第3節 道路
連絡会議」の席上、千歳市側からバイパスルートについて新たな案が出された。それは恵庭バイパスから分岐して南28号を通るというルート案であり、恵庭市も基本的には了承した。しかし、このルートは南28号がC経路という防衛事案の特殊性を持つほか、土地利用の誘発性や技術的側面などから難しいものだった。市は地元アンケートの実施や他の開発計画などを勘案した結果、ルートを南27号に変更することとし、63年には千歳市議会の承認、平成元( 1 9 8 9 )年には建設省から南27号をルート(千歳バイパス)とすることの承認を得た。市は3年に策定した千歳市第4期総合計画( H 312 )に千歳バイパス建設促進を盛り込み、建設促進期成会を設立し中央官庁等への要望活動を継続した。その間、昭和62年に着工した恵庭バイパスは8年に供用開始となつていた。北海道は、平成18年度から21年度にかけて「第4回道央都市圏パーソントリップ調査」を実施し、千歳バイパスの需要測定を行った。それによると、前回調査時より交通需要が減少見込みとなることが判明した。これは人口減少社会の到来などを踏まえた交通量の予測調査であるが、バイパスの必要性の低下を示すものであった。また、開発局でも千歳バイパスは新規道路の位置付けであり、すでに恵千バイパスとしての認識はなかった。
年2月、市は千歳市議会産業建設常任委員会において、千歳バイパス建設促進の要望活動断念と次期都市計画マスタープラン
( H24 • 3策定)の構想から削除することを報告した。関係者に事業中止に係る説明会を開催するとともに、国に対し要望活動中止を伝えた。このようにして昭和46年から継続してきた整備計画は、時代の趨勢に伴う将来的な交通量減少に加え、周辺道路網の強化で代替可能と結論づけられ終止符が打たれた。
国道453号
昭和24 (1949)年5月に支笏湖は支笏洞爺国立公園に指定されたが、当時札幌から支笏湖への道路は未開通であり、その整備は札幌市や近隣町村、観光関係者が強く希望するところであった。国立公園指定に先立つ24年4月には、札幌市と関係市町村による札幌地方綜合開発協議会が「支笏湖観光産業道路開設の件」の請願書を北海道知事と北海道議会議長あてに提出した。この請願は同年3月の道議会で採択され、31年11月に道費による開削が始まり、33年11月に石切山—丸駒温泉間の道路が開通した。施工は南恵庭駐屯地の陸自第一施設群が部外工事として行い、36年4月に道道308号丸駒札幌線として道路認定され。
38年には石山(常盤)—幌美内間の全面改良(線形•幅員等)工事と、幌美内—湖畔間の湖畔道路(後述•支笏湖畔有料道路)工事が着工し、第11回オリンピック冬季競技大会(札幌オリンピック)に間に合わせるため異例のスピードで42年9月に両区間が同時開通し、道道512号として路線認定された。(887その後、平成5 (1993)年4月1日に道道512号札幌支笏湖線札幌市豊平区〜千歳市水明郷)、道道723号洞爺湖大滝線の全区間、道道233号伊達洞爺線の一部区間を合わせ国道453号に昇格した。その結果、札幌市豊平区を起点とし、真駒内を縦貫し伊達市を終点とする延長88.7キロの一般国道となった。重複路線は苫小牧市丸山
(丸山交点)—伊達市大滝区三階滝町(三階滝町交点)の国道276号である。
支笏湖畔有料道路
支笏湖北岸の幌美内と支笏湖湖畔を結ぶ道は、支笏湖畔有料道路として昭和38年10月に建設着手し、42年9
月に開通、59年4月に無料化された路線である。全長6.97キロ、幅員5.5m、2車線、総工費約6億1000万円であった。
有料道路が整備される以前は、湖畔と支笏湖北岸に位置する幌美内や丸駒温泉との間の交通手段は船のみであった。しかし、支笏湖観光を向上させるためにはこれらの地域と湖畔とを陸路で結び、かつ道道308号丸駒札幌線と連携させて札幌からの支笏湖畔への観光ルートを確立する必要が
12
あり道路を整備することとなったのである。
昭和
37
年
7
月
10
日に第
2
期北海道総合開発計画が閣議決定してから事業
は具体性を帯びた。北海道は幌美内—湖畔の有料道路開設を検討し、
36
年
に道路建設の認可申請を済ませ、
38
年度当初には建設方針を固めた。支笏
湖の景観を損ねないよう、湖岸に沿って斜面を切り崩さずにコンクリート
壁を築き、内部を埋め立てる工法で建設された。
料金徴収期間
•
時間は、
5
月から
10
月が午前
7
時から午後
9
時まで、
4
月と
11
月は午前
9
時から午後
5
時までとし、夜間は無料とされた。また、
月から
3
月までは通行車両が少なく、また運営経費もかさむため料金所
は閉鎖し徴収は行われなかった。
なお、通行料金は、次のとおりである。
