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千歳市史 教育、交通、観光より抜粋

第五編 教育

を二百余円で買収し、村の補助と部落寄附金合せて四千余円をかけ、総坪43坪の木造平屋造りを七月一杯に完成し、二学期からこれに尋常四、五、六年ノー学級を収容、 丁年から三年までを旧校舎に収容した。
 大正十一年に、明治四十年部落民苦心の思い出も多い旧校舎を、幌加青年分団の俱楽部建材として払下げ、置さきの大正九年の新築分にー教室を増築、そして翌大正十二年に高等科を併置して、峻淵尋常高等小学校となり、通学区域をケヌフチの他に中央や近唐、さらに長沼村字幌内の一部も含まれた。さらにこの年秋にー六坪の一教室と職員室を増築、教員住宅も新築した。
 昭和三年に運動場の狭溢を告げ、隣接信田喜源所有地を借受けて、青年団の協力で運動場と御大典記念学校園をつくり、借地料をケヌフチ区費から支出した。昭和五年に部落の人々の寄附1,011円21銭で、御真影奉置所を新築した。その後戦中の国民学校を経過して、二十二年四月から、險淵小学校となり、千歲中学校の分校を合せ、二十五年五月には、幾春秋多くの人材を育てた。創立五十周年記念に記念植樹をした。その翌二午ここを母校とする人々の善意と思い出に、同窓生一同から、オルガンの寄贈があった。
 昭和二十七年に町内の地名変更が行われ、險淵といって親しまれた地名を泉郷と改正されたので、校名は校泉郷小学校と改められ、同時に340万円を投じて136坪の洋式木造平家の新校舎を新築落成、昭和二十九年には、四七坪の屋内体操場を落成、名実ともに面目を一新した。
 昭和三十五年には創立六〇周年を迎え、創立当地の卒業生も今は古老となり、記念事業としてトド松の植林、野球の固定ネットの寄贈などを受けた。
 昭和三十九年に屋内体育場70坪を新築、この落成式に昭和三十七年に学校林の管理優秀校として市長賞を受け、祝賀会も行われた。
閉校

 古い六七年の歴史を持った泉郷小学校も、市の発展に副って、昭和四十二年度で閉校することになった。
 その間の校長名をあげれば、管皆男、中林豊次郎、川村北雄、稲垣晋、後藤重太郎、真田秀村、中村安雄、古川正三郎、三輪正熙、村岡三郎、笹森正歲、成田愛規、今野民雄、校長が置かれなかった時代、月俸九円代用教員に安んじて、子弟を導いた人・々に彦坂里治郎、中野作次郎、鈴木慶次郎、中川清之助、田中徳夫らがある。
 何かにつけて不如意であった、学校経営の陰の協力者である学務委員、保護者会長等のはっきりした記録が残念ながら残っていないが、松原清之助、岩淵儀三郎、富田文助、小川忠松、西野忠義らの名が記されている。
 昭和二十八号以降の P T A 会長は遠藤定、開発一郎(四期)、小川春松(二期)、登坂修司、金子秋馬(二期)、清水清二(三期)、清水修(二期)の名がある。

水明小中学校

 明治四十三年千歳川第一発電所ができたことによって、そこで働く人々の子弟のために、王子製紙会社所有の小舎を借り受けて、千歳村烏柵舞特別教授場を設置開校されたのが、明治が大正と改元された大正元年十月のことであった。しかし千歲川発電所を操業する王子製紙会社では、特別教授場ではあきたらず、第一発電所現場下流の川添に、大正六年十二月に私立王子尋常小学校を設置し、特別教授場を廃止した。
 ところが大正八年二月に、第一発電所を中心にする烏柵舞村住民から千歲村は税金を取立てるだけで、実際には「苫小牧町二属シ常二円満ナル施政ヲ受ケ居り候」そして千歳村は「衛生教育ハ申スニ及ハス」その他でも何一っとして恩恵を受けていない、だから苫小牧町の行政区割に変更してほしいと、道庁に対して請願した。これに対して千歲村の陳情書では「該部落二特別教授場(四季ヲ通スルモノ)ヲ設置シ爾来継続大正六年二至リ王子会社八更二完全ナル教育ヲ施サムトノ見地ヨリ自ラ進ンテ私立尋常小学校ヲ設立シ今ヤ校舎校具其ノ他殆ント完全二近キ施設ヲ為シ所属教員マタ其ノ人ヲ得地方稀二見ル完全ナル教育ヲ施シツツァルノ現状ニシテ本村他部落二比シ寧口特殊ノ恩恵二浴シ居ルモノニシテ住民トシテ何等訴クへキ不平アルへカラサルノミナラス却テ感謝ノ意ヲ表スへキ二只其ノ村ノ経営二アラサルノ故ヲ以テ其施設ナシトイフハ形式ヲ捉へテ実質ヲ遺却シタルモノニシテ真二所謂反対センカ為メニ反対スルモノニアラサレハ其間何等力裏面ノ消息ナカルへカラスト恩料セサルヲ得ス而シテ村当然ノ責務タル其教育設備ヲ全然ー会社ノ私経営二委シ多大ノ経費ヲ負ハシムル八本村自治体ノ面目上永ク之ヲ看過スヘキニアラストシ本村会八大正八年度二於テ之ヲ公立資格二変更センコトヲ全会一致ヲ以テ可決シ直チニ会社二其ノ意ヲ致シタルニ会辻ハ尚一歩ヲ隹ーメ理想的完全ノ組織卜為ス計画アルノ故ヲ以テ之ヲ応諾セス深ク其ノ厚意ヲ多トシテ其ノ儘之ヵ経営二委シッツアルモノトス」(大正十年内務大臣及び道庁長官、支庁長宛のもの)と申開きをしている。王子製紙が小学交教育に力を入れたのは、山奥の発電所の教育を充実させなくては、優秀な技術者が赴任をしぶるからである。しかし分村を計画した人々は、それを責道具にしたのである。
 大正八年村会でこれを公立にするごとを、村会で議決したのに対して「理想的完全ノ組織卜為ス計画…」があるといったのは、当時高等科を設置できないところでは、補習科というのを置く制度があったからで、王子製紙では修業年限ニカ年の補習科を設置したのであった。
 さらに大正十二年四月からは、千歲小学校に続いて高等科(ニカ年制)を併置し、学級も三学級編成となり、王子尋常高等小学校という、堂々たる学校になり、さらに昭和三年二月に、水溜に児童の合宿所を建設して、第三、第四発電所と藤ノ沢部落の学童を冬の間、ここに合宿通学させた。私立王子尋常高等小学校は、昭和六年四月までつづき、千歲村年来の希望である公立烏柵尋舞常高等小学校として、初めてあるべき本来の姿になった。
 昭和十二年に美笛川の奥で、千歲鉱山が開鉱されると、分校として千歲鉱山特別教授場を開校し、その翌年に学童が増加し教室が狭くなったため、冬休中に16坪教室二教室を、各20坪に改造した。十六年には国民学校となって四学級編制となったので、戦中の十八年に一教室を増築したが、終戦の年の春にまた三学級に戻った。これらの移動の実態については明らかにされていない。
 二十二年国民学校からもとの小学校に戻ると高等科を廃した。これは六・三制による中学に切替えのためであるが、千歲中学校烏柵舞分校が併置開校したのは、二年後の昭和二十四年四月からである。 三年一月支笏湖畔に分教場を設置したが、これは一年で独立して、支笏湖小学校になった。
 次いで二十四年一月に水溜に新校舎を移して、千歲中学烏柵舞分校の開設をみた。
 昭和二十六年に旧校舎を改築して、60坪の屋内運動場を落成した。この年四月部落名が改正されたので水明小学校と改称された。
 昭和二十九年九月、210万円をかけて、木造平家建の校舎を改築、翌三十年に二教室と図書室を増築、この年に千歲中学校水明分校を、町立水明中学校とし、その後校長住宅職員住宅を建造、三十七年に用屋体を解体して70坪の新屋体場を新築したが、児童数が減少したので、三十九年四月に支笏湖小学校に統合することになり、学童は王子不動産バスで通学することにし、水明小学校は廃校となつた。
 水明小学校が廃校になったあと、水明中学校だけ単置独立校として、授業をつづけ藤ノ沢にあった分校の生徒四名を本校に統合し水明小学校藤ノ沢分校は、千歲小学枝の藤の沢分校という名称になった。しかし昭和四十一年三月末日をもって、水明中学校も廃校となり、千歲中学校に通学することになり、曲折多かった歴史を閉じることになった。
 歴代学校長は、柏葉三郎、川崎樫太郎、高倉作二、阿部健太郎、荒井平作、石川龔、岡田与三、関村寿。保護者会長、PTA会長の記録なし。

蘭越小学校

 蘭越部落は千市街までは遠く、また王子製紙の私立小学校へ’も離れているため、部落内に小学校を設置してほしいという声は、永い間部落の人々の希望であったが、容易にそれは実現されなかった。たまたま戦争が終ったあと、旧海軍の施設が残っているのに目をつけ、町理事者や町議に働きかけ、昭和二十一年十月にやっとその払下げをうけ、模様替えして蘭越国民学校の誕生となった。
 十月三十一日校長の発令もされ、十一月十八日校長が千歲小学校に、新たに蘭越の学校に入るべき児童を受け取りに行ったが、 一人も出席していなく空しく帰るということがあった。
 しかし十一月二十日開校式をしたときには、北野トミ子ほかー九人の児童がそろい、来賓として中川町長、益田助役、渡部栄蔵町議長、山崎友吉町議、石狩支庁多田教育課長、町の鈴木土木技師、千歲や幌加の校長も参列し、また開校を喜ぶ部落有志、小山田亀次郎他42名が集り、来賓が児童数の三倍にも達するという異常な開校式であった。児童は六年生一人、五年生二人、四年生一人、三年生五人、二年生三人、 一年七人という数で、第三回の卒業生を送った二十四年に、学級増加したので八月に蘭越四三番地に校舎の新築にかかり、十月に二教室に事務室その他附属が竣工して、木の香七新しい校舎に、蘭越村字ビシャの、古い日本海軍の払下げ校舎から引越した。
 どういうわけか新校舎に移ってから、三十四年までの十年間については、ただ卒業生の氏名と、教員の移動以外には『沿革史』には何も記入されていない。
 昭和三十四年山崎校長のときに、PTAの人々が先になって虹鱒の養魚池をつくり、これが後に有名になり、新聞やテレビに取上げられ、さらに雑誌にも掲載されて全国に紹介された。また僻地音楽の集いにも参加し、昭和三十六年五月二十三日に、第十三回全国植樹祭に、天皇、皇后両陛下が支笏湖へおいでの節、学校前を御通過の際に、小川教諭指揮で四年以上の生徒が、「サクラ」を合奏奉迎申上げたことは永く忘れられない思い出の一つでもある。
 昭和三十五年三学級になり、新校舎をたてるため初雪が来てから、寒い屋体で困難な授業をして、年末に校舍と屋体とも新築落成をみた。
 四十三年の新年度からは四学級となる。
 校長は初代平井春雄、二代栗村明、三代野田末治、四代山崎義知、五代坪川松雄。
 PTAについての記録はほとんどなく、とくに三十四年以前には全然なく、三十四年以降会長小山田初郎の他は会長氏名もはっきりしない。

