例 言
路線史分科会
北海道道路史のうち、lI 行政・計画編とII 技術編は、道路を専門的な分野からとらえたものであるが、~路線史編はこれらに対し一般論として道路をみようとするものである。
元来、道路は経済的にみると生産と流通の両方の機能をもち、政治的には権力の浸透や中央集権化に必要であり、 また治安・防衛上からは欠くことの出来ないものでもある。さらに文化や技術の普及に重要な役割をも果たしている。
こうした観点から、北海道の道路がどんなおいたちを持ち、どんな役割を果して今日にいたったかを、史実にしたがってその歴史をたどってみようと言うのがこのII!路線史編の意図するところである。
前2編を北海道道路史の本文とするならば、本編はその副読本と言うべきものかと思っている。
第1 章 北のみちの移り変わり
北海道では、江戸末期の頃から色々な目的で道路が開削されてきたが、これらの大半は人や駄馬がやっと通れる程度のみちであった。少なくとも馬車が通れるような道路らしい道路が築造され、 また管理される様になったのは、明治の始め北海道に開拓使が置かれてからである。その後、道路に対する行政上の変遷は多少あったが、道路の格付けや費用区分など系統立った道路行政が軌道に乗り出したのは、大正8年に道路法が制定されてからである。この道路法もその後何回か改正され、さらには新しい制度が組み入れられるなどして今日にいたっている。
「北のみちの移り変わり」はこれらの変遷を主として行政面からみてまとめたものである。
第2章 北のみちの歩み
現在、北海道の道路は幹線道路を骨格として立派な道路網が形成されているが、これらの道路は北海道開拓以前の古くから開削されてきたもの、 または第二次世界大戦後新しく築造されたものなどが組み合わされて出来ている。そしてこれらの道路はどのような目的で、 またどのような方法により築造され、どんな役割を果してきたかなどそれぞれの歴史をもっている。
「北のみちの歩み」は北海道の道路の中から重要と思われる13の路線を選び出し、これらの道路が持つおいたちを史実にしたがってたどってみようとするもので、~路線史編が意図した主軸をなすものである。
執筆は各路線ごとに、北海道の歴史や郷土史を研究されている方々に依頼したもので、内容にはそれぞれの研究分野による特質なども表現されているかと思っている。
第3章 北のみちの峠と岬
道路を築造する場合にも、 またこれを利用する場合にも、その路線のキーポイントとなっている箇所は、内陸部では峠、海岸線では岬であると言うことができる。
峠と岬には、その道路の築造に伴う技術的な労苦、開通による経済効果、または交通に際しての難所であったり、景観の優れた名所となるなど、道路が持つ色々な課題が集約されていると言っても過言ではない。
「北のみちの峠と岬」は北海道内の主な峠と岬について、その実態を紹介しようとするものである。
記述に当っては、その峠と岬が持つ歴史的な経緯のほかに逸話や伝説なども加えて、肩のはらない平易な読物とした。
したがって、道路史の範ちゅうからは多少はずれているきらいもあるが、路線史の付録と考えていただければと思っている。
文章の体裁等
(1)本文の用字は特定の述語・固有名詞のほかは原則として新字体および現代かなづかいを使用した。
(2)引用文は「 」で囲むか、 または改行して本文と区別した。
(3)引用文には原則として出典史料・文献名を『 』で付した。
(4)参考文献・出典史料・写真提供者は章または節の末尾に付した。
(5)本巻は歴史叙述書であるので、人名には敬称を付していない。
(6)年代の記述は日本年号をもって表し、必要に応じて( )を付して西暦を入れた。
(7)度量衡の単位はメートル法としたが、当時の単位はそのままとし、必要に応じて( )を付してヌートル法に換算して記入した。
(8)本文中の数字の表記については、金額と特殊なものにのみ、億、万の単位記号を付した。

▲道南の秀峰駒ケ岳と国定公園大沼付近を走る幹線「国道5 号」(北海道開発局提供)
▲札幌本道開削当時の歴史を語る「森埠頭の跡」(三浦 宏氏撮影)
▲日本一長い直線道路「国道I2号」(北海道開発局提供)
▲交通混雑を解消した「国道~2号岩見沢バイパス」の状況(北海道開発局提供)
▲天下の険・神居古潭の景勝地を走る「国道I2号」(北海道開発局提供)
▲札幌と千歳とを結ぶ幹線道路「道央自動車道と国道36号」(左:旧国道、中央:国道36号、右:道央自動車道)
(北海道開発局提供)
▲天下の険礼文華峠と静狩峠を走る「国道37号礼文華道路」(北海道開発局提供)
▲内浦湾を眺めながら走る「国道37号豊浦海岸付近」(北海道開発局提供)
▲歴史と文学に多く登場する交通の要路「国道38号狩勝峠」(北海道開発局提供)
▲苦難の開削を物語る「国道38号狩勝峠付近」(右下が旧国鉄線路)(北海道開発局提供)
▲北海道随一の景勝地である「国道39号層雲峡付近」の柱状節理(北海道開発局提供)
▲国道開削のために尽力された「国道39号尾崎天風氏の像と石北峠」(嘉屋義興氏撮影)
▲石狩と北見を結び大雪国立公園内を走る「国道39号石北峠の冬道」(北海道開発局提供)
▲古くからの難所といわれ苦難の歴史をとどめる「国道228号小砂子山道」(北海道開発局提供)
▲大正の末期に造られ歴史を今に残す 「国道229号茂岩海岸の道」(三浦 宏氏撮影)
▲念仏トンネルから望む多くの伝説を伝える岬「国道229号神威岬」(金森卓也氏撮影)
▲住民の悲願が実り道路の開通を祝う「国道229号国道開通記念茂津多岬碑」(倉橋力雄氏撮影)
▲近代道路の技術の粋を集めて造られた「国道230号定山渓道路」(北海道開発局提供)
▲自然との調和をはかり道路美を誇る「国道230号定山渓道路」(北海道開発局提供)
▲雄大な眺めと秀峰羊蹄山を望む王様級の峠「国道230号中山峠」(島下拡也氏撮影)
▲断崖絶壁の海岸を走り、幻の国道といわれた「国道23 ~号雄冬岬」(北海道開発局提供)
▲北へ向かって大きく延びる札幌の幹線道路創成川沿いの「国道5 号・231号」(北海道開発局提供)
▲道都札幌の歴史を伝え、名橋のーつに数えられる「国道36号先代豊平橋」(北海道開発局提供)
▲氷点の街旭川のシンボル「国道40号旭橋」(北海道開発局提供)
▲霧の街釧路の旅情を語る「国道38号幣舞橋」(北海道開発局提供)
▲遥か北方領土国後島を望む絶景の「国道334号知床横断道路」(北海道開発局提供)
▲黄金を敷き詰めた道ともいわれる断崖絶壁の「国道336号黄金道路」(北海道開発局提供)
▲赤い崖と白いダケカンバを縫って走る 「道道洞爺湖登別線オロフレ峠」(島下拡也氏撮影)
▲「島よ帰れ/」の国民の悲願と望郷の岬「道道根室半島線納沙布岬」(根室市観光協会提供)
▲雄大な十勝平野六百方里を一望する展望台「国道274号日勝峠」(鈴木勝美氏撮影)
▲道南の下海岸を貫く歴史を伝える「国道278号素掘りトンネル群」(三浦 宏氏撮影)
▲知床の羅臼岳を望む秘境の地「国道334号知床横断道路」(北海道開発局提供)
▲A’89「道の日」PHOTO CONTEST 最優秀賞「峠の朝」道道札幌タ張線タ張市(嵐田勇太郎氏撮影)
▲A’89「道の日」PHOTO CONTEST 佳作「春の高速道」道央自動車道奈井江町(仁和 亮氏撮影)
III.路線史編目次
第1章 北のみちの移り変わり 上 野 正 人 1
第2章 北のみちの歩み
北のみちの
北のみちのあらまし 41
1 .松前と江差へのみち・下海岸のみち 紺 野 哲 也 43
2.にしんのみち 小 林 真 人 81
3 .本願寺のみち(虻田~札幌) 氏 家 等 123
4.本府へのみち 青 山 英 幸 150
5,中央道路(札幌~旭川) 桑 原 真 人 182
6 .北見へのみち(旭川~北見~網走) 秋 葉 実 212
7 .太平洋岸のみち(苫小牧~釧路) 太 田 善 繁 240
8 ,択捉へのみち(釧路~択捉) 佐 藤 宥 紹 276
9 .知床へのみち 布 施 正 306
10 太平洋からオホーソク海へのみち 寺島敏治 佐藤 尚 340
11,宗谷場所から斜里場所へのみち 秋 葉 実 366
12.上川から宗谷へのみち 丹 治 輝 一 396
13.十勝へのみち 畑 山 義 弘 太田 414
第3章 北のみちの峠と岬 三浦宏
北のみちの山幸と岬図
峠および岬 序説 445
1.イナウをささげて通った稲穂峠(国道5 号) 448
2.かつては旅人泣かせの礼文華峠と静狩峠(国道37号) 450
3 .十勝六百方里を脚下に望む狩勝峠(国道38号) 455
4.壮大な眺めと紅葉の石北峠(国道39号) 459
5.SL と小説の塩狩峠(国道40号) 463
6.多くの歴史を秘めた中山峠(国道227号) 466
7.雄大な連峰一望の中山峠(国道230号) 470
8.日本海と道北の内陸を緒ぶ士別峠と霧立峠(国道239号) 476
9.原始の大樹海と阿寒湖を望む釧北峠(国道240号) 479
10.美しいたたずまいが広がる美幌峠(国道243号) 481
11.古くからの斜里越えのみち根北峠(国道244号) 484
12.大雪の樹海を眼下に三国峠(国道273号) 486
