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新千歳市史 第4章 観光

目次

第1節 支笏湖

第1項 国立公園支笏湖

国立公園指定と公園計画


支笏洞爺国立公園指
 日本で国立公園の考え方が生まれたのは明治末期で、内務省は大正9 (1920)年の「史跡名勝天然記念物法」の施行を受けて、全国から16カ所の候補地を発表している。道内では阿寒、登別、大沼が候補地となったが支笏湖や洞爺湖は含まれなかった。このため千歳村では13年6月、国に「千歳村一村を国立公園に」という請願を行っている。さらに同年、文化
2 (1805)年に「支笏(シコツ)が 『死骨』に通じて不吉と『千歳』に改称」した故事から支笏湖」を 「千歳湖」に改称することを求める地名改正上申書も出したが採択はされなかった。大正年以降、支笏湖や洞爺湖、定山渓などを対象とした国立公園設置の請願、建議が帝国議会に何度も出されているがいずれも見送られている。
 昭和9(1934)年3月に瀬戸内海、雲仙、霧島、同年12月に阿寒、大雪山、日光、中部山岳、阿蘇が国立公園に指定されている。このため千歳村では11年10月の第34回陸軍特別大演習を機会に多くの人たちが支笏湖を訪れたことから、同年11月16日に「道立公園」への指定を陳情したが、これも実現しなかった。
 戦後、運動が再び盛り上がったのは21年、定山渓温泉がある豊平町が千歳、広島、手稲、恵庭、幌別、洞爺、虻田、京極、留寿都、喜茂別、豊浦の各町村に呼びかけ「道南国立公園指定促進期成会」を発足させた。『市史』によると、設立総会の席上「道南国立公園では適当でないからと、満場一致で『北海道国立公園』」として衆議院に請願書を提出。これが認められ、当時所管していた厚生省の調査が国鉄胆振線沿線と洞爺湖で行われた。
国立公園の名称については、『市史』によると、一任された厚生省が「洞爺」としたが、その後同省から「支笏洞爺」にしてはどうかとの問い合わせが期成会にあり再び名称議論となったが、当時の山崎友吉千歳町長が「どうです支笏洞爺にしては」と発言して決定したという。
 指定運動の背景には、自然保護というより国立公園による国際観光、外貨獲得に期待がかけられたことがあった。当時日本を占領していた連合国もこの方針に好意的で連合国軍最高司令官総司令部( G H Q )の調査も行われている。『支笏洞爺国立公園指定50周年記念誌』によると、23年6月に米国内務省国立公園局から派遣されたチャールス・リッチーが各地の国立公園や候補地を視察して国立公園行政の基本指針となる「リッチー覚書」を日本政府に勧告した。その中で支笏洞爺について「日本の国立公園候補地の中で恐らく最も重要なもの」として、「次の国立公園に指定すること」と全国でただ1カ所だけを明記している。ただし、「指定に当たっては洞爺湖および定山渓地域の私有地および開拓地は、国立公園としてはあまりにも産業化しているため、これを除外し、洞爺湖は望ましい二、三の湖岸地域と島を編入すべきである」と厳しい注文をつけている。一方、支笏湖についての評価は高く「湖周辺を広範囲に公園区域に」としている。
 23年12月には国立公園指定が内定し、正式な指定はGHQの許可を待って行われた。24年5月8日付の『北海道新聞』には「厚生省では支笏洞爺地区の国立公園指定について総司令部に上申中であったが7日総司令部から正式に許可する旨通知があった」と載っている。5月16日付の厚生省告示第84号で「支笏洞爺国立公園」が指定告示され、国内14番目の国立公園が誕生した。指定記念式典は7月26日に札幌市公民館で催された。引き続き出席者は支笏湖、次いで洞爺湖へ移動して、それぞれ式典が行われている。
新たに誕生した支笏洞爺国立公園は支笏湖、洞爺湖、登別、定山渓の各地区と樽前山、有珠山、昭和新山の3活火山で構成され当初総面積は約9万8332む。現在は約9万8660むで、そのうち支笏湖地区は約2万^98340公園計画国立公園指定は行われたものの、公園管理の基本となる公園計画が示されたのは昭和27年10月になってからだった。
最初に示されたのは湖畔集団施設地区( S32 •10 • 1区域指定)の一般計画で、千歳川左岸は現在の商店街(売店区)の東側に隣接する駐車場周は売店などの移転がほぼ終了している。辺を公共施設区として、、売
店区の北側を宿舎区(旅館

図4-1 昭和32年指定の湖畔集団施設地区計画図(S33頃
『国立公園支笏洞爺千歳市支笏湖案内図』より)
地区
)
、さらにその北側を住宅区、駐車場の道路を挟んで東側を野営場区、売店区の南側と千歳川左岸と湖岸一帯を園地。千歳川右岸は東部を自然植物園、湖岸に面した西部は展望園地と位置付けている。厚生省は公園計画を示した翌年の28年4月に、それまで北海道に委託していた管理を直接行うため国立公園管理員(現・環境省自然保護官。レンジャー)1人を配置した。翌29
年には湖畔集団施設地区の大半が農林省(林野庁)から所管替えされたことを受けて、国立公園管理員が1人増員され2人体制となった。29年9月には特別保護地区、特別地区、単独施設区、道路、歩道、埠頭桟橋の指定が次のように行われた。•

特別保護地区(現状の姿を将来に残す)リオコタンペ湖地区( 7 9 0む)と樽前山地区(85粉)。特別地区(特別な事情がない限り現状のまま維持する)”
漁岳


  • オコタンペ地区(2538む)、湖畔地区( 2万115む)、美笛地区(493n)。
  • 単独施設区
  • (地区ごとに設置する)
  • H
  • オコタンペ湖(休憩舎)
  • 、恵庭岳
  • (避難小屋)
  • 、ポロピナイ
  • (休憩舎)
  • 、丸駒温泉
  • (休憩舎、簡易宿舎、桟橋)
  • オコタンペ河口
  • (宿舎、野営場、桟橋)
  • 、美笛
  • (休憩舎)
  • 、モラップ
  • (野営場、広場、桟橋)
  • 、樽前山(避難小屋)
  • 道 路(車道)
  • H
  • 中山峠美笛線(豊平町—美笛)、石切山ポロピナイ線(恵庭岳—ポロピナイ)、支笏湖周遊線(苫小牧市丸山—モラップ—美笛—丸駒—ポロピナイ)、千歳湖畔線(千歳町分岐—湖畔)、苫小牧湖畔線(苫小牧市丸山—分岐)
  • 道 路(歩道)
  • H
  • 豊平峡支笏湖線(豊平町—オコタンペ河口)、恵庭岳登山
  • 線(ポロピナイー恵庭岳山頂—オコタンペ湖)、ポロピナイモラツプ線(ポ口ピナイ—湖畔—モラップ)、樽前山登山線(苫小牧市樽前覚生川上流—樽前山頂〇

埠頭桟橋
n
湖畔、ポロピナイ、美笛。
王子倶楽部別邸と翠明閣湖畔集団施設地区の一般計画が示されたことで、湖岸や千歳川河岸の売店のほか交番、郵便局など公的施設の移設、湖岸に並んでいた遊覧船やボートの桟橋の統合も行われた。
32年ごろまでには売店などの移転がほぼ終了している。
辺を公共施設区として、売店区の北側を宿舎区(旅館

図4-1 昭和32年指定の湖畔集団施設地区計画図(S33頃『国立公園支笏洞爺千歳市支笏湖案内図』より)
地区
)
、さらにその北側を住宅区、駐車場の道路を挟んで東側を野営場区、売店区の南側と千歳川左岸と湖岸一帯を園地。千歳川右は東部を自然植物園、湖岸に面した西部は展望園地と位置付けている。厚生省は公園計画を示した翌年の28年4月に、それまで北海道に委託していた管理を直接行うため国立公園管理員この中で、園地とされた区域にあった王子製紙㈱苫小牧工場の倶楽部別邸(支笏湖倶楽部•別邸)、翠明閣(現 ・レイクサイドヴィラ翠明閣)など同社関連施設の扱いについては、厚生省、道、同社による協議が行われた。別邸は大正7 (1918)年に支笏湖訪問を計画してk
た閑院宮同妃若宮殿下を迎えるために5年に建設した当時北海道一と言われた総檜造りの貴賓館で、同殿下をはじめ昭和20 (1945)年8月の清宮貴子内親王まで、皇族が19回利用している(詳細は後述)。翠明閣は、王子製紙と菱中興業の山林関係者と来遊者用の旅館として大正7年から営業を行っていた。
協議の結果、別邸は「天皇陛下御宿所の記念館として永久に保存する」。
翠明閣については「建物が自然倒壊の状態になるまでは、現在地に存置旅館営業を行うことを認める」。そのほか千歳川呑口付近にある施設、住宅などは移設することなどが了解されている。
集団施設地区

集団施設地区は昭和32年10月1日に区域指定が行われた後、49年10月7日に区域変更と詳細計画が決定されている。
対象は湖畔地区約41

(環境庁所管地約26・5む)とモラップ地区約む(同約5む)で、その基本方針は
①支笏湖畔地区とモラップ地区を一体化し支笏湖畔探勝の基地として計画する
②支笏湖畔地区のうち千歳川左岸一帯は環境の美化に重点を置いて計画するとともに、当該地の過剰利用を分散するため千歳川右岸地区への導入をはかる③千歳川右岸地区は園地利用に重点を置いて計画するとともに国民休暇村として整備し健全且つ教化的な利用の促進をはかる④モラップ地区はその優れた自然環境の維持に留意し、既存野営場を中心にその整備充実をはかる。なお、本地区は湖畔探勝ルー卜上の休憩地として園地的利用を考慮する⑤本地区の諸施設から排出される汚水を処理するため集中下水道及び終末処理場の453整備をはかる——の5項目。
その地割方針は
①湖畔地区の中央を通る道道支笏湖洞爺線(現・国道号)に沿って整備された駐車場を中心とする一帯を公共施設区とし、
同地区の管理運営の中枢とする
②旅館、ホテル、寮、保養所等からなる一帯はその環境を維持し、湖畔景観との調和を図るため、各施設の種別に応じ第
1宿舎区、特別宿舎区(現•支笏湖市民センタ—一帯)、住宅区に地割し、施設の新増設を抑制するよう計画する
③千歳川左岸及びこれにつながる湖畔一帯は園地区とし湖畔の自然環境を維持するとともに休憩散策及び舟遊びの場とする
④千歳川右岸は、その大部分を園地区とし、台地上部の平坦な疎林地に小規模な公共施設区及び第2宿舎区を設け、旧林道跡を活用して本地域への到達道路を計画する
⑤地区東部の傾斜地は、その森林景観を保護するため修景地区とする
⑥モラップ地区は野営場区とし、主にテント野営場を計画する——とされた。
各区の主な整備方針は、

公共施設区
H
玄関口として施設周辺の環境美化に努める。千歳川右岸と左岸を連絡するため橋梁を架設して右岸台地への到達道を設ける。千歳川左岸駐車場西側に博物展示施設(現•支笏湖ビジタ—センタ—、S55開設)を設ける。
第1宿舎区(千歳川左岸の旅館ホテル地区)
H
宿舎の新設は計画しない。

本地区の収容力は1000人を限度とする。
第2宿舎区(千歳川右岸台地上)
H
低廉かつ健全な宿泊施設1棟(現・休暇村支笏湖、S52開村)を計画。収容力は250人以内とする。
園地区
n
湖畔および千歳川河岸の環境を維持するために不用な建築物は撤去するとともに植栽工等により積極的な美化を図る。既存の翠明閣は今後改築に際しては休憩所にするよう指導する。千歳川右岸は東部を自然植物園、湖畔に面した西部を展望園地とする。
特別宿舎区
H
寮、保養所の新設は許可しない。
売店区
H
既存の食堂、売店兼休憩所等を整理統合し環境の美化に努める。

野営場区
H
野営地の整備充実を図るとともに駐車場を中心に一帯を園地として利用できるよう広場、駐車場等を整備する。既存の売店は新設駐車場の西側に移設し、跡地を芝生広場として整備する。なお、各区の整備方針の中で、増改築を含む建物の高さを13財以下、勾配屋根としている。
公園計画見直し
環境庁は昭和51年、支笏洞爺国立公園全域の公園計画見直しに着手した。これまでは集団施設地区や道路、施設など個別の変更を行ってきた。今回は利用の増加、多様化を受けての全面的な見直しだったが、54年に羊蹄山地域の再検討が終了しただけでその後の作業は遅れ、支笏湖集団施設地区についての区域変更と詳細計画が示されたのは平成7年( 1 9 9 5 )年8月。新たな公園管理計画(改訂)が公示されたのは8年3月だった。
公園管理計画では、支笏湖一帯の公園管理の現況について「風致景観の維持を図るため、公園指定以来、関係機関の協力のもとに高さ、デザイン、材料、色などに配慮した施設作りが進められてきており、国立公園の一つのモデル地域となっている」として、国立公園指定以来続く基本方針を維持していくことを強調。特にホテルなどの建築物については「勾配屋根、高さ13m以下、屋根及び外壁の色彩は屋根が赤褐色又はこげ茶系、外壁は白、灰色系などの中間色」と従来通りの方針を明記している。