支笏湖小学校

 国立公園支笏湖も、昭和初年までは季節の労務者の飯場が建つ程度で、昭和十三年に水明
(当時の烏柵舞)から郵便局が移転したときの戸数は、僅かに七、八戸よりなく、戦争中は戦時用木材需要のため、川口の川添えに御料林の事業所が建ち、十七年頃から山手にも住宅が建つようになったが、学令児童は王子軽匣で、烏柵舞小学校に汽車通していた。しかしこの汽車は冬は不通になるので、子供達は一番困難なときに、歩いて通わなければならないので、低学年は吹雪になると学校へ行けなかった。とくに終戦後一冬ほとんど通学不能であった。ついにたまり兼ねた父兄は陳情して、昭和二十二年十二月二十五日から、湖畔の北大寮を借りて、四年生まで低学年のための、町の認可を待たず強引に分教場を設置した。翌二十三年一月二十日から、大塚常子助教が教鞭をとり、授業を開始した。しかしこれは四月中より使用できないので、御料林事業所に願って川岸の倉庫を譲り受け、それを広場に移して教室にして授業をつづけた。
 それまで煮え切らない態度だった町も、この住民の力に押されてその年十二月までに、郵便局裏手の高台国有地内に、51.5坪の独立校を完成、 一年かかりで支笏湖小学校をかち取り、初代校長を迎えて開校式が行われた。
 昭和二十四年国立公園に指定され、学校の周囲は旅館地になるので、国立公園区画割による、公共団体地区内に位置を移すことになり、二十九年七月に腰ブロック木造平屋、モルタル仕上げの135.25坪の校舎を新築、三十一年四月に44坪の屋内運動場も出来、住民の永い夢が実現した。現在の支笏湖を思うとき、その設置の歴史のあまりに浅いことに、むしろ驚きを感ずるほどである。
昭和二十三年から20年間に、川村武夫、板垣蔵之助、山口恒一、軽石喜一、藪下三郎が校長の席にあった。
PTAは昭和二十四年に発足、谷本亀、福永源次郎、貫田剛吉、山内八代吉、谷本和夫が会長として、学校内外の設備、備品の充実に努力している。
 さらにここでは三十九年から母の会が発足し、学校行事への協力や、研究会をもっている、八木橋、福島秋子、松田幸恵、谷本静子、笹佐智子等が会長として運営している。

千歳鉱山小学校

 千歳から54キロの支笏湖西岸の奥山に、金鉱が発見されたのは昭和八年てあり、これが昭和十年から操業にかかり、十一年から本格的開発が開始された。そこで、従業員の子弟の教育問題に当面し、とりあえず烏柵舞尋常高等小学校千歲鉱山特別教授所を設置することになったが、校舎の建築が遅々としてはかどらないので、会社の俱楽部の二階で授業をすることになり、二月十六日に開校式をあげた。教室は一五畳間二間で、職員室に八畳間一間があてられた。 一年生七人、二年生九人、三年生二人を代用教員の矢野定子が、四年八人、五年七人、六年二人を長谷川和雄訓導が担当した。そして十二年三月十一日にやっと、新校舎に移転した、新校舎は教室三、職員室、体操場等であった。
 そして十三年にも一教室、十四年二教室、十五年二教室を増築し、この年児童数は445名八学級となった。これはこの時代、即ち昭和十四年から日産250トンの青化製錬所を設置し、十六年はこれが500トンに増設され、従業員が激増したことを示すものである。
 昭和十六年から二十二年までの国民学校の記録は、何故か『沿革史』の中では、意識的と思われるように空白である。十七年に二教室を増築しているが、戦争中は金属鉱山は製錬所も坑内外の設備も撒去され、従業員の多くは石炭山や鉄山に転出の指令を受け、僅かに保坑要員たけを残す保坑鉱山となったので、昭和十七年一ニ学級548名までになったのが、昭和十八年は二学級116名に激減している。そして二十年の終戦時には三学級124名に、やや復活のきざしを見せ、二十二年の新しい小学校時代を迎えた。
 昭和二十二年の新学期から新学制の実施によって、千歲鉱山小学校となり、二十四年には、 168名の六学級になり、この六学級は二十七年の259名まで収容し、二十八年から七学級、三十年八学級、三十一年には315名となって九学級にまで復活し、校舎もようやく老朽化して来たので、この年一月から校舎改築にかかり、九学級その他附属を加え、412坪を1,314万円で、稲井組の手でその年の暮に竣工した。
 その後社会情勢の変化によって、新入児童の数が次第に滅少して、昭和三十五年から六学級272名から、現在も六学級であるが125名(昭和四十三年度)という状態である。
 昭和十二年創立当時から、長谷川和雄、吉江喜一、高橋春松、高橋薫、宮前初太郎、諏訪田武、阿部英三、上田光男、竹内靖治、松下治芳が校長として就任している。
 PTA以前の保護者会、国民学校時代の後援会の実態はつかめない。PTAも昭和二十六年度からであり、会長として塚本正憲、後藤助一、飯倉大二、横山昌呆、児玉秀男、相庭宣顕、山口貞四郎等の名がある。

千歳第三小学校

 昭和二十年敗戦の色が濃くなり、本州各地が米軍の爆撃圏内に入り、戦災者を北海道の未開の開拓地に入れて、食糧増産に振り向けようとする計画が、農林省や道庁で計画され、千歲にも静岡県の戦災者を、帰農者として受入れることになり、終戦後にも秋田、長野の二県と満州開拓からの引揚者を受入れた。この開拓学校設者の子弟の教育の場として、昭和二十二年七月に第三小学校創設が議せられ、十二月に起工の運びとなり、翌二十三年三月に教室ーに住宅一棟が完成したので、とりあえず五月に初代校長の発令をみて、六月一日から千歲第三小学校として発足した。低学年だけ単級54名だけを収容し、五年以上23名は、千歲小学校に依頼して臨時収容された。通学区域は東九線から西、東二十六号より南とされた。
 昭和二十四年一月になって、千歲小学校に依頼の四学年以上の学童を収容し、児童数八〇名の全員が顔を揃えて、初めての卒業生11名を送り出した。この年八月一教室を増築して三学級認可になり、児童数220名、さらにこの年父兄の勤労奉仕によってグランドも完成された。
 だが無理な火山灰地の開拓からは、間もなく離農者が続出して、二十五年四月には学童数92名になって、もとの二学級に逆戻りしてしまった。職員住宅をつくり、門柱をたて、庭木を移植し、廻旋塔やブランコの建設、芝生の整地、相撲場の建設と、残った父兄達は学童のために懸命の努力をした。
 しかし三十三年一月、開拓農協と合同の十周年記念式典をあげたときには、ついに90名を割った87名になった。しかしピアノの購入、屋体建設、テレビやテープコーダーの購入、放送施設など新施設に力を加え、三十八年には学級編成が少くなったので、再び三学級に返り咲いたが、児童敖は減少をつづけ、三十九年には三学級65名の数字であった。そして四十一年に学童数亠八四名で、 一、二年一組、三、四年一組、五年一組、六年一組の四学級編成となった。しかし四十年頃からPTA役員会、教育長や市長との間に校舎校と合併問題について、数回の会談が行われ、四十二年のPTA臨時総会で学校移転賛成に決定、四十三年五月から北栄小学校との、合同社会見学などをし、合同への準備をすすめ、四十三年七月十八日に第三小学校お別れの式をし、二十年の学校の歴史に幕を閉じた。移転時の在校生は59名であった。
 この間の学校長は、村岡三郎、小川政夫、野々山博、坪川松雄、桑原一美、市田武、島倉充平の七名。
 PTAは二十三年六月三日に結成され、千歲第三小学校親交会という名、会長に重信平五郎、小池〇〇(不明)、寺田勇、北村五郎、田中武一、原美文、坂口知人らの名がある。

末広小学校

 駐留軍に終戦により米軍の進駐があり、それにともなって各種の業者が千歲に殺倒し、特に二十六年のオクラホマ州兵師団の駐留でその極に達した。さらに陸上自衛隊の設置などもあって、学童は教室にあふれ、昭和三十

交通

◆P660 運休、千歲——苫小牧一往復という寒々としたものであったが、二十四年の二月のダイヤは札幌—苫小牧がー往復、苗穂—苫小牧二往復、恵庭—苫小牧ー往復と最低であった。
 昭和二十五年十月になって、札幌—苫小牧間に四往復、苗穂—苫小牧間一往復、恵庭—苫小牧間一往復。そしてこの月札幌と室蘭の間に機動車の準急が走り、札幌千歲間を55分で走った。当時の乗客日く「この車にはビールを飲んでは乗れない」と、機動車に便所がついていなかった。東京の環状線を走るのをそのまま持って来たのかも知れない。だが新式の機動車が最初に走ったのは千歲線であった。
 二十八年十一月からー、二、三等連結の急行列車が初めて入り、準急には「エルム」という愛称がっけられた。この月はそれまで休業していた札沼線が復元し、湧網線、福山線(松前線)が全通し、国鉄が本来の姿を取戻したときである。とにかく札幌千歲間に10本のダイヤが、明るいものを市民にもたらした。
 昭和三十二年十月は、ダイヤも16往復の千歲線が走るようになり、急行も「すずらん」という愛称がつけられ、準急「エルム」を元に千歲の遠出の足になり、三十四年には急行「すずらん」の他に不定期急行「石狩」が加わった。室蘭—札幌には、準急「エルム」の他に、「第1チトセ」「第2チトセ」が割込み、夏の間だけ札幌と洞爺の間を準急「たるまえ」が土曜日と祭日の前日と連転し、また様似行の準急「えりも」を日曜・祭日に運転して、ようやく遊覧客の為めのダイヤが組めるようになった。これを占領当時の状態と比較してみると、僅か10年の間であるが、千歲線一本を見ても隔世の感がある。その千歲線を走る急行「すずらん」が、全車座席指定になったのが、三十五年からであり、準急「たるまえ」 「えりも」も夏の間中毎日運転するようになり、千歲線はいよいよ忙しくなって来た。
 そして昭和三十六年十月一日、北海道にもはじめて特急「おおぞら」が登場し、千歲線まわり函館—旭川間を走り、千歲線は勾配の多い函館本線に変って、北海道の主要幹線の座についた。
 すでに三十九年夏に、千歲線を通る列車は26往復になり、いよいよ単線の限度に達したので、四十年六月十九日に複線化の工事の起工式を行い、十月には千歲恵庭間で複線開通をし、四十二年は全線の複線開通をみた。そして四十四年三月現在、特急3往復、急行13往復、鈍行14往復である。