この道路は当初、観光道路として利用されていたが、次第に混雑する国
道
36
号を避け、札幌と千歳
•
苫小牧を結ぶ産業道路として利用する割合が
増えたこともあり、道路整備費の起債
分の償還が完了したことから
59
年
3
月
末で有料道路事業は廃止され、
4
月
1日から無料化された。
それまで支笏湖湖畔の商店街は夏季のみの営業であったが、冬季観光の
目玉として、
54
年第
1
回千歳支笏湖氷濤まつりを湖畔第
5
駐車場を会場に
開催した。まつり実行委員会では札幌からの観光客を呼び込むため、札幌
—幌美内間の通年開通を要望したが、札幌土木現業所では維持管理費の増
額、安全性の観点から難色を示した。市
•
地域の粘り強い要望の結果、ま
つり期間中の日中に限り冬期も通行できるようになったのは、有料道路事
業が
59
年
4
月に廃止されてから
4
年後の
63
年度以降である。さらに
24
時間
通年開通が実現したのは、雪崩対策がほぼ完了した平成
10
年度まで待つこ
ととなつた。
平成
26
年
9
月
U
日支笏豪雨災害
平成
26
年
( 2 0 1 4 ) 9
月
11
日未明か
ら明け方にかけて、支笏湖周辺を中心に局地的に猛烈な雨が降った。札幌
管区気象台は同日午前
5
時
35
分に、数十年に一度の大雨が予想される「大
雨特別警報
(
土砂災害、浸水害
)
」を北海道で初めて発表した。支笏湖畔
の国道
4
5
3
号を管理する札幌開発建設部千歳道路事務所では、
10
日深夜
の大雨警報発令以降、管理体制を強化していたが、
11
日未明から降雨が強
まり、現場パトロールでも猛烈な雨が確認されたことから即時に通行止め
を判断し、特別警報の発令よりも早く、
11
日午前
3
時に通行止めを開始し
た。この決断がこの大災害において犠牲者を一人も出さなかったことにつ
ながった。
この大雨による冠水、土砂崩れ等のため、支笏湖周辺では国道
4
5
3
号
» 2
7
6
号の国道
2
路線
- 2
区間をはじめとして各所で道路が寸断され
た。国道
4
5
3
号では札幌市南区滝野〜千歳市支笏湖温泉間
(
29 • 5
キロ
)
において土砂崩れ、橋梁損傷、路肩の損傷等がみられた。
国道
4
5
3
号のうち支笏湖畔沿いを走る千歳市幌美内から支笏湖温泉までの区間
( 3
。〇キロ
)
では、計
7
カ所の自然斜面において土砂崩れ等が発生し、崩れた土砂の一部は支笏湖にも流れ込み道路が寸断された。この影響で丸駒
温泉が孤立し宿泊客が一時足止めされた。札幌開発建設部は宿
泊客を直ちに避難誘導するため、
優先的にこの道路の啓開作業を
進め、即日ルートを確保し、翌
12
日朝には丸駒温泉に自家用車
で来ていた客を道路パトロール
カーの先導により避難誘導した。 一方、丸駒温泉でも
&
社所有のクルー
ザーで湖畔へ宿泊客をピストン輸送し避難させた。
豪雨により発生した大量の土石流は、支笏湖に向けて恵庭岳の沢伝いに
急斜面を流れ下りながら国道
4
5
3
号の道路や橋を飲み込んだ。復旧に向
けては、地域で国道工事を担当する建設会社の多くが支援のため緊急出動
し、休日
•
昼夜関係なく
24
時間体制で作業にあたった。これら関係企業の
総力により、
10
月
9
日
13
時に支笏湖周辺の紅葉シーズンに間に合わせるよ
うに通行止めが全面解除となった。当時、復旧作業を統括したのは札幌開
発建設部次長の渡邊政義、現場指揮は千歳道路事務所長の坂憲浩であったー
開通の数日後に湖畔で開催された「支笏湖紅葉まつり」には、千歳、苫
小牧からはもとより、開通したばかりの国道
4
5
3
号を利用して札幌から
も多くの観光客が訪れ、まつりは大盛況となった。わずか
28
日間での復旧
に、開通を願っていた関係者
•
地域住民の喜びはひとしおであった。それとともに、道路管理を通じて日常生活を支える札幌開発建設部の圧倒的な総合力に賛辞を送ったのである。
国道2 7 6号(支笏国道•美笛峠新ルー卜)
一般国道276号はニセコ連峰を望む倶知安町を起点とし、支笏洞爺国立公園の中央に位置する支笏湖に沿い、勇払原野に広がる苫小牧市に至る路線である。
主な経過地は京極町、喜茂別町、伊達市(大滝地区)、千歳市となり、倶知安町から大滝地区美笛峠までの延長52 • 4キロを尻別国道、美笛峠から支笏湖畔モラップまでの延長23 • 9キロを支笏国道、モラップから苫小牧市に至る延長22.7キロを樽前国道と呼んでいる。
このうち、支笏国道の前身となる美笛峠から支笏湖畔に至る道路は、峠付近の森林資源の開発を目的とし、昭和29 ( 1 9 5 4 )
年に町村道大滝支笏湖線として13 • 9キロが国の開発道路の指定を受け着工された。難工事の末、まず美笛—大滝間道路が