スノーモビルと動力船規制

 公園計画の見直しが進められていた平成2)199(0年12月、環境庁は自然環境保全法の一部改正を行って全国10国立公園の15地域でスノーモビルの乗り入れ規制を実施した。車馬等の乗り入れ規制で、支笏湖地区では支笏湖南岸のモラップから美笛間と樽前山、風不死岳を含む約5600nが規制地域となつた。
スノーモビルに次いで問題となったのは昭和60年代から急増した水上オートバイなどレジャー用小型船舶(プレジャーボート〇水質悪化をはじめ水生植物の荒廃、騒音、ごみなどの問題が年々深刻化し、平成2年に市、環境庁など13機関•団体が「支笏湖におけるプレジャーボート問題等対策会議」を立ち上げて対策に乗り出したが、法律や条例などが絡み実効性のある規制は関係機関の調整が進まずに難航した。このため環境庁は18年2月に車馬等の乗り入れ規制地区(樽前山地区)に支笏湖湖面78
76むを加える公園計画の変更を行い、旅客遊覧船、漁船、河川管理船、公園事業使用船など規制適用除外船以外の利用を規制した。この中で、特例としてヒメマス解禁期間中( 6月8月)の承認されたボート事業者預かり船、貸し船、持ち帰り船が承認されている。
次に公園管理計画が改訂されたのは22年4月で、支笏洞爺国立公園の将来目標を多様な火山景観の維持と生物多様性の確保、自然景観と温泉を楽しめる保養地、地域に応じた適正な利用により快適な利用環境の確立、環境に配慮した公園利用の推進、多様な主体の参画による公園管理とした。
支笏湖地区では国立公園指定当初からの方針どおり開発行為による改変の抑制を第一に挙げ、さらに人為的に改変された植生の復元対策と外来種対策、環境学習の場、環境配慮型施設の導入とリピート型。滞在型観光の施策への導入検討、パークボランティアやNPOなど多様な主体との連携を掲げている。
支笏洞爺国立公園指定50周年記念フォーラム支笏洞爺国立公園指定50周年を祝う事業は平成10 (1998)年、環境庁が道内の小中学校に呼びかけた「支笏洞爺スタンプデザインコンクール」の募集から始められた。同公園内50カ所の景勝地を指定して50種類のスタンプを作製し、同公園内を巡るスタンプラリーを行う事業。道内96校から1577点の応募があり、グランプリに登別市立富岸小学校5年久保美沙希の「登別マリンパーク」、準グランプリには千歳市立支笏湖小学校5年佐々木靖治の「オコタンペ湖”漁岳」、虻田町(現•洞爺湖町)虻田中学1131校3年真屋和可子の「洞爺湖温泉から見た洞爺湖」などが選ばれた。スタンプ作製は優秀賞以上の作品で、千歳市内からは佐々木のほか小学生3人、中学生6人が選ばれている。
年3月26日、関係16市町村による記念事業実施団体として「支笏洞爺国立公園連絡協議会」の設立総会が札幌市内で開かれ、会長に東川孝千歳市長を互選し、記念事業の基本テーマを「神秘の歴史、透明な未来」と設定した。記念式典となる「50周年記念フォーラム」を支笏湖湖水まつり開催と合わせた7月10日に支笏湖温泉で開催するほか、小中学生から募集したスタンプデザインにょる 「支笏洞爺スタンプラリ—一( 8月1日10月日)、記念誌発行等の実施が決められた。また、支笏湖や洞爺湖など地区ごとの記念行事実施も確認された。4月には樽前山と支笏湖、遠方に雪を5抱いた羊蹄山が写った航空写真を使ったPRポスタ—が完成した。月には各地区の記念事業計画が出そろった。支笏湖地区では「指定50周年記念事業支笏湖実行委員会」( 4月12日設立)の主催で記念祝賀会のほか樽前山クリーン作戦( 6月、主催苫小牧市)、樽前山山開き登山(同同)、子どもパークレンジャー( 7月12年2月、環境庁)、ふるさと自然探検隊INちとせ( 8月、同実行委員会)、自然歩道を歩こう会(10月、環境22庁ほか)で、各地区の個別事業は合わせて33事業となった。メーン行事が開催される支笏湖温泉街では、7月に入ると山と湖をデザインした支笏洞爺国立公園のシンボルマーク入りの歓迎旗(縦60见ン、横45芒)と横断幕が設置され、式典ムードを盛り上げた。支笏湖温泉の特設会場で開かれた記念フォーラム開会式では、主催者を代表して東川孝会長があいさつ、鹿野久男環境庁長官官房審議官が祝辞を述べ、支笏洞爺スタンプデザインコンクールの表彰式が行われた。
記念フォーラムは2部構成で、第1部では作家でナチュラリストの「ムツゴロウ」こと畑正憲が「ムツゴロウ大いに語る」と題して基調講演。第部は「ムツゴロウと16人の子供たち」と題して、支笏湖小学校5年の佐々木靖治ら関係16市町村の小中学生16人とともに国立公園の未来について語り合った。フォーラムの様子を伝える『千歳民報』などによると、第1部の基調講演で畑が「日本の自然保護の欠点はガイドをつけない、監視システムがない、お金がない—の3点」、「頭や心を使って一生懸命考える人がいなければ、自然は保てない」などと管理体制整備の必要性を説kた 第部では、畑が子どもたちと意見を交わしながら自然を学ぶための実体験1202の必要性を強調した。また、10月31日に締め切られた「支笏洞爺スタンプラリー」は全国から人の応募があり、このうち50カ所のスタンプ全てを集めたのは152人、30カ所以上は425人、10カ所以上は625A った。
ユースホステル「赤い三角屋根」昭和30T955) 年1月、北海道ユースホステル協会が他の都府県協会に先駆けて設立され、全国のモデルケースとなることが期待された。同年3月には同協会の常任理事会において道内5施設がユースホステルとして決定され、その中に支笏湖地区から丸駒温泉旅館が認定されている。収容人数は50人、宿泊料金?50円(朝夕食の米持参で300円)であった。
29年、現在のユースホステルの場所にあった支笏湖小学校が新築移転し、旧校舎の払い下げを受けて改装、30年に国内初のユースホステル専用の支笏湖ホステルとして開業した。
2つの教室を男女別の寝室に分けて畳を敷き、廊下と水飲み場を洗面所と炊事場、教職員室を管理人室に改造した。
風呂は釜の下から直接火を焚く五右衛門風呂。
30組の布団、炊事用具を整えると総費用は60万円となり不足分は募金で集めたという。開業当時のぺアレント(ユースホステルの管理人)は、後にペアレントとなる吉川悦子の両親である木本夫妻であった。
その後、北海道を代表する建築家。田上義也の設計により全国競輪施行者協議会からの補助を受けて全面改築され、35年7月、支笏湖の自然環境に調和した欧州風のモダンな建物「赤い三角屋根」が完成し、日本ユースホステル協会直営第1号のユースホステルとなった。木造2階建、延べ床面積598• 03平方 打。建物の平面は十字体系で、出入口側はピラミッドのような三角の顔、急勾配の屋根が地面まで伸びている。オープン1年後の『北海道新聞』( S36 • 7 “22 )では「一年間の利用者は九千人に達し、ハ割が女性、外人の利用も相当あり、ドイツ人、アメリカ人、ポルトガル人などーー百人あまりが訪れた」と報じられた。42年7月には宿泊施設が増築され収容人数は150人から25OAとなつた。
 国内のユースホステル利用者は昭和40年代中頃から50年代初めにピークを迎え、支笏湖ユースホステルも46
年から49年には年間宿泊者数が2万人を超えた。しかし近年は利用制約や宿泊形態の多様化などから徐々に宿泊客は減少し、平成)(51993年Sには1万人台を割り16年度は2OOOA台と¢4-1 発足当時の支笏湖ホステル。左右が木本ペアレン卜夫妻(北海道ユースホステル協会提供)。なった。日本ユースホステル協会は運営を直轄から委託へと移行し、支笏湖ユースホステルも16年度から地元のNPO法人支笏湖まちづくり機構Neoステージに運営を委託されたが、宿泊客の減少が続き19年3月に撤退した。昭和46年から61年まで初代ペアレントである両親の後を引き継いだ吉川悦子は、「赤い三角屋根」の存続を願い、平成19年4月、21年ぶりに再びペアレントとなった。

国民休暇村

 高度成長期( S 3〇48 )を迎え、自然の中での余暇を楽しむ国民の増加を受けて当時国立公園を所管していた厚生省は、自然公園などそれまでの温泉旅行とは違う低廉で清潔な宿泊施設を中心とした上質な利用施設を整備する「国民休暇村構想」を計画。昭和36 (1961)年12月にM国民休暇村協会(現•休暇村協会)を設立して、翌年7月には第1号となる近江八幡国民休暇村(滋賀県)を開設して構想の推進を図った。千歳市では、この第1期整備計画当初から支笏湖。幌美内地区を候補地として誘致活動を展開したがかなわなかった。ところが、40年代のレジャーブームで休暇村利用者が急増したため、46年に厚生省から国立公園の所管を引き継いだ環境庁が、47年から施設数を倍増する第2期整備を推進した。道は支笏湖畔(現•支笏湖温泉地区)と大雪ダム周辺を候補地として同庁に調査を申請。これを契機に千歳市は再び誘致活動を強化した。
道では支笏湖畔を有力とし、中モラップを中心として支笏湖畔からモラップに至る地域での計画策定を進めたが、環境庁所管地は支笏湖畔とモラップのみで残りは林野庁所管地だった。国民休暇村は、宿泊施設にスキー場や野営場などを加味した総合的な保健休養施設とされるが、同庁所管地内にあるのはモーラツプ野営場のみで、そのほかの施設展開ができるのはスキー場がある林野庁所管地の中モラップ地区だけだった。このため、
道では用地交渉を進めたが、林野庁では対象地の所管替え(買収)を主張して難航した。用地交渉が進展しないため、道は規模を縮小して支笏湖畔の千歳川右岸のみで計画を策定。環境庁の自然環境保全審議会による承認を得て48年9月の着工を予定したが、オイルショツクによる原油価格高騰に対処する国の石油緊急対策(総需要抑制策
)で予算が凍結されて延期となった。同審議会の承認は予定より一年遅れた50年5月となった。
工事は同年12月に湖畔の温泉街から千歳川を渡って宿舎建設地までの連絡橋(湖畔橋)と連絡道路建設から着手。宿舎の起工式は翌51年9月27日に行われた。合わせて園地と園路、駐車場の整備も進められた。
 全国で28番目の「支笏湖畔国民休暇村」の開業は52年9月19日。鉄筋コンクリート造り一部3階建て、延べ床面積は2777平方打。和室36室、1OOA収容会議室1室、150人収容宴会場1室、収容人員150人。支笏湖畔で開業より2年前に掘削された温泉も引かれた。工費は付帯工事947も含め3意6000万円。月に開業したため同年度の宿泊利用者数は4283人だったが、翌53年®は1万3305X0平成2 (1990)年度には2万429Aとなった。
11年には大規模な改修工事が行われ、増加傾向にあった個人客に対応するため36室の和室を12室にして洋室を
27室としたほか身障者向け設備も備えられた。リニューアルオープンは翌12年4月27日だった。国民休暇村は自然に親しむ施設を一体として設置が進められており、休暇村宿舎完成前の昭和51年5月7日に「支笏湖野鳥の森」がオープンした。
野鳥の森は、環境庁が国有林を利用して野鳥保護の思想を普及させようと年度から整備が始められた。支笏湖は道内2力所目の整備で、中モラップから休暇村までの約100むの林内に幅1打、長さ1544mの野鳥観察路と野鳥観察舎などが設けられた。野鳥観察路は、厚生省が41年度に整備済みの自然研究路と組み合わされモーラツプ野営場まで行けるようになっている。休暇村誘致の条件となっていた千歳市営モーラップ野営場の管理運営受託の実現は平成5年になってからだった。
なお、8年4月には施設名を「支笏湖畔国民休暇村」から「支笏湖畔休暇村」に、11年4月には「休暇村支笏湖」に改称した。
註( 1 )「モーラップ」とは千歳市の字名「モラップ」の通称であり本稿ではモラップを原則とするが、 一部引用-®分と固有名詞などは併記する。王子製紙苫小牧工場倶楽部別邸王子製紙㈱苫小牧工場は明治43 (1910)年9
月に操業を開始した。1年後の44年9月12日に皇太子(後の大正天皇)が工場を視察された(後に視察日を苫小牧工場操業記念日とする。この時の迎賓施設が工場正門前の「倶楽部」であった。当時、苫小牧を訪れた皇族は支笏湖を訪れるのが常であったが湖畔(現•支笏湖温泉地区)には迎賓のための施設は未だなかった。
大正7 ( 1 9 1 8 )年に閑院宮載仁親王の来道が予定され、その御泊所として湖畔に建設されたのが総檜造りの豪奢な倶楽部支笏湖別邸(別邸)で5年に完成した。場所は現在の集団施設地区湖側の中央広場であった。別邸完成の2年後、7年8月25日に閑院宮、同妃、若宮殿下が宿泊されている。別邸は11年7月に皇太子(後の昭和天皇)が摂政として支笏湖に行啓した際に御休所として利用された。この時、工場では専用鉄道(山線)の客車を貴賓車に改造して湖畔までの交通の便とした。閑院宮載仁親王から昭和)20 (1945年8月の清宮貴子内親王(昭和天皇第五皇女»島津貴子)まで戦前戦中において19回にわたって皇族の宿泊があった。
湖畔では27年に国立公園支笏湖の集団施設地区が計画され、29年( S32説あり)には区域が指定された。結果、別邸は商店街に隣接となり静けさを保ちづらい面がでてきた。このため、「支笏湖畔モーラツプ山麓」で36
年に開催される第12回植樹行事並びに国土緑化大会(全国植樹祭)のため昭和天皇、香淳皇后が来道、宿泊されるのを機会にシリセツナイ川の右岸、水産庁北海道さけ。ますふ化場千歳支場支笏湖事業所上手の高台である現在地に移築することとした。35年8月から敷地の整地に取りかかり、その年のうちに移築と約160平方打の離れ座敷を増築し別邸は1〇〇〇平方打ほどの広さとなった。増築部分は本道産のトドマツ、アカマツの板壁で山荘風の優美な建物でありイタヤカエデ、クリ、ナラの林に囲まれていた。
昭和天皇と香淳皇后は全国植樹祭御臨席のため36年5月23、24日の両日、新築なった離れに宿泊し昭和天皇は別邸を詠まれた。
御製
湖をわたりくる風はさむけれどかへでの若葉うつくしき宿
また、北海道百年記念祝典御臨席で43年8月31日にも宿泊され、翌日は千歳駅から御召列車で札幌に向かった。
今上天皇は皇太子殿下として49年8月4日から6日まで別邸に滞在、千歳原における第6回日本ジャンボリーに御臨席された。また、62年9月の第11回全国育樹祭の折にも妃殿下とともに小憩された。

支笏湖ビジターセンター


支笏湖ビジタ—センタ—は、環境庁が支笏洞爺国立公園支笏湖地区利用者への自然や人文紹介、自然保護思想の高揚を図る中心施設として昭和55)198(0年5月1日に開設した。阿寒国立公園に次ぐ道内2番目の施設で、事業費は約6900万円。環境庁が建物、千歳市が展示物をそれぞれ負担している。
開設当初の名称は「支笏湖自然科学館」だったが、開設翌年8月に出された同庁の「博物展示施設(ビジタ—センタ—)整備基本計画作成要領」と 「同手引き」で、「利用者に理解され易いように『地区名ビジタ—センタ—』という名称を用いる」としたことを受けて、現在の名称「支笏湖ビジタ—センタ—」に改称された。
自然科学館の建物は、鉄筋コンクリート造り、平屋建て床面積398096平方打。その規模について、前出の手引きで「標準規模を四百平方打」としており、ごく標準的な施設が建てられたことになる。
展示は大きく5部門に分かれ、エントランスホールの第1部門では支笏湖地区全体をパネルなどで紹介、第2部門はヒメマスの歴史や生態などを紹介する「湖のいきもの」コーナー、第3部門は支笏湖カルデラの誕生や樽前山溶岩円頂丘(ドーム)の生成過程などをジオラマや岩石標本などで紹介する「支笏カルデラ」コーナー。第4部門「支笏の森」は森の動植物や苔の洞門などを紹介。第5部門にあたるレクチャールーム(54席)には、支笏湖の四季をスライド上映する35ミリ2面マルチスライドなどの視聴覚機器を備えた。開館時間は午前9時30分〜午後4
時30分(通年〇施設管理は、自然公園内の美化清掃および利用施設の維持管理を目的として54年6月に設立された環境庁所管の财自然公園美化管理財団(現•自然公園財団)が、同年7月1日に支笏湖支部を開設して受託。その事業費の一部として同年7月25日から支笏湖畔(現 。支笏湖温泉)