王子軽便鉄道


 これは明治41年に、苫小牧と千歲の烏柵舞の間、 一六哩五六鎖に馬車軌道をつけ、水力発電所工事に必要なセメント・石炭・火山灰・煉瓦や発電水車などを送り、支笏湖畔から伐出す製紙の原木や薪炭を搬出するのを目的に出願認可をとったのであるが、途中で機関車を使用するように変更をしたものである。機関車運輸の認可は6月に入ってからであり、機関車にはアメリカ製デンター機関車というのを2輛、貨車よボギー式6屯と2屯車で、後には機関車も3輛、貨車も50輛に増加した。
 駅は苫小牧から出て「六哩」「十哩」「十三哩」「分岐点」とあって、ここから発電所の方に「水溜」「第二発電所」「第三発電所」「第四発電所」とあり、湖畔の方には「滝ノ上」と「支笏湖畔」との2駅があって、「滝ノ上」「第二発電所」「第三発電所」は無人駅であった。
 この森林鉄道はもっぱら資材の輸送のためのものである、支笏湖の名が高くなるにしたがって、貨物の上に便乗する者が多くなったので、大正十一年四月から一般乗客ものせる客車をつけた。ハガキより少し小さい切符の裏には「人命の危険は保証せず」という印刷がしてあった。これについて昭和十年刊の河合裸石の『蝦夷地は歌ふ』にク宮殿下扈従記”という次の一文がある。
 機関車は形猫の如く宛らスチブンソン当時の面影を残し、開拓使時代の機関車義経、弁慶を偲ぶものあり。然も行程七里の間、軌道羊腸として幾十百のカーブと、急坂のあるありて、汗を握る事幾たびぞ、同車の某氏低声して言ふ「毎日列車の脱線するは驚くに足らず、寧ろ脱線せざるを珍とす」とて、先づ余の心胆を寒からしめ、更に往年一名の紳士、此の軽鉄に便乗し、図らずも脱線の難に遭ふて死歿したるに、某の遺族は罪侄く会社側にありとなし、慰○料十万金の請求を法廷に争へて、遂に原告側の勝訴となりしより以来、切符の裏面には途中変事に遭遇するも兎や角苦情を言はぬ事の一項を加へたりと説明頗る詳細也。即ち知る、此の列車に乗る人々は決死の覚悟なくては叶はぬ也、願はくば此の日の列車に些かの支障なかれかしと祈るものは、啻に会社側の人のみにあらざるべし。
 河合裸石といえば当時の『北海タイムス』(現『北海道新聞』)の社会部ですぐれた文筆のたった人で、 この人の書いたもので誇張があると思わないが、どうも少し表現がオーバーのようである。このときの宮殿下というのは東伏見宮と同妃殿下であるから、当時としては九重の雲深きあたりのお方であり、もしも危険なものであったら第一宮内省が許可するはずがない。充分の調査をした上でのことであったと思われる。勿論脱線事故で死者のあったことは事実である。その後も昭和八年摂政宮が北海道へ行啓されたときに、この人命を保証しないという鉄道で湖畔へおいでになったのである。
一般にはこの線を山線といって愛称され、冬になって吹雪になると途中から乗客を投げ出して引返したりしたが、夏の間は16本ものダイヤが観光客を運ぶばかりではなく、湖畔や発電所の人々の生活物資や郵便物をはこぶ、大事な足だったが、上り坂へ行くと今にも止りそうになるので、わざわざ下車して立小便をしているうちに、下り坂になり置いて行かれたなどという話もある。これがあったために湖畔の人達は母村である千歲には税金だけを取られ、何の恩恵にも浴さないから苫小牧につくという分村問題にまで発展したこともあった。そのとき千歲で長官に提出した陳情書の中で「王子製紙株式会社経営ノ軽便鉄道ヲ利用スルノ利便アルハ事実ナルモ右八該社専用トシテノ私設経営ーー係り該社関係ノ部落住民ノミ之ガ利用ノ便宜アリテ丁般公共的二任意ノ私用ヲ容サス況ンヤ該線路冬季半歲雪二没シ其ノ間八全然利用ノ便ヲ得サルモノトス」(大正十年七月内務大臣及北海道庁長官宛「陳情書」)と述べられている。
 昭和11年に千歲鉱山が開鉱してからは、金鉱の運搬にも活躍したが、戦後はトラックの発達にともなつて、次第に斜陽的存在になり、23年に観光バス道路が計画され、アメリカ軍のブルドーザの協力で、その道が25年8月に完成し、苫小牧の市営バスの運行によって、26年8月に親しまれた山線の営業は廃止された。

石勝線

 石狩と十勝、即ち道央と道東とを最も近い距離に結び、その間の未開発資源の開発をしようという願いのもとに、戦後昭和二十四年に、当時の南富良野村長村上寿造の国会請願に端を発し、二十六年五月に関係十三市町村が札幌に集合して、 「石勝線新設促進期成連合会」を組織して、道議会、道綜合開発委、札鉄に働きかけた。この年の秋に富良野町商工会館で第一回総会を開き、宣言を決議してから起工式が行われるまでの経過を記すと、
昭和26年 北海道開発庁策定の北海道総合開発第一次五ケ年計画に採択
昭和27年 国鉄札幌営業事務所で本路線建設後の経済効果及び営業係数問題についての実地調査を実施
昭和28年 三月三十一日道議会で請願採択 六月六日衆議院で請願採択 六月七日参議院で請願採択
昭和31年 六月二日衆議院で請願採択
昭和32年 四月三日第二十回鉄道建設審議会において「石狩・十勝連絡線」として調査線に決定
昭和34年 十一月九日第二十五回鉄道建設審議会においてつぎの条件を附して建設線に決定、長大路線であるので、工事の難易、開発効果、予算の規模等を勘案し、投資効果のすみやかに発揮し得る区間より着工するものとする。
昭和36年 二月十三日道内国鉄輸送力十カ年計画において総延長ーニ五籽、工費概算ーー六億円という石勝線の全線完通が打出された。
 四月二十五日 鉄道建設審議会において着工線に決定、昭和36年度分として一億円を配分◆


道路

国道36号線


 明治15年開拓使の仕事は一応終りをつげ、三県一局時代に入り千歲は札幌県の中に含まれた。このとき駅逓関係のことは札幌県から離れ事業管理局の下におかれ、陸運改良掛が担当であった。 この官営の駅制度を民営に移そうと、札幌工業事務所の長谷部辰連が次のような提案をした。
 本掛八寺二行旅便益ノ為設クル所ニシテ、本掛八札幌南一条東一丁目ニ置キ、馬匹継替所ヲ島松、美々、苫小牧、白老、幌別、室蘭ノ六駅ニ設ケ乗用及貨物二供スル馬車ヲ備へ、冬季間八橇ヲ以ア之ニ代へ、其ノ通運ニ従事スル路線モ当初ハ北隗小樽間ヨリ相連続セルモ、同区間八鉄道既二成ルヲ以テ専ラ札幌、室蘭間ニ配置ス、従来駅逓所卜唱へ駄馬継立者ノ困難ヲ来タシ、両者併合シ本施設ヲ払下ゲ方取扱人ヨリ願書有之、廃使ノ際ナレバ調整上延期シタリ、近来貨物の運搬ハ勿論旅客数減少シ、改良係事業亦収支償ハズ、函樽航海ノ繁トナルニ原因スル所多シ、故ニ此事業ヲ民間ニ払下度、該地ハ薄荷ノ土地他ニ営業無之行旅ノ便ニヨリ生産スルモノ十中ノ八九ナリ、然ルニ之レガ減少八営業ノ困難ヲ来セルハ明ナリ、故ニ12ケ年無償貸与、従来ノ順序二法リ、目的確立ノ上相当代価ニテ払下クベク、此際之レニ属スル馬匹及橇ハ悉皆評価払下ヲ適当トス。
 千歲の駅逓の民間払下げはすでに前章で述べた通りで、この時の対象にはならなかったようである。明治13年当時の千歲の人別帳を見ると馬追渡世岩本力松、馬車営業石山専蔵、旅人宿業永井弥市、新保鉄蔵、笠井忠三郎とあり、あとは戸長と職業不明が三海弥平、浜本佐吉で職業無記入が本間熊吉、石井作蔵、石井貞蔵がある。
 これによってみても当時千歲の居住者の大半は運送や通行に関係した人々で、不明や無記入の人々も、多かれ少なかれやはりそれに関係を持つ人達であったことが伺える。それは室蘭というよりも本州から函館を通って、開拓本拠地の札幌に通ずる室蘭街道の重要な宿場であったからである。しかし小樽が本州とつな、いる港になり、さらに明治13年に小樽と札幌が鉄道によってつながると、多くの通行者は陸路をテクテク歩く者が次第に少くなり、特に官用の通行は早くて労の少い、小樽経由の道を通ったから、古くから重要な交通路として開けた札幌への道は、旧道としての憂目に立たされた。明治21年孵化場ができたときも、孵化場の人が札幌へ出るのに靴では歩けず「草鞋ばきで靴をさげて歩行し、かなりのびたもんだが、当時荷馬車の往復で道路が極端に悪かったし、雨でも降れば全く絶対絶命であった。月寒に入ると都会にでも出た様な気分で、此処で草鞋を捨て小川で足を洗い靴を履き換えたものである。」(『躍進千歳の姿』菊地覚助氏の想出)今弾丸道路などと呼ばれている道の70年ほど前の姿である。
 今北海道庁ができた明治19年の千歲からの車馬賃をあげてみると、苫小牧まで馬橇一円六六銭六匣、乗馬五五銭五厘、駄馬五五銭五厘、荷馬車一円四五銭七厘、乗合馬車五五銭五厘、人力車五五銭五厘、人足四一銭六厘、荷物四一銭六厘お勿論乗合馬車も人力車もあったわけではなく、もし営業する場合にはこれだけとってもよいという、定額を示したものである。島松までは馬橇九四銭六厘、乗馬と駄馬、乗合馬車、人力車は三一銭五厘、荷馬車八二銭七厘、人足と荷物が二三銭六厘。島松から札幌へは馬橇だと一円三八銭五厘、乗馬・駄馬・乗合馬車・人力車共に四六銭二厘、荷馬車一円ニー銭二厘、人足と荷物は三四銭六厘(第一回『北海道統計書』)であった。なお当時千歲にあった馬車馬橇の数は、馬橇は明治19年に15台であったが、21年には26台に増加、馬車は19年1台、21年が12台と多くなり、逆に荷車は19年2台、20年10台が21年にまた2台に減っている。また駄馬の数は19年40頭が20年21年は100頭、馬車馬は19年4頭が20年29頭、21年30頭。乗馬は19年16頭が、20年21年40頭。これらを使う人夫が19年4人、20年21年が25人。そして陸送関係の営業戸数は19年1戸、20年8戸、21年9戸と激増している。水産孵化場や木材関係の仕事がこの数字となって現われたものと思われる。
 明治二十五年に国鉄室蘭本線の開通によって、この道は完全に裏街道的存在になり、沿道住民だけの利用道路で、
「札幌千歳間道路橋梁修繕工事」
本工事八札幌千歳間ノ国道ニシテ里程九里人馬ノ交通最モ頻繁ナル要ナルヲ以テ道路ノ破損橋梁腐朽等通行危険ニシテ交通杜絶ノ場合二通りタルニョリ之ヲ修理シタリ即チ道路砂利敷キ二十五坪五合下水浚漢延長五千五百七十間火山灰敷キ三百八十七坪暗渠伏替八箇所橋梁替十箇所延長渡百二十三尺ニシテ本年六月二十日、工事二着手シ同年八月廿一日竣功此エ費金弐千四拾九円五拾七銭トス。(明治三十年『北海道拓殖年報』)
 こうした改良工事が何十年かに一度ずつ繰返されるだけで、あとは道路担当員が小さな修理を加えるだけであった。
 戦後になって駐留軍の進駐によって、道路改良の必要にせまられた。北海道という寒冷地での舗装工事には多くの問題があったので、これまで思い切ってこれを、大々的にやる機会がなかったが、 一つの大きな試験台であったわけである。
 一級国道36号線、札幌千歲間の改良及び舗装工事35,545mは、昭和27年8月下旬から測量にかかり、10月に予算の一部がついたので、12月下旬まで50余日間で約50万立米の切盛土を行って、冬休みに入り、28年5月20日、地盤氷解を待って土工をはじめ、6月上旬に舗装に着手して、9月下旬低温期に入る前に舗装を完了するという、正に突貫工事であった。工事内容については、多少専門的になるが当時の報告書を写してみると、
…この地方の凍結深(約ー米)の70〜80%の厚さに対して粒土、沈泥、腐朽土、その他の凍上軟化し易い土質を排除し、火山灰、切込砂利、砕石等の地方的材料で路床、路盤を構築し又随所に地下溝を設置した。この処置厚の適否或は路盤土質、材料の判定、択撰、工法の適否等今後の寒地舗装に対して幾多の前例を与えることとなるであらう。又このような深い基層処理は必然的に工費の増大を来すこと、なるが寒地舗装にとって、限られた工費を表層に投ずるか基層に投ずるか、ひいてはアスファルト舗装か、コンクリート舗装かの問題についてこの工事は一つの実施例を与えることになるものと思われる。
 全くこの工事は、北海道の道路工事史上のテストケースであった。そしてこの国道は「アスファルト系舗装の基層工法」をとり、材料は施工速度を早めるため、この地方で得られる材料の利用等を配慮した。また走行速度を45km、60km、75kmを仮定して、築造基準として路面の見通しをよくし、カーブや坂の勾配をゆるくするなどの切替え工事が行われ、いわゆる弾丸道路と愛称される、36号線が出現したのであった。さらに31年6月からは、千歲室蘭間の舗装工事に着手し、全線舗装が開始された。
 札幌千歲間は昭和42年度にも改良工事が行われ、43年5月の十勝冲地震前に完成した。