13.湿原の下を通る浮島峠(国道273号) 488
14. 過随道樹海鮮日勝峠(国道274号) 490
15.支笏湖を眺める美笛峠(国道276号) 493
16.道路史上悲惨な歴史をとどめる北見峠(国道333号) 495
17.遙か国後の島を望む知床峠(国道334号) 498
18.山峡のハイウェー朝里峠(主要道道小樽定山溪線) 501
19.洞爺湖と登別の観光地を結ぶオロフレ峠(主要道道洞爺湖登別線)503
20.風光明媚を誇る川汲峠(主要道道函館南芽部線) 505
21.糠平湖と然別湖を結ぶ幌鹿峠(主要道道鹿追糠平線) 508
22.道南の古くからの峠みち稲穂峠と梅漬峠(主要道道江差木古内線・厚沢部上磯線)509
23.積丹半島を横断する当丸峠(一般道道古平神恵内線) 511
24.古くから渡海の難所白神岬(国道228号) 512
25,航海者が恐れた神威岬(国道229号) 515
26.伝説の海岸雷電岬(国道229号) 519
27.断崖絶壁のみち茂津多岬(国道229号) 522
28.荒削りの海岸美雄冬岬(国道231号) 526
29.日本最北端の地宗谷岬(国道238号) 531
30.北の岬の峠みち神威岬(国道238号) 534
31.豪放な景観の襟裳岬(主要道道襟裳公園線) 536
32.四島のかけ橋納沙布岬(主要道道根室半島線) 540
第1章 北のみちの篤り変わり
上 野 正 人
1 .みちのはじめ
北海道は、氷河時代である第四期洪積世の氷期には本州と陸つづきになり、朝鮮半島やサハリンを通じてアジア大陸とも陸つづきになった。この時期に東アジアから渡ってきたナウマン象は、日本列島を北上して十勝の忠類村まで到達し、シベリアのマンモスは襟裳岬まで南下してきた。当時の人々は、食糧や衣服をまかない道具や装飾品を作るための貴重な資源であったこれらの動物を追って、ついに北海道までやってきた。
人類は出現とほぼ同時に道具として石器を使い始めたが、北海道の人々もヤジリ、石オノ、ナイフなどの利器として石器を使用した。これらの石器は、北海道内各地の遺跡でいくつか発掘されているが、千歳市祝梅では今から2 万年以上前のものが発見されている。しかも近くに黒曜石の産地がない祝梅では、白滝や十勝三股など150km以上 も離れた所の黒曜石で作った石器が発見されている。
以上のことから、北海道には少なくとも2 万年前から人が住んでいたことになり、さらに人々は、かなり広い範囲にわたって行き来していたことになる。
この旧石器文化の時代は、やがて、新しい利器である土器の出現によって、約I万年前に縄文文化の時代へと移行した。土器を使用するようになると、食物の料理や貯蔵に新しい方法が生まれ、食糧の確保がより容易になって、人々の生活は楽になり、人ロも増加したことと思われる。しかし、人々が狩猟‘漁労・採集によって食糧を得ていたこの段階では、徒歩によって行動できる範囲は限られ、得られる食糧の量も限られた。したがって、獲物の量が少なくなってくると村全体が新しい場所に移動したり、人口が増加すると分村したりしなければならなくなり、採取経済の村は大きな集落に発達することはできなかった。北海道内の竪穴住居についての調査結果によれば、縄文文化の村はせいぜい4 ないし5 戸で成り立っており、食糧の豊富な場所でも10戸をこえるのがやっとであった。
この時代には、村の人々ができるだけ遠くまで獲物をとりに行くことができるように、いくつかのルートがつくられていたのではないだろうか。それは、河岸や海浜に沿ってできた“踏み分けみち”や、原始林のなかの‘‘けものみち”であった。これらの“みち” は、自然のままの地面を人や動物が踏み固めただけのものであって、 “みち”の原型であり、 「ししみち(鹿路)」 と呼ばれる。
西暦紀元前後(約2, 000年前)ころになると、本州方面から弥生文化の金属製品が流入し盛んに使われるようになったが、米づくりは行われなかった。この北海道独特の続縄文文化は7 世紀ころになると、さらに本州方面の古墳文化の影響をうけて擦文文化へと変わっていった。
擦文文化の時代には石器が姿を消し、大量の鉄製品が移入されて北海道内で広く使用された。
この時代も米づくりは行われなかったが、竪穴住居には“かまど”が作られ、遺跡からはアワ、ヒエ、ソバなどの穀物やカマ、スキなどの鉄製農具が発見されており、原始的な農業が盛んに行われていた。しかし擦文の村もやはり住居は5 , 6 軒から10軒どまりであったと考えられている。
13世紀に入ると擦文文化の村はほとんど姿を消し、北海道はアイヌ文化の時代に移った。 この時代には土器が消滅し、鉄ナべが全道的に使用されるようになったが、擦文文化の時代に盛んに行われた原始農業はほとんど行われなくなった。
“和人’’は12世紀ころから北海道に入り込むようになり、渡島半島の海岸部に住んで漁業を営んでいたが、やがてその数を増し、汐首岬(戸井町)から熊石までの問に福山(松前町)、江差その他多くの小村落を形成するようになった。しかし、これらの村落相互の陸上交通は、やはり、徒歩によって‘‘ししみち”をたどるものだけであった。
また15世紀なかばには、この地に入った和人豪族たちはそれぞれ館(たて)と呼ぶ砦を構えていたが、長禄元年(1457)、花沢館(上ノ国町勝山)の客将・武田信廣が、10箇所の館を次々に陥落させたコシャマインの蜂起を鎮定すると、茂別館(上磯町矢不来)の館主・下國家政は信廣の功績をたたえるため「中野路」 を経て上ノ国へ行った。
この 「中野路」 は木古内から上ノ国に至る山みちで、当時は渡島半島唯一の横断路であったが、 「仏法僧の声昼さへ聞きし、いと物凄き山中にて、鬼熊の荒れ渡れば、人多からずばゆめゆめ行くまじき道なり。」 としるされており、渓谷をさかのぽり、浅瀬を渡って行く険しい“ししみち’’であソた。
武田信廣は、上ノ国の蠣崎家を継いで事実上道南諸豪族の指導的地位を確立し、第2 代光廣は本拠地を上ノ国から大館(松前町)に移した。文禄2 年(1593)、第5 代慶廣は豊臣秀吉から蝦夷地交易の独占権を認められ、慶長4 年(1599)には氏を 「松前」 と改め、同9 年(1604)、徳川家康にも交易の独占権を再確認されて、ここにー藩を形成した。
松前藩は、和人の定住地を、東は亀田(函館市)から西は熊石までの区域に限定して、ここを 「松前地」 または 「和人地」 と呼び、その他の地域をF蝦夷地」、このうち亀田以東内浦湾から襟裳岬、根室を越え、国後・択捉両島を加えて知床半島突端までをt’東蝦夷地」、熊石以北宗谷から斜里を経て知床岬までを 「西蝦夷地」 と呼んだ。そして、領内では米がとれないため、アイヌの人々や本州方面との交易によって得た利益や本州方面から来る商人・船頭等に課した諸税によて藩の財政をまかなわなければならなかったので、松前地と蝦夷地との境には亀田番所と熊石番所を置いて、出入りする和人とアイヌの取り締まりを行うとともに、本州方面と北海道の各地を往復する船舶は往路、復路ともかならず福山、江差、箱館の三港(さんみなと)のいずれかに寄港させ、積荷や旅人についての検査を行なって規定の税を徴収した。
しかし、松前藩は格別の拓殖政策を持たず、和人の増加を望まなかったので、宝永4 年(1707)に15, 848人であった和人の人口は天明7 年(1787)に26, 564人になったにすぎず、さらに、蝦夷地の陸上交通を便利にすることはむしろ好まなかったものと思われ、和人の往来はこれまでどおりすこぶる困難なものであった。
一方、本州方面においては、西暦紀元前200年(約2, 200年前)ころになると、中国大陸や朝鮮半島と交流があった北九州の一角に、稲作技術と金属器使用を特色とする弥生文化が誕生し、西暦300年ころまでには本州最北端の下北半島でも稲作が行われるようになった。この新しい農耕文化は、狩猟。漁労・採集を主とした人々の生活を、米づくりの生産活動を中心とするより安定した生活に変え、人間の定住化という大変革をもたらした。また、鉄製農具の使用や田地の開拓にともなう生産量の増大によって人口も集落もふえ、首長的な地位のもとにいくつかの集落がまとめられてーつの地方勢力に発展した。それらはそれぞれ組織と秩序を強化し、分立して小国家群となったが、やがて弱小国は強国に併合され、 4 世紀には畿内の大和朝廷を中心とする日本の古代国家が成立した。
大和政権は、豪族間の対立、地方豪族の反乱などの混乱期を克服し、6 世紀には全国支配体制の確立にむけて進みはじめたが、大化2 年(646)、中央集権国家の形成を目ざす大化改新の詔(みことのり)が発せられた。この中には、地方行政組織を整えることや駅馬(はいま)、伝馬(つたわりうま)を置いて交通の制度を充実させることが示されており、このころから系統的な人工の道「はりみち(治道)」 が造られるようになって全国的な道路網の整備が進められた。 そして、中央集権体制を完成した大宝元年(701)の大宝令によって、中央と地方の間を官吏が公用旅行する場合の馬による 「駅制」 が制度的に確立し、そのための 「駅路」 は、太宰府に通じる山陽道、東山道、東海道、北陸道、山陰道、南海道および西海道の七道とこれらの支道によって本州‘四国・九州の68箇国の国府に通じていた。
