能面から国道または道道へ昇格が検討された。
60年度に初めて道道早来千歳線の延長部分として道道認定要望に向けた調査書を提出し、以来、毎年要望を継続した。その結果、平成8 ( 1 9 9 6 )年11月27日付で道道昇格が決定し、12月6日付北海道告示により「早来千歳線千歳市美々129 2地先から千歳市上長都960番1地先(一般国道 号交点)まで」とされた。なお、この道道は市道中央大通との重複認定であり、道路自体の維持管理は北海道が、沿線街路樹等の維持管理は市が行っている。30号通サーモン橋市道30号通は、北光3丁目東8線を起点とし、花園3丁目を経由し千歳川をサーモン橋で越え、流通2丁目旭ケ丘通を終点とする延長4 2 00打の都市計画道路である。サーモン橋の完成以前の30号通は千歳川右岸の東郊、住吉地区と対岸の稲穂、花園地区で分断され、人道橋のみで連絡されていた。市は30号通沿いの住宅地形成が進む中で右岸地区から国道337号までの緊急避難経路として昭和58年からの5カ年計画で建設に着手することとした。同年から実施設計に着手、翌59年に護岸部分を着工した。同年11月30日には橋梁設置に伴う道路拡幅の変更が都市計画審議会で可決された。工事は61年度上部工事にとりかかり、62年度につり橋風の外観を作り上げ、市民公募により「サーモン橋」と命名した。また花園側の親柱には千歳川に関する松浦武四郎の謡と千歳川とサケとの歴史を、住吉側の親柱には夕張日誌にある千歳川番屋の図と解説文を入れることとした。11月18日に渡橋式を行い、テープカツトの後に幼稚園児、関係者らが渡り初めを行った。総工費は4億1500万円、延長は77 0 8打、幅員18打で両側に幅3 • 5财の歩道が設けられた。サーモン橋の完成により、30号通は北光、高台地区と住吉、東郊地区を短絡する重要な幹線道路となることから交通量の増大が予想され、安全対策として川南通との交差点には信号機やガードレールが設置された。さらに道路ネツトワークの充実が地域開発の進展を促すことを想定し、30号通サーモン橋右岸か画の中間見直しなどを機に、これまで10年、17年、20年、26年と「千歳市まちづくりアンケート」を実施してきた。これは生活環境をはじめとするまちづくり全般、市政運営等に関する評価や意向を把握し、計画に反映するためのものだが、「道路や歩道の除排雪」に対する重要度の高さや満足度の低さで常に1位または2位にランクされている。この事情は千歳市特有のものではなく、北海道の都市に共通した傾向であり、地域の除雪のあり方に対する市民•行政•除雪共同体との役割分担や相互連携がますます重要になってきたといえる。
市道の除雪延長は、車道が約700キロ、歩道が約200キロとなり、車道の延長約7〇〇キロを直線距離で表すと、これは千歳から栃木県宇都宮市に至る距離にあたる。グラフを見ると、降雪量は年ごとの変動はあるものの、除排雪費用はここ数年増加傾向にあり、そこには建設業界の人手不足など市が抱える多様な課題が内包されている。経費削減に取り組んでいるが決定打はない状況といえる。今後、現行の除排雪体制を維持するためには、除雪作業の効率的な運用など、人員が減少した場合でも安全と水準を維持できる方策の開発が期待される。
参考文献
大島仁「支笏湖畔有料道路史」『志古津』第19号2014年/小田賢一「千歳の道路舗装について」『志古津』第2号2006年/支笏湖ビジタ—センタ—HP「支笏湖年表」/千歳市『千歳市史』1969年、『増補千歳市史』1983年、『要覧ちとせ』各年、『千歳市道路維持修繕計画』2 016年/千歳文化財保護協会『石に刻まれた千歳の歴史碑文編』2014年/道路行政研究会『道路行政』/北海道開発局『北海道開発技術の歩み』1991年/北海道開発局札幌開発建設部HP/北海道開発局札幌開発建設部札幌道路事務所『道都からの創造札幌道路事務所20年の記録』1994年、『一般国道276号支笏国道工事誌』1991年/北海道開発局札幌開発建設部『支笏湖周辺の国道の被災復旧の記録』2 014年/北海道札幌土木事業所『札幌土木事業所30年のあゆみ』1982年/北海道道路史調査会『北海道道路史I行政・計画編、nr路線史編』1990年、『札幌・千歳間道路物語』2003年/丸駒温泉旅館『原始の森と湖に支笏湖丸駒温泉旅館80年』1995年/守屋憲治「米空軍千歳基地」『志古津』第12号2 010年、「千歳恵庭岳におけるオリンピックの記憶」『志古津』第19号2014年/『千歳民報』/『北海道新聞』
4節 バ ス
第1項 市内路線バス
1
千歳のバス事業の始まり