駐車場有料化が実施され、利用者から料金(協力金)を徴収している。
環境庁は、公園利用者の増大に伴うゴミ処理などの費用について、当初は入園料などによる一部負担を検討したものの、公園施設の利用に際しての負担の方が実情になじみ国民の理解が得られやすいとして、当面「駐車場」と 「野営場」に特定して協力金を徴収する制度を設けた。
現在のビジターセンターは、環境省の支笏湖地区における自然公園核心地域総合整備事業(緑のダイヤモンド計画)の目玉事業として増改築( H)145”1507が行われ、平成15 ( 2 0 0 3 )年7月5日にリニューアルオープンした。木造一部鉄筋コンクリート造り、建築面積1203平方財、延べ床面積997平方打で、総事業費は6億7600万円。開館時間は、4月11月が午前9時〜午後5時30分、12月3月が午前9時30分200午後4時30分。年間利用者の推移は、開設5年後の昭和60年に100万人、平成2年に万人、22年には500万人と伸び、27年11月に600万人に達してい。
 参考文献
加治隆『自然公園における休暇村成立の意義と公園利用への効果に関する研究』2009年/休暇村協会『休暇村協会創立50周年記念誌』2012年/国立公園協会『2011自然公園の手引き』/支笏湖関連各種パンフレット/支笏洞爺国立公園指定50周年関連各種パンフレット/支笏洞爺国立公園連絡協議会『支笏洞爺国立公園指定50周年誌』
1999年/自然公園財団『自然公園財団事業報告』(2平成2426年度)、『新・美しい自然公園4支笏湖』、『パークガイド支笏湖』008年、『パークガイド・支笏洞爺国立公園、支笏湖』/高橋長助『国立公園支笏湖沿革史(草稿)』
1972年、『国立公園支笏洞爺千歳市支笏湖案内図』1958年ごろ/俵浩三『国立公園としての支笏湖と洞爺湖の発展過程の対照性』1987年/千歳市『千歳市史』1969年、『増補千歳市史』1983年/千歳観光協会『観光の千歳国立公園の支笏湖』1949年/千歳支笏湖保勝会 『観光地支笏湖案内支笏湖を行く』1947年/苫小牧市『苫小牧市史上巻』1975年、『苫小牧市史下巻』1976年/中村康文「湖畔の赤い三角屋根」『志古津』第6号千歳市2007年/日本自然保護協会『支笏湖の自然観察』1982年/日本ユースホステル協会『日本ユースホステル運動50年史』200
1年』/北海道ユースホステル協会『北海道ユースホステル運動20年史』1975年、『北海道ユースホステル運動
50年史』2005年/守屋憲治「千歳音頭と支笏湖」『志古津』第14号2011年、「支笏湖モラップ山麓における植樹祭」『志古津』第21号2015年/『千歳民報』/『苫小牧民報』/『北海道新聞』第2項支笏湖の自然ピスンモラップ山とキムンモラップ山・支笏湖温泉とモーラップ野営場間の湖岸に2つの山があり北側(支笏湖B皿泉側)に位置するのがキムンモラップ山( 4 7 8打)、南側に位置するのがピスンモラップ山( 5 0 6 0 4打〇ともに、新第三紀の鮮新世( 5 3 0万年前26〇万年前)後期から第四紀の更新世( 2 6 0万年前1• 2万年前)前期に起きたイチャンコッペ山溶岩、タップコップ山溶岩、モーラップ山溶岩などディサイトの火山活動の一環として形成された火山で支笏湖東側外輪山(カルデラ壁)を形成している。
山名について、長見義三は『ちとせ地名散歩』( 1976年)の中で、モラップを「モラ。プ(小さな・低い。もの)
」として、2つの小山が本来のモラップで、北側がキムンモラップ(山手のモラップ)、南側がピ240スンモラップ
(浜手のモラップ)と説明しているつの山はマグマが固まった安山岩でできており、モーラツプ野営場から支笏湖温泉の千歳川呑口までの湖岸や湖底には、安山岩が冷えるときに収縮して規則的な割れ目になった柱状節理が露出している。この岩は、明治年代の王子製紙千歳川第一発電所、昭和30年代の支笏湖グランドホテル(奥潭)などの建設資材に使われた。ピスンモラップ山が注目されたのは、国設モーラツプ山スキー場が開設された昭和38 ( 1 9 6 3 )年からで、それ以前は温泉街からモラッフ地区への歩道があった。41年に当時国立公園を所管する厚生省が温泉街とモラツプ野営場を結ぶ自然研究路約4キロを整備している。ピスンモラップ山の標高は三角点の5
06• 5折とされているが、実際の最高点は三角点の)13 (2001西側にある。スキー場開設で2つの山の間に位置する中モラップが注目され、44年12月には千歳市支笏湖青少年研修センタ—、49年10月には労働省所管支笏湖勤労青少年フレンドシップセンタ—が相次いで開所された。しかし平成年にスキー場が閉鎖されると、15年3月にフレンドシップセンター、17年3月に青少年研修センタ—が相次いで閉所されている。両センタ—はともに青少年を主な対象にした宿泊研修施設で、開設当初は多 のがピスンモラップ山( 5 0 6 0 4打〇ともに、新第三紀の鮮新世( 5 3 0万年前26〇万年前)後期から第四紀の更新世( 2 6 0万年前1• 2万年前)前期に起きたイチャンコッペ山溶岩、タップコップ山溶岩、モーラップ山溶岩などディサイトの火山活動の一環として形成された火山で支笏湖東側外輪山(カルデラ壁)を形成している。
山名について、長見義三は『ちとせ地名散歩』( 1976年)の中で、モラップを「モラ。プ(小さな・低い。もの
)」として、2つの小山が本来のモラップで、北側がキムンモラップ(山手のモラップ)、南側がピ240スンモラップ(浜手のモラップ)と説明している
つの山はマグマが固まった安山岩でできており、モーラツプ野営場から支笏湖温泉の千歳川呑口までの湖岸や湖底には、安山岩が冷えるときに収縮して規則的な割れ目になった柱状節理が露出している。この岩は、明治
年代の王子製紙千歳川第一発電所、昭和30年代の支笏湖グランドホテル(奥潭)などの建設資材に使われた。
ピスンモラップ山が注目されたのは、国設モーラツプ山スキー場が開設された昭和38 ( 1 9 6 3 )年からで、それ以前は温泉街からモラッフ地区への歩道があった。41年に当時国立公園を所管する厚生省が温泉街とモラツプ野営場を結ぶ自然研究路約4キロを整備している。ピスンモラップ山の標高は三角点の506• 5折とされているが、実際の最高点は三角点の)13 (2001西側にある。スキー場開設で2つの山の間に位置する中モラップが注目され、44年12月には千歳市支笏湖青少年研修センタ—、49年10月には労働省所管支笏湖勤労青少年フレンドシップセンタ—が相次いで開所された。しかし平成年にスキー場が閉鎖されると、15年3月にフレンドシップセンター、17年3月に青少年研修センタ—が相次いで閉所されている。両この眺望の良さを利用して27年に国家地方警察の無線中継所が設置された。この工事に使われたのが旧登山道。工事に雇われた支笏湖温泉の坂野春雄によると、登山道はシリセツナイ沢に沿って登り詰めて、頂上から南に延びる尾根に入ったという。
31年には山頂に一つの電波で多数の電話を同時に伝送できる超多重電話とテレビ中継のために日本縦断幹線マイクロ波回線中継の支笏湖無線中継所が建設された。この建設工事と保守管理のために造られた自動車用道路が現在の登山道になっている。42年夏までー般車両に開放されていた。旧登山道時代から、春から秋を中心に多くの登山者が訪れていた。29年6月26 •27日に開催された第1回支笏湖湖水祭りのイベントとして「紋別岳ハイキング」が行われている。また、33年には支笏湖スキー場が開設されている。前出の『北海道の山々』には「冬季、相当の積雪と適当なスロ—プにも恵まれているので、スキーを楽しむにも手ごろである」と紹介されており、スキー目的の入山も多かったようだ。支笏湖周辺の恵庭岳や風不死岳、樽前山については「登山」が使われるが、紋別岳だけは「ハイキング」が使われることが多いのは簡易舗装された自動車道を使うためだろうか。
登山者の増加を受けて千歳市、千歳市山岳遭難救助隊が登山口に登山者名簿を設置したのは平成16 ( 2 0 0 4 )
年8月になってからで、16年度の名簿記入者は3〇6人、18年度4 83人、23年度646人と1〇〇〇A以下が続いたが、26年度は一気に2358人に増加している。登山名簿記入者数が公表される同救助隊の総会を報じる『千歳民報』には、毎年のように 「名簿に記入しない登山者が多い」などの関係者コメントが載せられている。
くの利用があったものの、老朽化した施設の統合ができないまま利用目的の変化に対応できず利用者は減少していった。
キムンモラップ山の北側平地(河岸段丘)は、国立公園指定後「自然植物園」として天然林の中に遊歩道や小規模なステージが設けられていた。昭和48年に支笏湖畔国民休暇村の建設が決まると、この平地を中心に造成が行われて宿舎と園地になった。湖岸に面した西側約100むは、51年に「野鳥の森」として整備され前出の自然研究路と組み合わされた野鳥観察路や野鳥観察舎が設置された。

紋別岳

紋別岳( 8 6 5 0 6摸)は、新第三紀の鮮新世( 5 3 0万年前260万年前)後期から第四紀の更新世( 2 6 0万年前1• 2万年前)前期に起きたイチャンコッペ山溶岩、タップコップ山溶岩、モーラツプ山溶岩などディサイトの火山活動の一環として形成された火山で支笏湖の北東側外輪山(カルデラ壁)を形成している。
山名は、この山を源とする紋別川からきているとされ、「紋別(もんベつ)」はアイヌ語の「モペッHモベツ」が和人に伝えられる中で「モンベツ」に変化したと考えられている〇長見義三は『ちとせ地名散歩』T976年)の中で、知里真志保の『地名アイヌ語小事典』から「本流を親と考え、それに対して支流を『mo——』で表すことも多い。千歳川の支流モベツではなかろうか」としている。
山頂からの眺望は素晴らしく、昭和35 (1960)年に発行された札幌山岳クラブの『北海道の山々』で 「紋別岳は支笏湖の大展望台」、千歳市の 『要覧ちとせ』でも39年版から10年以上にわたって「北海道の5分の1の地域を一望に眺めることができる」と紹介している。 この眺望の良さを利用して27年に国家地方警察の無線中継所が設置された。この工事に使われたのが旧登山道。工事に雇われた支笏湖温泉の坂野春雄によると、登山道はシリセツナイ沢に沿って登り詰めて、頂上から南に延びる尾根に入ったという。
31年には山頂に一つの電波で多数の電話を同時に伝送できる超多重電話とテレビ中継のために日本縦断幹線マイクロ波回線中継の支笏湖無線中継所が建設された。この建設工事と保守管理のために造られた自動車用道路が現在の登山道になっている。42年夏までー般車両に開放されていた。
旧登山道時代から、春から秋を中心に多くの登山者が訪れていた。
29年6月26 •27日に開催された第1回支笏湖湖水祭りのイベントとして「紋別岳ハイキング」が行われている。また、33年には支笏湖スキー場が開設されている。前出の『北海道の山々』には「冬季、相当の積雪と適当なスロープにも恵まれているので、スキーを楽しむにも手ごろである」と紹介されており、スキー目的の入山も多かったようだ。支笏湖周辺の恵庭岳や風不死岳、樽前山については「登山」が使われるが、紋別岳だけは「ハイキング」が使われることが多いのは簡易舗装された自動車道を使うためだろうか。
登山者の増加を受けて千歳市、千歳市山岳遭難救助隊が登山口に登山者名簿を設置したのは平成16 ( 2 0 0 4 )
年8月になってからで、16年度の名簿記入者は3〇6人、18年度4 83人、23年度646人と1〇〇〇A以下が続いたが、26年度は一気に2358人に増加している。登山名簿記入者数が公表される同救助隊の総会を報じる『千歳民報』には、毎年のように 「名簿に記入しない登山者が多い」などの関係者コメントが載せられている。

風不死岳

 風不死岳( 1 102• 3財)は、支笏火山が噴火し支笏カルデラを形成した後に噴火した「後カルデラ火山」の風不死岳、恵庭岳、樽前山の3火山の中で最初に誕生した。その活動は約4万年前に始まった。これまでよく分からなかったが、平成1921 (200709 )年に北海道大学大学院理学研究科の中川光弘教授(火山学)らが風不死岳南西山麓の苔の洞門上流と白老町社台の地層や堆積物の調査の結果、約8500年前にマグマ水蒸気噴火、約4500年前に水蒸気噴火を起こしていることが分かった。気象庁の火山噴火予知連絡会は、活火山を過去1万年前以内に噴火した火山、現在活発な噴気活動がある火山と定義しており、中川教授らの研究結果を受けて23年6月に、これまでの樽前山を「樽前山・風不死岳」として、一つの活火山として認定した。
山名は、アイヌ語の「フツプ・ウシ(トドマツ・の群生するもの)」、「フプ ・ウシ」、「フプシヌプリ」が語源。群生するトドマツは昭和29 ( 1 9 5 4 )年9月の15号台風(洞爺丸台風)で大きな被害を受け、現在、その面影は22年に発行された千歳支笏湖保勝会の『観光地支笏湖案内支笏湖を行く』で、風不死岳は「支笏湖畔に聳立する急峻な円錐形の独立火山、現在全く死滅し浸食が進んでいるので火口も分からない」と紹介されている。
24年に千歳観光協会発行の『観光の千歳国立公園の支笏湖』には山名を「フプ(腫物)シ(大きな)H大きな腫物という意」としたうえで「山頂は眺望もよく、湖水を見下ろす眺めも一段とよく、高山植物も生育している」と、ともにわずかな紹介が載っているだけ。
風不死岳が一般の登山対象となったのは30年代に入ってからで、前出333の 『北海道の山々』で 「現在のところとくに登山コースというものはなく、踏跡も少ないから、中級以上の人に向くルートとして、南九三一財峰
(現•九三ーー峰H北山)から稜線伝いに北上するもの、湖側から大沢を遡行して頂上に達するもの、熊ノ沢。一ノ沢をたどるものなどがとれるが、とくに前二者がよい」と初めてルート解説を行っている。
この「前二者」については、30年10月に設立された苫小牧山岳会が33年に大沢の登山ルートを決めて道内山岳関係者に紹介、35年には南九三一打峰から稜線伝いに北上するルートの整備を行っている。大沢の名称は「同岳北面の大きな沢」からそのように呼ばれるようになったが、大正から昭和にかけて支笏湖周辺で造材作業に携わった山田金次郎が大正初期に登ったといわれ、長らく「金次郎の沢」と呼ばれていた。大沢ルートは、沢伝いに高巻き(悪場を避けて迂回)が必要な高さ10財以上の滝が連続する難易度の高いルートで遭難事故も多く、さらに出水などによるルートの荒れも年々ひどくなっていることから、平成に入って千歳山岳会が中心となって代替えルート設定を計画し、南支笏7号林道を登山口とする「北尾根コース」を整備して平成11年に公表している。
登山者の増加を受けて千歳市、千歳市山岳遭難救助隊が、北尾根コース登山口に登山者名簿を設置したのは16
年8月になってからで、16年度の名簿記入者数は383人、19年度492AO23年度523人、25年度815人、27年度12
50人。