北海道も縄文時代の終期までは本州方面とほとんど変わらない文化内容であったが、縄文文化に続く弥生文化の時代以降は本州方面と著しく異なる経過をたどり、人々は一貫して自然に依存した採取経済の生活を続け“ししみち’’の時代を送った。北海道の“はりみち”の時代は、さらに1,000年をこえる時間の経過を待たなければならなかった。
2.北海道道路開削の嚆矢
徳JIに代将軍家光は寛永10年(1633)以降、キリシタンの禁制、日本人の海外往来・海外居住の禁止および貿易取締りの三点を主眼とするいわゆる‘‘鎖国令”を公布し、日本は国際的孤立化の道をたどることとなった。しかし、18世紀後半になるとョーロッパ諸国の船が北海道の沿岸に次々と姿を現わすようになり、寛政8 年(1796)と9 年には英国帆船プロビデンス号が内浦湾に入って停泊し、松前藩の人々を驚かせた。 また、ウラル山脈をこえて東進したロシア人は、シベリアからカムチャッカを経て千島列島を南下し、18世紀末には択捉島にまで足を伸ばしてアイ々にキリスト教をひろめるに至った。
ここにおいて江戸幕府は蝦夷地の状況を放置できず、総勢180余人の大調査団を派遣することとした。寛政10年(1798) 5 月、松前に到着した一行は2 班に分かれ、一班は東蝦夷地を巡視して国後、択捉まで行き、他の一班は西蝦夷地を宗谷まで進み、帰途には天塩川と石狩川の流域を精査した。
択捉島に渡った支配勘定・近藤重蔵は、タンネモイの丘にロシア人の建てた木柱があるのをみてそれを倒し、右のような標柱を建てて帰途についた。重蔵は、国後島の泊から野付に渡り、厚岸を経て広尾まで来たところ、風雨が強くて波が高く海岸沿いに進むことができず、数日問の滞在を余儀なくさせられた。
天気の平穏な日でも、崖を登り降りし、波間を見計らって岩礁伝いにかろうじて通行できる状態を見た重蔵は、往路において、広尾~幌泉(えりも町)間の海岸の険しい箇所に道路を開削しようと考えていたので、ここで、従者、通詞ならびにアイヌの人々68人とともにルベシベツからビタタヌンケに至るおよそ3 里(11.8km)の山道を開いた。そしてそのかたわらに次の文を刻んだ立札を建て、往来の人に示した。
P4画像に差し替えのこと
の人 寛政十年 最上徳内
大日本恵登呂府 近藤重蔵 下野源助 (以下、略)
戊午七月
従
者
おぼへ
このみちわ はまとほり トモチクシならびに
ヒンナイとうのなんしょありて
わうらいのもの なんぎすべきによりて
このたび あらたに きりひらきたるあいだ
こののち わうらいのもの ひとえだのき
いっぽんのよしなりとも きりすかして ながく
わうらいのためを こころがくべきものなり
寛政十年午十月 近藤重蔵
東蝦夷地随一の難路であった広尾と庶野(えりも町)の間は、昭和2 年(1927)から8 年間の歳月と多大の費用を費やし、さらに多数の殉職者を出して、昭和9 年10月31日、自動車で通行できる道路33km余が海岸沿いに開通し、 “黄金道路”と呼ばれるようになった。
この道路の開通にさいして北海道庁は、136年前、まだ松前領であったこの地に独断で山道を開いた近藤重蔵の偉業をたたえるため、重蔵の従者・下野源助が板に刻んで広尾の十勝神社に奉納した山道開削の経緯を石碑に刻み、ルベシベツの路傍にたてた。
そして裏面には次の―文を記し、ルベシベツ~ビタタヌンケ間山道についての北海道道路史上の意義を明らかにした。
黄金道路ルベシベツの記念碑と「重蔵隧道」(綱島榮-氏撮影)
この碑文の道路は此虚より
分岐したるものにして本道
道路開鑿の嚆矢とす
昭和九年九月 北海道廳
3.江戸幕府のはりみち
江戸幕府は、寛政10年(1798)に派遣した蝦夷地調査団の復命を受け、 「微力なる松前藩に一切を任せ置くべきでない。」 として同年12月、老中直属の蝦夷地取締御用掛を設置したが、つづいて翌11年正月には早くも東蝦夷地を御用掛の支配地とし、その警備を津軽・南部両藩に命じた。
松前藩は、家臣に対する俸祿の代わりに蝦夷地を適当に分割した「場所」 を与え、そこで家臣がアイヌの人々との交易を行なって利益を得ることを許したが、この「場所持」の家臣はやがて自ら場所の経営に当たることをやめ、一定の料金(運上金)をとって特定の商人(場所請負人)に任せるようになった。これらの場所は寛政年間には東蝦夷地41箇所、西蝦夷地42箇所に達していたが、幕府は商人の利益追求に伴う不適正な交易を排除して「土人撫育」の実をあげるため、東蝦夷地の場所請負制を廃止し、 「直捌(じきさばき)」 と呼ばれる直轄経営を行なった。
また、蝦夷地取締御用掛に任命され、その後9 年間にわたって蝦夷地経営に携わった羽太正養が、当時の交通の状況と施策の方針をその著「休明光記」に、
蝦夷の地は盡く険岨にして通路自在ならず、所としては人蹟を絶え、其海岸掻送り舟をもって漸々に通路をなすといへども、風順よからざれば舟行の道をたち、徒に風を待て日を送る。かくては事あらんとき急を告るに妨あり。亦常に往来の煩ひなれば、ことごとく道を開て通路をつけ、往来の煩なからしめ、又数里の間旅宿なければ、旅行のもの野宿の労にたえず、前にいふ所の官舎を建て旅宿とせん。先是等の数事をさしあたる所の急務として手を下さむ。
と記しているように、国防と開拓を意図する幕府は、交通路の確保を最重要事項として道路の開削や旅行者のための宿舎の建設、駅馬の配置などに力を注いだ。
道路については、南下するロシア人との最前線であった択捉島へのルートに重点を置き、海岸沿いの山道を開削することから始めた。
礼文華山道 長万部~虻田間の難所で、潮が引いたときでも和人は海岸を通行することができず、この区間はもっぱら舟によっていた。寛政11年(1799)、幕府の命令を受けた松前藩が開削に着手したが完成できず、翌12年、幕吏・小林卯十郎が弓は継いで工事を行なったが、なお人馬の通行は困難であった。享和3年(1803)、東蝦夷地の警備に当たる津軽藩はこの山道の改修を幕府に申し入れ、翌文化元年(1804)から警備の兵を動員して工事を進め、延べ9, 630人の労力を費やして文化3 年竣工した。道幅は3 尺(0. 9m)を標準とし、その両側3 尺づつの草木を切り払ったもので、山道の延長は4 里(15. 7km)であった。
様似山道 様似~幌泉(えーりも町)間の難所で、この区間はルランベツの断崖が海に迫り、幌満川の河口には海中に突き出した高い絶壁があって、天気の良い日でも人の通行を阻害していた。
寛政11年、幕府は蝦夷地取締御用掛・大河内善兵衛に様似・猿留両山道の開削を命じたが、大河内は様似に常駐して指揮をとり、 5 月18日に着工して3 里(11.8km)の山道を同年開通させた。しかし、この山道は高低屈曲がはなはだしく、風雨のさいには往来は困難を極めたので、警備にあたる南部藩は開通の3 年後、享和2 年(1802)に士卒50人を投入し、約100日を費やして改修工事を行なった。
猿留山道 従来、日高から十勝へ入るには幌泉(えりも町)から襟裳岬を迂回して海岸沿いに進んだが、庶野(同町)から先は岩礁の多い海岸でかなりの難路であった。寛政11年、様似山道の着工と同じ日、この山道の開削に着手し、同年、延長約7 里(27. 5km)の道路を開通させた。この山道は、幌泉から歌gリJ!!の渓谷をさかのぼり、豊似岳の中腹をまわって猿留川の中流に出、そとから川筋を下って目黒(同町、ビタタヌンケから約4 血手前)に至るものであるが、その距離が長いことと地形が険しいことから、東蝦夷地第一の難道といわれた。
釧路~仙鳳趾間 当時、国後島や択捉島へ行く陸上の交通路は、釧路から海岸沿いに昆布森(釧路町)を経て仙鳳趾(同町)まで行き、仙鳳趾から厚岸湾を渡船で渡り、厚岸から舟で厚岸湖を渡って別寒辺牛川をさかのぽり、ノコベリベツ川、風蓮川を下って風蓮湖から根室または野付(別海町)に行き、そこから国後島へ渡るものであった。このうちの釧路~仙鳳趾間は約0 里(35. 3km)で、険しい山は無いが海岸一帯は岩石がそびえ立ち、往来の困難な箇所が少なくなかったので、寛政12の両年、難所を開削して馬で通れるようにした。
斜里越 このルートは、釧路から舟で釧路川をさかのぼり、標茶から陸路で計根別(中標津町)を経て摩周湖の東側で山を越え、斜里川上流部に出てここから斜里川を舟で下って斜里に至るものである。山道の部分は、白糠に入地した八王子千人同心が享和元年(1801)に開通させたもので、もともとアイヌの人々の踏み分けみちであったものに手を加え、東西両蝦夷地の連絡路として開削したものである。
以上のほか、各地で小規模な道路の開削を行なって、風波の強い日でも陸路を馬で通行できるようにした所が多く、また大きな河には渡船がおかれ、旅宿所や昼休所が整備され、各場所には駅馬も置かれて、東蝦夷地の陸上交通は従前に比べ著しく容易になった。
松前藩は延宝3 年(1675)、樺太の久春古丹に陣屋を設け、場所の経営は請負人に行わせていた。