支笏湖への道(支笏湖公園線)

 烏柵舞に人工孵化場ができたのは明治21年であるが、当時孵化場の附近に水間武治という人が耕作をしていて、川向いに畑を持っていたので、千歲川を丸木舟で渡って通い作をしていたが、後に簡単な橋をかけた。支笏湖へ行く人はこの橋を利用するので、水間は通行人から橋銭をとったため、気づかれないように通る者もあったという。それによっても支笏湖への道がどんなものであったか、大体の想像はっく。千歲と孵化場の間も「荷馬車が辛うじて通る程度で、夏季にでもなれば路傍の雑草が人の背丈けにも伸びて、雨の時などは身体がヅブ濡れといふ始末、それでもタマに買物に出たり、或は山越して二里半の恵庭村に散髪に出るのは楽みの一つであった(当時千歲村に理髪店がなかった)。役所を退けてから散髪に行って髪を刈って帰れば、馬で行っても帰りは夜の十時頃にもなった。」(『躍進千歳の姿』菊地覚助氏の想出)それを裏書きするように、明治39年の『沿革史』に 「現今道庁内務部ノ所管タル鮭鱒人工孵化場設置ノ個所ニテ八馬ヲ通スへキモ、夫ヨリ千歲川上流は一定ノ道路ナク、日需品八重二千歲川舟楫ノ便卜山間ノ経路二依ルノミ」とある。
 以上のような状態であったから札幌へ出張を命じられると、千歲へ出て遠浅から早来の駅に出て、そこから岩見沢をまわって札幌へ出るか、 一番歩かなくてよいのは第三発電所に出て、そこから王子製紙の「生命を保証しません」という軽便鉄道で苫小牧に出て、岩見沢—札幌と大まわりをしなければならなかった。しかしこれには相当費用がかかるので高等官順路などといったという。高等官でない者はさきにも述べたように12里の室蘭街道を靴をさげて、ワラジばきで歩き、月寒に入って靴に履き換えて札幌に入ったという。札幌から孵化場へ行くのはこの逆のコースをとったわけであるが、千歲を通ったのでは距離が遠くなるので、現在も呼ばれている孵化場道路という恵庭への山道は、孵化場の人々が理髪のために恵庭へ行った山道だったのである。
 大正8年支笏湖畔の住民(多くは王子発電所の従業員)が千歲に対して反旗をひるがえし、千歲村は税金を取る以外に烏柵舞住民(発電所から湖畔まで)に対して完全な道すらつけず、警察・郵便は勿論衛生教育までも苫小牧の世話になっているから、苫小牧の方に編入してほしいという請願書の中に、湖畔の方から見て千歲は「我等部落民力未タ甞テ見タルコトナキ深山幽谷、而モ岐崛タル山ヲ隔リタル千歲村」ときめつけいる。それに対して千歲の方では「市街ヨリー一里ノ間八四季人馬ノ通スル完全ナル里道開鑿シアリ、僅カ六百間ノ歩道ヲ以テ軽鉄二聯絡」するものであると反駁している。この「僅カ六百間ノ歩道」というのが、容易に手がつかなかったというのには、この地帯が御料林であって、勝手に手がつけられなかったからであり、大正10年になっての反対陳情書の中に「該区間八御料地内二属スルヲ以テ道路開鑿上当局トノ交渉急速ノ処置ニ出テ難キ行懸リアリテ、遷延ヲ重ネ来タリタルモ近ク之カ決行ヲ見ルノ計画中二属シ候」とある。
 大正15年に第3回の汎大平洋学術会議が札幌でひらかれることになり、開催者側では会議のあと希望者に千歲孵化場と支笏湖を見学させ、王子製紙を視察させたいから、何とか千歲駅から孵化場の間に自動車の通れるようにしてほしいと申入れがあった。役場や市街の議員は勿論乗気であったが、当時は農村議員の方が有力であり、農村からすれば本村から遠く離れていて、他町村の経済圏にある人々であるから、孵化場の道だけ自動車を通したって村の儲けになるわけでないといって、村会では否決されてしまった。だが結局は素朴な人々の心は世界的なものを此界の人々に見せようということでときほぐれ、自動車道が完成され、昭和二年には孵化場までの定期自動車が開通して、支笏への道に新しい風が吹き通る感じがあった。
 しかし当時の案内書にはいずれも、支笏湖へ行くのには苫小牧からの通路よりなく、大正15年道庁が出した『北海道視察便覧』というパンフレットには「苫小牧より七里軽便鉄道あり、本湖は千歲郡にありて…」とあり、同じ年の『北海道名所遊覧案内』にも、苫小牧には王子製紙会社の他に支笏湖、姫鱒孵化場、水産試験場孵化場があるように記され、これが千歲線が開通されてからの昭和3年も同じであり、ただ札幌鉄道局の『北海道旅行の栞』だけが、昭和3年版に、支笏湖への道は二通りある。成るべく楽に行かうとするには室蘭線苫小牧からが良い。即ち苫小牧駅から北西十五哩余、王子製紙会社経営の専用鉄道に便乗し、途中大森林の間を縫ひ、千歳川の清流を眺めながら湖の東端の湖畔に至ることが出来る。今一つの道は札幌の次駅苗穂と前記苫小牧の隣駅沼の端とを連絡する北海道鉄道線千歳駅に下車し、徒歩約二里にして千歳の北海道水産試験場附属鮭鱒人工孵化場に達し実に美事な森林に埋められた千歳川の深谿を遡ること約十町にして王子製紙会社経営第四発電所附近に至り(最近此の間自動車連絡の計画あり)、ここから同社の専用鉄道に便乗し第三、第二、第一の各水力発電所を経て、前記苫小牧からの専用鉄道本線に合し、支笏湖の排水河たる千歳川の銚子口に当る湖畔に着くことができる。
 とあって、はじめて千歲からも行けることが記されている。同じ札鉄が昭和七年六月に出した『北海道』という案内書には、
支笏湖への道は二通りある。なるべく楽しく行かうとするには室蘭線苫小牧からが良い。即ち苫小牧駅から北西二十四粁余、王子製紙会社経営の専用鉄道(片道一円五銭)に便乗し、途中大森林の間を縫ひ、千歳川の清流を眺めつ、湖の東端の湖畔に至ることが出来る。今一つの道は札幌の次駅苗穂と前記苫小牧の隣駅沼ノ端とを連絡する北海道鉄道線千歳駅に下車し、自動車(一人五十銭)で約八籽の千歳の北海道水産試験場属附鮭鱒人工孵化場に達し、更に美事な森林に埋められた千歳川の深谿を溯ること約ー符にして王子製紙会社経営第四発電所附近に至り、そこから同社の専用鉄道(片道六十五銭)に便乗し、第三、第二、第一の各発電所を経て… …」
 記録はさきのものと同じであるが、孵化場までバスが入ったことや料金が具体的に明示されているが、案内書によっては昭和十年になっても、支笏湖から王子製紙の軽便に便乗して行くと、第四発電所を経て行くと徒歩十町余で千歳孵化場に達するといって、旅館は苫小牧のものだけをあげている(北方文化協会『北海道案内』)。勿論同じ年に役場から発行された『千歲村勢一班』を見ても、支笏湖の観光などについてはほとんど無関心で、ただ「釣遊ニ価ス」といった程度で、交通などについては気をくばっていないので、苫小牧から行うがどうしょうがそれほど気にもかけない大らかさであった。
 昭和12年に刊行されたク北海道景勝案内”とよぶ、山華書院版の『観光の北海道』には、支笏湖は「苗穂を始点とする北海道鉄道の瀟洒なガソリンカーによって進むこと、 1時間で千歲駅に到着する。此処より千歳川に沿ひ溯ること約二十五粁…」とあり、苫小牧のところでは「支笏湖は西北約二十四粁に位置し、王子製紙会社の専用鉄道の便をかりて行くことが出来る」ともあるのに、札幌鉄道局で出した『北海道旅行の栞』には千歲から支笏湖へ行くバスの記号だけあって、区間運賃も所要時間もなく「支笏湖」室蘭本線苫小牧下車」などという不親切な紹介よりない。同じ年の道庁商工課の『最近の北海道』の中で”室蘭市及其の附近”の中に支笏湖を入れ「苫小牧駅より西北二十四粁余の位置に在り、同駅より王子製紙会社の専用鉄が通じて居る」とあるだけで千歲からの通路についてふれずに「湖より流れる千歲川には鮭鱒孵化場と大規模の水力発電所がある」とだけである。これが国立公園に指定される以前における当時の、支笏湖に対するー般の認識の代表とみることができょう」
 戦争の暗い影が日本全土を覆う昭和十五年札幌鉄道局で印刷した『北海道案内』によると、
近年湖畔迄自動車が開通し、旅館が出来たので清遊する人が多い。
 とあり支笏湖への順路は「ー、苫小牧駅下車、王子製紙会社経営の専用鉄道に便乗し約二時間半(片道七十銭) 二、沼ノ端駅から分岐し函館本線苗穂駅と連絡する北海道鉄道線千歲駅下車、乗合自動車で約一時間(片道七十五銭)」とあって、昭和七年当時は軽便が一円五銭、千歲から孵化場までバスが五〇銭、第四発電所から湖畔までの軽便の乗車賃六五銭からみると、非常に値下りしたばかりでなく、千歲からは乗換えせずに湖畔へ行けるようになった。
 このバスの運行について『千歲警察沿革史』には、
 大正十五年四月追分の人田尻某フォード乗用車一台を利用、孵化場迄の定期運行、其の年夏、吉田二郎継続し、線路を第四発電所に延長なしたり
 とある。これによると大正十五年の夏に、千歲駅から王子軽便のある第四発電所まで、定期のハイヤー運行をしたようにとれるが、昭和七年に孵化場へ来た斎藤茂吉の歌に「支笏湖へ自動車道路つかぬまに吾等きたりぬ心たらひて」というのがあり、この年まだ自動車が通っていなかったようである。さきの昭和7年の札鉄の『北海道』にある「…自動車(一人五十銭)で約八粁の千歲の北海道水産試験場附属鮭鱒人工孵化場に達し(中略)約ー粁にして王子製紙会社経営第四発電所附近に至り、そこから同社の専用鉄道(片道六十銭に便乗)」で、この間の1kmやはり徒歩連絡より仕方がなかった。
 この間の1kmをいつ車の通れる道にしたかについて、『躍進千歲の姿』では「昭和13年千歲支笏湖街道が地方費道…」とあるが、22年に苫小牧が、支笏湖畔を苫小牧区域にしてほしいという、請願を道議会に出した反駁文中に「昭和八年拓殖費支弁地方費道が新設され…」ていて、すでに千歲支笏湖間の交通は不便でないと力説している。また昭和11年に「北鉄経営に移り、シボレー車四輛を使用す。湖畔迄線路延長す。」(『千歳警察沿革史』)とあるところからすれば、昭和8年に町村道から、拓殖費支弁の地方費道になり、自動車の通れる道に改修されたことは、昭和8年の議会事務報告にも「8月22日烏柵舞道路開通式」とあって、待望の道ができ開通になった。そして昭和11年11月の、村議会で「千歲郡千歲駅ヨリ大字蘭越村ヲ経テ大字烏柵舞村支笏湖ヲ連絡スル村道蘭越道路及拓殖費支弁ノ烏柵舞道路ヲ地方費道此総延長二十八粁ヲ地方費道二編入セラレンコトヲ請願シ候」という請願書を出しているので、純然たる地方費道になったのは 『躍進千歲の姿』にあるように、昭和13年であろう。
 昭和15年の案内書『北海道案内』の中に、 「近年湖畔迄自動車が開通し(中略)乗合自動車で約一時間(片道七拾五銭)」と北鉄経営のバスについて書れている。 しかしこの北鉄のバスは、昭和18年に北鉄が国鉄に買収されると、バス路線も国鉄に移り、運転手は北鉄社員から国鉄職員となって、バス運行にあたったが、国鉄から中央バスに譲渡した頃は燃料も木炭や薪を焚いて、ストーブを背負って走るような木炭自動車になり、坂の多い支笏湖線は客に後を押してもらわなければならず、 一時運行を中止して車輛を全部引揚げてしまった。
 戦後22年7月になり燃料の見通しも好転したので、運行が再開され定員37人乗りのトヨタ1948年型による、千歲支笏湖25km籽を二往復の営業となった。昭和25年の国鉄北海道営業所刊『北海道案内』によれば、
 千歲駅下車バスて約1時間(84円)又は札幌からバスで2時間半(220円)とあり、依然「苫小牧駅下車、苫小牧製紙会社の専用鉄道に便乗し約二時間」もある。この年の町議会では 「王子山線の千歲駅前延長について」討議が行われ、第四発電所と千歲駅間に軌道を敷設しようと計画されたこともあった。しかし28年に交通公社が出した旅行叢書第11集の『北海道地方』には、
(イ)室蘭本線苫小牧駅から市営バスで一時間(二四粁四)九〇円、一日二回
(ロ)千歳線千歳駅下車(苫小牧から四五分、三〇粁二、札幌から一時間二〇分、四一粁二)
前記湖畔まで西方二四粁一、バスで一時間、一〇〇円、一日三〇回、又は札幌から直通遊覧バスで二時間(六四粁三)二五〇円(六月—十月毎休日・一往復)
 これが千歲駅前通から湖畔まで、延長23km806mが、主要道道支笏湖公園線として認可になったのは、昭和29年3月30日であった。そして、急な山坂が多く、紆余曲折の歴史の果に、すべるような舗装工事に取りかかったのは、支笏湖が国立公園になって十年目の昭和34年からであり、完成するのにはさらに7年の歲月がかかった。
 今支笏湖に遊ぶ人は多いが、この一筋の道にも多難な山坂が多かったことを知る人は少いであろう。