恵庭岳

 恵庭岳(1320m)は2万年以上前に活動を開始し、約2万年前に大規模な噴火が発生して山体を形成、以降溶岩流出を伴う噴火が続いた。最後のマグマ噴火は約2000年前に発生し、流出した溶岩がオコタンペ川を堰き止めてオコタンペ湖を出現させた。17世紀はじめに山頂部で水蒸気爆発が発生し崩壊物が岩屑なだれとなって支笏湖に流入している。そのも噴火が続き、18世紀にかけての約150年間に少なくとも2回の水蒸気噴火が起きている。気象庁は平成3(1991)年2月に活火山に指定した。
山名は、アイヌ語の「エエンイワ(頭•尖った•岩山)」が語源。長見義三は『ちとせ地名散歩』( 1976年)の中で、知里真志保著作集197(3年)から引用して「エエンイワのイワはカムイイワキ(神の住む所)から出ていて、今はただの山の意に用いているが、もとは先祖の祭場があった神聖な山を言ったらしい」としている。
江戸末期あるいは明治初期には硫黄採掘が行われていたようで、高橋長助の観光ハンフレット『あなたを待つ支笏湖』(1972年)によると、恵庭岳の麓•幌美内にある「大平山」と刻まれた石碑がその証という。出羽秋田新田藩(岩崎藩)最後の藩主だった佐竹義理が、恵庭岳での硫黄採掘の安全と成功を祈願するため、秋田県を代表し信仰の対象だった三吉神を祭ってある大平山(117O.U)の名を刻んで明治5 ( 1 8 7 2 )年に建立したとしている。建立した場所は不明だが、支笏湖温泉在住の小野寺正利は「『大平山』は50数年前、父と一緒にポロピナイから運んできて、10年間ほど家の庭にあったが、やはりまずいということになって、ポロピナイの湖岸に置いた」。湖岸に置かれた石碑について支笏湖観光センターの小林典幸は「湖岸にあったが、奥のマッの所に移した。その後現在地に移して屋根を架けた」(ともに平成27年5月15日談)と話している。昭和3 ( 1 9 2 8 )年5月17日、伊藤弘団長(後の伊藤木材社長、支笏湖観光ホテル社長)ら漁村(現•恵庭市)青年団御料分団員25人が恵庭岳登山の安全と地域開発のために島松沢の石で作った社を山頂に建立した。
大きさは高さ80務ン、幅50见ン、「恵庭岳」の文字が刻まれた台座だけで6貫目(22 • 5キロ)ら49など3つの石、重量約70キロを交代で担ぎ上げた。建立か年を経た51年6月13日、 一年繰り上げた五十年祭と第1回山開きが催されている。登山ルートは、夏道と呼ばれているポロピナイルートが一般的で、昭和年発行の『北海道の山岳』で 「登山口は地図標高二六〇米記入付近で、ここから立派な登山路があり、中腹に休憩小屋もある」などと紹介している。国立公園指定直後の24年9月に発行された千歳観光協会の冊子『観光の千歳国立公園の支笏湖』でも、ほぼ同様の紹介が載せられている。このほか33年4月に滝沢、37年6月に西沢の両ルートが苫小牧山岳会によって踏破されている。恵庭岳山頂は、溶岩ドームが崩れた高さ約50財の岩塔の上にある。この岩塔の崩落が記録に残されているのは、平成5年7月の北海道南西沖地震直後が最初で、岩塔北西面の中腹から縦横10打ほどの岩盤が登山道に崩れ落ちた。13年には千歳市山岳遭難救助隊が東面の崩壊が進んでいることを報告した。このため千歳市、千歳警察署、石狩森林管理署など関係機関は第二見晴台(標高約1200m付近)から上の登山禁止を打ち出したが、多くの抗議を受けて「禁止」から「自粛要請」になった。恵庭岳に登山者名簿が設置された時期ははっきりしないが、当初はポロピナイと滝沢の2ルートだけで、後に西沢にも設置された。各ルートを合わせた名簿記入者数は平成15年度6014人、18年度5672人、22年度5738人、25年S6341AO

樽前山

 樽前山(1041m)の活動は約9000年前に始まり、休止期を経て約2500年前に再開した。その後再び休止期に入り、寛文7(1667)年に最大規模の噴火を起こしている。72年後の元文4 (1739)年に再び大噴火を起こして大量の火山灰を降らせ、火砕流や火砕サージを発生させてハる。その後も大きな噴火が続き、明治42(1909)年4月17
19日の噴火では現在の溶岩ドーム(溶岩円頂丘、s42 ^ 3北海道天然記念物指定)が誕生している。最近では、昭和53 ( 1 9 7 8 )年5月から56年2月にかけて小規模な活動が続き、山頂から山腹にかけて降灰が見られた。
山名の原名は「オフィOヌプリ(燃える•山)」。『苫小牧市史上巻』によると「タオロマイ(高岸。ある•もの)」が訛って「タロマイ」になり、樽前の漢字があてられた。樽前川のことで、和人がその水源となる山を「樽前山」と呼ぶようになった。
明治11年9月、英国人旅行家イザベラバードが樽前山に登り、その記録を180 0 0年にロンドンとニューヨークで出版された「urLbea-erLrracks)BJaparし」(邦訳名『日本奥地紀行』で発表して、樽前山を初めて欧米に紹介した。バードは白老で案内人と馬を雇って外輪山まで登り、慶応3 (1867)年の噴火でできた古期溶岩ドームが崩壊した明治7年噴火直後の火口原を記録している。
大正期に入ると登山者が増え、早くから登山路が開かれていた苫小牧側では大正12 (1923)年に樽前山登山案内組合が結成されている。前出の『北海道の山岳』には、支笏湖側が「モラップ」と「シシャモナイ沢」、南側が錦多峰駅( S25〜錦岡)からの「覚生沢」の3ルートが紹介されている。
昭和3年、昭和天皇即位の御大典を記念して苫小牧の樽前山神社の奧宮が火口原外輪山の南側に造営されている。当時は国有境内地として借地だったが、23年に同神社が売り払いを申請し、24年3月に53円60銭で払い下げられている。
31年6月に国が登記し、登記簿によると住所は苫小牧市字樽前494で面積は88平方打。当初は木造だったが、27
年に現在のコンクリート造りになった。同神社では山開き祭(毎年6月第2日曜日)、山納め祭(10月第1日曜日を奥宮で行っている。両祭がいつ始まつたかは不明だが、28年6月14日付の 『苫小牧民報』に山開き祭の登山記事が載せられている。登山者数が一気に増えたのは、苫小牧市が32年に、29年9月の15号台風(洞爺丸台風)による風倒木処理のために造られた林道を利用して樽前山登山観光道路(現・苫小牧市道樽前観光道路線)を整備してからになる(年には7合目の登山バス回転場が設けられたが、一般車両の駐車で占められてしまうため駐車場(
約1575平方打)が造成された。33年には苫小牧市営バスの樽前観光登山バス(支笏湖畔7合目)が一日3便の運行を始めた。道路整備で観光バスも大挙して押し寄せるようになり、34年秋には苫小牧市交通部のバス乗務員休憩所と一般乗客の待合所を兼ねた苫小牧市営樽前山7合目ヒュツテが建設された年5月14日、樽前山が小噴火して山頂付近に降灰があった。このため翌日から7号目以上、23日から全面登山禁止となった。この規制は一部緩和などを交えながら、活動が収まり安全とされた58年6月末まで続けられた。
合目登山者名簿記入者は、43年度7万1572人、45年度9万人、50年度9万9307人、52年度5万933人、54年度は全面登山禁止で記帳なし、60年度4万9077人、平成元( 1 9 8 9 )年度4万3960人、10年度3万3919人、20年度1万82
92人。

オコタンペ湖

 千歳市の『要覧ちとせ』でオコタンペ湖は「支笏洞爺国立公園最大の原始境との折り紙が付けられています」と紹介されている。253(8T9761湖は約2000年前の恵庭岳噴火で流れ出した溶岩(オコタンペ湖溶岩)によってできた堰止湖で、環境省湖沼調査報告( H 5 )によると湖面標高599m、面積0.4平方キロm、湖岸線延長3 ” 8キロ打。支笏洞爺国立公園が指定された4年後の昭和28 ( 1 9 5 3 )年9月22日に、オコタンペ湖地区( 7 5 0む)が特別保護地区、その周囲の漁岳オコタンペ地区む)が特別地域に指定されている。長見義三の『ちとせ地名散歩』
年)によると、オコタンペ(才 ・コタンヌン。ペ)は「川口に”村 。の在る•もの」の意で、オコタンペ湖は「オコタンヌンペ•トウ(湖)」で、川(オコタンペ川)の上流にある湖を指すという。
同湖一帯は大正期から原始の森に囲まれた秘境として知られ、国立公園指定後は新たな観光素材として注目を浴びるようになった。30年7月には苫小牧民報が「秘境オコタンペ」と題して、同社主催の「オコタンペ湖探勝会」の様子や自然を連載と特集記事で紹介している。当時、同湖への道はオコタンペ川右岸の道を登る以外になく、同紙では「オコタン湖岸から時間半の道のり」、湖の西岸は「尺余の芝生がジュウタンのように敷きつめられているその狭い平地の中を数本のクセセラギ”が、地底から神がオコタンペ湖のために恵んでくれた清水を運んでいる…」、「日本アルプスの上高地あたりに似た風景である」などと紹介している。オコタンペ湖地区は特別保護地区として原則的に現状変更行為が認められていないが、その意義への理解は薄く、36年に札幌市が冬季オリンピック誘致に向けて滑降コースを恵庭岳に内定すると、観光地としての注目が一気に高まった。周辺の道路開発が進む中で37年には支笏湖観光運輸が同湖岸にテント村構想を公表。38年5月35日には第15回北海道体育大会登山部門競技大会兼全日本登山大会北海道予選大会が開かれ、約2OOAが同湖西岸をベースキャンプに漁岳
(1328打)に登っている。登山者ばかりではなく、北海道立水産孵化場(現•独立行政法人北海道立総合研究機構水産研究本部さけます•内水面水産試験場)が38年7月、ヘリコプ夕—を使ってサケとヒメマスの交配種約3000匹を空中から放流している。この放流は以後数年間続けられた。同湖を訪れる人が飛躍的に増えたのは47年2月に開催された札幌オリンピック(第11回オリンピック冬季競技大会)以降になる。オリンピックのために開削された千歳市道支笏湖周辺道路(現•道道支笏湖線)が一般に開放され、登山者だけではなく観光客や釣り人が増えたためで、特に釣り人の増加が大きな問題となった。
55年6月13日付の『北海道新聞』で 「釣りはできるのか」と取り上げられている。同湖の周りは自然公園法の特別保護地区として動植物の採種は一切禁止されているが、湖は河川法上では「河川」に分類され水産生物についての規制はないため、釣りは原則自由となっている。
この問題に動きが出たのは平成8 ( 1 9 9 6 )年4月。林野庁が同湖を含む一帯約3260传を 「漁岳周辺森林生態系保護地域」に指定し、同湖への立ち入り規制を打ち出し、湖に通じる陸地部分を立ち入り禁止とする策が講じられたが、状況は現在も変わっていない。

巨木の森と美笛の滝

巨木の森 美笛地区に最初の植樹用苗畑8100平方財が開設されたのは昭和15 ( 1 9 4 0 )年4月。以降拡張が続き、29年9月の台風15号(洞爺丸台風)で支笏湖周辺の森に甚大な被害が出ると、戦後の木材需要も重なり、その必要性は一層増していった。その苗畑拡張過程で択伐後の天然林を残した保護樹林帯(防風林)が巨木の森の原型になる。45年に美笛地区を所管する苫小牧営林署(現在の所管は石狩森林管理署)が支笏湖周辺の直営伐材事業を打ち切って同地区の新たな活用の検討をはじめ、52年に国設美笛野営場が開設された。この開設に伴い整備された野営場から道道支笏湖線までの連絡道周辺が「巨木の森」と名付けられた。
広さは約8むで、開設当時苫小牧営林署が行った調査では胸高直径が1打以上の6種類48本の巨木があるとされた。平成15 (2003)年5月には千歳の自然保護協会による調査が行われ、胸高直径が1財以上の巨木6種類54本が確認されている。同協会の調査は2829年にも行われ胸高幹周3財以上のカツラやハルニレ、ハリギリ、ミズナラなど8種類69本が確認された。森内の歩道整備も行われたが、青森県十和田市奥入瀬渓流落枝負傷事故の最高裁判決で国と県の管理責任を認めた18年のニ審東京高裁判決が確定したため、20年ごろに閉鎖されている。
巨木の森に関する多くの観光案内で「樹齢300年以上の巨木」とよく書かれているが、筆者が28年7月に管理する石狩森林管理署に問い合わせたところ「管理署の『森林調査簿』では、100から200年はあるようだが、3
00年以上は記載がない」との回答があった。
美笛の滝 美笛川の支流ソウォンピプイにある落差約50mの滝。『増補』、『ちとせ地名散歩』によると、「ソウォンピプイ」は 「滝に入る美笛川」で、国土地理院の地形図では「ソウォン美笛川」と記されている。
この川が合流する福神沢との合流点近くに昭和13年に開かれた千歳鉱山福神坑があり、由来は不明だが千歳鉱山で働く人たちは「弁天の滝」と呼んでいた。また、国道276号美笛峠の旧道時代に、峠の下り途中にこの滝記されている。歩道がきちんと整備されたのは60年ごろで、訪れる人の増めて」でも林道は途中までで「ゴ口石を飛びながら流れをさかのぼる」との滝を訪れている。
56年8月に連載された『苫小牧民報』の 「滝涼を求長見義三は『ちとせ地名散歩』( 1976年)の取材のため川伝いにこる。在の所管は石狩森林管理署)が歩道の整備を始めたのは50年代中ごろにな年に国設美笛野営場が開設されたころからで、所管する苫小牧営林署(現美笛の滝が観光地として注目されるようになったのは巨木の森同様に52写真4-3 大正から昭和初期に撮影された唐沢(谷本亀撮影/支笏湖ビジターセンター所蔵)が加を受けて苫小牧営林署が64年9月に国有林内の名所として高さ180cmの立て看板を設置している。
 歩道は、大雨により途中の小さな沢で出水が起きるたびに通行止めや補修が繰り返されていたが、平成
26 ( 2 0 1 4 )年9月9日から12日の豪雨で市道福神道路からの連絡道路と橋が流され閉鎖状態となつている。

苔の洞門

 苔の洞門は支笏湖の南側、支寒内地区の東側にある涸れ沢(通称・苔の洞門沢)の一部。同地区は、千歳市街地に1m近い降下軽石を積もらせた。元文4 ( 1 7 3 9 )年7月の樽前山大噴火の火砕流堆積物によって形作られた。
 国道276号から涸れ沢を約7 5 0m遡ると、岩壁に囲まれた函状の沢が出現する。函状地形は火砕流堆積物が冷却した後、土石流による浸食によってできたと考えられており、下流部の約400m区間(第1洞門)とーその上流側出口から約300m上流の約600m区間(第2洞門)に分かれている。ともに沢底幅が数财と狭く、両岸は高さ5mから12mの切り立った岩壁に囲まれ、コケ(薛苔類)が密生している。切り立った岩壁ー面を覆った鮮苔類群落が特異な景観となっており、平成26 ( 2 0 1 4 )年8月に日本蘚苔類学会から「日本の貴重なコケの森」に選定されている。
 苔の洞門の沢については、長見義三が著書『ちとせ地名散歩』( 1976)の中で、アイヌ語で「チセ(イ)オマピナイ=家の形をしている水の涸れ沢」が誤聞された可能性があると指摘している。この沢は大正時代から樽前山への登山道として利用され、当時の登山案内書などで「唐沢」とよばれていた。
 千歳市が唐沢の観光的価値を認識し、本格的な調査に乗り出したのは昭和43 (1968)年ごろだった。同年10月20日の『苫小牧民報』に 「観光的価値は、へたな鍾乳洞の比ではなく、スケールも大きいほか、支笏湖畔ということで、売り出せばパツと人気が出ることは確実」などと市事業部の見解が載っている。「苔の洞門」の名称が観光パンフレットに初めて使われたのも同年度で、千歳市発行の観光パンフレット『ちとせと支笏湖』に 「支寒内涸沢にある苔の洞門」として紹介されている。
 観光地として名前が知れるにつれ、観光客は急増。樽前山噴火の影響で53年6月から58年6月の間、苔の洞門を含むシシャモナイからの樽前山登山道は入山を規制されたが、解禁された58年7月以降は再び増え、その管理と保護対策が急務とされた。管理と保護対策で最も問題になったのは、国立公園は環境庁、土地は林野庁、行政区域は千歳市とそれぞれ管理体制が違っていたことで、そのため千歳市の呼びかけで管理の一元化を目的とした「苔の洞門運営協議会」が59年3月19日に設立された。メンバーは千歳市、環境庁、苫小牧営林署、自然公園美化管理財団(現自然公園財団)、千歳観光連盟、千歳文化財保護協会の6団体。初会合では①開放期間を6月1日から10月31日までの4力月間②監視所を設けて、開放期間中は監視員1人が常駐し日曜日・祝日には3人体制で監視と観光案内を行う—などの事業計画を決めている。この年の観光客は9万4000人。60年には15万8000人、平成元年には最高の18万1000人に達した。
 観光地としての名声は上がっているが、肝心のコケ(蘚苔類)については調査が遅れ、昭和53年になって環境庁の依頼で北海道立教育研究所所長の斎藤實が『苔の洞門における・鮮苔類の生息調査報告』をまとめ、蘚鮮類30種、苔類5種を報告している。平成23年度、24年度に環境省の調査が行われ蘚鮮類57種、苔類26種の合わせて83種と報告された。
 13年6月5日、第1洞門下流側入り口から約70m付近右岸の高さ約8打の岩壁上部が崩落して全面閉鎖となった。翌年7月に入口に観覧台を設けて洞門内を覗き見る暫定開放となったが、26年9月9日から12日の豪雨で観覧台付近の左岸側壁が大きく崩れた。観覧台のほか遊歩道などの施設も被害を受け、以後全面閉鎖が続いている。