33年に完成した。美笛からモラップ間の道路は、湖畔周りの林道として札幌営林局が33年に開削に着手し35年に完成した、冬季間は通行止めであった。また、樽前国道の前身となる湖畔から苫小牧に至る道路(産業道路)は、山線と呼ばれた王子軽便鉄道沿いに25年米軍貸与の機械により着工以来わずか7力月程度で完成した。尻別国道の開削の歴史は古く、明治後期には倶知安—大滝間は開拓道路として開通していた。本格的な整備は戦後になってからであり、それぞれ30年頃に道道認定を受けている。なお、大滝から美笛峠までの間は27年までに開通した。
これら、尻別国道、支笏国道、樽前国道の前身となる主要道道洞爺湖支笏湖線が、44年12月政令第2 8 0号建設省告示609号により、45年4月1日に倶知安—喜茂別—大滝—美笛—支笏湖畔—苫小牧を結ぶ全長O
1
7
45
キロの一般国道
2
7
6
号に昇格した。
年の国道昇格を機に、急カーブ、急勾配が続き、危険個所が多く、冬
期間通行止めとなる美笛峠をはじめとする支笏国道の整備計画が策定され
改修工事が実施された。改修工事は、
45
53
年の美笛市街道路改良工事や
千歳橋架換工事に引き続く湖畔工区の改良工事、
54
59
年の美笛峠新ルー
ト工事を行う美笛工区、
60
年以降の湖畔沿いの未改良道路の改築とモラッ
プキャンプ場付近の道路付替工事などを行う丸山工区の
3
期、
3
工区に分
け実施された。国道昇格前は国立公園内であることと厳しい地形条件のた
め整備が遅れ、特に美笛峠から大滝方面へは落石や土砂崩落、雪崩など危
険個所の多い未改良区間で、毎年
12
月から
5
月までの約半年間は通行止め
主な経過地は京極町、喜茂別町、伊達市
(
大滝地区
)
、千歳市となり、
倶知安町から大滝地区美笛峠までの延長
52 • 4
キロを尻別国道、美笛峠から
支笏湖畔モラップまでの延長
23 • 9
キロを支笏国道、モラップから苫小牧市
に至る延長
22
。
7
キロを樽前国道と呼んでいる。
このうち、支笏国道の前身となる美笛峠から支笏湖畔に至る道路は、峠
付近の森林資源の開発を目的とし、昭和
29 ( 1 9 5 4 )
年に町村道大滝支
笏湖線として
13 • 9
キロが国の開発道路の指定を受け着工された。難工事の
末、まず美笛—大滝間道路が
33
年に完成した。美笛からモラップ間の道路
は、湖畔周りの林道として札幌営林局が
33
年に開削に着手し
35
年に完成し
たが、冬季間は通行止めであった。また、樽前国道の前身となる湖畔から
苫小牧に至る道路
(
産業道路
)
は、山線と呼ばれた王子軽便鉄道沿いに
25
年米軍貸与の機械により着工以来わずか
7
力月程度で完成した。尻別国道
の開削の歴史は古く、明治後期には倶知安—大滝間は開拓道路として開通
していた。本格的な整備は戦後になってからであり、それぞれ
30
年頃に道
道認定を受けている。なお、大滝から美笛峠までの間は
27
年までに開通し
た。
これら、尻別国道、支笏国道、樽前国道の前身となる主要道道洞爺湖
支笏湖線が、
44
年
12
月政令第
2 8 0
号建設省告示
6
0
9
号により、
45
年
4
月
1
日に倶知安—喜茂別—大滝—美笛—支笏湖畔—苫小牧を結ぶ全長
^
^
一
^
^
^
^
^
^
^
^
^
^
^
^
^
^
^
各種法面防護工事などが行われた。
49
年の工事用道路として事業化されて
以来、
11
年の歳月をかけ
59
年
10
月
5
日に開通、通年通行が実現した。風不
死岳の麓から苔の洞門を経て、支笏トンネル手前までの改良と舗装工事が
本格化したのは翌
60
年以降である。急勾配
•
急カーブを緩やかにし、モ
ラツプのキャンプ場を回避するルートを新設した
0
1
8
9
億
8
0
0
0
万円
を投じた事業は平成元
(
1
9
8
9
)
年に終了した。
道道
16
号支笏湖公園線
かつて千歳市街地から支笏湖畔までは、明治の頃に開削された本町
4
丁
目交差点からママチ川沿いに御料林を抜ける支笏湖街道があったが、大正
時代には廃れてしまっていた。大正
11( 1 9 2 2 )
年に王子軽便鉄道にー
を余儀なくされていた。なお、支笏国道には、美笛、支笏、滝笛トンネル
があり、美笛トンネルの竣工が一番古く
44
年に完成し、次いで支笏トンネ
ルが
49
年に完成した。
54
年、滝笛トンネルの着工にはじまる
美笛峠の新ルートは延長
6 • 5
3
3
キロと
なり、この区間が周囲を原生林に覆われ
た景勝地のうえ国立公園であることから、
工事の計画
•
施工にあたっては、谷は全
て橋梁で渡り、峠山頂はトンネルにする
など地形の改変を極力さけ自然と調和し
た道路づくりを目指した。この新ルート
写真5 -40支笏大橋(H31.1.19/札幌開発建設部