寛政4 年(1792) 9 月、わが国との通商を求めて根室に来たロシアの使節・ラクスマンに対し、翌5年6 月、福山で会見した幕府宣諭使は、交渉は長崎においてなすべきこと、として 「おろしや国の船壱艘長崎に至るためのしるしの事」 という信牌を与えた。この信牌によって文化元年(1804) 9月、第2 回遣日使節が長崎に来たが、ここで幕府はロシアとの通商を拒否した。意外な結果に憤激した使節・レザノフは、ノシャップ岬(稚内市)と樺太の亜庭湾に立ち寄って種々調査あうえカムチャッカに帰り、遣日使節団を解散して日本遠征計画の準備にとりかかった。 この計画は、武力をもって樺太から日本人を退去さ、蝦夷地を攻略して一挙に通商要求に応じさせようとするものであったが、この遠征はロシア皇帝の指令の無いまま彼の部下・海軍中尉フォストフによって実行された。
すなわち、文化3 年(1806) 9 月11日(陽暦10月22日)、フォストフは樺太のオフイトマリ(大泊東方約12血)に小型武装船ユノ号の錨をおろし、上陸してアイヌ1人を捕え、翌12日には近くの久春古丹の運上屋を襲い、越年中の番人4 人を捕えるとともに米・酒はじめ貯蔵物一切を略奪して運上屋・倉庫などの建物と弁天社を焼き払い、港内にあった大小10隻の船にも火をつけた。さらにフォストフは翌4 年(1807) 4 月23日、択捉島の内保に来て越年中の番人ら5 人を捕え、食糧を奪い、建物を焼き、続く29日には会所のある紗那で南部・津軽両藩士約230人と交戦して圧勝、略奪や放火をほしいままにし、次いで礼文島沖や宗谷海峡で日本の商船や官船を襲い、利尻島でも停泊中の船から積荷を奪って家屋や船に火をつけ、 6 月5 日まで暴虐の限りを尽くした。
文化3 年の久春古丹襲撃のさいには、松前藩の勤番士卒は冬を控えて既に弓は上げていたので、松前藩は、翌4 年3 月4 日に樺太に渡った勤番士卒からの急報ではじめて事件のことを知り、箱館奉行・羽太正養に知らされたのは4 月10日であった。しかし幕府は、西蝦夷地の取り扱いについては、前年の遠山金四郎らの西蝦夷地巡視報告を受け、既に文化4 年(1807) 3 月24日、「このたび松前、西蝦夷地一円召し上げられ候」 との達しを松前藩主・松前章廣に対し発してル●、た。そして松前藩を陸奥国梁川(福島県)に転封し、10月24日には奉行本府を箱館から福山に移して松前奉行と改め、全島をその支配下に置いた。
松前奉行は、西蝦夷地の場所請負制をそのまま存続させ、文化9 年には東蝦夷地も「直捌」を廃止して場所請負制を復活させた。また道路にっいでは、施設の進んだ東蝦夷地から西蝦夷地へ通じる道路の開削などを進めたが、日本海沿岸の難所には手をつけなかったので、西蝦夷地の交通はなおしばらくの間、船に頼らなければならなかった。
仙鳳趾~厚岸間 この間は海上約2 里(7. 9km)を船で渡っていたが、風浪の激しい日には航行できなかったので、厚岸在住・丹羽鑑助の建議により、漁閑期のアイヌの人々を使って、文化5 年、陸路を開削した。仙鳳趾から厚岸湾沿いに門静(厚岸町)に出、港町から対岸の奔渡町へ船で渡り、バラサン岬東側のヌサウシコタンまでc 里半(21.6血)の道程であった。
岩内~余市間 西蝦夷地、岩内~余市間の海岸は山が険しく陸路がなく、もっぱら船によって往来していたが、婦女子を乗せた船が神威岬(積丹半島)の沖合を通過しようとすると、その船は必ず難破するといういわれがあり、岬より先は女人禁制であった。
忍路高島及びもないが、せめて歌棄磯谷まで (江差追分)
忍路(小樽市)や高島(同市)は松前や江差からみれば神威岬の向こう側、歌棄(寿都町)と磯谷(同町)は積丹半島の手前である。文化6 年(1809)、高島在勤幕吏の意向をうけた岩内、古宇、余市三場所の請負人が、それぞれアイヌの人々24人と番人I 人を出して、稲穂嶺を越える山道を開削した。
新しい道路の建設が進められている積丹半島(北海道開発局 小樽開発建設部提供、平成1年6 月撮影)
木古六山道 かつて、下囲家政が武田信庶に会I,r 行くため通った踏み分けみちキ文化」E間に改修したもので、木古内から北村(上ノ国町)までの間である。中間の湯ノ岱(上ノ国町)に旅宿所を置いたので、ようやくこの道を利用する人が多くなった。
千歳越 このルートは、勇払(苫小牧市)から舟で勇払川、ウトナイ湖、美々川とさかのぽり、美々(同市)で上陸して千歳まで陸路2 里(7.9畑)、そこからまた舟に乗り、千歳川、石狩川を下って石狩に至る32里(125. 7km)の道程で、東西海岸を結ぶ重要路線として古くから知られていた。
寛政10年(1798)、蝦夷地調査団の一員として宗谷まで行った武藤勘蔵の「蝦夷日記」によれば、7 月13日に海路宗谷を出発し、18日に石狩に看いた後、廿五日 シコツ越とてイシカリ川を船にて登る道あり。此道を出立す。 トイシカリといふ所にて船中に泊す。廿六日 未明に出船。 イザリ川といふ所にて日もくれ、又々船中に泊す。二夜とも大小便は上陸し山中へ通ふ。其たびたびに蚤の如き蟲、股、膝頭の下、足の甲まで一面真黒にたかり、むさき事かぎりなし。 山中には熊、兎など澤山居るよしなり。
8
廿七日 タがたシコツに着船す。
廿八日 同所出立。船路にて東蝦夷地ユウブツに着船。一日逗留。
*シコツ=千歳(文化2 年に 「シコツ川」 が「チトセ川」 と改称されたことに伴うもの)、 トイシカJ =江別市対雁、イザリ川=漁川、ユウブツ=勇払
としるされており、石狩から勇払へは3 泊4 日の行程であったが、勇払から石狩へ行くときには、勇払川と美々川の流れが緩慢なこともあり1泊2 日で行けた。このルートのうち、美々~千歳間の山道は勇払場所の総支配人‘山田屋文右衛門が文化年間に開削したもので、千歳川や漁川でとれた鮭を勇払場所へ出すとき、千歳から美々までは牛馬車に積んで運ぶことができるようになった。また、千歳~漁太(恵庭市)間は流れが急で大きな舟を通すことができなかったが、やはり文化年間に道路が開削されたといわれている。
網走越 このルートは、太平洋岸の庶路(白糠町)から庶路川沿いに登り、山を越えて舌辛太(阿寒町)に出、阿寒川沿いに北上して阿寒湖の西側で網走川上流部に入り、網走川沿いに進んで女満別から藻琴川に出てそれに沿って下り、オホーツク海岸のニクリパケ(網走市藻琴の西側)に至る
約46里(180. 6血)の道程である。工事は幕吏・大塚惣太郎の指揮のもと、隣接する場所のアイヌの人々によって行われ、旅宿所5 箇所を建設して文化7 年(1810)に完成したといわれている。
雨龍越 文化5 年(1808)、留萌場所支配人・山田屋文右衛門が留萌から石狩や勇払に通じる交通路の一部として開削したもので、留萌から海岸線を南下し、信砂川沿いに山に入って恵岱別(北竜町)に越え、尾白利加(雨竜町)まで25里(9&2血)の道程である。尾白利加からは石狩川を舟で下り、江別から千歳川をさかのぽれば千歳越となり、そのまま下れば石狩に達する。文化5 年秋、樺太警備の会津藩兵が帰還するさいこの道路を通った。
文化8 年(1811)、国後島に上陸したロシアの提督・ゴローウニンが、先のフオストフの襲撃に対する報復として南部藩守備隊に捕えられて松前に幽閉され、翌年その報復として高田屋嘉兵衛が国後島の海上でロシア船に捕えられてカムチャッカに送られるという事件が発生した。この事件が文化10年9 月に円満解決すると、対ロシア防備の緊張は緩和に向かい、道路の開削や守備体制の拡大などで財政負担が大きかった幕府は、松前藩の復領運動もあって、文政4 年(1821) 12月、23年間にわたる直轄支配を廃して全島を松前藩の支配下に戻した。
しかし、松前藩は復領後も積極的な施策を講じることなく、蝦夷地開拓の施設に関して何ら見るべきものはなかった。 ただ、天保4 年(1833)と7 年の大飢饉による難民が奥羽地方から蝦夷地に渡って来て、多くは神威岬以南の古宇(神恵内村)、岩内、磯谷(寿都町)、歌棄(同町)、寿都および嶋小牧(島牧村)の各場所に住みついて漁業を営んだので、これらの場所では戸数が著しく増加し、その漁獲量も著しく増大した。また、天保11年(1840)、それまで厚田以南に限られていた出稼ぎ範囲が浜益以北にまで拡大されたので、西蝦夷地の漁業は大きく進展した。
嘉永7 年(1854) 3 月、幕府はついに伝統的鎖国方針を放棄して米国使節・ペリーとの間で日米和親条約を締結し、その結果、箱館も開港されることになった。幕府はとりあえず同年6 月、開港に伴う事務を処理するための箱館奉行所を開設したが、樺太におけるロシアの進出状況などの調査のため派遣していた目付・堀利熈らの復命を受けて、翌安政2 年(1855) 2 月、木古内以東および乙部以北の地を再び幕府直轄とし、箱館奉行の支配下においた。
幕府は、樺太の確保と蝦夷地本島の内地化を経営の主眼とし、奥羽諸藩の兵を動員して防備の体制を充実させるとともに、移民の導入による農業開発、直営農場「御手作場(おてさくば)」 の経営、炭山開発と鉱物資源調査などの施策を進めた。このなかで幕府は、場所請負制をそのまま存続させたが、場所への移民を奨励援助するよう請負人を指導するとともに、従来からの神威岬における婦女通行の禁を解いたので、神威岬以南にとどまっていた漁民らも同岬以北に移住し、雄冬岬(浜益村)までの海岸や原野に集落の点在を見るようになった。