札幌支笏湖線

 支笏湖を天下に知らせるためには、千歲から24kmでは宣伝上都合が悪い。どうしても札幌から近距離の道を通ずるということが、先決問題であるということは、千歲や湖畔の住民だけでなく、近くに決定的な観光地を持たない札幌市や、近郷町村、観光関係者の等しく感ずるところであったので、何とか千歲まわりでない、札幌からの新観光路線を開発しようと、よりより関係者の間で計画がねられた。昭和23年の春、堅雪を利用して関係者が、実地踏査をすることになり、豊平町からは町議二名、役場職員二名に案内人一名の計五人。札幌市役所から一人と、恵庭営林署からは署長と係官二人、それに千歲からは町議一名に役場から二名、合計ーー名で、3月23日に苫小牧経由で丸駒温泉に一泊。
 24日に一行は朝七時に丸駒温泉を出発して、イチャン公安山麓を経て漁川に到達、ラ、ルマ川を越えて元機械場といったところの部落に到着した。 一行のうちスキーを履いたのは午後7時5分に着いたが、徒歩部隊が着いたのは、翌25日の午前1時30分の最夜中であった。このため千歲役場の鈴木技師と、伊藤町議は疲労のため漁川から漁市街(恵庭)
を経て千歲に帰ることにし、他の人々は25日の午前中を、機械場部落で休養をとって、午後2時に出発、石切山に午後5時に到着、札幌に出て一泊して帰った。
 この苦業のような踏査があって、とにかく札幌から石切山を通り、ここから山に入り、機械場部落を経て、漁川の上流を横切って、恵庭岳を目標に南にくだり、支笏湖畔のポロピナイに出て、丸駒温泉に通ずる道が、開鑿できるという見通しがついた。それで早速その年の11月に千歲山崎町長名で、札幌土木現業所長宛に、次のような「支笏湖方面道路実地調査方お願について」という、請願書を出した。
 昭和二十三年十一月十八日
   千歳町長 山崎友吉
 札幌土木現業所長殿
   支笏湖方面道路実地調査方お願について
本町所在支笏湖は観光地として重要度を増しつ、ある現況に鑑み、別途その開発などについては着々準備を進めつ、ありますが、次の路線新設は現地観光開発上重要使命をもつものであり、これについては種々御計画を進められつつあることも伺ってゐますが、早急実地踏査を了し実施計画の立案等促進さるよう特別な御取計を仰ぎ度くお願をいたします。
 尚実地調査班来町日程御決定のときは恐入りますが事前御連絡下さるよう願います。
   記
ー、現支笏湖道路終点から丸駒温泉間
二、丸駒温泉からポロピナイ旧恵庭鉱山を経て豊平町石切山に通じる区間   以上
 さらにこれにつづいて、関係市町村でつくられている、札幌地方綜合開発協議会の名で、知事と道議会議長宛にも請願書を出した。
   支笏湖観光産業道路開設について請願
近く正式に指定せらるべき支笏洞爺国立公園の観光価値を増大し但し地帯の産業を開発するには交通機関の完備が最も大切な必要条件であるが特に札幌支笏湖間の道路開設完備が急務中の急務と認められるから別添図示の如き観光産業道路を開設せらるるよう切望する
 昭和二十四年四月 日
札幌地方綜合開発協議会
札幌市長 高田富与
豊平町長 大久保清太郎
江別町長 古田島薫平
琴似町長 河本浦助
石狩町長 飯尾円什
札幌村長 本田辰雄
白石村長 伊藤作一
手稲村長 箕輪早三郎
篠路村長 大沼三四郎
右代表
札幌地方綜合開発協議会会長
札幌市長 高田富与
千歳町長 山崎友吉
北海道知事 田中敏文 殿
北海道議会議長 坂東秀太郎 殿
   理由
支勿湖は支笏洞爺国立公園中最も自然的にして幽邃な最大の火口湖であり、且つ札幌小樽室蘭等の都市から近接の地にある絶好の景勝地であるに拘はらず、従来交通不便であって札幌小樽定山渓等からの直通道路がないために、折角国立公園に指疋されても、充分にこれを利用し機能を発揮することが出来ない状態にある。よって器械場支笏湖間の観光道路を開し、これと石切山定山渓小樽間、石切山札幌間及び目下開段一中の緊急開拓道路とを連絡せしめるに於ては、将来札樽地方百万道民の至急観光地として、国内無比の利用度高き路線となるばかりでなく、道内外及び外国観光客の利便莫大なるものがある。それのみならず、沿線は千古斧鉞を入れない原始林と、広大な開拓地を擁しその経済的価値もまた至大なものであるから、是非早急に本道路を開○する必要がある。その路線については関係地方有志再三決死的実地踏査を行った結果、別添地図記入の通りとするを最も適当と認めた、その理由大要左の通りである。
第一、観光道路としての価値
一、札幌支笏湖間の最短距離であること。
 現在の千歳経由路線より約二十粁苫小牧経由路線より約七十粁短距離である。
ー、ポロピナイ分水嶺間の湖畔急斜面その他二三の地点を除けば大体平坦で、高速度ドライブに適すること。
ー、本路線の大半は三四百米以下の東緩斜面であって、他の路線に比し融雪早く、年々の道路破損度も割合に少く、且つ利用期間も長いこと。
ー、湖岸分水嶺鞍部四百六十米地点より支笏湖を一望の下に俯瞰し、対岸正面に風不死嶺、樽前山の霊峰を望み、右に恵庭嶽左に紋別岳と対し、絶好の景観地であること。
ー、イチャンコッペ中腹より眼下に数万町歩の針濶混淆原始林を眺め、遠く石狩大平原を一眸の下に望むこと。
一、途中漁川峡谷を探勝し得ること。
ー、将来豊平川支笏湖河水統制による電源開発工事完成の曙は、漁川本支流四箇所に設けられるダム新貯水池の周辺を通過することとなり、札樽地方に比類なき観光探勝道路となること。
第二、産業道路としての価値
ー、元紋別御料地、恵庭御料地、漁御料地等国有林の豊富な木材注トラックで札幌に直送し得ること。
ー、同地方一帯に豊富に存在する根曲竹を安価に札樽その他各地方に搬出し竹細工、手柴、垣根材料等として有効に活用し得ること。
ー、将来再開を期待せられる恵庭、美笛鉱山等に対する物資供給に至便なること。
ー、本道路沿線豊平町内の在住農家、及び緊急開拓新入植者の生産物を、札幌その他の消費地に低廉なる運賃にて搬出し農業用資材日用物資を容易に搬入し得ること。
 この「支笏湖観光道路新設の件」は、昭和24年3月23日の道議会で採択になり、道費開鑿が行われたしはじめの希望は丸駒温泉を起点とするものであったが、その後幌美内から湖畔をめぐって、湖畔に達するものになり、幌美内と湖畔の間6,970mは、昭和39年から40年の間に舗装されて、有料道路になり、40年4月1日付で、主要道道札幌支笏湖線となり、札幌に通ずる道は一応は開○を終った。しし舗装されて一般の観光路線になるのは、札幌オリンピックの行われる年であるという。