では、延長
1
• 5
4
5
キロの滝笛トンネル
をはじめとし、滝笛橋、春笛橋、夏笛橋、
秋笛橋、冬笛橋、美笛橋、笹笛橋と中路
式ローゼ桁が美しい支笏大橋など
8
橋と各種法面防護工事などが行われた。
49
年の工事用道路として事業化されて
以来、
11
年の歳月をかけ
59
年
10
月
5
日に開通、通年通行が実現した。風不
死岳の麓から苔の洞門を経て、支笏トンネル手前までの改良と舗装工事が
本格化したのは翌
60
年以降である。急勾配
•
急カーブを緩やかにし、モ
ラツプのキャンプ場を回避するルートを新設した
0
1
8
9
億
8
0
0
0
万円
を投じた事業は平成元
(
1
9
8
9
)
年に終了した。
道道
16
号支笏湖公園線
かつて千歳市街地から支笏湖畔までは、明治の頃に開削された本町
4
丁
目交差点からママチ川沿いに御料林を抜ける支笏湖街道があったが、大正
時代には廃れてしまっていた。大正
11( 1 9 2 2 )
年に王子軽便鉄道にー般の乗車が認められると、人々は市街地から孵化場までの蘭越街道を通り、
さらに
1
。
5
キロほどを王子千歳第四発電所まで歩き、そこから王子軽便鉄
道に乗って支笏湖へ行くのが一般的となった。
当時の千歳は、支笏湖を幽谷の避暑観光地として売り出すためには、大
都市札幌からの観光客の呼び込みが重要であると認識しており、それ
には千歳市街地から支笏湖への自動車道が何より必要だった。昭和
8
年、村の要望活動が実り、拓殖費支弁地方費道
(
現
•
道道
)
として自動車の通れる道に改修され、
13
年
9
月には地方費道千歳支笏湖線
6
21 •
に認定された。
支笏湖と周辺一帯が
24
年
5
月に支笏洞爺国立公園に指定された後、
29
年
に道道
37
号支笏湖公園線として路線認定され、平成
6 ( 1 9 9 4 )
年
10
月
には路線番号を
16
号に変更した。起点は千歳市錦町
3
丁目
(
国道
36
号と
国道
3
3
7
号交点
)
、終点は苫小牧市丸山
(
国道
2
7
6
号交点
)
の総延長
キロである。シーニツクバイウェイ北海道のルートとして春から秋に
かけて格好のドライブコースとなっているが、現在のような快適な舗装道路に整備されたのは
41
年になってのことである。
現在は、観光道路のほかに道南への産業道路としての利用も多く、北海
道では路側帯の拡張や中央分離帯の整備など安全対策を継続している。
サイクリングロード
昭和
45 ( 1 9 7 0 )
年に制定された「自転車道の整備に関する法律」に
より、翌
46
年度から交通安全施設整備事業の中に自転車道などの整備をー
項目として取り上げ整備が進められた。自転車交通の安全を確保し、あわ
せて心身の健全な発達に資することを目的として、
48
年度より大規模な自
59
転車道路のうち整備の必要性の極めて高いものについて都道府県に事業費
の
2
分の
1
を補助して整備を図ったものである。
このサイクリングロードは
50
年
4
月に道路認定され、正式名称は「北海
道道
8
7
2
号支笏湖公園自転車道」といい、認定区間の起点は苫小牧市丸
山、終点は千歳市春日町
2
丁目までの延長
22 • 9
キロである〇ただし、自転
車道路としての起点は支笏湖岸のモラップであり、道道
16
号支笏湖公園線
終点まで国道
2
7
6
号と重複し、終点は錦町
1
丁目の国道
%
号交点
(
千歳
橋
)
となる。そのほか大半の区間で道道
16
号と並行または重複しており、
その区間の一部は王子軽便鉄道の廃線跡を利用している。なお、道道
16
号
とほぼ並行していながら、自動車道とは起点終点が逆となっている。
年
5
月
27
日、着工から
9
年間の工事で全線開通した。当日は千歳サイ
クリング協会による「市民サイクリング」が開催され、市民が支笏湖公園
線に沿って千歳川のほとりや国有林の中を走りぬけた。
現在も、サイクリングはもとよりランニングや散歩などで市民に親しま
れている道である。また、毎年
6
月に開催される「千歳
J
A
L
国際マラソ
ン」のコースとして、近年は陸上競技の実業団チームのトレーニングコー
スとして使用されることも多い。
シ—ニックバイウェイ
平成
17 ( 2 0 0 5 )
年
3
月より北海道開発局では、道路を通じた美しい
景観づくり、活力ある地域づくり、魅力ある観光空間づくりと地域環境に
おける雇用の創出を目的として、米国で取り組まれている制度を参考に独
自の「シーニックバイウェイ北海道」制度の運用を開始した。取組の背景
には、「道の駅」人気やドライブ観光による地域経済への波及効果、北海
道観光の個人型への移行によるレンタカー需要の拡大、さらに休耕田や