道路については、東蝦夷地では海岸沿いに人馬が通行できるようになっていたが、西蝦夷地では交通は極めて不便であったので、箱館奉行・堀利熈は道路の開削や宿駅・駅馬の整備等に関する意見書を幕府に提出した。 しかし、台場の造営、役人宿舎の建設など他にも急を要する事業を多く抱えていた幕府は、道路の開削に資金を投入することができなかった。そこで箱館奉行は、当時、豊漁に恵まれ資力も労力も豊富であった各場所の請負人に、開削のうえ寄付をさせることとし、 また、橋の通行料(橋銭)を徴収して経費を償うことで出願者に開削を許可する方式も取り入れた。
軍川山道 箱館から東海岸の鹿部に通じる路線のうち藤山(七飯町)~軍J収同町)間の山道で、亀尾(函館市)の開拓者・菴原茜斎が箱館奉行の命を受けて安政3 年(1856)に開き、牛馬が通れるようにしたものである。
黒松内山道 渡島半島のつけ根にあたる黒松内低地帯を通り東西両海岸を結ぶ道路で、長万部~黒松内間の6里(23. 6km)余は勇払場所の支配人が資本を出し、箱館の福次と千代田村(大野町)名主。才太郎が共同して安政3 年に開削した。この区間では38箇所に橋をかけたが、旅人1人あたり、 1 橋につき9 文、総計114文を5 午間徴収して、工事費用を償う二とが許された。また、黒松内から歌棄(寿都町)までの約4 里(15. 7km)は、歌棄場所請負人の父親・桝屋定右衛門が私費を投じて開削したもので、工事は両区間とも同年5 月に始まり、10月に終った。
雷電嶺 磯谷(寿都町)と岩内の間はニセコ山塊が日本海にせまり、交通は船にたよらなければならなかったが、安政3 年(1856)、磯谷場所請負人・桝屋栄五郎と岩内場所請負人・仙北屋仁左衛門の両人が願い出て、雷電山の中腹を通る3 里(11.8km)余の山道を開削した。これにより四季を通じて人馬の往来ができるようになったが、このルートの中間に位置する湯内川の温泉には柾家ー棟が建てられ、休憩や入浴の便も図られた。
岩内~余市間 文化6 年(1809)に岩内、古宇、余市三場所の請負人が開いた道路は、草木が生い茂り流水が道をさえぎり、ほとんど利用されなくなっていた。安政3 年(1856)、岩内・仙北屋仁左衛門、古宇・福島屋新右衛門、余市・竹屋長左衛門、忍路・住吉屋徳兵衛の四場所請負人は箱館奉行の方針を受けとめ、私費によりそれぞれ分担して開削した。この山道は、延長12里20町(49. 3血)余、幅2 間(3.6m)で、中間の稲穂嶺には旅宿所を建てて宿泊できるようにした。
余市~小樽間 安政3 年、忍路、高嶋両場所請負人・住吉屋徳兵衛と出稼ぎ人らが私費を投じて開削した。
小樽~銭函間 この区間には神居古潭(小樽市)の嶮があり海岸の通行は極めて困難であったので、安政4 年(1857)、オタルナイ場所請負人・恵比須屋半兵衛が海岸沿いの丘の上に幅2 間(3. 6 m )の新道を私費をもって開削した。
濃昼山道 安瀬(厚田村)から濃昼(浜益村)までの間はいたるところに断崖がそびえ、海岸を通行することは極めて困難であったので、安政4 年5 月、厚田場所請負人・浜屋与三右衛門が私費をもって山道の開削に着手し、標高357 mの濃昼峠を越える2 里24町(10. 5km)を翌5 年7 月に完成した。
送毛山道 この山道は、送毛(浜益村)から毘砂別(同村)に至る1里19町(6.0km)の道路で、安政4 年(1857)、岩内の出稼ぎ人q 柳川善蔵が漁場出稼ぎ人を雇い入れて開削工事を行い、同年9 月に完成させた。
増毛山道 浜益と増毛の間には暑寒別火山群が広がり、海には茂津多・神威両岬とならんで西蝦夷三険岬とよばれる雄冬岬があって、通航する船の遭難も少なくない大難所であった。ハママシケ、マシケ両場所請負人・伊達林右衛門は、松前領及部村から道路開削の経験者を雇って山道の踏査を行わせ、地元のアイヌの人々や漁期を終えた出稼ぎ人を雇い入れて安政4 年5 月に着工した。この山道は、幌(浜益村)から標高1, 039m の浜益御殿に登り、そこから増毛側の山腹を下って別苅、ポンナイ浜(増毛町)に達する全長9 里半(37. 3km)、道幅2 間(3. 6m)から3 間(5. 5m)の道路で、翌5 年7 月に竣工開通した。
太田山道・狩場山道 熊石から島牧までの間は、太田、狩場などの険しい山が海岸に迫り、海には帆越岬(大成町)や茂津多岬(瀬棚町・島牧村界)が張り出して、交通上すこぶるの難所であった。江差に店を開いて漁業を営む長坂庄兵衛は、各場所を結ぶ陸路の必要性を痛感し、松前藩領時代の嘉永3 年(1850)、熊石村関内からクドウ、フトロ、セタナイの各場所へ通じる道路の開削を計画したが、安政3 年(1856)、協力者として江差の商人・鈴鹿甚右衛門を得て、関内(熊石町)から太櫓(北桧山町)までの山道の開削とそれに続く太櫓から寿都までの開削とを二人の連名で願
い出た。工事計画は、総ての費用を甚右衛門が負担し、工事は庄兵衛が責任を持って行うというものであるが、同年11月、箱館奉行・堀利熈の期待を込めて開削は許可された。庄兵衛はさっそく津軽に渡って人夫募集などの準備を進め、翌4 年正月に甚右衛門が死去したが、その子も甚右衛門を名乗って父の遺志を継いだ。工事は、 3 月26日に奉行所役人立会のもとに鍬入れを行なって、関内(熊石町)から久遠(大成町)を経て良瑠石(北桧山町)に至る約12里(47. 1km)の山道を開削し、さらに良瑠石から須築(瀬棚町)、小田西(島牧村)を経て寿都に至る約24里(94. 2km)の道路を開いた。この道路は道幅2 間(3. 6m)、総工費4,000両で安政5 年(1858) 6 月に完成したが、このうち太田山権現の前後約1里(3. 9km)は山僧‘宗検が自ら開削したものである。
銭函~千歳間 石狩低地帯の「千歳越」は古くから東西両海岸を結ぶ重要な交通路で、美々(苫小牧市)~千歳間および千歳ー漁太(恵庭市)間は文化年間に陸路が開削されて馬が通れるようになっていたが、河川をさかのぼる往来は労力を要し、また冬期間は河水が結氷しあるいは融雪期に満水して船を通すことができず、交通は甚だ不便であった。そこで箱館奉行は、東西両蝦夷地を結ぶ陸路の開削を企て、安政4 年(1857)、銭函(小樽市)から札幌を経て千歳に至る道路の開削計画について幕府の決裁を得た後、松浦武四郎にこのルートを踏査させ、ついで、この道路を自費によって開削するよう関係の場所請負人に説いた。 これを受けてオタルナイ・恵比須屋半兵衛、イシカJ・阿部屋伝次郎およびユウフツ・山田屋文右衛門の各場所請負人は、それぞれ分担して銭函~星置(小樽市)間、星置~島松(広島町)間および島松~千歳間の開削に着手し、同年これを竣工させた。この陸路は、道幅2 問(3.6 m)を標準とし、銭函から発寒(札幌市)、琴似(同市)を通り、札幌川(現在の豊平川)に官設渡船場と宿所を設け、豊平(札幌市)、望月寒(同市)、輪厚(広島町)、島松(同町)を経て千歳に至るもので、「勇払越新道」、「千歳越新道」あるいは「札幌越」と呼ばれた。
鶉越 市ノ渡(大野町)から渡島半島を横断して厚沢部に至る約7 里(27. 5km)の山道で、この道路も長坂庄兵衛と鈴鹿甚右衛門の二人によって開かれた。工事は安政5 年(1858) 3 月に着手し9月に竣工したが、箱館から江差や乙部以北の西海岸につながる交通路として毎年漁夫その他数万の人々の往来があり、 「大野越」 とも呼ばれた。
福山~上ノ国間 松前半島の南部には標高1, 072 mの大千軒岳があって、松前藩領のこの区問は険しい海岸沿いを通行しなければならなかった。福山の豪商・伊達林右衛門は、安政4 年11月、及部川の水源から山の背を伝って木古内山道の旅宿所・湯ノ岱(上ノ国町)に至る道路の開削に着手したが、あまりにも険しい道路となることから全線の開通をみないで工事を終えた。
4 .開拓使時代
‘T百募府は 嘉永7年(18M、に日米 FR 英、 FR 露の和親条約を締結Lて箱館、下田、長崎の各港を開き、寄港する船舶に薪水・食糧などを供給することとしていたが、通商関係は拒否していた。そこで、この条約に基づいて下田に着任した米国総領事ハリスは、幕府に対して通商条約の締結を強く迫り、大老・井伊直弼は鎖国攘夷の意向をもつ朝廷の勅許を得られないまま、安政5年(1858) 6 月19日、独断で日米修好通商条約に調印した。この日本側に不利な内容を含む条約は、相次いでオランダ、ロシア、イギリス、フランスとの間でも調印されたが、これらの井伊大老の専断は尊王攘夷運動を刺激する結果となり、安政の大獄(1858)、桜田門外の変(1860)に始まる国内動乱のさっかけとなった。
慶応3 年(1867)10月、第15代将軍・徳川慶喜はついに朝廷への大政奉還を請うて許されたが、同年12月9 日には薩長倒幕派らのクーデターによって王政復古の大号令が発せられた。徳川慶喜を一大名の地位に転落させ新政府への命脈を絶つこの強硬措置は、旧幕府方からの軍事衝突を挑発して翌年1月3 日の鳥羽・伏見の戦いとなり、その後、新政府軍の軍事攻勢は上野戦争、会津戦争を経て箱館戦争へと続いたが、明治2 年(069) 5 月18日の五稜郭開城をもって、この戊辰戦争は終結した。