支笏湖地域のヒグマ捕獲

 北海道のヒグマ分布は、大きく渡島半島、積丹•恵庭、天塩•増毛、道東・宗谷、日高・夕張の5個体群に分けられ、千歳市•支笏湖地域は積丹•恵庭地域に属している。この地域の個体群は、開発による分布域の減少と他地域からの孤立化が進み生息数の減少が著しいとされ、環境省の 『日本版レッドデータブック』( 1991年)では「保護に留意すべき)によると、平成24 (2012)年度の全道の推定生息数は1万600頭±6700頭で、このうち支笏湖を含む積丹•恵庭地域の推定数は頭土600頭としており、2年度の推定数300頭±200頭に比800ベ増加しているという。このように、千歳市内、近隣市域を含む支笏湖地域についての生息実態はほとんど分かっていない。記録をたどれるのは捕獲数で、千歳市の記録に出てくる捕獲は姉崎等が昭和44 (1969)年4月に恵庭岳北面で捕獲した1頭(性別等不明)から、以後平成27年9月の泉沢地区(雌、推定3歳)まで39件45頭。このうち28件33頭が王子製紙千歳川第一発電所付近以西の支笏湖地域となっている。支笏湖地域を地区別(表411)にみると、捕獲場所別で最も多いのが風不死岳周辺で9件10頭、次いで美笛川本流•支流域を含む美笛地区の6件6頭、美笛地区に隣接する丹鳴川流域の3件4頭の順。月別にみると、月が最も多く23頭、次いで3月の3頭。5月と9月が2頭ずっとなっている。春グマ捕獲時期の3月、4月で同地区全捕獲数の78- 8むを占めている。捕獲は千歳市内のハンタ—で構成する千歳市クマ駆除対策本部(現千歳市クマ防除隊)など市の要請を受けて出動する公的団体によるものが44件
4頭で、残る24件29頭が狩猟となる。
 人身事故 新聞報道や手記、公的記録で分かっている市内のヒグマによる人身(死亡)事故は4件で、最も古いものは昭和14 (1939)年ごろに蘭越で女性(18歳)が犠牲になった事件、次いで28年9月20日、王子製紙第一発電所社宅に住んでいた男性(67歳)が、近くの山林にまき割に出かけたまま帰らず、息子2人が迎えに行ったところ遺体を発見した。以上の2件は襲ったヒグマの行方など詳細は次いで44年8月28日で「老婆事件」と呼ばれている。事件を伝える千歳民報によると、王子製紙第一発電所社宅に住む女性(78歳)が、28日午後時半ごろイチゴ摘みに出かけたまま帰らないと、家族が千歳警察署支笏湖駐在所に連絡。同署では署員20人と千歳猟友会のハンタ—で構成する千歳市クマ駆除対策本部員とともに急行して探したところ、午後11時15分ごろ、第一発電所から約170孵千歳寄り高圧線下の草むらで血まみれの衣類と手ぬぐいを発見した。翌日午前4時から捜索を再開し、衣類を発見した近くで枯葉と砂がかけられていた遺体を発見した。約30打離れた林の中に隠れていたヒグマを発見し午前5時40分に射殺した。仔グマがいた痕跡があったため付近の調査が行われたが発見できなかった。
4、5歳のメスで、体重150キロ。この事件は、吉村昭著『熊撃ち』( 1979年)の題材になった。
51年6月4日から9日にかけて発生したのが「風不死事件」と呼ばれ、2人が死亡し3人が重傷を負った。『千歳民報』などによると、6月4日午後に風不死岳の中腹でネマガリダケの伐採作業をしていた青森県八戸市の作業員の男性(56歳)がヒグマに襲われ、左足を引っかかれて重症。5日にはタケノコ採りをしていた苫小牧市の男性(53歳
)が背後から襲われ、腰から左太腿にかけて引っかかれて重症を負った227日連続の人身事故発生に千歳市や千歳警察署では現場周辺や国道62号沿いに職員や署員を出して山菜採りでの入山禁止を指導した。ところが
9日午後、入山禁止を無視してタケノコ採りに入山した11人グループのうち栗山町の男性(54歳)、同町の男性
(26歳)、岩見沢市の男性(58歳)の3人が下山予定の正午になっても戻らないため、グループの人が山に入ったところ、国道276号から約150打奥でヒグマに襲われた1人が血だらけになって倒れているのを発見し110番通報した。襲4次いで44年8月28日で「老婆事件」と呼ばれている。事件を伝える千歳民報によると、王子製紙第一発電所社宅に住む女性(78歳)が、28日午後時半ごろイチゴ摘みに出かけたまま帰らないと、家族が千歳警察署支笏湖駐在所に連絡。同署では署員20人と千歳猟友会のハンタ—で構成する千歳市クマ駆除対策本部員とともに急行して探したところ、午後11時15分ごろ、第一発電所から約170孵千歳寄り高圧線下の草むらで血まみれの衣類と手ぬぐいを発見した。翌日午前4時から捜索を再開し、衣類を発見した近くで枯葉と砂がかけられていた遺体を発見した。約30打離れた林の中に隠れていたヒグマを発見し午前5時40分に射殺した。仔グマがいた痕跡があったため付近の調査が行われたが発見できなかった。4、5歳のメスで、体重150キロ。この事件は、吉村昭著『熊撃ち』( 1979年)の題材になった。


然公園財団『パークガイド支笏洞爺国立公園支笏湖』2008/地蔵慶護
われた男性は千歳市内の病院に収容された。頭と両足をツメに引っかかれ、出血多量で重体だったが一命を取りとめた。通報を受けた千歳警察署員、市クマ駆除対策本部のハンタ—が現場に急5行し残る2人を捜索した。午後3時40分ごろ、最初に発見された男性が倒れていた所で襲ったクマと出遭いハンターが15発を発砲して射殺した。2人目は間もなく遺体で発見され、残る1人も午後5時前に遺体で発見された。いずれも襲い方などから同じ個体によるものとみられている。2歳力月の雌で、剥製にされ北海道博物館に保管されている。
事件後、千歳と苫小牧の両市は当面、樽前山と風不死岳の登山禁止措置をとり、8月3日に開かれた両市のクマ駆除連絡会議で風不死岳の全面禁止、樽前山については7合目まで車以外での通行は禁止することを決めている。この処置は、一部のルートを除いて千歳市は10月には解除、苫小牧市は翌52年6月まで継続した。
参考文献
長見義三『ちとせ地名散歩』北海道新聞社1976年/門崎充昭
犬飼哲夫『北海道の自然ヒグマ』北海道新聞社1987年/門崎充昭『野生動物痕跡学辞典』北海道出版企画センター1996年/金坂清則『完訳日本奥地紀行3』2012年/環境省『湖沼調査報告』1993年/環境省北海道環境事務所『平成23年度苔の洞門周辺地域保全のあり方調査(管理方針検討)委託業務報告書』2012第4章観光年、2013年/
気象庁「日本活火山総覧(第4版)web掲載版/佐々木昌治『樽前山麓の森林』2005年/札幌山岳クラブ『北海道の山々』1960年、『マウンテン・ガイドブックシリーズ39北海道の山々』1960年/支笏湖関連各種パンフレット/
支笏湖の水とチツプの会『支笏湖の人と自然』2007年/自然公園財団『パークガイド支笏洞爺国立公園支笏湖』2008年/地蔵慶護『武四郎のタルマエ越え』みやま書房1991年、『北海道身近な歴史紀行』北海道新聞社1999年
/高橋長助『国立公園支笏湖沿革史百年の支笏湖歌入物語974年、『あなたを待つ支笏湖』1972年/千歳観光協会『観光の千歳国立公園の支笏湖』1949年/千歳観光協会•苫小牧観光協会『涼風は招くよ観光支笏へ支笏湖案内図』1952年ごろ/千歳山岳会『創立50周年記念誌シコッの山脈』2006年/千歳市『千歳市史』1969年、『増補千歳市史』1983年、『志古津』各号、『要覧ちとせ』各年/千歳支笏湖保勝会『観光地支笏湖案内支笏湖を行く』1
947年/苫小牧山岳会『創立50周年記念誌ぽろしり』2004/苫小牧市『苫小牧市史』上巻1975年、『苫小牧市史』下巻1976/とましん郷土文庫『風不死岳、恵庭岳』2015年/日本自然保護協会『支笏湖の自然観察』1982年/日本電信電話公社札幌無線通信部『北海道無線史』1979年/編集代表田中三晴『北海道の山岳』晴林堂1931年/北海道森林管理局各種パンフレット/北海道立水産孵化場『魚と卵101号』1963年、『同104号』1964年/宮坂省吾『イザベラバードの見た樽前山』2015年/『千歳民報』/『苫小牧民報』/『北海道新聞』

第3項 支笏湖の観光

山線鉄橋
 山線鉄橋は、もともと明治32 ( 1 8 9 9 )年に、北海道官設鉄道上川線(空知太〜旭川)の砂川—妹背牛間に「第一空知川橋梁」として架設されたが、設計荷重が小型機関車であったため同線の輸送量増大により大正)12 (1923年ごろ新しい橋に架け替えられ王子製紙に払い下げられた。橋は長さ64m、主要構間隔5m。英国人技師•ポーナルの設計によるピン構造ダブルワーレントラスと呼ばれる三角形を基本構造とする橋で、当時多くの鉄橋に練鉄が用いられる中、初めて主要部分に鋼が使われていた。
同社は、明治41年から運行された王子製紙苫小牧工場専用鉄道( H王子軽便鉄道通称•山線)で支笏湖の千歳川呑口に架けられて「湖畔橋梁」と呼ばれていた木製ワーレントラス橋に替えて移設した。昭和26)195(1年5月の同線廃止後は線路を取り除き車両を通行させていた。
山線廃止後、鉄橋は支笏湖のシンボルとして地元はもとより観光客に親しまれてきたが、王子製紙では維持管理などに経費がかさむことから撤去を検討。一方、国立公園を管理する厚生省と道は観光資源として役立つほか、橋がモラップ地区への通行路になっていたため存続と千歳市への寄付を働きかけていた。このため王子製紙は市への寄付を決め、42年5月16日に開かれたホテル翠明閣改装披露パーティーの席上、贈呈式が行われた。
千歳市は、腐食など橋の傷みが目立ち始めた61年に耐久度調査を実施した。その結果、現状のまま使用できるのは平成3 (1991)年ごろまでとされ、塗装、補修、新設の3案を検討した。これに対し地元や市民などから「支笏湖の歴史的遺産」としての存続要望が強く出された。これを受けて市は5年に復元保存を決定。「現地で原型保存、生涯現役」を基本思想に7年度から3力年度、約4億円をかけて、解体修復を行った。工事は横河メンテック(現•横河ブリッジ、千葉県)が施工。腐食の激しい下弦材付近の部材はスクラップとし全体の約45客を再利、また現在使われていない当時のリベツト締め工法を行うなど、本来の姿を保つ最大限の努力が行われた。
生まれ変わった橋の開通式は9年11月22日に催された。名称もそれまでの 「湖畔橋」から新たに「山線鉄橋」とされた。11年8月22日には道内で使われている最古の鉄橋として千歳市有形文化財に指定。
19年11月30日には 「洋紙の国内自給を目指し北海道へと展開した製紙業の歩みを物語る近代化産業遺産群」として経済産業省の近代産業遺産に認定された。なお、道内に現存する最古の鉄橋は、明治17年、岩見沢に架橋された幌内鉄道トラス橋で、現在岩見沢市内に分解して保管されている。さらに平成30年11月16日には、歴史的土木施設として価値のあることから、公益社団法人土木学会より平成30年度土木学会選奨土木遺産に認定された。

王子製紙千歳川第一発電所

明治43 ( 1 9 1 0 )年9月に操業を開始した王子製紙㈱苫小牧工場に電力を供給するために、同年6月千歳川呑口から約6キロ下流の千歳川渓谷(現・水明郷)に竣工した。支笏湖を自然の貯水池として呑口から約1キロ下流に堰堤を設けて取水し、約4 • 3キロの隧道と管路で同発電所構内の貯水池に入り、水圧管(送水管)で発電所に送水される。落差は130m。送水管は当初4本だったが、その後6本にされた。現在は4本。同社は、同発電所を含め昭和
16 (1941)年までに同流域に合わせて5カ所の発電所を建設している。これらは「千歳川の王子製紙水力発電施設群」として平成19 (2007)年に「北海道における水力電力開発黎明期を代表する現役稼働の水力発電施設群。新聞用紙等の国産供給カの質と量の飛躍的向上を支えた」として土木学会選奨土木遺産と、経済産業省の近代化遺産に選定されている。なお、千歳発電所から供給される電力の周波数は北海道電力の50ハルと異なり西日本と同じ60ハル。同発電所建設時に導入されたアメリカ製発電機が60小ルだったためで、配電される同社苫小牧工場と社宅街、支笏湖温泉地区は現在も60ハルとなっている。余談になるが、昭和40年代に入って家電機器が両周波数に対応するようになるまで、支笏湖温泉地区の住民が電球や電気製品を購入する時は苫小牧市内の専用の電気店に行かねばならなかった。
各発電所への立ち入りは禁止されているが、第一発電所については敷地内の水圧管頭部に設けられた展望台が開放されており、建設当時のレンガ造りの建物と4本の水圧管が130mの落差とともに見ることができる。
また、展望台正面に広がる台地は、4万年前の支笏火山大規模噴火の噴出物が厚く積もった火砕流台地で、日本地質学会北海道支部による「北海道地質百選」の候補地にもなっている。
サクラの名所としても知られている。同発電所構内や周囲の国有林、展望台から望む渓谷の谷筋には多くのサクラがあって、5月には一斉に花を咲かせる。戦前から発電所関係者のほか湖畔(現•支笏湖温泉)の住民も花見に訪れていたという。昭和26年5月に王子軽便鉄道(山線)が廃止されてからも花見の賑わいは変わらず続いていた。
49年6月に発電所勤務者が苫小牧からの通勤となって以降も同様で、マイカーの普及もあって千歳や苫小牧ばかりではなく札幌などからも多くの人が訪れるようになった。王子製紙苫小牧工場が 年5月にまとめた「水溜公園観桜•人•車対策」では、現在のゲート前広場をはじめ旧水明小学校グラウンド、社宅跡地などを臨時駐車場にして約350台分のスペースを確保し、交通整理員8人のほか立ち入り禁止区域パトロール員3人を配置している。ジンギスカン鍋も盛んに行われたようで、火気使用場所や炭火禁止場所も指定している。