シャッタ—商店街にみられる沿道環境の荒廃などの社会情勢があった。
36
シーニツクバイウェイとは景観。シーン
(
scene)
の形容詞形シーニツ
クと、わき道
,
寄り道を意味するバイウェイ
(Byway
)
を組み合わせた
言葉である。当初、複数のモデルルートを選定したが、第
1
号として新千
歳空港とニセコ方面をむすぶ「支笏洞爺ニセコルート」が指定された。国
道
号、国道
2
7
6
号、国道
4
5
3
号、道道
16
号支笏湖公園線はその中心
的な路線の役割を果たしている。
26
年現在、全道
12
の指定ルート、
2
の候
補ルートで、地域と行政が連携した取り組みが進められている。
主要市道の推移
・
第二停車場線
(
中央大通
•
道道
2
5
8
号早来千歳線
)
昭和
41 ( 1 9 6 6 )
年、日本の四輪車生産はアメリカ
•
西ドイツ
(
当時
)
に次ぐ世界第
3
位と
なり、市内の自動車登録台数も
40
年からの
5
年で急増し、道央の小都市で
ある千歳にも高度経済成長期とマイカーブームの波が押し寄せてきた。こ
の時期、貨物自動車の増加は産業発達の象徴となり、乗用車の伸びは個人
消費の増加を意味したが、これらの混在により国道
36
号は恒常的な渋滞を
引き起こしていた。市は、市内中心部を経由している国道
36
号の通過交通
量を緩和させるため、千歳駅前を経由し上長都
(
第
2
工業団地内、現・パ
ナソニック前
)
から朝日町
8
丁目交差点までの
4
。
66
キロを直線的に結ぶバイパスを計画した。当時の第二停車場線は朝日町
8
丁目から東
11
線
(
現
O
イオン千歳店前
)
までであり、東
9
線までの道路予定地にはブロック工場、
電子計算機学校や自動車学校があったことから、富丘団地方面への市内バ
スも東
11
線からは踏切を渡って鉄北通りを抜けていた。
都市計画道路事業である第二停車場線の事業認可は
45
年
6
月
8
日付で北
海道知事より告示され、事業期間は
45
年度から
49
年度までの
5
カ年計画と
された。順調に整備が進むかと思われたが、
45 0
46
年度の事業は札幌オリ
ンピツク冬季大会開催を
47
年
2
月に控えた札幌市に国庫補助が重点的に配
分され、年次計画は足踏み状態となった。市は年次計画の立ち遅れを取り
47
戻すため、
47
年度予算に用地買収費
“
移転補償など約
1
億
2
0
0
0
万円を
要求し、先行して
46
年
6
月に事業用地買収に係る説明会を行っている。こ
の時の買収対象地は
68
筆、
5
5
2
9
•
07
平方孵、対象者は
21
人であったが、
年度中に用地買収。建築物移転補償などを完了させた。
48
年度は要求額
の満額に近い補助金交付により東
11
線から東
9
線に至る延長
1
3
8
7
打の
路盤整備と舗装工事を実施、同年
12
月
4
日に開通した。開通にあたって
は、大型トラックの通過を制限するため
50
キロの速度規制や主要交差点
4
力
所
(
東雲町
5
丁目、清水町
6
丁目、栄町
6
丁目、北栄
2
丁目
)
での一時停
止規制など安全確保対策が講じられた。
49
年度整備工事は清水町
6
丁目か
ら朝日町
8
丁目の国道交差点区間とし、第二千歳橋の架け替え、車道
4
車
線化のための拡幅工事が実施された。同年
7
月北海道告示により都市計画
道路中央大通と呼称されることとなり、
50
年度には工業団地内
2
キロの整備
工事を終えて
51
年に完全
4
車線のバイパスが完成した。
完成の直後から大消費地札幌と苫小牧、道南を結ぶ産業道路として通過
交通量が増大し、その機能面から国道または道道へ昇格が検討された。
60
年度に初めて道道早来千歳線の延長部分として道道認定要望に向けた調査書を提出し、以来、毎年要望を継続した。その結果、平成
8 ( 1 9 9 6 )
年
11
月
36
27
日付で道道昇格が決定し、
12
月
6
日付北海道告示により「早来千
歳線
千歳市美々
1
2
9 2
地先から千歳市上長都
9
6
0
番
1
地先
(
一般国
道
号交点
)
まで」とされた。なお、この道道は市道中央大通との重複認
定であり、道路自体の維持管理は北海道が、沿線街路樹等の維持管理は市
が行っている。
30
号通
サーモン橋
市道
30
号通は、北光
3
丁目東
8
線を起点とし、花
園
3
丁目を経由し千歳川をサーモン橋で越え、流通
2
丁目旭ケ丘通を終点
とする延長
4 2 0
0
打の都市計画道路である。サーモン橋の完成以前の
30
号通は千歳川右岸の東郊、住吉地区と対岸の稲穂、花園地区で分断され、
人道橋のみで連絡されていた。市は
30
号通沿いの住宅地形成が進む中で右