洞爺湖支笏湖線


 支笏湖周辺の木材伐出しのための、美笛と支笏湖畔の通路は相当古くからあったが、千歲鉱山の鉱石の輸送と共に、湖上輸送が主であった。それを湖畔廻りの林道し」して着手したのは30年頃からであり、昭和29年の湖畔支所の事務報告にも「美笛より大滝に通する道路—」の完備が強く要望されているとあり、また29年の美笛支所の事務報告には、 「
4年(8月中旬より大滝村と結ぶ観光及び産業道路として着工、鉱山事務所前より福神沢に向ふ事900mの部分完成致しましたが、明春は残る5,000m(郡界まで)の工事着工予定であり、近年には其の竣工をも見る事と思ひます。」とあるが、苫小牧支笏湖線と呼ぶ、もとの王子軽便線の11マイルから分れた湖畔道路が、林道として完成したのは昭和35年であった。
 そして36年には道南バスが、山奥の千歲鉱山に警笛をならして姿を現わした時、子供達は旗を振って歓声をあげたが、その年の往復二回の運行も、7月から10月まで中絶されてがっかりさせた。この産業道路の名称は、支笏洞爺公園線と呼びながら、直接には二つを結びつける可能性だけで、容易にー一つの湖は結びつかなかった。とくに支笏湖は、他のどの観光地とも結びつかない、全く孤立した存在であった。
 この孤立した支笏湖と洞爺湖の間30km821mが主要道々として認可になったのは、昭和40年の4月1日であり、これによってバスの連行も本格的になつた。

苫小牧支笏湖線


 もとの王子製紙軽便鉄道の通っていた道で、これは昔の軽便時代に呼びならされていたーー哩地点で、美笛、千歲鉱山、大滝村を通って、洞爺剛に通ずる主要道道洞爺湖線と合して、支笏湖公園線に入り、湖畔から札幌支笏湖線に合して、幌美内まで行き、そこから丸駒温泉までの30km821mであるが、実際に千歲管内で単独の姿を現わしているのは、幌美内と丸駒温泉との2km100mだけである。

由仁道路(千歳由仁線)

 明治23年に起工23年8月に竣工した、幅二間に延長五里三三町一六間という岩見沢千歲間道路というのがある。その経費1,391円10銭。 これはおそらく道道千歲由仁線のことで、39年の『沿革史』に 「国道ヨリ分岐シテ道庁二於テ開設セル千歲夕張郡由仁間…」とあるものと思われる。協和や幌加を開拓した人々は、明治25年に開通した室蘭本線で由仁まで来て、そこからこの道路を通って27年に開放された殖民地を求めて藪をかき分けて峠を越し、峻淵川の沢に入ったのであった。どっちを向いても藪と密林の中に入った人々は、東風に送られてくるなつかし汽車の音をきき、その汽車の音のする方へ立木に印しをつけながら進んで行ったら、故郷につながっている鉄路に出た。その線路をつたって由仁に行って日用品の買付などの用を足すようになった。
 岩見沢千歲間道路というのは現在由仁道路と呼ばれているもので、千歲管内でありながら
、多くの開拓者達はむしろ母村を知らずに、この道を通って入殖し、鉄道の近い由仁を親しいものに思っていたようである。開町70周年記念の座談のとき幌加の今要作談に「由仁道路が開けたのは明治26年である。」と述べられているのは、おそらく23年に大体につくりあげた道を27年から移民が入るというので、26年あたりに手入れをしたものと思われる。 『殖民公報』の中で「千歲原野道路排水—胆振国千歲郡に属し明治二十六年三千六十四万余坪に区画したるも湿地多きに依り三四条の排水道路を開鑿せしが…」とあるものの一部を言ったものかもしれない。
 明治35年の『殖民公報』の中には「昨三十四年度に於て北海道地方費を以て補助を与へたる区町村土木工事は左の如し」とあって、その中に千歲村由仁村境間道路修繕に三、五六六円四四銭二厘とあり、 この年にも由仁道路に地方費による道普請をしている。
 これが一般道道千歲由仁線と指定されたのは、昭和32年7月25日、このうち根志越まで舗装されたが、昭和42年である。

追分道路(舞鶴追分線)

 明治24年5月から12月まで11,882円40銭の経費を投じて幅一間半から二間、延長一七里余の千歲夕張間の道路開発、さらに29年11,864円40銭で、千歲夕張間八里六町五二間の道路に経費をつぎ込んでいるのは、現在のどの線をさすものであるか、おそらく追分道路と呼ばれる、道道舞鶴追分線のことをいうものと思われる。
 幌加下や協和(新峻淵)の人々それから近唐の人々も、やはり室蘭の追分駅でおりて、刈り分け道と大差ない追分道路を分け入り、物資を出すにも入れるにもこの道を通り、やはり千歲本町は遠くて不便なところにある存在であった。
 この道も土地の人の記憶の中では、明治35、6年にできたということになっている。明治三十六年の『殖民公報』に 「本年度国費道路開鑿工事」とあって施行箇所は「千歲村字ケヌフチより勇払郡追分停車場に至る間」二里ニー町四〇間で敷地幅六間とある。もしこれが正しいとすれば、さきの24年の千歲夕張間というのは別な経路をさすのであろうか。
その後の道路管理については、ケヌフチ—追分駅間道路として、改良工事はその都度、村会や町会の議案として提出され、可決決定の上で工事が行われて来たが、昭和32年3月30日に、舞鶴追分線延長9km414mとして道道に昇格され今日に至つている。

早来千歳線

「千歳に行く道なんて、青空の見えるところがいくらもなかったね、大正2年の凶作のために救済工事があってそれで半分だけどうにかできたので、あとの半分は私達で千歲までつけました」駒里が阿宇佐里といわれた時代からここを開拓した人々は口を揃えていう。
大正9年「道路法及北海道道路令に依り新に地方費道準地方費道に設定せられたる路線左の如し」とあって、札幌を起点として浦河に通ずる札幌浦河線が書きあげられ、その主な経過地として札幌郡豊平町、千歲郡千歲町、勇払郡苫小牧町大字植苗村、勇払郡安平村早来、勇払郡鵡川村、静内郡静内村大字下下方村とある。これが阿宇佐里を通ってフモンケ、早来から厚真を経由して鵡川に出る道路と思われる。
 この間にバスが開通したのは、昭和25年5月1日からで、早来鉄道株式会社が、さきに美々まわりで早来と千歲を結んでいたが、乗客が少く路線変更を希望していたので、部落有志の運動によって、 フモンケ・阿宇砂里(駒里)経過に路線を変更したが、冬になると雪のために運転休止されたりした。
昭和32年3月30に道道に認可され、 一般道道早来千歲線という名がっけられたが、43年に国道36号線の千歲飛行場から、直線に東進する新道に切換えになり、延長9,273mとなった。

三川街道

 北海道の町村道の多くは、昔開拓地から木材を運び出す馬車道や、タマ曳きをした道がもとになって次第に本格的な道になっていった。ホ口カ道路も室蘭線三川で下車した加賀団体移民の人々が、布団や鍋釜を背負って入った道で、明治30年頃には三川と現存の新川の間には細い鹿道よりなかったという。42年頃加賀団体の人々が雑穀を運び出し、塩や煙草や石油だの塩鱒を買って帰る道を開いたという。
 この道は、戦争中は道路修繕はもっぱら、部落民の勤労奉仕によって維持されたもので、附近住民の人々にとっては血と汗のしみ込んだ、忘れることのできない歴史の重みを感ずる道である。
 ここをバスが走るようになったのは、昭和二十四年からである。

恵庭街道(島松千歳線)

 第一次世界大戦の青豌豆景気で開け、その後酪農地帯として、堅実な発展をとげて来た長都に通ずる道は、各線毎に必要に応じて、縦横に開鑿されたが、東九線を北進し南二十六号を西に恵庭に向い、さらに東三線の恵庭境界を、南二十一号まで北進して島松に通ずる道は、農村の主要道路として、農産物消流について重要道路であったので、東六線道路と共に利用度が多いので、昭和四十三年に延長九、二七三胡が、 一般道道に認可になった。

舗装

 主要道路の舗装につては、各路線別に述べたが、市街を中心にした舗装については、最初に行われたものとしては、昭和16年軍の威光で、駅前から当時の海軍飛行場の入口(現在のゲート前)まで、コンクリー卜舗装であった。
 その後三十二年に半額受益者負担で、友楽通りと新橋通りの一部が、コンクリート舗装にした。なお昭和44年1月現在の市路状況は次の表の通りで、延長10,412.82mである。

土木現業所千歳派出所

 戦後になって進駐留軍の関係もあり、千歲周辺の道路と河川の維持修繕などが、特別に忙しくなったのと、土地改良其他の工事施行も多くなったため、昭和二十二年の四月一日から開設せられたもので、国道、道道などの維持修繕、千歲川その他の改修工事などで、縁の下の力持ち的、目立たない活躍をつづけている役所がある。