ここにおいて、明治2 年6 月4 日、 「蝦夷開拓ハ皇威隆替ノ関スル所一日モ忽ニス可ラス 汝直正深ク国家ノ重ヲ荷ヒ身ヲ以テ之ニ任センコトヲ請フ(以下、略)」 との勅書が発せられ、中納言・鍋島直正が開拓督務を命じられた。つづく7 月8 日、明治新政府は 「職員令」 を公布し、大政官、民部・大蔵。兵部・刑部・宮内・外務の六省などとともに諸地開拓を所掌する「開拓使」を設置して、 7 月13日、鍋島直正を初代開拓使長官に任命した。そして8 月15日の大政官布告で、これまでの蝦夷地を 「北海道」と改称して11箇国に分割することを定め、各国名とそれぞれの国に属する86の郡名を示した。
開拓使は、東京に開拓使庁を置き、函館と根室に開拓使出張所を置いた。明治2 年8 月25日に任命された第2 代長官・東久世通禧は、 9 月25日、諸官吏や農工移民200人とともにイギリス船で函館に着き、 9 月30日には函館出張所を開庁した。また根室出張所は判官・松本十郎によって10月9 日に開設された。開拓使は北海道の本府を建設することを当面最大の事業とし、主席判官・島義勇が銭函(小樽市)に仮役所を置いて札幌本府の建設計画を進めたが、東久世長官は、島判官のやり方は専断独裁乱費であるとして憤激し翌3年2 月に他に転勤させ、このあと政府も札幌周辺に村落のできるのを待って本府の建設にかかるとの方針をとったので、この事業の進捗はーとんざをきたすこととなった。
しかし、明治3 年(1870)春には、先に島判官が募集していた移民が続々と移住してくるようになり、札幌(22戸)、苗穂(36戸)、丘珠(30戸)、円山(20戸)の各村をつくった。また、同年9 月、東久世長官は札幌に来て島判官の計画を検分し、開拓次官・黒田清隆は樺太を視察した。ここでかつて島判官の下にいた権監事・西村貞陽が本府建設の必要性を建議力説したところ、東久世長官はその議をいれて、12月、再着手を太政官に上申した。こうして明治4 年早々から仮本庁舎や官邸の建築、道路の建設、河川の改修などの大工事が矢つぎばやに行われて、 4 月20日には東久世長官も函館から札幌に移り、 6 月I 日からは新築の札幌開拓使庁が政務一切を執り行うこととなった。
開拓使は、基礎的調査、基盤施設の整備、諸産業の振興、移民の導入育成など極めて広範囲で未経験の事業を推進しなければならなかったので、長期の財政的見通しをもつことが必要であづたが、政府は、明治4 年(1871) 8 月19日付け開拓使あて通達によって、10年間にわたる政府支出の方針を示した。すなわち、
来申年ョリ従前之定額金ヲ廃シ更ニ左之通被定候事
十ケ年一千万両ヲ以テ総額トス
申年五十万両
酉年八十万両
戌年ョリ百万両ズッ
亥年ョリ前申西両年不足之分七十万両ヲ七ケ年ニ割リ給ス
*申年は明治5 年
13
一、 従前之定額米一万四千石来ル戌年ョリ廃ス
ー、 租税ハ従前之通
*従前、管内で収納した租税については開拓使限りで
開拓の費用にしていたものである。
開拓使設置から間もない明治2年7月22日、新政府は蝦夷地開拓について 「今後諸藩士族及庶民ニ至ル迄志願次第申出候者ハ相應ノ地割渡シ開拓可被仰付候事」 との大政官布告を発した。これに対し、水戸藩知事・徳川韶武や伊達藤五郎(~日仙台藩亘理領主・伊達邦成)らは直ちに、一族、家来、有志等の移住を願い出たが、このとき東本願寺門主・光勝も新道切立、僧徒移住および人民教論を出願し許可を得た。翌3 年7 月、函館に到着した東本願寺の一行は、まず軍川(七飯町)~砂原間6 里半(25. 5km)の道路を開通させ、続いて砂原の内浦湾対岸にあたる長流(伊達市)から本府となるべき札幌に通じる“本願寺街道”の開削に着手した。本願寺街道は、壮瞥、尻別(喜茂別町)、定山渓(札幌市)を経て平岸(同市)に至る26里10町(103.21cm)余の道路であり、道幅9 尺(2. 7m)、伐木幅3 間(5. 5m)として明治4 年10月に完成した。
開拓使は、日本政府の招聘に応じて明治4 年(1871) 7 月に来日し開拓顧問に就任したホーレス・ケプロンの建言を受けて、本府・札幌を北海道の玄関・函館に結ぶ車道の開設を計画した。この道路は、はじめ本願寺街道のルートをとることで考えられていたが、路線変更により函館から森に出、森から内浦湾を船で渡ってトキカラモイ(新室蘭・室蘭市海岸町)に上り、そこから苫細(苫小牧市)を経て札幌・豊平橋に至るルートをとることとなった。工事は、明治5 年3 月18日、亀田村一本木(函館市若松町)において着手され、さらにトキカラモイから札幌に向かっても進められ、 6年6月、幅員44尺(13.3m)ないし22尺(6. 7m)の西洋式馬車道が完成した。これだけの大規模な工事を一年余の短期間で完成させたことは、北海道道路史上において異彩を放つものであるが、政 札幌本道・トキカラモイ桟橋があった所府はこの道路を 「札幌本道」 と定め、明治6 年(1873) ii月5 日、次の太政官布告を発した。 (交差点の前方が桟橋位置、右方が当時の札幌通り)”
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北海道渡島国函館ョリ石狩国札幌(開拓使本庁所在ノ地)ノ間新道落成ニ付
自今札幌本道ト相定里程宿駅等左ノ通ニ候條此旨布告候事
‘可『 中議-:
14
函館札幌ノ間宿駅里程
自函館 至中島郷 三里八町三十間
自中島郷 至嶺下 二里九町三十間
自嶺下 至森村 六里
自森村 至室蘭港 海上二十五里半
自室蘭港 至幌別 五里一町
自幌別 至白老 六里三十町二十四問
自白老 至苫小牧 五里二十一町五十一間
自苫小牧 至千歳 六里三十四町
自千歳 至札幌 九里二十五町四十五間
海陸合 七十一里五町
江戸幕府直轄時代に開通した道路は、年月が経るに従って草木が繁茂し、あるいは路体が損壊して、人馬による通行が容易でない区間が多く見られるようになっていた。 開拓使は、これらの道路を補修し、修築し、または新たに道路を開削するなどして、まず陸上交通の利便を図ることに力を注いだ。さらに開拓使は、民間によるこれらの事業の実施についても奨励したので、民間篤志家による自費施工のほか、民間人が自費開削したあとその費用を官が弁償したもの、官民折半で民負担分は関係住民が負担したもの、資金を開拓使に寄付したもの、毎年人夫を出して補修をしたものなど、各地で道路の工事が行われた。
この時代に開削や改修が行われた道路のうち主なものをいくつか列挙すれば、明治3 年 厚岸~琵琶瀬(浜中町)~浜中 新道開削、 9 里23町(37. 9血)明治5 年 別海~標津 新道開削、 8 里47間(31.5km)明治6 年 札幌~銭函 馬車道開通、道幅3 間(5. 5m )明治8 年 国後島泊村~安渡移矢 新道開削、42里24間(165. 01cm )明治10年 黒松内山道 修築、道幅2 間(3. 6m) 、勾配緩和明治12年 銭函~小樽 馬車道開通明治13年 雪裡(釧路町)~跡佐登(弟子屈町) 新道開削、27里(106. 0km)余などである。また橋梁については、明治8 年、札幌の豊平川に米人技師ホルトの設計による 「ハウトラス」形式の木造橋が架設されて本府の一大偉観となったが、当時まだほとんどの河川は船で渡るのが普通であり、明治15年(1882) 1 月現在、石狩川・石狩(石狩町、400 m )、石狩川・対雁(江別市、360 in )、天塩川・沙流(幌延町、330 in )、尻別川・磯谷(寿都町、190m)、釧路川・釧路(270m )、厚岸湖・真龍(厚岸町、670m )、温根沼・幌茂尻(根室市、330 m)など114箇所に渡船場が設置されていた。ここで、開拓使時代の主要幹線路を示せば、表1 のとおりである。
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表1 開拓使時代の主要幹線路 (単位:kin)
道 路 名 起 点 主 な 経 過 地 終 点 延 長
札幌本道 函 館 亀田,七飯,峠下,森,室蘭港,鷲別,幌別,
登別,白老,苫小牧,千歳,島松
札 幌
176
西海岸線 札 幌 銭函,小樽,余市,仁木,(稲穂峠),岩内,
(雷電越),寿都市街,島牧,瀬棚,(太櫓山道),
太櫓,太田,久遠,熊石,乙部,江差市街,
上ノ国,(小砂子山道),福山市街,福島,(知
内山道),知内,木古内,上磯
函 館
493
北海岸線 札 幌 花畔,石狩,厚田,(濃登山道),浜益,(雄冬山道),増毛,留萌,苫前,遠別,天塩,
幌延,抜海,稚内,宗谷,猿払,枝幸,幌内,興部,紋別,湧別,常呂,網走,藻琴,止別
斜 里
617
東海岸線 函 館 下湯川,戸井,尻岸内,(山道),椴法華,尾札部,臼尻,鹿部,砂原,森,落部,山越内,
八雲
長万部
187
江差街道 函 館 大野,市ノ渡.鶉.蛾虫,田沢,泊 江 差 87
東海岸根室道 苫小牧 勇払,鵡川,富川,門別,新冠,静内,三石,
荻伏,浦河,様似,(様似山道),幌泉,猿留,
広尾,歴舟,大津,直別,尺別,白糠,釧路,
昆布森,仙鳳趾,厚岸,散布,浜中,初田牛,
落石
根 室
482