岸地区から国道
3
3
7
号までの緊急避難経路として昭和
58
年からの
5
カ年
計画で建設に着手することとした。同年から実施設計に着手、翌
59
年に護
岸部分を着工した。同年
11
月
30
日には橋梁設置に伴う道路拡幅の変更が都
市計画審議会で可決された。工事は
61
年度上部工事にとりかかり、
62
年度
につり橋風の外観を作り上げ、市民公募により「サーモン橋」と命名した。
また花園側の親柱には千歳川に関する松浦武四郎の謡と千歳川とサケとの
歴史を、住吉側の親柱には夕張日誌にある千歳川番屋の図と解説文を入れ
ることとした。
11
月
18
日に渡橋式を行い、テープカツトの後に幼稚園児、
関係者らが渡り初めを行った〇総工費は
4
億
1
5
0
0
万円、延長は
77 0 8
打、幅員
18
打で両側に幅
3 • 5
财の歩道が設けられた。サーモン橋の完成
により、
30
号通は北光、高台地区と住吉、東郊地区を短絡する重要な幹線
道路となることから交通量の増大が予想され、安全対策として川南通との
交差点には信号機やガードレールが設置された。さらに道路ネツトワーク
の充実が地域開発の進展を促すことを想定し、
30
号通サーモン橋右岸か画の中間見直しなどを機に、これまで
10
年、
17
年、
20
年、
26
年と「千歳市
まちづくりアンケート」を実施してきた。これは生活環境をはじめとする
まちづくり全般、市政運営等に関する評価や意向を把握し、計画に反映す
るためのものだが、「道路や歩道の除排雪」に対する重要度の高さや満足
度の低さで常に
1
位または
2
位にランクされている。この事情は千歳市特
有のものではなく、北海道の都市に共通した傾向であり、地域の除雪のあ
り方に対する市民
•
行政
•
除雪共同体との役割分担や相互連携がますます
重要になってきたといえる。
市道の除雪延長は、車道が約
7
0
0
キロ、歩道が約
2
0
0
キロとなり、車道
の延長約
7
〇
〇キロを直線距離で表すと、これは千歳から栃木県宇都宮市に
至る距離にあたる。グラフを見ると、降雪量は年ごとの変動はあるものの、
除排雪費用はここ数年増加傾向にあり、そこには建設業界の人手不足など
市が抱える多様な課題が内包されている。経費削減に取り組んでいるが決
定打はない状況といえる。今後、現行の除排雪体制を維持するためには、
除雪作業の効率的な運用など、人員が減少した場合でも安全と水準を維持
できる方策の開発が期待される。
参考文献
大島仁「支笏湖畔有料道路史」『志古津』第
19
号
2
0
1
4
年
/
小田賢一「千歳の道
路舗装について」『志古津』第
2
号
2
0
0
6
年
/
支笏湖ビジタ—センタ—
HP
「支
笏湖年表」
/
千歳市『千歳市史』
1
9
6
9
年、『増補千歳市史』
1
9
8
3
年、『要覧
ちとせ』各年、『千歳市道路維持修繕計画』
2 0
1
6
年
/
千歳文化財保護協会『石
に刻まれた千歳の歴史碑文編』
2
0
1
4
年
/
道路行政研究会『道路行政』
/
北海
道開発局『北海道開発技術の歩み』
1
9
9
1
年
/
北海道開発局札幌開発建設部
HP
/
北海道開発局札幌開発建設部札幌道路事務所『道都からの創造札幌道路事務所
20
年の記録』
1
9
9
4
年、『一般国道
2
7
6
号支笏国道工事誌』
1
9
9
1
年
/
北海道開発局札幌開発建設部『支笏湖周辺の国道の被災
復旧の記録』
2 0
1
4
年
/
北海道札幌土木事業所『札幌土木事業所
30
年のあゆみ』
1
9
8
2
年
/
北海道
道路史調査会『北海道道路史
I
行政・計画編、
nr
路線史編』
1
9
9
0
年、『札幌・
千歳間道路物語』
2
0
0
3
年
/
丸駒温泉旅館『原始の森と湖に
支笏湖丸駒温泉
旅館
80
年』
1
9
9
5
年
/
守屋憲治「米空軍千歳基地」『志古津』第
12
号
2 0
1
0
年、
「千歳
恵庭岳におけるオリンピックの記憶」『志古津』第
19
号
2
0
1
4
年
/
『千歳
民報』
/
『北海道新聞』
4節 バ ス
第1項 市内路線バス
1
千歳のバス事業の始まり
千歳におけるバス事業の始まりは、大正15 (1926)年4月に追分の田尻某が千歳駅—孵化場間に定期運行路線を開設したという記録がある。鉄道(北海道鉄道札幌線)開業が同年8月であるから、開業を見越しての運行だったのかもしれない。この時はフォード乗用車を1台利用し運賃は人50銭だった。この年の夏には、千歳駅前で旅館業を営む吉田二郎が譲り受け運行を継続した。
昭和
12 ( 1 9 3 7 )
年には北海道鉄道が吉田から経営権の委譲を受け、
北海道鉄道バス
(
北鉄バス
)
として千歳駅から支笏湖までの定期運行を開