千歳におけるバス事業の始まりは、大正15 (1926)年4月に追分の田尻某が千歳駅—孵化場間に定期運行路線を開設したという記録がある。鉄道(北海道鉄道札幌線)開業が同年8月であるから、開業を見越しての運行だったのかもしれない。この時はフォード乗用車を1台利用し運賃は人50銭だった。この年の夏には、千歳駅前で旅館業を営む吉田二郎が譲り受け運行を継続した。
昭和12 ( 1 9 3 7 )年には北海道鉄道が吉田から経営権の委譲を受け、北海道鉄道バス(北鉄バス)として千歳駅から支笏湖までの定期運行を開始した。その運行経路は、13年 度『千歳村勢要覧』添付の千歳村全図に写真5-42北鉄バスと女性車掌(S12)バス路線として記されており、市街からは孵化場を回って現在の支笏湖道路に合流し、山線と並行して支笏湖に至る道である。したがって終点バス停留所は現在の集団施設地区(第5駐車場)側ではなく中モラップを経由して山線終点(鉄橋)付近であった。
17年の時刻表では支笏湖方面に午前2便、午後1便が運行され、千歳駅前を出発、千歳市街—烏柵舞—孵化場—山線終点(上千歳)—第三発電所—第五発電所—水溜—分岐点に停まり、終点支笏湖であった。車両はシボレー製ボンネットタイプを4台使用し、女性車掌が添乗していた。
1
戦後のバス復興
戦時体制下の昭和17 ( 1 9 4 2 )年、政府は各都道府県のバス事業者を〜数ブロックに分けて1社に統合するように旅客自動車運輸事業統合要綱を発表した。いわゆる戦時統合であるが、この方針に基づき北海道庁警察部は、道内各地の交通事情の調査や統合主体の選定を進め、全道7地区統合案をバス業界に示した。バス業界では北海道乗合運送事業組合に設置した事業統制委員会において協議と検討を重ね、18年から19年にかけて各地区で新会社の設立をみることとなった。札幌地区では21
社が統合し総車両175台を保有する新会社が誕生した。
道内のバス統合会社は次のとおりであった。
1札幌地区北海道中央乗合自動車株式会社
2函館地区函館乗合株式会社
3室蘭地区道南乗合自動車株式会社
4旭川地区道北乗合自動車株式会社
5十勝地区帯広乗合自動車株式会社
6釧路地区東邦交通株式会社
7北見地区北見乗合自動車株式会社
このほかに公営交通の札幌市と函館市の2社が存続することになった。
全道で99を数えた事業者が9つの新会社に激減した大統合であり、このときに生まれた新会社と営業エリアが、北海道における戦後から現在まで続くバス業界の基本的な勢力地図の基となった。ちなみに、北海道中央乗合自動車の札幌地区の範囲は、札幌、小樽を中心とした寿都以北、厚田、美唄、夕張地方とされた。千歳は札幌地区の南限であった。戦後、旭川、十勝、北見、釧路の各地区では統合会社の分割が行われ営業エリアも再編されたが、札幌地区での分割はなかった。後の「北海道中央バス」の営業エリアが道内でも突出して広いのはこのような背景があったからである。
20年10月、運輸省は戦後復興促進のため、バス事業の早急な再建が必要なことから、自動車局長名で各都道府県知事あてに「旅客自動車運輸事業再建計画に関する件」の通達を出し、計画を推進するよう指示した。この通達を受け戦時中に休止していた事業者の中でまず私鉄系の定山渓鉄道(札幌市じょうてつバス)や早来鉄道(厚真村現・あつまバス)がバス事業を再開した。また、国鉄も国の復興政策と資本をバツクにバス事業への進出を図った。広大で人口密度の低い本道においては、疲弊した民間事業者ではバス路線網の整備は無理という考えによるものであったが、各地で民間事業者と免許の争奪戦を繰り広げることとなつた。
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㈱2224千歳近郊の路線拡張(北海道中央バス)昭和17 (1942)年のいわゆる戦時統合により石狩•空知•後志(小樽)からなる札幌地区の21社が統合し、19年に社名を北海道中央乗合自動として設立登記した。統合会社の中には、当時、千歳駅前と支笏湖間を走っていた北海道鉄道のバス事業(北鉄バス)も含まれていた。
年には札幌—千歳間(千歳線)の路線免許を、北海道中央乗合自動車と国鉄が争い、結果として北海道中央乗合自動車が免許を取得した〇同社は早速、同年9月1日に本町2丁目に営業所を新設した。その後も札幌地区の各自治体に営業所の新設を続け、バス路線網を張り巡らしていつた。
年6月、北海道中央乗合自動車㈱は、社名を北海道中央バス㈱(以下「中央バス」)と改称し、本社機能を戦時統合会社の母体会社の所在地であった小樽市に置いた。同社はこの年の4月には千歳•三川線(千歳駅前—峻淵郵便局経由—三川駅前)の免許を取得し運行を開始し、続いて翌25年5月には長都線(千歳駅前—長都小学校経由—島松駅)の免許を取得した。