東海岸標津道 根 室 幌茂尻,遠太,別海,茶志骨 標 津 67
合 計(7 ) 2 ,109
(注)札幌本道の延長は森~室蘭間(海上)を除く。
開拓使は、国全体として近代産業が未発達な状態のなか、未開の北海道で新しい産業を興すためには直営事業によって端緒を開くことが必要であると考え、農場、牧場、桑園、養蚕、製塩、製粉,製草、製紙、製網、レンガ製造、味喰醤油・麦酒・ブドウ酒醸造、缶詰、製糖、機械等の官営事業の経営を行なった。さらに開拓使は、小樽港・手宮から石狩炭田・幌内(三笠市)に向けての鉄道敷設を計画し、明治13年(1880)には手宮~札幌停車場間を開通させるなど、開拓事業を積極的に進めた。この結果、北海道開拓事業に対する政府の支出は、明治5 年以降10箇年1,000万両の計画を大巾に超過して2,066万円となり、人をして十年隔世の感を深くさせるものがあったが、10箇年の期間満了にあたり、明治15年2月8 日、 「開拓使ヲ廃シ函館、札幌、根室ノ三県ヲ
置ク」 との太政官布告が発せられた。
5 .函館・札幌・根室 三県時代
明治15年(1882) 2 月28日、三県の県庁位置と管轄区域が布告された。札幌県の管轄区域は、石狩国、日高国、十勝国、天塩国一円ならびに後志国のうち小樟、高島、忍路、余市、古平、美国、積丹、古宇、岩内の9 郡、胆振国のうち虻田、有珠、室蘭、幌別、白老、勇払、千歳の7郡、および北見国のうち宗谷、枝幸、利尻、礼文の4 郡と定められ、函館、札幌両県は3 月16日、根室県は4 月1日、それぞれ開庁した。
これまで、開拓使長官は諸省卿と同格とされ、開拓使は通常の地方政務を所掌するほか拓殖事業を統一的・計画的に実施してきたが、この三県は当該管轄地方における通常の政務のみを取り扱うこととされ、それ以外の重要事項はこれに関係があるとみられる各省が管理することになった。
しかしこの制度のもとでは、個々の事業はそれぞれ孤立して互いの連絡を欠き、北海道開拓上の見地から統一的に進めるということができなかった。そこで政府は明治16年1月、農商務省内に「北海道事業管理局」を設置して各事業を管理させたがその成果は得られず、明治18年7 月に北海道に派遣した大書記官・金子堅太郎の「三県・管理局廃止、殖民局設置」の復命をうけて、ついに三県の廃止と殖民局に代わる 「北海道廳」の設置を決定した。
この三県時代は短期間であり道路の新設等についてほとんど見るべきものはなかったが、この間に全国的な国道の指定が行われた。明治政府の道路法制は、明治6 年(1873) 8月2 日大蔵省番外達により「河港道路修築規則」を制定し、道路を一等道路、二等道路、三等道路に区分して、それぞれの費用の負担割合および事業主体を規定したが、明治9 年6 月8 日には太政官達第60号を発して道路の種類を国道、県道、里道と改め、それぞれ等級を一等、二等、三等として道幅の標準値を定めた。しかしさらに明治18年(1885) 1 月6 日、太政大臣・内務卿連名の布達を発して、「今般国道ノ等級ヲ廃シ其幅員ハ道敷四間(7I 3m)以上並木敷湿抜敷ヲ合セテ三間(5.4m)以上総テ七間(12. 7m)ョリ狭小ナラサルモノトス 但国道線路ハ内務卿ョリ告示スヘシ」とした。そして明治18年2 月24日内務省告示第6 号によって全国44路線の「国道表」 が制定された。このうち北海道に関するものは、6 号 東京ョリ函館港ニ達スル路線
東京(日本橋)~越谷~宇都宮~福島~仙台~盛岡~野辺地~青森~函館港
42号 東京ョリ札幌県ニ達スル路線
東京~6 号・函館港~函館~森~室蘭~苫小牧~千歳~島松~札幌
43号 東京ョリ根室県ニ達スル路線
東京~6 号~42号・苫小牧~浦河~幌泉~猿留~広尾~歴舟~大津~尺別~白糠
~釧路~昆布森~仙鳳趾~厚岸~浜中~初田牛~落石~根室
の3 路線で、42号には開拓使時代の札幌本道のルート、43号には同じく東海岸根室道のルートがそれぞれ採用されている。
図1 北海道国道図(明治18年~明治40年)
国道6 号線が上陸した「北海道第ー歩のの地・東浜桟橋」 (現函館市末広町24.
昭和34年にコンクリート造に改築。右脇のコンクリート柱は昭和3 年に設置された「函館市道路元標」)
6.北海道庁初期時代
北海道ハ土地荒漠、住民稀少ニシテ、富庶ノ事業未ダ普ク辺隅ニ及ブコト能ハズ。今全十ニ通ジテ、拓地殖民ノ実業ヲ挙グルガ為ニ、従前置ク所ノ各廳分治ノ制ヲ改ムルノ必要ヲ見ル、因テ左ノ如ク制定ス。
第一
函館、札幌、根室三県竝北海道事業管理局ヲ廃シ、更ニ北海道廳ヲ置キ、全道ノ施政竝集治監及屯田兵開墾授産ノ事務ヲ統理セシム。
第二
北海道廳ヲ札幌ニ、支廳ヲ函館、根室ニ置ク。
明治19年(1886) 1月26日、政府はこの布告書を発布するとともに、司法大輔・岩村通俊を初代北海道庁長官に任命した。岩村長官は2 月25日に札幌に入り、 3月1日、北海道庁を開庁した。
前年12月に大政官制が廃止されて政府は内閣制となっていたので、北海道庁長官は内閣の監督を受けることになり、また各省主管の事務については当該主務大臣の指揮を受けることとなった。
なお、23年7 月には官制が改められ、北海道庁長官は内務大臣の指揮下に入ることになった。
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岩村長官は、明治20年5 月の全道郡区長会議において、 「移住民ヲ奨励保護スルノ道多シト雖モ、渡航費ヲ給興シテ、内地無頼ノ徒ヲ召募シ、北海道ヲ以テ貧民ノ淵藪ト為ス如キハ、策ノ宜シキ者ニ非ズ。自今移住ハ、貧民ヲ植ェズシテ富民ヲ植ェン。是ヲ極言スレバ、人民ノ移住ヲ求メズシテ、資本ノ移住ヲ是レ求メント欲ス。」 との考え方を示しており、拓殖の基盤施設である
道路、鉄道、港湾等の整備を行なって、当時ようやくぼっ興しつつあった内地府県資本家の投資を誘導することを施策の基本とした。
道路については、まず海沿いの険しい山道を改修して全道一周道路を開通させることを最重要事項とし、ついで内陸部の中央に道路を通して四方の支線道路と結び、各地の交通を可能にすることを基本方針とした。そして内陸部の道路として、第一は札幌から空知、上川、東釧路を経て根室に達する線、第二は樺戸から北増毛に出る線、第三は釧路から北網走に通じる線を示した。
岩村長官は、かつて開拓判官を勤めたが、明治15年(1882)には会計検査院長として北海道を巡視し、さらに18年8 月、太政大臣の命を受けて上川原野(旭川市付近)を検分したさいには、 「上川に殖民局を置き、北京の地とすること」 を建議していた。このころ、札幌から市来知(三笠市)
まではすでに道路が開通しているだけでなく、手宮から札幌を経て幌内炭鉱に至る鉄道も開通していたが、市来知から上川までの間は原始林の茂る無人の土地で陸路を行くことはできず、かろうじて丸木舟で石狩川をさかのぽることができるだけであった。
岩村長官は開庁早々、市来知から空知太(滝川市)、カムイコタンを経て忠別太(旭川市)に至る道路の開削を進めることとしたが、その手順として、まず人馬の通れる仮道路を開き、次にその路線に多少の変更を加えて本道路とする段階施工方式をとった。仮道路の工事は、北海道庁土木課・高畑利宜の実測・設計に従って樺戸集治監(月形町)の囚徒が行い、明治19年(1886) 5 月16日に着工した道幅6 尺(1. 8m)の開削工事は、早くも同年8 月20日に竣工した。ついで、翌20年には、改称された樺戸監獄署と空知監獄署(三笠市)の囚徒によって本道路の建設工事が始められ、明治22年9 月には全線の修築を完了した。この道路は、道幅3 間(5一 5m)、砂利敷幅9 尺(2. 7 m )、最大勾配30分の1とし、空知川には延長358尺5 寸(109 m )、幅員10尺(3.om)の仮橋をかけたもので、「上川道路」 と呼ばれた。
明治21年(1888) 6 月就任の第二代長官。永山武四郎は、開拓と警備の両面から上川~網走間に新道を開削することとした。この道路は、忠別太から愛別、中越(上川町)、遠軽、留辺葉、緋牛内(端野町)を経て網走に至るもので、22年6 月.に着工し、一部を民間の請負に付したほかは空知監獄署と釧路監獄署網走分監の囚徒によって工事が進められ、多数の死者や病人をだして24年末に竣工した。道幅3 間(5. 5m)ないし2 間(3. 6m )、最大勾配20分の1のこの道路は、「北見道路」と呼ばれたが、また上川道路と北見道路を合わせて 「中央道路」 とも呼ばれるようになった。なお、この中央道路は、文化4 年(1807)に天塩川や石狩川の奥地を探検した近藤重蔵が、 「中地へ大道相開キ」 と具申した石狩~斜里間の 「蝦夷地中央道路」 を実現したことになる。このほか、岩村長官が示した樺戸(月形町)~増毛間は明治21年(1888)に、釧路~網走間は同23年に、それぞれ開通した。また、27年には札幌~定山渓~虻田間が開通するなど北海道内の各地で道路の開削が盛んに行われ、三県時代末の明治18年に304里(1, 193. 8km)であった道路の延長は、明治33年には国道、県道、里道をあわせて1,090里(4, 280. 4km)となった。
7 .北海道十年計画