始した。その運行経路は、
13
年 度『千歳村勢要覧』添付の千歳村全図に
写真5-42北鉄バスと女性車掌(S12)
バス路線として記されており、市
街からは孵化場を回って現在の支笏湖道路に合流し、山線と並行して支笏湖に至る道である。したがって終点バス停留所は現在の集団施設地区(第5駐車場)側ではなく中モラップを経由して山線終点(鉄橋)付近であった。
17年の時刻表では支笏湖方面に午前2便、午後1便が運行され、千歳駅前を出発、千歳市街—烏柵舞—孵化場—山線終点(上千歳)—第三発電所—第五発電所—水溜—分岐点に停まり、終点支笏湖であった。車両はシボレー製ボンネットタイプを4台使用し、女性車掌が添乗していた。
1
戦後のバス復興
戦時体制下の昭和
17 ( 1 9 4 2 )
年、政府は各都道府県のバス事業者を
〜数ブロックに分けて
1
社に統合するように旅客自動車運輸事業統合要
綱を発表した。いわゆる戦時統合であるが、この方針に基づき北海道庁警
察部は、道内各地の交通事情の調査や統合主体の選定を進め、全道
7
地区
統合案をバス業界に示した。バス業界では北海道乗合運送事業組合に設置
した事業統制委員会において協議と検討を重ね、
18
年から
19
年にかけて各
地区で新会社の設立をみることとなった。札幌地区では
21
社が統合し総車
両
1
7
5
台を保有する新会社が誕生した。
道内のバス統合会社は次のとおりであった。
1
2
3
4
5
6
7
札幌地区北海道中央乗合自動車株式会社
函館地区函館乗合株式会社
室蘭地区道南乗合自動車株式会社
旭川地区道北乗合自動車株式会社
十勝地区帯広乗合自動車株式会社
釧路地区東邦交通株式会社
北見地区北見乗合自動車株式会社
このほかに公営交通の札幌市と函館市の
2
社が存続することになった。
全道で
99
を数えた事業者が
9
つの新会社に激減した大統合であり、このと
きに生まれた新会社と営業エリアが、北海道における戦後から現在まで続
くバス業界の基本的な勢力地図の基となった。ちなみに、北海道中央乗合
自動車の札幌地区の範囲は、札幌、小樽を中心とした寿都以北、厚田、美
唄、夕張地方とされた。千歳は札幌地区の南限であった。戦後、旭川、十勝、北見、釧路の各地区では統合会社の分割が行われ営業エリアも再編さ
れたが、札幌地区での分割はなかった。後の「北海道中央バス」の営業エ
リアが道内でも突出して広いのはこのような背景があったからである。
20
年
10
月、運輸省は戦後復興促進のため、バス事業の早急な再建が必要
なことから、自動車局長名で各都道府県知事あてに「旅客自動車運輸事業
再建計画に関する件」の通達を出し、計画を推進するよう指示した〇この
通達を受け戦時中に休止していた事業者の中でまず私鉄系の定山渓鉄道
(
札幌市
じょうてつバス
)
や早来鉄道
(
厚真村
現・あつまバス
)
がバ
ス事業を再開した。また、国鉄も国の復興政策と資本をバツクにバス事業
への進出を図った。広大で人口密度の低い本道においては、疲弊した民間
事業者ではバス路線網の整備は無理という考えによるものであったが、各
地で民間事業者と免許の争奪戦を繰り広げることとなつた。
車
㈱
22
24
千歳近郊の路線拡張
(
北海道中央バス
)
昭和
17 (
1
9
4
2
)
年のいわゆる戦時統合により石狩
•
空知
•
後志
(
小
樽
)
からなる札幌地区の
21
社が統合し、
19
年に社名を北海道中央乗合自動
として設立登記した。統合会社の中には、当時、千歳駅前と支笏湖間
を走っていた北海道鉄道のバス事業
(
北鉄バス
)
も含まれていた。
年には札幌—千歳間
(
千歳線
)
の路線免許を、北海道中央乗合自動車
と国鉄が争い、結果として北海道中央乗合自動車が免許を取得した〇同社
は早速、同年
9
月
1
日に本町
2
丁目に営業所を新設した。その後も札幌地
区の各自治体に営業所の新設を続け、バス路線網を張り巡らしていつた。
年
6
月、北海道中央乗合自動車
㈱
は、社名を北海道中央バス
㈱(
以下「中
央バス」
)
と改称し、本社機能を戦時統合会社の母体会社の所在地であっ
た小樽市に置いた。同社はこの年の
4
月には千歳
•
三川線
(
千歳駅前—峻
淵郵便局経由—三川駅前
)
の免許を取得し運行を開始し、続いて翌
25
年
5月には長都線
(
千歳駅前—長都小学
校経由—島松駅
)
の免許を取得した。
戦後の食料事情も背景にあったの
か、いずれの路線も千歳から鉄道線
路と並行せず農産物の流通拠点駅と
26
を繋いでいる。
年
6
月には民間航空再開ととも
に、日本航空と札幌—千歳空港間に
日航利用旅客送迎用貸切バスを運行
した〇
1
日
1
往復で
4 0
0
0
円であ