遊覧船

 昭和12 ( 1 9 3 7 )年に始まった日中戦争戦時体制下による燃料不足のため、第1、第2観光丸で遊覧船事業を行っていた三〇通船部が経営を止めてから、戦後の21年に高橋長助が釣り船12隻を新造して貸し船業を始めるまでの間、中村組(後に菱中興業㈱、現・菱中建設㈱)の釣り船が数隻21あっただけという。
年の仮称「道南」国立公園指定促進期成会の設立、23年6月の米国国立公園局チャールスリッチーによる国立公園指定調査によって支笏湖、洞爺湖地域の国立公園指定に向けた機運が高まる中、高橋長助が21年に貸し船業を始めると、23年ごろから小村開三、小野寺寿、貫田剛吉、菱中興業菱中通船部、山森三郎、加藤喜久、岡部六郎、八木勝男、佐々木広見らが湖畔で貸し船や遊覧船の営業を相次いで始めた。27年ごろに発行された苫小牧観光協会と千歳観光協会の『涼風は招くよ観光支笏へ支笏湖案内図』には、翠明閣から湖岸沿いに南(千歳川呑口)に向かって翠明閣舟付、岡部ボート店、山森ボート店、八木船舶、丸駒定期船、小野寺船舶、伊藤船舶、貫田ボート、菱中興業舟付所、小林ボート、遊覧船会社舟付と11事業社(者)の桟橋が並んでいる。30
年当時の遊覧船と事業社(者)は、菱中通船部が清和丸(定員50人)とはやぶさ丸(同16人)、支笏湖遊覧船が第1つばめ丸(同36人)と第2つばめ丸(同24人)、八木勝男が第1千鳥丸(同22人)と第2千鳥丸(同17人)、小村開三がかつら丸(同20人)、小野寺寿がつばさ丸(同7人)、佐々木広見が丸駒丸(同38人)、山田金次郎がモーラップ丸(同34人
)。貸しボートは各事業社(者)合わせて237隻を数えた。観光客は増加しているとはいえ遊覧船事業者が過剰で、各遊覧船が客を奪い合う状態となっていた。このため、厚生省の国立公園管理(現 。環境省自然保護官Hレンジャー)の要請もあり、30年に千歳町の指導のもとで業者が統合して支笏湖観光船企業組合を設立した。桟橋の統合も行われ、支笏湖観光船企業組合と同企業組合に参加しなかった菱中通船部の2桟橋となった。同年、同企業組合は道の補助金を受けて室蘭港の貨物船を購入。支笏湖で改造して大型遊覧船「ゑにわ丸」(20トン)として就航させた。
同企業組合は33年に支笏湖企業船組合となった後、35年に全事業を北海道不動産㈱(後に北炭観光開発㈱—三井観光開発㈱—㈱グランビスタホテル&リゾートと社名を変更)に譲渡した。北海道不動産は遊覧船部門を独立させ支笏湖観光運輸㈱を設立している。
菱中通船部は35年6月、1000万円をかけて室蘭で建造した遊覧船「みどり丸」(定員85人、30トン)が完成して第
1洋和丸とともに2隻体制となったが、36年に一切を支笏湖観光運輸に譲渡して廃業した。一社体制となった支笏湖観光運輸は、36年7月に横浜で建造した乗客222Aが乗れる 「美笛丸」(54トン)を就航させている。札幌オリンピック(第11回オリンピック冬季競技大会)を翌年に控えた46年には、同社は滑降コース会場がある奥潭へ観戦者を輸送するために「恵庭丸」(定員226人)を進水させ、同社の遊覧船は「美笛丸」、「みどり丸」(同85人
)、「白銀丸」(同50人)、「第1樽前丸」(同32人)の5隻体制となった。
 平成15 (2003)年11月、加森観光㈱(本社・札幌)が支笏湖観光運輸の全株式を取得して遊覧船事業に進出し。同社は16年に静岡県の観光遊覧船会社から船底の窓から湖の中を観察できる水中観光船2隻を購入して苫小牧港に回航し、支笏湖温泉まで陸送を行った。定員50人の「エメラルド」(18トン、)と 「サファイア」(17トン)から営業運航を行っている。

ヒメマス釣り

釣り規制 支笏湖のヒメマスは、明治27 ( 1 8 9 4 )年に阿寒湖から天然卵を移入し31年に初めての親魚捕獲が行われてから、39年に北海道庁令で釣り以外の漁法が禁止されるまで特に規制はなかった。その後、大正4年の北海道漁業取締規則の改正で支笏湖が保護河川湖沼に加えられてから魚網など網漁具の使用が周年で禁止されて、釣り以外は一切許されないことになつた。
 昭和に入ると、ヒメマス人気の高まりに加え苫小牧や千歳からの交通の便が良くなって釣り人が増加したことから、昭和11( 1 9 3 6 )年に禁漁とされ、湖畔と丸駒両地区にのみ解禁区域が設けられ、69月の解禁期間が設定されている。この規制は戦後の27年に解禁期間が68月に短くされるとともに美笛鉱山の住民に配慮して美笛川河口部が解禁区域に加えられている。36年には、釣り人の増加に加え美笛川河口部との境界が不明確だったオコタンペ川河口部が新たに解禁区域に加えられた。39年に北海道内水面漁業調整規則が制定され、その中で解禁区域が初めて図示されている。現在のように禁止区域が紋別岳、風不死岳、多峰古峰山、奥潭の大崎、オコタン崎を結ぶ線で明確になったのは47年の同規則改正による。この改正では夜釣りが禁止され、釣りを禁止する時間は6月が午後7時〜午前3時、7月が午後7時〜午前3時30分、8月が午後7時〜午前4時までとされた。これらの規制の背景には、支笏湖のヒメマス増殖事業は国営事業として行われ国内では唯一漁業権のない湖となっており、種苗湖という位置づけから積極的にその維持増殖を図らなければならないものの、釣り人の増加や漁網による密漁の横行など、乱獲による資源の減少が常に大きな問題となっていたことがある。
49年には尾ぐされ病が発生し大きな危機に直面した。このため、50年に道内水面漁場管理委員会がヒメマスの解禁期間(68月)中の全面禁漁を指示。51年に6、7月を解禁、52年には68月を解禁したが、尾ぐされ病の再発で
53年は6月のみ解禁。54年は68月を全面禁漁としたが改善は見られず、55、56年の68月に全魚種採捕禁止を指示している。57年にやっと禁漁を解除し、合わせて撒き餌•寄せ餌の禁止、竿数を一人2本に制限している。
 平成18 (2006)年には、湖の環境保全を目的にした環境省の公園計画変更で動力船の乗り入れ規制が行われ、漁船、河川管理船、旅客遊覧船などを適用除外、特例をヒメマス解禁期間中の承認釣り船として、持ち込みレジャー用小型船舶(プレジャーボート)は全面禁止となつた。
地元のヒメマス確保釣りが一般的になり釣り人が増加した昭和10年から17年を「チツプ(ヒメマス)釣りの黄金時代」と呼んでいる。大型のヒメマスが自由にいくらでも釣れた時代だった。しかし、戦時中に食糧増産を目的にした放流数の極端な増加によって、戦後は魚体の小型化が大きな問題となっていた。一方、支笏湖の観光地化が進むほどにヒメマスは単なる食糧から重要な観光資源として注目されるようになった。しかし、釣られたヒメマスの多くは札幌など支笏湖以外に流れており価格の変動も大きく、支笏湖の旅館や食堂は安定した入手ルートの構築を求めていた。
このため支笏洞爺国立公園指定を目前にした23年10月、人工孵化事業への協力、密漁防止を行うとともに採捕した不用親魚の払い下げを受ける「姫鱒孵化事業協力会」が設立され、38年には市が申請して解禁期間中に刺網でヒメマスを採捕する水産庁特別採捕委託事業(特採)が始められた。
市が委託を受け、資源量調査で採捕したヒメマスを同会が地元に配分する仕組みで、得られた資金は密漁監視などの同会の活動に使われた。特採は、56年に設立された支笏湖漁業組合に引き継がれ60年まで続けられ余談になるが、尾ぐされ病が続いた昭和49年から56年にも採卵用の親魚採捕は続けられていた。そこで問題になったのが地元に払い下げられていた不用親魚の安全性。50年の採捕は2万8000尾余りで、そのうち不用雄1万2000尾余りの払い下げが予定されたが、北海道の異議で冷凍保管となつた。食用の可否は地元観光業者にとって死活問題だけに、北海道衛生研究所が調査を行い51年2月になって「動物実験で見る限り無害」との報告をまとめた。これを受けて4月に市、支笏湖ひめます保護協力会(S35に姫鱒孵化事業協力会から改称)、北海道さけ•ます増殖事業協会の33者による入札が行われ、協力会が例年の2倍以上にあたるキ口当たり90円、総額95万40円で落札している。

釣り人

 昭和30年代に入ると、解禁中の合法的な釣りも遊漁とかけ離れた状況で釣りが事業化、プロ化し、さらに刺網による密漁も横行していた。34年7月27日付の『苫小牧民報』には、
「横行する集団密漁」との見出しとともに「ざっと十数組が入り込んで禁止の刺網を使い、チツプを大量に密漁している」と載っている。『支笏湖ヒメマス移植100年•養殖ヒメマス出荷10周年記念誌»千歳と姫鱒』( 1993年)
には、密漁で押収された刺網数が30年57枚、32年114枚、34年172枚、36年176枚とあり、36年12月4日付の『苫小牧民報』には「密漁の横行で採卵用のヒメマスが目標のわずか10 %」と報じられている。一般の釣り人も激増し、37年6月18日付の『苫小牧民報』には「平日で約700人、土日曜日は1000人を超える」とともに「ボート難に付け24060込んだダフ屋横行」の記事が載せられている。
市などが発表した解禁初日のボート数や釣り人数は39年がボート300隻以上、釣り人3000人、43年はボート約
130〇隻、47年はボート約150〇隻と増え続け、秋に尾ぐされ病が発生した49年にはボート約〇隻、釣り人445
0人となっている。資源の減少が深刻化する中、53年4月に市はプロを締め出し健全な釣りを取り戻すために千歳市は水産庁北海道さけますふ化場千歳支場や苫小牧営林署、小樽海運局、環境庁、千歳警察署、北海道、石狩支庁などと「支笏湖ヒメマス釣魚対策協議会」を発足させ、釣り用ボート置場9カ所指定とボートの登録、ボー
卜整理料徴収などの規制を決め、5月には毎年当たり前のように行われていたボート置場確保のための湖岸の勝手な縄張りの撤去を行つている。
年代に入ると、不漁に魚体の小型化が加わって釣り人が激減している。60年の解禁初日に600隻だったボートが、63年には30隻、平成元(1989)年には24隻、4年には18隻、6年には16隻まで減っている。資源の減少が深刻化する中、2年から市と支笏湖漁業組合による釣獲調査が始まっている。同じような調査は支笏湖姫鱒孵化事業協力会などにより昭和29年から35年まで行われたが、その信頼度は低かった。新たな釣獲調査は、ボート事業者と釣りグループなどの協力を得て指定ボート置き場から出漁する船釣りを対象に聞き取りで集計している。
3年度の集計は913尾、5年度には134尾まで落ち込んだが、以降は回復傾向となり12年度は1万301尾、20年度には6万8035尾、26年度は15万I874(尾まで増加した。

湖畔商店街


厚生省は昭和24 ( 1 9 4 9 )年5月に支笏洞爺国立公園の指定を行ったものの、支笏湖地区のほとんどが林野庁の所管地だった。林野庁からの所管替えで湖畔地区の約35むが厚生省所管地になることが決まり、集団施設地区の位置づけが行われ、 一般計画が示されたのは27年10月13日だった1(S32 •10 •区域指定)。これを受けて28年度に国立公園管理員(現•自然保護官Hレンジャー)が配置された。
初代管理員の宮林廣は、当時の様子を「湖畔に小さな町があっただけ。
そこにしたって人口は100人程度。小さい観光地みたいなものがあっただけで、周囲は非常に漠然とした湖が広がっていて両側に山があるだけ」。
商店街については「お粗末な桟橋が14、15本あって、それから屋台のアイスクリーム屋や売店、食べ物屋、売店みたいなものが出ていたし、食堂とか土産品店とかバラックみたいのが78軒あったのかな」と手記に残している。27年ごろ発行された苫小牧観光協会と千歳観光協会の『涼風は招くよ観光支笏へ支笏湖案内図』には、現在の商店区に寿天金、堤商店、丸駒食堂、山森休所、支笏荘、売店、湖岸の桟橋一帯には白樺食堂、谷本商店、簡易食堂、遊覧船会社舟付売店、小野寺船舶売店、川沿いには高藤アイスキャンディーの12店が載っている。
集団施設地区は「展望やピクニックの園地、バス発着場や駐車場などの公共施設、ホテルやユースホステルなどの宿泊施設、食堂•売店などの便益施設、地域住民の居住施設などを、一定の地割りにもとづいて計画的に整備する」(パークガイド『支笏湖』)地区で、湖畔地区では湖岸部分は船やボート関連施設のみで、それ以外の宿泊、飲食店、土産物屋などは千歳川左岸台地上とされた。売店区は現在のしこつ湖鶴雅リゾートスパ水の調(
尾まで噌如した。
旧支笏湖観光ホテル)の南側とされ、各店舗の移設は28年に入ってから厚生省や道庁など行政機関の強力な指導によって進められた。29年には林野庁から厚生省への湖畔集団施設地区の所管替えが行われている。湖岸や河岸の商店の移設は順調に進み、31年には一挙に土産物店など5店舗が新築されている。このうち「待合まつや」など数軒の建設には、24年に米軍がレーダー基地建設を進めたものの朝鮮戦争勃発で中止されたイチャンコッペ山山頂のレーダー基地建設資材が使われている。移設は32年ごろにはほぼ終了し、33年ごろ発行された『国立公園支笏洞爺千歳市支笏湖案内』をみると、売店区には碧水荘(福永)、藤よし、待合まつや(食事と休憩)、三〇谷本商店(貸テント、菓子類、酒類、土産品、ビール、サイダー)、食堂白樺(食堂喫茶白樺荘)、支笏荘(福士)
、千歳食堂、丸駒食堂、福永、八木、丸駒温泉連絡所の11店が載せられている。46年に千歳市が発行した冊子『国立公園秘境支笏湖』の商店街案内図には福永物産、藤よし、まつ屋、白ふくろう、すずらん堂、湖月荘、丸駒温泉連絡所、おかもと、八木、福永、 一休、いとう、大和、土産品センタ—ことぶき、千歳食堂、支笏食堂、大和、谷本商店の18店。平成20)200(『8年に発行された®自然公園財団支笏湖支部のパンフレットHandyGuide支笏湖』には19店、27年発行の同パンフレットには15店が載せられている。
売店区の指定から60年余を経ても店舗数が変わっただけで、その広さはほぼ〇”5むで変わっていない。これは、湖畔地区のほとんどが国有地のため自然公園法による商店や住宅などに対する規制(許認可)が徹底しているためである。一方その既得権が新規参入を阻んでおり、新規参入は店主の高齢化や病気などで営業が続けられずに店舗の売却が行われる場合がほとんどとなっている。売店区の形成に合わせて店主らによる組合も設立されている。最初は、支笏湖観光船企業組合が設立された昭和30年ごろ設立とされる支笏湖商業協同組合で、商店のほかホテルなども加わっていた。商店だけの組合は44年設立の支笏湖商交会(初代会長•千葉進、会員15人)。同商交会はその後解散され、平成2年4月に再度設立されたが、20年8月に再び解散している。商店街の形成に合わせ周辺の施設整備も進められた。その中でいつも問題となっているのが駐車場。集団施設地区の一般計画では商店区のすぐ東側を駐車広場と位置づけ、町が昭和27年に大型•小型車50台を収容する