開発建設部千歳出張所

 昭和26年7月に千代田町三丁目に設置され、28年に春日町一丁目に移転し、昭和28年の日本の道路工学を世界に示す、世紀的な大事業の一つである、札幌・千歲間の改良舗装工事、昭和31年から32年にかけて、千歲市街の拡幅舗装工事や、市街と空港間の改良舗装、32年から33年間に行われた、空港と美々間の改良舗装。三十六年以降は舗装の補修、昭和38年度からは、市道支笏湖周辺道路の新設工事など、観光・産業開発の陰の舞台つくりは、みなこの事務机の上から生れたものである。
 歴代の所長は、1後藤義顕、2坂入碩、3菅原成夫、4宮川之夫、5菅原成夫、6田中洋、7若林敏明、8毛利正治。

車輛


 フォード自動車が千歲に入ったのは、「支笏湖への道」でものべたように、大正15年4月に、追分の田尻某が、千歳線の間道にともなって、駅と孵化場の間を、定期連行し、それ・を千歲駅前で旅館業をしていた、吉田二郎が譲受けて、第四発電所の王子軽便鉄道の終点との間を結んだのがはじまりである『経済更生計画書』によれば、昭和7年末に北海道鉄道会社所有の、乗合ハイヤーが一台、昭和12年末でやっと乗合ハイヤーが2台、バスは千歲駅と支笏湖間と孵化場の間4台になり、貨物・目動車が一台、三輪自動車が1台というのが(戦前の二級町村時代の鉄道以外の交通機関であった。市街の中は客馬車が駅と市街の間を走り、自転車が昭和7年に324台、十二年には584台て、先端的交通機関であり、340台の荷馬が輸送機関の重要な位置にあった。
 戦時中の記録は確かでないが、昭和18年の『事務報告』によれば、自動車税を納めている人が七人、自転車税八六四人、荷車税四七六人とあるが、内訳につしては不明である。
戦後二十二年の第六回町議会議案に「千歳—三川線の旅貨客定期自動車運行について」と、 「千歲—支笏湖線旅客自動車の運行について」、か提出されたが、これらの働きかけがあって、中央バスが23年7月1日から、札幌—千歲—支笏湖の間に、バス運行を復活し、翌24年に千歲—三川間をバスが走るようになった。そして昭和25年戦後最初に出た、町勢要覧によればこの他に長都線が加わり、この他早来鉄道が千歲と早来の間を、苫小牧市役所の支笏湖線も開通になった。自動車の数はバスが3台、トラック49台、乗用車2台、小型車37台となっており、自転車1743台、荷車764、小車411というまだ自転車と馬車の時代であった。
 26年の要覧には道南バスの名が現われ、登別温泉行きの線が加わったが、翌年から二年間消えている。バスは26年4台、27年8台、トラック64台、乗用車四台、自転車
・荷車はこの辺を最高に下降線をたどり、27年にはあの思い出しても不快になる、リンタク309台の数字がある。
 29年中央バスは二基地線を開拓、翌30年には協和線と祝梅線、33年には追分線も記入されるようになった。
 33年『千歲町を市とすることについての申請書』に陸運局調べの千歲の車輛調べがのっている。


 この数字が十年後の四十三年三月末現在では次のように変化している。いささか異常といつた感じである。

ハイヤー業

 ハイヤー業が千歲で開業されたのは、駐留軍が千歲にある程度定着をみせた頃からであった。千歲ハイヤ—は最初資本金一〇〇万円で、車輛が二台、事務員二人という、細々としたものであったが、新保鉄太郎を社長として、昭和二十四年十一月に許可をとり、翌年一月から千歲を中心にして、札幌・苫小牧・夕張・岩見沢・空知・勇払を事業区域に業務を開始した。
 二十六年四月には恵庭、二十八年十一月から苫小牧、二十九年三月から島松と支笏湖に、三十一年に千歲駅前に、三十二年に勇払に、三十四年には千歲錦町と札幌に、四十四年には沼の端にそれぞれ営業所を設け、道央都市圏の市民の足として活躍している。
 また三十七年三月に貸切バスの認可を得て、マイクロバス五台で経営をはじめ、昭和四十年タ鉄バスと業務提携し、干歲バス株式会社を設立、観光貸切の他市内路線の運行も開始、全クループ関連会社の中核企業となっている。
 現在車輛総数116台、社長は渡部茂である。
 オクラホマ洲兵師団の進駐した、昭和26年からはハイヤーの利用者が急增し、北海道交通株式会社札幌支店千歲営業所が開業したのは、そうした情勢によるもので、はじめ外国中古車などを6輛入れ、七人の従業員ではじめたのが11月で、当時の一日走行キロは、 一台200キロであったという。39年9月に他社と共に一せいにメーター器を取りつけ、メーター制になり、41年12月からは無線器をつけて、次第に近代化し、44年1月から、北海道交通株式会社千歲支店に昇格、44年4月現在小型車34輛、従業員86名、うち運転者73名、 一日走行キロ平均300キロである。
 昭和交通千歲営業所の設立も、北交ハイヤーと同じ、昭和二十六年十一月で、はじめ二枚ドアの外車ニ輛を二人の従業員ではじめ、 一日走行三〇〜六〇キロ程度であった。昭和三十一年に五輛増車人員もニ二名になり、三十二年にはさらに三輛增しで十輛になった〇この頃の料金は区間制で、札幌まで小型でー、九六〇円、中型で二、三〇〇円であった。三十八年にそれまで千歲交通だけの独占だった、空航営業が認可になった(北交ハイヤーも)。 三十九年にメーター器、ついで無線器を取りつけ、四十一年新社屋を完成し、この年四輛増車して人員二六人となったが、この頃から交通事故が多くなったので、それまでは二日おきの休みであった労働条件を、四十二年七月から一台の車を二人で持ち一日交代で休むことにし、この年末に一六輛従業員三七人であつた。四十四年四月現在ー九輔、従業員四五名、 一日平均走行キロ三〇〇キロ。
 昭和三十八年、米軍基地で働いていた要員の中の退職者11名が集って、自分達の手で自分達のやれる仕事を計画し、三年間の準備期間を経て、四十年七月八日に基地司令宣や地区労、各官公庁から祝福されて、この働く者だけの新会社が発足した。株主はーー人、小、型車五台という陣容であった。
 翌四十一年には三輛增車、四十二年二輛、四十三年三輛と増加し、現在一三輛で株主も一般からも公募して、26名になり、 一日平均走行キロ300キロ、43年9月からは全車無線の設備をした。社長は設立当初から木村正明である。

郵便

千歳郵便局

 北海道の郵便については、はじめ明治五年亠八月に開拓使札幌本庁の民事局の中に駅逓局というのをおいて駅透行務の一切を掌らし、まず函館札幌間と函館熊石間に郵便路線を置き、函館札幌間には大野•森・山越内・幌別白老・千歲の六箇所に郵便局を置いた。このうち森だけは四等(函館は一等、札幌は二等)で、あとは五等局というのであった〇そして函館札幌間に毎月六回ずつの郵便物の輸送が行われた。
『千歲年表』によると「明治五年十月一日新保鉄蔵旅館業を営むと同時に十月一日郵便取扱所となる」とある。この当時は月六回の郵便扱いであるし、小包も為替も電信もない時代だから、特別に取扱所を置/ ‘のではなく、駅逓が郵便の取扱いをしたと思われる。それは明治十年の八月から郵便行囊で逓送されるようになったが、その年一月に勇払分署から郵匣取扱役とか千年局詰として石山専蔵の名があげられ、千歲郵便局代理三海弥平の印鑑を押した書類が見られる(石山の留守中代理として郵庾事務をあつかったらしい)。
 明治十五年に開拓使が廃止されたので、郵便局は札幌・函館・根室の各県に分割されることになったが、十六年になって駅逓編制法というのがきめられ、その年七月に函館に駅逓出張局というのを置いて、その下に札幌と根室の駅逓区というのに統一され、郵便事業ははじめて地方庁の手から離れて、農商務省の駅逓局◆

観光

陰の方から村役場を押し上げる力になり、道立公園請願にも、国立公園の運動にも大きな力になっていた。その基礎の上にできあがったもので、目的として
 ー、各種観光事業機関及び団体との連絡
 二、観光事業に対する助言と促進
 三、観光宣伝と観光客誘致
 四、郷土文化の指導育成
 五、観光土産品の将励、改善指導
 六、其の他本会の目的達成と観光事業の自由な発達を促進するため必要な事業
であり、会員は「本会の趣旨に賛同する文化、産業、運輸その他の関係会社組合、その他の団体及個人とする、但し個人は正会員とし其の他を賛助会員とする」であった。創立当時の役員を見ると
 顧問 苫小牧営林署長・土木現業所千歳出張所長・恵庭営林署長・北海道水産孵化場千歳支場長・千歳駅長・王子山線駅長◆

 そして24年9月28日に、支笏湖の観光施設の問題点についての打合せ会が、湖畔観光旅館で開かれた。当時問題になったことは⑴修学旅行や団体客によって湖畔がよごされるのをどうするか。⑵公衆便所の問題。⑶整船場の整備。(4)駐車場の整備。⑸オコタンペの温泉の開発。⑹札幌を基点とする一周道路の開発。(7)その他湖畔道路や登山道路。⑻宿泊施設の完備など、問題は山積していたが、この年九月はじめて『観光の千歲』を発行して、国立公園支笏湖の宣伝をはじめた。それに当時の『千歲音頭』というのがのっている。

ハアー緑したたる宮の杜 苔の花咲く行在所
ハア 宵の涼みは千歳川 ヨイヤサノサーヤンサノエ
ハア飛行機にぎおう千歳町
ハアーIチャシの樹林に鳥が鳴き 長都沼にはおどる鯉
ハア 蟻淵温泉二人づれ ヨイヤサノサ!ヤンサノエ
ハア 稲の花咲く千歳町
ハアー 春は桜の孵化場へ 秋は紅葉の発電所
ハア ピリカメノコの恋の唄 ヨイヤサノサーヤンサノエ
ハア 情緒ゆたかな 千歳町
ハアー 恵庭樽前登山して 神秘支笏の湖に釣る
ハア オコタン丸駒温泉のかおり ヨイヤサノサI ヤンサノエ
ハア 風光明媚な千歳町
   —千歳町川合新三郎作—

 当寺「黄金花咲くユートピア」とうたった『北海音頭』の曲で、この音頭をうたって景気をそえた。モーラップに道林業課がアメリカ風のキャンプ場を、笹本技師によって完成したのはこの年八月であった。
 この頃の旅館は丸駒温泉と湖畔の観光ホテルだけで、丸駒は一泊四〇〇円、ホテルは八〇〇円と国鉄営業の案内にある。

湖畔の施設

国設モ—ラップ山スキー場

 よいスキー場に恵まれない千歲と苫小牧とが、昭和三十八年十二月に協同出資で設置したもので、四つのコースに分れて、リフトや食堂、貸スキーから駐車場まで設備したもので、各コ—スの状態は
Aコース 全 長一、〇四〇財
Bコース
Cコース
新コース
七八四