戦後の食料事情も背景にあったのか、いずれの路線も千歳から鉄道線路と並行せず農産物の流通拠点駅と26を繋いでいる。年6月には民間航空再開とともに、日本航空と札幌—千歳空港間に日航利用旅客送迎用貸切バスを運行した。
1日1往復で4 000円であり、日航が2500円を負担、残り円を利用客が負担することとし、片道50円を支払った。当時の民間航空タ—ミナルは米空軍千歳基地現・航空自衛隊千歳基地)の中にあり、基地の正面ゲー卜に近く、国道にも面した営業所は格好の営業拠点であった。その国道36号は28年に札幌—千歳間が全線舗装された。カーブや坂の勾配を緩くするなどの切替工事が行われ、バスの走行環境は格段に向上し、千歳線は中央バスのドル箱路150(0写真5-43中央バス千歳営業所(S33頃/ASAチト
セ協会提供)線となった。中央バスにとって千歳は営業区域の南限であったが、千歳空港や国道36号沿線住民の利用需要などから千歳を都市間交通の拠点とした。その後も北千歳駐屯地、東千歳駐屯地、千歳基地開庁などによる人口増加と市街地ス㈱
(の拡大は市内路線の延長につながっていった。なお、平成19 (2007)年4月から市内路線の運行を札幌第一観光バ千歳営業所•
青葉2丁目413)に委託した。26年度現在、中央バスが運行している市内バス路線は次のとおりである
桜木長都線、桜木空港線、大和線、空港市内線、東千歳線、稲穂団地線、支笏湖線
中央バス千歳タ—ミナル昭和34年、千歳タ—ミナルが本町2丁目の営業所横に新築され市内・市外路線の起終点となった。建物は本造モルタル2階建てで、1階に待合所と発券窓口や売店のほか事務所があり、2階に会議室という構造であった。待合所からは発着バースがフラットホーム式につながっており、バスの発着アナウンスが響くとプラットホーム上に乗客が溢れるなど賑わった。平成16 ( 2 0 0 4 )年のJR千歳駅西口タ—ミナルビルの完成、それに合わせた市内路線の大幅改編に伴いこの千歳タ—ミナルは廃止となり、営業所は青葉2丁目の青葉車庫地に移動した。長く市民に親しまれた旧タ—ミナルの建物は同年夏に取り壊された。支笏湖へのバス路線(苫小牧市営バス・支笏湖観光バス)支笏洞爺国立公園の指定は昭和24 (1949)年5月のことだった。当時の支笏湖畔には、王子製紙苫小牧工場倶楽部別荘(貴賓館)と宿舎、営林署、郵便局、小学校などの施設があったが、王子製紙経営の翠明閣(接収中)以外にホテルなどはまだ整備されていなかった(支笏湖観光ホテルが建設中)。観光地らしいものといえば、戦後まもなくから小規模な売店や貸ボート・遊覧船の営業がされていたぐらいであった。25年8月24日、支笏湖—苫小牧間の道路(支笏湖産業道路H現・国道276号)が完成すると同時に苫小牧市営バスが開業した。翌25日には苫小牧—支笏湖間のバス路線の運行を開始した。観光が産業として発展する幕開けの時代であり、支笏湖の国立公園化にいち早く対応したこの路線は苫小牧市営バスのドル箱路線となった。苫小牧—支笏湖間の所要時間は45分、運賃は70円であった。ちなみに、苫小牧市営バスに遅れること約1年、26年6月には中央バスが札幌・支笏湖線(千歳回り)の運行を開始した。30年頃には支笏湖への観光客も増加し、湖畔で営業する貸ボート業者により支笏湖観光船企業組合が結成された。組合は35年には北炭観光開発㈱に譲渡され、その後、支笏湖観光運輸㈱として運輸部門が独立しバス路線を運行した。路線は、札幌五番館前—支笏湖畔、支笏湖畔—支笏湖グランドホテル(オコタン)、支笏湖畔—支寒内があったが、50年代後半にバス事業から撤退した。
ちなみに、支寒内バス停は苔の洞門への入口に設置されており、平成9)199(7年に中央バスが支笏湖畔タ—ミナル—苔の洞門間の路線を開設し、夏の期間( 610月)だけ運行していた。観光客で賑わっていたが、13年6月に発生した岩盤崩落で洞門内が立入禁止となり14年に路線は体止となった。
支笏湖畔タ—ミナル
昭和40 (1965)年に苫小牧市が千歳市湖畔番外地(現・千歳市支笏湖温泉)に設置。苫小牧市営バスと中央バスの共用夕—ミナルとなっていた。平成5 T993)年12月、苫小牧市営バスが苫小牧駅—支笏湖間の路線を中央バスに譲渡し支笏湖から撤退し、施設は中央バス専用となつた。しかし、12年に苫小牧駅—支笏湖間の路線廃止とともに施設も廃止となった。現在は支笏湖温泉駐車場内に「支笏湖」停留所がある。
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