2100坪(6930平方財)の駐車場を整備した。30年代に入り観光客の増加に合わせて駐車スペースは広げられていったが、夏場、イベント時の駐車場不足は年々深刻化していた。40年代に入ると大きなイベントの度に駐車場に入れない車両による交通渋滞が当たり前になるほど。国立公園指定20周年記念と銘打つて44年7月12、13日に開催された第21回支笏湖湖水まつりに向けた関係機関の対策では、駐車場を当初公共駐車場のほか小学校グラウンド、スケートリンク跡地(現第5駐車場)、ホテル裏の空き地、湖岸など9カ所として約1200台の収容を計画。その後、空地探しを行つて2000台まで増やしたが、千歳警察署発表によるまつり開催2日間の車両数は前年の
2倍、1万5000台に達した。厚生省は翌45年秋に乗用車17〇台分を新たに整備している。
その後も駐車場の拡充が続いたが状況は変わらず、駐車場の一部有料化が始まった54年には市が駐車場の立体化を働きかけている。大きく変わったのは「自然公園核心地域総合整備事業(緑のダイヤモンド計画)」によつてで、駐車場の再整備と拡充が行われた。既存の約1万6000平方打に加え支笏湖レイクサイドホテル跡地の約20
00平方財、支笏湖ビジタ—センタ—裏手の旧苫小牧営林署跡地約6000平方Uが整備された。
このほか29年3月には簡易上水道の敷設工事完成。
35年に王子別邸(支笏湖倶楽部)を商店街南西から原型のまま現在の温泉街北端に移転。38年には市営支笏湖診療所落成。
40年には苫小牧市と北海道中央バス共同出資支笏湖畔バスタ—ミナル完成(H12年〇43年には支笏湖初の山三ふじや支笏湖給油所開業(現•千歳ニッツウサービス支笏湖給油所)、46年には湖の汚染防止のため簡易浄化施設設置、55年には環境庁が湖畔の園地整備事業を行ってほぼ現在の形となった。58年には支笏湖下水終末処理場「支笏浄湖苑」が完成。平成6年には売店区周辺歩道のカラーブロック化、12年からの自然公園核心地域総合整備事業で支笏湖ビジタ—センタ—の改築、歩道のロードヒーティング化などが行われている。

野営場

モーラツプ野営場

 昭和24 ( 1 9 4 9 )年5月の支笏洞爺国立公園指定に合わせ施設整備が進められ、同年8月に道営野営場として開設された。
人を収容できるセントラルロッジのほかロツクケビンなどを備えた道内最大規模の野営場で、千歳町は31年ごろから支笏湖観光の目玉的施設として厚生省や道に町への移管を働きかけた。
32年に移管に向けた正式申請書を厚生省に提出し、翌年6月9日に認可され、9月に移管された。モラップ地区は明治期から木材の集積場などとして使われ、大正に入るとヒメマス釣りや樽前山登山の拠点、さらに観光地として広く知られていた。また、王子製紙の千歳川発電所建設に伴う王子軽便鉄道などによって歴史的に苫小牧との結びつきが深く、苫小牧にとってはいわば「縄張り」。年度の苫小牧観光協会事業計画では、重点項目の一つとして「支笏湖畔、モラップ地区に対して千歳町と協定し、諸施設の計画促進に努める」として、支笏湖紹介を全国的に行うことや市営休憩所設置などを掲げている。国立公園指定当時は、営林署の林道しかなく湖畔からの通船が主な交通手段だったが、指定翌年の27年8月には苫小牧市道支笏湖産業道路からモラップに至る「支笏湖畔モラップ観光道路」3 • 4キロが完成し、同月には苫小牧市営モラツプ休憩所「樽前荘」が完成している。翌年8月には苫小牧市営バスがモラップに乗り入れを開始した。バス路線の開設で、モラップを訪れる観光客が飛躍的に増加写真4 一 6 昭28年当時のモーラップ野営場(宮林廣撮影)した。野営場の利用者増を受けて
苫小牧営林署が29年夏、モーラップ野営場隣接地に3OOA収容の天幕付き野営場を造成し、札幌営林局林野弘済会の売店と民間の食料品店など536店舗を設けている。
年には両陛下を迎えてモラップ山麓で第12回植樹行事( 5月24日)、湖畔で国土緑化大会、第3回国立公園大会( 8月11、12日)が開かれた。
この植樹祭に合わせ王子製紙が水明郷の第一発電所からモラップまで受電設備を設置している。厚生省の国立公園整備計画でモーラップ野営場改修も行われ、駐車場の拡張や照明灯設置、排水溝整備、トイレ新設などが行われた。同年の野営場利用者は1万4200人。
利用者の増加に合わせるかのように同野営場や野営場外のいわゆる自由キャンプ場での酒酔いや盗難、けんか沙汰など風紀問題が深刻化し、37年に千歳警察署は臨時交番を設置した。また千歳市と道、苫小牧市では38年ごろからそれぞれ樽前荘西側湖岸に仮設指定キャンプ場(青少年キャンプ村)を設けて児童生徒の受け入れを43年まで行っている。
野営場が大きく変わったのは平成5 ( 1 9 9 3 )年4月。昭和52年に開設された支笏湖国民休暇村誘致の条件だった千歳市から同村への管理運営受託が実現した。これを受けて環境庁は平成8年、同庁所管と林野庁所管に分かれているモラップ地区集団施設地区をすべて環境庁所管地に所管替えして同野営場を「自然体験活動拠点」
(エコロジーキャンプ)に指定し、野営場の再整備を開始した。9年には所管が千歳市から環境庁へ移された。
この移管に合わせ「モーラップ野営場」の名称が正式な字名を使った「モラツプ野営場」となつた。再整備は環境庁が約1億円の事業費を負担して道が事業主体となつて11年度に完成した。

ポロピナイ野営場

モーラップ野営場の利用者増加が続き、野営場外にテントが並ぶ状況から千歳市( S33 • 7市制施行)は、支笏湖での観光施設拡充を計画。札幌(石切山)〜支笏湖(丸駒)間を結ぶ道路が開通するなど周辺の道路開発が急速に進められる中、札幌に最も近くなる幌美内地区を最有力地として札幌営林局、厚生省と折衝した。昭和34 ( 1 9 5 9 )年11月に厚生省の認可を受け、36年6月1日に市営ポロピナイ野営場(約44•む)を開設した。同地区は野営場開設以前からヒメマス釣りや恵庭岳登山の拠点として利用者が多く、市では野営場開設に合わせて無料休憩施設を設置し、地元関係者が出資する㈱支笏湖観光センターに運営を委託した。開設初年度の利用者は、苫小牧市の学校キャンプ地指定で苫小牧市立弥生中学校260人など団体とヒメマス釣り客を中心に約5OOOAだった。
船でしか行けない不便さはあったが、41年には利用者が1万247OAに増加。道道札幌支笏湖線全線開通、湖畔—幌美内間の有料道路が開通する42年6月には300万円をかけて、現在の国道453号からの入口付近一帯にあった野営場から約500m南寄りに山小屋(ケビン) 3楝(20人16人10人収容)を建設している。43年には野営場拡張の計画が立てられたが、同地区は恵庭岳の岩屑なだれによって形成された扇状地で、41年8月の集中豪雨で野営場が被害を受けるなどポロピナイ沢からの土石流が度々発生していたため、所管する苫小牧営林署などが難色を示して断念した。54年にはシーズン中( 510月)のみ設置されていたプレハブの管理小屋を、木造モルタル平屋建ての事務所兼宿舎とした。野営場の利用者は開設した36年の5000人から40年756〇人、48年1万100人、63年1万4O
OOAと推移し、平成 (1997)年には最高の2万2OOOAを数えた。
野営場の廃止は、平成に入つて設備の整った施設が道内各地に開設され1820たことから、老巧化した同野営場が一般利用者に敬遠されたのが主な要因。
年度には収入200万円に対し施設修理などの管理経費が536万円となり、多額な改修費の予算化も見込めないことから、市では再整備を断念し年度での廃止を決めた。
美笛野営場

昭和43T968)年春、土石流への危惧からポロピナイ野営場の拡張を断念した市は同年9月、札幌営林局に対して美笛川河口付近に国設野営場の新設と市への運営委託を陳情した。
利用者の増加でモーラップ、ポロピナイ両野営場がすでに飽和状態となっていることに加え、支笏湖周辺は
47年の札幌冬季オリンピック滑降競技会場に決まった恵庭岳周辺のみならず洞爺湖、登別方面への道路開発が急速に進められていた中で、新たな観光施設(野営場)はぜひとも必要な施設だった。札幌営林局でも当時、美笛地区の新たな活用を模索していた。環境庁との協議が整い、国立公園審議会で施設計画が認められたのが48年
8月。同局では「国設美笛野営場3カ年造成計画」をまとめ51年5月に着工した。美笛川河口左岸の7 – 2むで、総工費は78I万3000円。用地造成と合わせ同年は490万円かけて管理棟、トイレ、炊事場などを建設した。
完成は52年6月で、車の乗り入れができるモビレージ(オートキャンプ)方式が採用された。キャンプ地区は
1•45む、駐車スペースは〇。32む。施設は管理楝1楝、トイレ1棟、炊事場2棟、焼却炉1基で開放期間は7月16日から10月15日までとされた。管理運営は市に委託された。関係者、マスコミを集めての開設式は7月23日に行われた。
札幌営林局は、54年の美笛川右岸美笛苗畑(美笛事業所11 • 4む)の閉鎖に伴い千歳市に跡地利用を打診。市は55年に跡地利用計画をまとめ、56・こ、は大滝村(現•伊達市大滝区)
を含めた広域観光開発のために千歳市、大滝村、日本航空㈱、日本楽器製造㈱(ヤマハ)の4者による滝笛環境資源振興協議会を発足させて大規模開発の検討を進めたが、釣り人を中心とした反対運動、さらに環境庁との協議も難航して計画の進展がないまま60年4月には同協議会が解散した。その後、市は同地区の開発構想を「美笛国際森林レクリエーション事業構想」、さらに「支笏湖国際コンベンションリゾート構想」として進めようとしたが関係機関との協議が進まず断念した。このため市は新たに「支笏湖美笛地区自然環境整備利用計画」をまとめ、その一部として「千歳市野営場整備計画」を策定した。平成7年に苫小牧営林署から美笛野営場の譲渡を受けて、8年度から整備に着手。9年度までにコインシャワーやコインランドリーなどが備えられたセンタ—ハウスのほか自家発電施設、給水ポンプ場、トイレ2楝、炊事棟2楝などの整備を終え、最終となる10年度にテント設営場所まで車を乗り入れることができるオ—トキャンプサイト、車の乗り入れができないフリーテントサイト、駐車場整備など行って同整備事業を終えた。なお、9年12月に千歳市観光施設条例が一部改正されて「美笛野営場」の名称が「美笛キャンプ場」に改められている。キャンプ場の利用者は、開設初年度の昭和52年度が2080人、55年度が4800人、63年度は1万6763Aと増加し、平成13 (2001)年斐には3万122人を数えている。オコタンペ川口野営場( Jオコタン野営場)
昭和33 (1958)年に北海道不動産㈱が奥潭地区のオコタンペ川左岸に建てられた旅館を取得して35年に支笏湖グランドホテル、36年に支笏オコタン荘とケビンを開業し、敷地内に野営場を開設した。ホテルなどの宿泊部門は58年に休業し、平成)(41992年に自然公園法による宿舎(宿泊)事業の廃止を届け出てハる。同社が国から借りている用地4 • 5nのうち宿舎事業用地2 • 1むは返還されたが、野営場用地2 • 4むはそのまま残されて営業が続けられた。
15年に加森観光㈱(本社•札幌)が三井観光開発㈱傘下の支笏湖観光運輸と共に買収し野営場の営業を続けたが23年から休業となった。まつり支笏湖湖水まつり苫小牧観光協会の『30年のあゆみとまこまい観光の年輪』( 19
80年)に道南産業観光社代表の長桶鎌吉が記した「協会の生いたちと港まつり」がある。その中に「支笏湖が国立公園の指定区域になったことにより、支笏湖をもっと内外に売り出そうということから、支笏湖観光協会、千歳観光協会、苫小牧(観光協会)の三者によってク支笏(胡)湖水まつり”をやろうじゃないかと当時の千歳市役所の産業課長の米田(忠雄/後の市長、道議)さん(略)から相談をうけ、三者の意見がまとまつた」とある。これが支笏湖湖水まつりの始まりとされている。また、「内容のほとんどが苫小牧市と苫小牧
(観光協会)が主体となり華々しく開幕、NHKの協賛行事や苫小牧花柳界の姐さんたちによる踊りが披露されている」とも記している。
 実は千歳と苫小牧共催の湖水まつりが開かれる前年、千歳観光協会主催の 「支笏湖湖水まつり」が開かれている。昭和29 ( 1 9 5 4 )年3月2日付 『苫小牧民報』に苫小牧観光協会の29年度事業計画が載せられ、湖水まつりについては「昨年千歳観光協会で初の湖水まつりを開いたが、今年は苫小牧観光協会でもタイアップ、苫小牧としては初の湖水まつりを盛大に開く」などとまるで苫小牧のまつりと言わんばかりの書き方となっている。
明治の王子製紙苫小牧工場建設から始まる支笏湖と苫小牧の深い関係から、苫小牧市民にとって支笏湖は「縄張り」という意識が強かったのだろう。
また当時の苫小牧市と千歳町の経済力の差も大きく米田産業課長が苫小牧に声をかけたのは、前年に千歳観光協会主催で湖水まつりを開いたものの期待外れだったことが要因ではないだろうか。まつりは6月26、27日に湖畔とモラップの2会場で開催され、湖畔会場では26日夜に観光映画上映、27日にはボートレース、保安隊音楽隊演奏、船団行進、苫小牧移動演芸会、千歳町舞踊発表会が行われた。モーラップ会場ではキャンプ大会がメーンに行われ、26日午後6時半からキャンプファイア点灯式、苫小牧芸能連による演芸発表、NHK「三つの歌」大会、打上花火大会、27日にはキャンプ大会参加者による恵庭岳。樽前山登山、オコタンペ探勝会、紋別岳ハイキングなどが行われた。
モーラップ会場でのまつりは、31年から苫小牧観光協会主催の「湖畔の夕べ」となり、その後千歳市主催の「モーラップキャンプまつり」となった。当初は盛大なキャンプ大会だったが、湖畔でのまつりが定着するにしたがって花火大会だけとなった。

支笏湖湖水開き

 湖水開きは、ヒメマス解禁の6月1日に合わせた地元関係者の安全祈願が始まりとされている。
この行事が新聞に初めて出てくるのが昭和28年。6月3日付の『苫小牧民報』によると、支笏湖観光協会、支笏湖観光船企業組合主催で行われた「湖畔開き」では午後2時から湖上祓いが催され、地元住民など約200人が参加して遊覧船やボートの無事を祈願した。船団行列も行われ、船名を染め抜いた旗や吹き流しを立てた11
隻の遊覧船が湖に繰り出した。
湖畔開きが「湖水開き」と改称され4月開催になったのは52年からで、夏場だけの観光地。支笏湖を観光シーズンの始まる4月にPRしようと、同年3月に支笏湖温泉旅館組合、支笏湖観光事業協同組合、支笏湖商交会、
千歳観光連盟などが支笏湖湖水開き実行委員会を立ち上げて企画した。
。第1回支笏湖湖水開きは4月24日に開催された。プログラムは、支笏湖神社での安全祈願祭に続き紋別岳ミニ登山、北海道和種馬(どさんこ)試乗と幌馬車、野外演奏会、ロマンスボートレース、水上スキーのデモ滑走など盛りだくさんだった。メーンは「歴史の再現いかだ流し」で、北海道の名付け親で幕末の探検家松浦武四郎が、著書『夕張日誌』で安政5)185(8年7月に「オコタンから湖畔まで筏で渡湖した」という故事を再現する挑戦。環境庁支笏湖公園管理員森孝順の発案で、森のほか地元の福永郷正、千葉信一、石井隆生の4人が長さ3。6
mのトドマツ5本を組んだ筏で約8時間かけて成功させた。主催者発表で、当日は午前中だけで約5000人の人出で賑わった。
 第2回支笏湖湖水開きは翌昭和53年4月23日に開催され、現在恒例となっている湖上安全祈願祭でのヒメマス稚魚放流、観光シーズンの扉を開ける大きなカギの湖投げ入れが初めて行われた。