全 長一、一四〇財

全長

三六〇舫

全長

六六〇肪
平均斜度ー二度

平均斜度ーー度

平均斜度一〇度

平均斜度ニー度
最大斜度三一度

最高斜度三ー

ー度

最大斜度ニ二度

最大斜度三一度
 新コースは昭和四十年から使用のもので、これができるまでに、スキー場の面積がニー給であったが、新コースができたので29haとなった。
 リフトははじめ第一リフトだけで、全長は四二〇舫、最低差八五財、ハンキ九二台で、毎時の輸送力は520人、料金ははじめ大人五〇円、子供三〇円、第二リフトは全長550m、リフト高低差二〇八舷、ハンキー〇五台、輸送力毎時五ー四人で、料金は大人七〇円、子供四〇円である。
 この運営は苫小牧市と千歲市とで、国設モラップ山スキー場運営協議会があたっている。

モ—ラップキャンプ場

 古くから樽前山に登山する人々の、キャンプ場として利用するものが多く、林野共済会の野営場、戦後米軍の水難訓練所などがあり、市営のキャンプ場の利用料金は
テント(五、六人用)一張三〇〇円一〇〇張。
セントラルロッヂ 一人一泊一五〇円 収容人員五〇人。
ロックケビン 一人一泊一五〇円 収容人員八人。
テント持参者 一人施設使用料 三〇円。
毛布一枚 四〇円(ロッヂ、ケビン利用者のみ)
開設期間 五月一日から十月末まで。
なお北海道百年の記念事業として、中モーラップに青少年研修センターを、四十三年から工事に着工している。

ポロピナイキャンプ場

 恵庭岳登山口にあるこのキャンプ場は、昭和三十六年に開設されたもので、登山者や姫鱒釣りの人々に利用されている。開設期間は六月一日から十月中旬までである。

遊覧船

 はじめは遊覧船などというものでなく、アイヌの人達の丸木舟があったに過ぎなかったが、湖畔で造材がはじまると船の必要が生ご、川口の鉄橋の向に水垣宇之助という、江戸ツ子の船大工がいたというから、すでに王子山林の出張所やその下請をした中村組、それに御料の分担区があって、それぞれ船を必要としていたことが知れる。お客があるとそれぞれの舟に帆をかけて湖上遊覧をしたという。大正四年頃のことで、大正八年に摂政宮がおいでのときには、屋形船をつくってそれで湖上を遊覧されたという。
 中村組がポロピナイから石を運ぶのに使っていた船を化粧して、遊覧船にしたこともあったというが、本格的に遊覧船をはじめたのは、大正十三年頃谷本亀が石油発動機をつけた船を入れた。この発動機は長都沼にあったのを持って来たともいい、機械船に馴れていないために、試運転をしてみたら後へ走り出したので「さるかに(ザリガニ)丸」などというニックネームをつけられたが、とにかく近代的な早い遊覧船が、支笏湖を走るようになつた。
 昭和七年支笏湖を訪れた斎藤茂吉は、モーターボートがないといって、みずうみの涯にかすかに見えにけるオコタンの湯は行きがてなくにとうたっている。しかし昭和十三年の第二次『経済更生計画書』の中に、昭和七年末の統計に四隻あり、
十二年末二六隻で「支笏湖の遊覧及曳船」とある。その内わけが明らかでないし、それには湖上筏を曳くものや、定期船もふくめたものと思われるが、谷本亀の遊覧船は五艘あったという。
戦中のことは明らかでないが、昭和二十五年版国鉄の『北海道案内』に 「材木を搬ぶ大筏が稀に湖上を往来し… …最近湖岸に金山開発せられ金鉱を運ぶモーターボートの音が時々四囲の静寂を破っているーとあり
光ノ
(湖は静寂な姿であった。戦後昭和二十六年の『町勢要覧』に支笏湖観交船組合の名が見え、組合長福永源次郎、副組合長高橋長助、理事に小林開三と小野寺寿、幹事貫田剛吉、福士永治の名が見える。そして白樺食堂の通船部というのが遊覧船、ボート、釣舟を、高橋貸ボート店にも観光船つばめ丸、遊覧カーボート、姫鱒釣舟、また山田貸ボート店ではカーボート、モーラップキャンプ場連絡船モーラップ丸などの名をかかげて、広告している。
昭和三十年の湖畔支所の『事務報告』によれば「観光船企業組合の発足と桟橋の統含」とあって従来、遊覧ボートの桟橋は櫛の歯の如く乱設されて、著しく湖畔の美観を害していましたが、厚生省係官の肝入りで貸船業者が合同し、首記組合として発足すると共に、桟橋も統合し併せてみやげ店、貸天幕等の事業も附帯させて行うことになりました。
これが三十三年になって支笏湖企業船組合となり、小野寺寿が会長で組合員ニ二名、ボートニ〇〇艇、遊覧船五艘であったが、三十六年に北炭の買収となって解散した。
現在あるものは支笏湖観光運輸株式会社で、三十六年の設立、ボートーー〇艇、快速艇四艇、遊覧船六艘で、初代社長は楫杜正太郎、現社長北崎忠次郎。こW一十七年に貢田剛吉等の、・ーホート一六〇艇、快速艇二艇の支笏湖ボートハウスと、貫田個人がー一十三年頃から経営している、ボートー五〇艇と、快速艇四艇もある。
温 泉
明治三十九年の『千歲外三ヶ村沿革史』によれば鶴ノ温泉、保老加温泉、八幡温泉ノミアリ何レモ効顕著シ
と あり、さらに
ー、保老加温泉
千歳村字ホ口カ、 ニアリ追分停車場ヨリ三十町冷泉ニシテ多量ノ塩分ヲ含有ス、胃腸病、ルーマチス、皮膚病二劾顕ア


ー、鶴ノ温泉
千歳村字ケヌフチ、 ニアリ追分停車場ヨリニ里微温湯ナリ、往昔草蒙ノ時代ニハ負傷シタル禽獣皆之ニ浴シ治療ヲ取リ

シト云フ、脚気、ルーマチス、切創二効験アリ
ー、八幡ノ温泉
千歳村字ケヌフチ、ニアリ冷泉ナリ、婦人血ノ道等二特効アリ
とある。
信田温泉

信田温泉

 かつての八幡温泉で、古老の話によると明治三十五年頃、小林某という人がいて、部落の者が燃料を出し合ってやらしていたが、大正八年に信田善吉がこれを買受け、造材業のかたわら宿屋を兼ね、信田温泉と改称して今日に至っている。札幌北辰病院長であった、関場不二彦博士の効能書によれば
ー、乾癬
二、発汗過多
三、慢性奪麻疹
四、脂溢症
五、線病性皮膚病
亠ハ、急性発疹症ノ恢復期
七、慢性湿疹
ハ、鮮膚疹
九、其ノ他諸病
とあり、 一般は皮膚病、火傷に効くといっている。

松原温泉

 保呂加温泉といったぬるい温泉で、二十六年に千歲に開拓に入った、明石豊吉が病気になり、「ホ口カ二鉱泉湯アルヲ聞キ早速之ヲ買受ケ湯治スルニ固執ノ病気モ日毎二快癒シ建康ヲ快復セリ」
(『三村銘鑑録』)
とあるが、 一般に神経痛、リューマチにきくといわれている。分析書によると
ー、本鉱泉八食塩泉ナルヲ以テ内用外用共二効アリ内用センニハー日三回七十瓦乃至百五十瓦タルベシ而シテ其効トスル所ハ消化不良、慢性腸胃加答児、慢性潰瘍、常習便秘、痔核、腺習病性ノ疾患、水脈腺ノ腫脹、慢性気管支加答児、肋膜滲出物ノ永ク消散セサルモノ
二、之レヲ浴用トナスベキハ主トシテ皮膚諸患ニアリトス即チ乾癬、発汗過多、脂溢症、慢性奪麻疹、腺病性ノ皮膚病、•急性発疹症ノ恢復期、慢性湿疹、鱗膚疹等ナリ右分訴八現北辰病院長関場博士ノ証明ナリ
 とある。

丸駒温泉

「本温泉八佐々木初太郎氏ノ経営二係リ大正五年以来人跡未踏ノ地ヲ開発純真質実ノ経営二依り探勝ノ士ヲシテ真二之ノ仙境ヲ愛デシム」(昭和十年刊『三村銘鑑録』)とあり、さらに支笏湖温泉(通称丸駒温泉)ハ支笏湖千歳川口ノ対岸恵庭山麓二存シ山水明眉原始ノ儘ノ仙境ニシテ特ニ夕景紺碧、ノ湖面恵庭山ノ偉容倒映スルヲ浴槽二展望スルノ時心身脱落恍忽トシテ脱塵ノ三昧境ヲ彷徨ス又初夏ヨリ中秋二至ル間支笏湖ノ特産姫鱒ヲ釣魚此ノ発涮タル生魚ヲ食卓二供ス其ノ佳味言語二絶ス冬期八稍々不便ナルモ春ヨリ晚秋二至ル間八交通便遊覧探勝ノ地トシテ適ス
 この文章の「恵庭山ノ偉容倒映スルヲ浴槽二展望スル」は、樽前の間違いと思われる、泉質は硫黄泉で「神経痛、胃腸病、リウマチス等に効く」(札幌鉄道局刊『北海道案内』)昭和四十年湖畔の有料道路ができるまで、発動機にたよるだけだったため、多少の不便がなくはなかったが、それだけに幽邃な原始境であった。
 ここは明治の末年に恵庭の人で丸駒という人が、漁川をさかのぼって、イチャンコッペから湧壺を通り、七曲と呼ばれたところから湖畔におりて、物資を駄送した。それを佐々木初太郎が大正四年二月(『三村銘鑑録』に大正五年とある)
に譲受けたもので、物資も客も舟にたよるよりなかった。支笏湖は不凍湖であるからその点便利であるが、逆に湖が凍結すると物資も客も止ってしまった。昭和十五年に結氷したときには、米噌を手橇で運び、金カンジキを履いて客を運んだという。ーー十八年二月にもーー、三日氷がはったことがあった。
 丸駒地区には伊藤温泉ホテルというのもある。

オコタン温泉

 オコタン国有林苫小牧事業区148林班に、支笏湖グランドホテルができたのは、昭和36年の夏であった。ここの温泉はこの年7月27日に、北海道立衛生研究所の多賀光彦によって分析された。
源泉状態ボーリング 泉温摂氏三〇度 湧出量一分間六〇㍑ 性状無色透明異臭味なし 水素イオン 濃度6.2(硝子電極)比重ー、〇〇二(二〇℃)触媒作用ベンチゲン反応陰性 フエノールフタリン反応陰性 蒸発残留物(1kg中)〇・九四六塲
泉質単純温泉(緩和性低張微温泉)浴用適応症慢性関節リウマチ、慢性筋肉リウー、チ、神経痛、神経炎、疲労恢復、骨及び関節等の運動機能障害、外傷性障害の後療法
禁忌症心臓病の代償機能不全、高度の動脈硬化症、高血圧、興奮型の神経症、急性皮膚病、悪性腫瘍
(癌及び肉腫等)、急性伝染病、肺結核

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