り、日航が
2
5
0
0
円を負担、残り
円を利用客が負担すること
とし、片道
50
円を支払った。当時の民間航空タ—ミナルは米空軍千歳基地
現・航空自衛隊千歳基地
)
の中にあり、基地の正面ゲ
I
卜に近く、国道
にも面した営業所は格好の営業拠点であった。その国道
36
号は
28
年に札幌
—千歳間が全線舗装された。カーブや坂の勾配を緩くするなどの切替工事
が行われ、バスの走行環境は格段に向上し、千歳線は中央バスのドル箱路
1
5
0
(
0
写真5-43中央バス千歳営業所(S33頃/ASAチト
セ協会提供)
線となった。
中央バスにとって千歳は営業区域の南限であったが、千歳空港や国道
36
号沿線住民の利用需要などから千歳を都市間交通の拠点とした。その後も
北千歳駐屯地、東千歳駐屯地、千歳基地開庁などによる人口増加と市街地
ス
㈱
(
の拡大は市内路線の延長につながっていった。
なお、平成
19 (
2
0
0
7
)
年
4
月から市内路線の運行を札幌第一観光バ
千歳営業所
•
青葉
2
丁目
4
1
3
)
に委託した。
26
年度現在、中央バ
スが運行している市内バス路線は次のとおりである
桜木長都線、桜木空港線、大和線、空港市内線、東千歳線、稲穂団地線、支笏湖線
中央バス千歳タ—ミナル昭和
34
年、千歳タ—ミナルが
本町
2
丁目の営業所横に新築され市
内・市外路線の起終点となった。建
物は本造モルタル
2
階建てで、
1
階
に待合所と発券窓口や売店のほか事
務所があり、
2
階に会議室という構
造であった。待合所からは発着バー
スがフラットホーム式につながって
おり、バスの発着アナウンスが響くとプラットホーム上に乗客が溢れるなど賑わった。平成
16 ( 2 0 0 4 )
年
の
J
R
千歳駅西口タ—ミナルビルの完成、それに合わせた市内路線の大幅
改編に伴いこの千歳タ—ミナルは廃止となり、営業所は青葉
2
丁目の青葉
車庫地に移動した。長く市民に親しまれた旧タ—ミナルの建物は同年夏に
取り壊された。
支笏湖へのバス路線
(
苫小牧市営バス・支笏湖観光バス
)
支笏洞爺国立公園の指定は昭和
24 (
1
9
4
9
)
年
5
月のことだった。当
時の支笏湖畔には、王子製紙苫小牧工場倶楽部別荘
(
貴賓館
)
と宿舎、営
林署、郵便局、小学校などの施設があったが、王子製紙経営の翠明閣
(
接
収中
)
以外にホテルなどはまだ整備されていなかった
(
支笏湖観光ホテル
が建設中
)
。観光地らしいものといえば、戦後まもなくから小規模な売店
や貸ボート・遊覧船の営業がされていたぐらいであった。
25
年
8
月
24
日、支笏湖—苫小牧間の道路
(
支笏湖産業道路
H
現・国道
2
7
6
号
)
が完成すると同時に苫小牧市営バスが開業した。翌
25
日には苫小牧—支笏湖間のバス路線の運行を開始した。観光が産業として発展する幕開けの時代であり、支笏湖の国立公園化にいち早く対応したこの路線は苫小牧市営バスのドル箱路線となった。苫小牧—支笏湖間の所要時間は
45
分、運賃は
70
円であっ
た。ちなみに、苫小牧市営バスに遅れること約
1
年、
26
年
6
月には中央バ
スが札幌・支笏湖線
(
千歳回り
)
の運行を開始した。
30
年頃には支笏湖への観光客も増加し、湖畔で営業する貸ボート業者に
より支笏湖観光船企業組合が結成された。組合は
35
年には北炭観光開発
㈱
に譲渡され、その後、支笏湖観光運輸
㈱
として運輸部門が独立しバス路線
を運行した。路線は、札幌五番館前—支笏湖畔、支笏湖畔—支笏湖グラン
ドホテル
(
オコタン
)
、支笏湖畔—支寒内があったが、
50
年代後半にバス
事業から撤退した。
ちなみに、支寒内バス停は苔の洞門への入口に設置されており、平成
9
)
1
9
9
(
7
年に中央バスが支笏湖畔タ—ミナル—苔の洞門間の路線を開
設し、夏の期間
( 6
10
月
)
だけ運行していた。観光客で賑わっていたが、
13
年
6
月に発生した岩盤崩落で洞門内が立入禁止となり
14
年に路線は体止
となった。
支笏湖畔タ—ミナル
昭和
40 (
1
9
6
5
)
年に苫小牧市が千歳市湖畔番
外地
(
現・千歳市支笏湖温泉
)
に設置。苫小牧市営バスと中央バスの共用
夕—ミナルとなっていた。平成
5 T
9
9
3
)
年
12
月、苫小牧市営バスが
苫小牧駅—支笏湖間の路線を中央バスに譲渡し支笏湖から撤退し、施設は
中央バス専用となつた。しかし、
12
年に苫小牧駅—支笏湖間の路線廃止と
ともに施設も廃止となった。現在は支笏湖温泉駐車場内に「支笏湖」停留
所がある。
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