紅葉まつり

 紅葉まつりは、昭和52年にそれまでの「湖畔開き」から「胡K第6編部門史8開き」に改称し6月開催を4
月開催に決めたとき、あわせて秋のイベ、ノ卜として開催が決められていた。
同年7月に開催された「第29回支笏湖湖水まつり」が終わり、主催する支笏湖紅葉まつり実行委員会も立ち上がってプログラムの検討も始まった月、洞爺湖•有珠山で噴火が発生し道内有数の観光地•洞爺湖に大きな打撃を与えた。一方、支笏湖では洞爺湖を避けた観光客の増加が見られ、地元観光業者は活気づいていた。当時を知る支笏湖温泉の福士国治は「噴弋よ他人ごとではなく気にはなったが、すでに開催は決まっていた。観光客も増えていたので計画通りやろう、ということになった」と話す。9月2日付の『千歳民報』には、有珠山噴火で増える観光バスや商店街の賑わいを伝えるとともに「有珠山噴火の被災者に気づかいながらもニンマリ。
ふえだした観光客を定着づけようと十月には『紅葉まつり』を計画、支笏1016湖をより売り込む考えだ」と書かれている。月日に開催された第1回支笏湖紅葉まつりでは、琴の野外演奏、子供遊びの広場、野だて茶会、バンド演奏、のど自慢大会、紋別岳歩こう登山、モデル撮影会、どさんこ(北海道和種馬)試乗などのイベントが行わnしこ。また支笏湖名物のチツプ汁、キノコ汁などを販売する野外謝恩味覚店も人気を集めた。イベントは夜も続き、園地に照明をセットしての「夜間紅葉鑑賞」、祭りの最後を飾る「紅葉まつりお別れの夕べ」では広場に大きなキャンプファイアが設けられた。主催者発表で2万人の人出があった。

千歳・支笏湖氷濤まつり

 春の湖水開き、夏の湖水まつり、秋の紅葉まつりと支笏湖の観光客増に向けた3大イベントが出そろったが、冬場の支笏湖は相変わらずの冬眠状態が続いていた。この状況を打破しようと地元観光業者や市が注目したのが昭和51 (1976)年に初めて開催された開催が決められ、氷瀑まつりと網走の流氷まつりの視察が行われた。氷瀑まつりでは、指導に当たった恵庭市在住の造形芸術家竹中敏洋を知った。
まつりの名称は、平成20 ( 2 0 0 8 )年12月に連載された『千歳民報』座談会「氷濤トーク」で、前千歳市長の東川孝が「氷瀑まつり『瀑』には『滝』といつた意味がある。氷濤まつりの『濤』は 『波』。氷の波という意未です。層雲峡が氷瀑ならばこちらは氷濤で、とスタ—卜したんです」と12語っている。第1回支笏湖氷濤まつりの会場製作は、竹中敏洋の指導を受けて昭和53年月に始まった〇会場は千歳川呑口左岸の駐車場で広さは約6400
平方打。ポンプで支笏湖(千歳川)の水を汲み上げ55個のノズルを使って氷像の骨組みに散水(噴霧)を続けた。作業は商店街やホテル•旅館、遊覧船会社、市の職員らがそれぞれ担当氷像ごとに班を作って行った。いずわも無給のボランティア参加で、第4回から現在のように賃金制になった。「大自然の感動と夢の世界へ」をテーマにした第1回のまつりは、54年1月30日に開幕した。会場へは氷の苔の洞門が誘い、高さ3打の樹氷群に取り囲まれた会場内には大きな海賊船や地獄門、迷路、氷のトンネル、高さ15.Uの展望台、ステージなどが並び、鉄橋(湖畔橋”現,山線鉄橋)は氷のシャンデリアになり川には水中ライトが設置され歌謡ショーや千歳氷濤太鼓競演、航空3社スチュワーデスによるモデル撮影会などが催されレこ。主催者によると2月11日までの開催期間中に会場を訪れた観光客は延ベ7万氏。第2回は10万9000人、第5回は20万人を数えた。
まつり最大の危機は、氷像製作の指導にあたった竹中敏洋が、支笏湖氷濤まつり実行委員会、千歳市、千歳商工会議所、千歳観光連盟の4者を相手取り、著作権、特許権の侵害に当たるとして、59年5月15日に作品の差し止め(製作の中止)と損害賠償の支払いなどを求める訴えを札幌地裁に起こしたいわゆる「氷濤裁判」。層雲峡氷瀑まつりについても上川町と層雲峡観光協会に対して同様の訴えを起こした。
竹中は、恵庭市盤尻で長年かけて編み出した氷の芸術の製作方法で両まつりの第1回から指導に当たってきた。氷濤まつりの主催者側は第1回か①9ら5回までは著作権料、デザイン料、製作指導料の支払いを行ってきたが、第6回は要求を拒否し、竹中の指導なしでまつりを成功させた。
竹中はツララのイメージから創作した芸術作品を「造形樹氷」と名付け、第6回まつりでは会場そのものを指す「I • C • F」(アイスクリスタファンタジー)と氷像23点をコピーとし、損害賠償などを求めた。これに対し主催者側は「抽象的なアイデアは著作物にあたらない」などと反論した。
両者の和解が成立したのは平成6 (1994)年2月17日。和解条牛は、主催者による和解金300万円の支払い②会場入り口に原告メッセージをパネル掲示する③7年から10年間まつりのポスタ—、パンフレツトに原告の名前入りメッセージを掲載する——など。竹中は裁判中の昭和60年月、「造形樹氷」について著作権を文化庁に申請し、同年11月に6作品について著作権が認められていた。
参考文献
秋庭鉄之『支笏湖ヒメマス移植1OO年・養殖ヒメマス出荷10周年記念誌・千歳と姫鱒』千歳ヒメマス記念事業実行委員会1993年/長見義三『ちと丈也名散歩』1976年/観光関連各種パンフレット/支笏湖の水とチップの会『支笏湖の人と自然』2007年/地蔵慶護『北海道身近な歴史紀行』北海道新聞社1999年/支笏洞爺国立公園連絡協議会『支笏洞爺国立公園指定50周年誌』1999年/自然公園財団『パークガイド支笏湖』
2008年/篠田哲昭『湖橋(ペッパロ橋)』
1989年/高橋長助『国立公園支笏湖沿革史百年の支笏湖歌入物語』
1972年/俵浩三『国立公園としての支笏湖と洞爺湖の発展過程の対照性』1987年/千歳観光協会『観光の千歳国立公園の支笏湖』1949年/千歳観光協会 苫小牧観光協会『涼風は招くよ観光支笏へ支笏湖案内図』1952年ごろ/千歳市『千歳市史
T969年、『増補千歳市史』1983年、『志古津』各号、『要覧ちとせ』各年、『広報ちとせ』/千歳支笏湖保勝会『観光地支笏湖案内支笏湖を行く』1947年/苫小牧市『苫小牧市史』上巻
1975年、『苫小牧市史』下巻
1976年/山線鉄橋関連各種パンフレット/遊覧船観光関連各種パンフレット/『朝日新聞』/『千歳民報』/『苫小牧民報』/『北海タイムス』/『北海道新聞』/『毎日新聞』/『読売新聞』

第4項 支笏湖の温泉温泉開発

 苫小牧市による温泉調査支笏湖の温泉は、丸駒温泉など恵庭火山に由来する火山性温泉と、支笏湖温泉のように地下深くで温度が上がった地下水を揚水する深層地下水型の非火山性温泉に分けられる。
恵庭岳の麓にある丸駒温泉周辺と奧潭地区の温泉はともに恵庭火山に由来する火山性温泉で、丸駒の温泉は明治32 (1899)年に鉱泉免許が出されており、奥潭地区の温泉もこのころ確認されたとみられている。丸駒温泉旅館の創業は大正4 (1915)年12月、すでに廃業した奥潭地区の支笏湖グランドホテルは昭和35 (1960)年に開業した(詳細は『市史』、『増補』、『新市史(上)』を参照)。
新たな温泉の探索は支笏洞爺国立公園が指定された26年から、市内に温泉を持たなかった苫小牧市が積極的に乗り出した。同年12月、苫小牧市と苫小牧観光協会が北海道地下資源調査所(現•地方独立行政法人北海道立総合研究機構環境•地質研究本部地質研究所)に依頼して、モラップ地区を調査した。
11月と12月の2回行われ、地下1• 5打で地温9度という有望地点を発見している。
27年以降も調査が続けられ、28年3月にこれまでの調査で有望視されていた40数カ所のうち地温
9度以上の6カ所でテストボーリングが行われた。うち2カ所の地下5mで11度という結果が出ている。
31年には風不死岳山麓と支寒内地区で行われ、さらに35年から37年には支寒内地区で調査を行ったが、いずれも温泉の可能性は否定された。
千歳町内で苫小牧市が温泉探索を行うことに違和感を覚えるが、苫小牧市は明治39年に王子製紙苫小牧工場新設が決まってから、苫小牧—支笏湖畔間への山線敷設など支笏湖畔地区の開発と切っても切れない関係が続いていた。湖畔の千歳住民にとっても交通の便がよい苫小牧はより身近で経済的な結びつきも深い「まち」だった。大正8年から10年と昭和22年には支笏湖地域の住民が苫小牧への編入を北海道に求めた請願を行っている。24年8月の支笏湖観光ホテルの開業は、国立公園指定を見越した苫小牧の経済界の呼びかけで実現し、同ホテルを運営する支笏湖観光㈱の資本金30021万円は千歳と苫小牧が150万円ずつ負担した。千歳側の出資者は人だったのに対して苫小牧側は8人と、経済力の差は明らかだった。さらに余談になるが、湖畔地区などの王子製紙関連施設の固定資産税は、千歳町が自治庁に異議を唱える29年まで苫小牧市に収められていた。
このような背景が支笏湖の南側での温泉調査となったのだろう。千歳側からの異議はなかったようで、31年5月3日付の『苫小牧民報』に、風不死岳周辺の温泉調査について「この調査ではっきりこれが確認されると見られ市は期待しているわけで、有望となれば直ちにボーリングするといつている。ただ風不死岳は千歳町内で、この点問題だが、観光地開発上市は同町と何らかの協定を結んで、あくまで市の手で試掘すると考えているようである」とあり、調査や試掘に対する事前協議を伺わせるものはない。
これが当時の苫小牧側の一般的な考え方だったのだろう。苫小牧市による支笏湖地区での温泉調査は、民間による同市錦岡や白老町虎杖浜での温泉ボーリングが本格化した昭和30年代中頃には行われなくなった。

支笏湖温泉

 温泉が欲しいのは支笏湖の中心地湖畔地区も同じで、昭和)19531 (6年には支笏湖観光ホテルがホテル前で温泉掘削を試み、地下300mまで掘ったが水温が27度と予想外に低く断念。37年秋には同ホテルが経営する丸駒温泉に近い伊藤温泉から塩化ビニール管を使って湖岸沿いに温泉を引く計画を立て調査を行っているが実現しなかった。
 湖畔の温泉開発が大きく動いたのは48年になってからである。支笏湖観光の通年化のためにぜひとも温泉が欲しかった地元の支笏湖観光ホテル、支笏湖レークサイドホテル、ホテル鹿の湯、ホテルトマコマイ(ホテル翠明閣)、トムロッジの5社は、160万円の費用を負担し千歳市が契約者となって北海道温泉探査事務所(虻田町、現•洞爺湖町)に調査を依頼した。同年7月30日から9月7日まで行われた自然放射能探査は、事前調査で有望視された支笏湖レークサイドホテル周辺を中心に行われた。測定値が最も高かったのは同ホテルロビー付近だったが、ここでボーリングを行うわけにはいかず、ロビー付近に次ぐ値が出た玄関前ならば可能と報告された。湧出の可能性がある掘削深度は74〇打から1400打とされた。
この調査結果を受けて市は、翌49年1月の市議会第1回臨時会に温泉掘削に伴う補正予算3550万円を上程した。内訳は500万円を一般財源で充て、残る3050万円は指定寄付としてホテル5社が610万円ずつ負担するもの。同年4月、ホテル5社は温泉を維持•管理する「支笏湖観光事業協同組合」を設立した。
市が契約者となってアサノ建エ札幌支店(本社•東京)が受注し同年36日から始まった掘削は7月に11〇〇打まで達し、当初見込みの60度 bには達しなかったが38 • 5度から40度の重炭酸ナトリウムを主成分とする重曹泉を掘り当てた(第1号泉源〇湯量は最大毎分700把あり、メタンガスを主成分とする天然ガスを含んでいることから、ガス分離施設を設けて温泉を42度程度まで加熱することになった。給湯施設工事を終え、晴れの通湯式は50年4月30日に行われた。なお、天然ガスによる加熱は期待ほどガスが得られず数年で取りやめている。
この温泉湧出を受けて市は61年4月20日、それまでの字名「湖畔」を「支笏湖温泉」に変更した。

新支笏湖温泉

湧出した温泉は「美肌の湯」をキヤツチフレーズにして多くの観光客に親しまれたが、湯量の減少が大きな問題となった。成6)199(4年には当初毎分420毎あった湯量が最大毎分234W、20年には最大172毎まで減少した。最大湯量から算出した汲み上げ限界量は毎分115把程度、適正汲み上げ量は毎分100毎とされ、聞き取りによる配湯7施設の必要湯量毎分113毎を下回る状態になっていた。
このため市は安定供給に向けた新たな泉源確保を計画。24年度に掘削のための予算を計上した。新たな掘削は上山試錐工業㈱(札幌市)が受注し、同年11月10日に安全祈願祭が行われ、支笏湖ビジタ—センタ—東側の第4駐車場横で掘削工事が始まった。
新しい泉源(第2号泉源)は25年3月下旬に地下1100^で確認された。湧出量は毎分510把あり泉温は33- 2度、泉質は旧温泉の「含食塩——重曹泉」に塩化物が加わった「ナトリウム——炭酸水素塩•塩化物温泉」で、旧温泉の効能に虚弱児童、慢性婦人病、飲用では慢性便秘などが追加された。総事業費は1億4300万円。開湯式は配湯する8施設への配管施設などの工事を終えた26年4月13日に行われた142支笏湖温泉地区翠明閣( 1レイクサイドヴィラ翠明閣)大正7年に王子製紙㈱苫小牧工場山林部関係者の宿泊施設として建設された。昭和11( 1 9 3 6 )年から請負業者中村組(後に菱中興業、現・菱中建設)が王子関係者と一般旅行者のために受託経営していたが、終戦後の22年に米軍に接収され将校用厚生施設「サービスセンタ—」となっていた。接収が解除されたのは26年。
営業再開当初の客室は22室、収容客数60人だった。
年1月に建物を所有していた王子製紙と受託経営を行っていた菱中興業が㈱翠明閣を設立して、運営をホテルトマコマイ(現•㈱ホテルニュー王子)に委託していたが、建物の老朽化のため平成12 ( 2 0 0 0 )年から休館した。丸駒温泉旅館㈱が20年3月に王子製紙から株式の大半を取得して、同年8月に客室8室、収容客数24人の「レイクサイドヴィラ翠明閣」として営業を行っている。
支笏湖観光ホテル( しこつ湖鶴雅リゾートスパ水の詩)
昭和24年5月の支笏洞爺国立公園指定を目前にした支笏湖畔には、小規模な旅館が数軒あっただけとされている。このような状況の中、苫小牧の経済界では国立公園指定を見込んだホテル建設の構想が高まり、23年9月には千歳の経済界へホテル建設の呼びかけが行われている。翌24年3月には千歳、苫小牧の経済人29人が発起人となって観光ホテルの運営主体となる支笏湖観光㈱(本社・千歳町)の設立総会が開かれて、社長には王子製紙苫小牧エ場庶務課長大木祐三、常務には千歳の伊藤弘( S29 • 8社長就任)が選出された。ホテルは同年5月に着工し、8月1日に支笏湖観光ホテルが開業した。開業当初の客室は15室、50人程度の収容とされ、27年には2階建て20室にする最初の増築工事が行われている。

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