北海道庁設置の前年・明治18年(1885)に28万人余であった北海道の人口は、明治33年には98万人余となった。 このころになると、あまりにも広いこの北海道の開拓事業は一定の継続的計画に基づいて進めるべきである、との議論がしばしば国会や民間において行われるようになり、また、すでに内地府県には敷かれていた自治制を北海道にも導入するよう求める声がますます強くなった。
そこで第8 代長官・園田安賢は十年計画案を作成して内務大臣・西郷従道に提出したが、これは明治33年12月開院の第十五帝国議会に 「北海道十年計画案」 として上程された。
また、従来、北海道開拓の経費はすべて国庫からの支出によっていたが、一方、北海道内で徴収する諸税は巨額な水産税から極めて少額の芸妓税にいたるまですべて国税とされ、その賦課に関しては帝国議会での議決が必要であった。そこで十年計画の発足にあたり、北海道庁の経費を行政費、拓殖費および地方費の三者に区分し、前二者は従前どおり国費の支弁としたが、地方費については北海道内の租税その他の収入によってこれをまかなうこととした。そして地方費に関する議決機関として北海道会を設けて自治制の一部を導入することとしたが、このための 「北海道地方費法」 と「北海道会法」 も第十五議会で可決され、明治34年3月27日に公布された。
「北海道十年計画」は、一定の計画内容とそれに対応する予定経費が盛り込まれた北海道最初の長期計画であり、明治34年度以降の諸施策の基本となった。この計画は経費の総額を約3,340万円とし、このうち行政費は主として北海道庁各機関の活動に要する費用で、当面必要な地方費への補給分4ワn万円と森林の経営費9O万円を含めて総額1, 180万円を計上した。また拓殖費は、殖民地の選定区画、土地の処分、移民の取扱、水産の調査、農事の試験、道路・橋梁の新設修繕、駅逓・渡船の施設、河川・港湾の調査、小樽・釧路二港の修築、物産共進会の開催、沿岸航路の補助など拓地殖民上直接必要な事業を実施するための費用で総額を 2, 160万円とした。
道路の新設については、国道35里(137. 4km)、県道89里(349. 5km)、里道573里(2, 250. 2畑)および市街道路64里(251. 3km)、合わせて761里(2,988.4血)の開削、橋梁48橋の架設ならびに排水道路1, 500里(5, 890. 5km)の開削を行うこととし、その経費については総額約1,000万円の継続費として議会に提出した。 なお当初、道路を上記の5 種類に区分して計画したが、35年7 月に道路の築造標準を定めるにあたり、排水道路をさらに原野道路(または殖民道路)と排水道路に分け、排水道路には両側の道路側溝のほかに敷幅4 尺(1. 2m )、法勾配1 : 1 、平均深4 尺(1. 2m )の大きな湿抜溝を設けるものとした。
道路の修繕については、その性質上地方費あるいは区町村費をもって支弁すべきものではあるが、新設の道路はもともと拓殖上の必要から開削したものであるから、直ちにこれを地方の負担に移すべきものではないとの考え方から、竣工後5 箇年間は国費をもって支弁することとし、延べ9, 144里(35, 908. 5km)の道路橋梁修繕工事を行うこととした。また駅逓および渡船については、道路の伸長に応じて年々増設してゆくものとした。
この計画は、予定の方針に従い着々と実施されてきたが、 4 年目の明治37年(1904) 2 月に勃発した日露戦争の影響をうけて予算の減額ゃ事業の繰り延べを余儀なくされ、明治42年度かぎり9箇年で打ち切られた。この間に投入された国費は、行政費では予定総額の95%となり、拓殖費では48%にとどまったが、10年間に52万人を予定した移民は9 年間で約44万人に達し、明治42年の人口は約154万人となった。
道路新設の事業も初めの3 年間は順調に推移し、鬼鹿(小平町)~苫前~天塩~勇知(稚内市)、声間(稚内市)~猿払、沙留(興部町)~渚滑(紋別市)、湧別~網走、浦河~三石など全道一周道路となるべき海岸沿いの区間や、厚田~月形、浜益~新十津川、留萌~北竜、天塩~名寄~旭川、小樽~定山渓(札幌市)など一周道路と内陸道路とを結ぶ線が開通し、その他でも多くの区間で道路の開削が行われた。しかし明治37年度からは年度予算の繰り延べや既定年割額の変更がたびたび行われて、 9 年間の国費の投入額は予定総額の約6 割にとどまり、国・県・里道および市街道路の開削は433里(1, 700. 4km)で予定延長の57%、原野道路および排水道路の開削は753里(2, 956. 0血)で予定延長の50 %、橋梁の架設は14橋で予定橋数の29%とそれぞれ不首尾に終わった。
また道路橋梁の修繕は、計上される毎年度の国費予算が極めて少なく、9 箇年間に実施した道路橋梁修繕工事は989里(3883. Ok皿)で9箇年間の予定延長の12%を行なっただけであった。さらに、竣工後5 年間ほとんど手を入れないままの道路を弓は継いだ地方団体もその財政は乏しく、応急的修理工事をわずかに行うだけで年々荒廃するに任せた。
なお、明治18年告示の国道42号および43号は、三県の廃止と明治33年の第七師団司令部の札幌から旭川への移駐にともない、明治40年5 月13日内務省告示第58号によって次のとおり改正された。
42号 東京ョリ北海道廳ニ達スル路線
東京~6 号・函館~森~長万部~蕨岱~狩太~倶知安~小沢~小樽~銭函~札幌
43号 東京ョリ第七師団ニ達スル路線
東京~6 号・青森~室蘭~植苗~早来~追分~岩見沢~滝川~ 薪神居古潭~旭川
図2 北海道国道図(明治40~大正9 年)
8.第一期北海道拓殖事業計画
北海道十年計画の進捗不振は、人々の将来見通しを惑わせ企業の活動意欲をそぎ、拓殖の前途を深く憂慮させるに至ったが、やがてわが国は、日露戦争後の国運の進展に伴い資源を開発して国力の充実を図るべきときを迎えた。そこで第9 代長官・河島醇は、新しい計画によって将来の方針を定め拓殖事業の発展を図るため、期間15箇年の拓殖事業計画を樹立し、十年計画の期間満了を待たず明治43年度から実施することとした。
この計画では、経費を行政費と事業費に分け、事業費はさらに森林費と拓殖費とに区分した。拓殖費は、殖民費、産業費、道路橋梁費、土地改良費、河川費および港湾費の6 項目を含み、拓殖事業計画としては、将来約15箇年以内において、拓殖上必ず施行することが必要であると認められる事業とその所要経費額等を予定し、確実にこれの遂行を期することとした。そして政府は明治42年(1909) 10月、 (1)北海道拓殖のため、明治43年度以降15箇年間に事業費総額7,000万円を支出すること、および(2 )明治43年度拓殖費予算を250万円とし、それ以降各年度の拓殖費増加額は道内歳入の増加額をもってこれに充当支出すること、を閣議決定した。
先の十年計画による道路の築造は、その工法があまりに簡易で粗雑であった上に修繕費が過度の節約をしいられ、道路開設の効果を十分に発揮させることができなかった。この計画では、「限りある財源を以て、地方人民の限りなき欲望に応ずるが如きは、到底為し得べき所に非ず。」 として路線の採択方針や優先順位の考え方を示し、築造方法を改善し、かつ既設道路の改良と修繕の普及を図って、道路の面目をー新することを期した。
すなわち、北海道の拓殖を進めるためには港湾、鉄道および道路による交通運輸の機能を活発にすることが不可欠である。そこで道路については、枢要の地区や原野を港湾や鉄道に連結することを主眼として考え、まず、現在の国道、県道ならびに枢要地区、既設の区画原野(国が自ら区画を設けて移民の入植に供した原野)および区画外の既処分原野に対する枢要な路線の築造を明治53年度までに完成すること、また、将来設定されるべき区画原野等に対する道路ならびに将来地方の発達に伴って必要となる道路については、53年度以降、必要に応じて漸次築造することを方針とした。これにより国道3 里(11.8km)、県道55里(216. 0km)、里道1,682里(6, 605. 2km)、合わせて1,740里(6,833.0血)の道路新設と特設橋梁35橋の架設を行うこととした。なお、道路の築造標準として造成幅、敷地幅、勾配、砂利敷設の程度を定めたが、これに適合しない粗造の道路は築設しないこととした。
また、道路の改良は、明治42年度以前に国費をもって開削した道路で、路線や築造法が不適切で交通上支障があると認められる枢要道路の区間を、新しい築造標準によって改修するもので、450里(1, 767. 2km)について行うこととした。さらに、道路橋梁の修繕については、拓殖費による修繕期間を築造の翌年から10年間として延べ28,518里(111,990.2血)の修繕工事を行うものとし、十年計画では修繕費予算が毎年度ほlま定額であったが、この計画では当該年度に修繕すべき道路の延長を考慮して算定することとした。
以上のほかに駅逓費と渡船費を加えた道路橋梁費は、総額2, 545万円余となった。
この計画は、大正5 年(1916)まで7 年間にわたる北海道内歳入増加の不振、大正6 年からの第一次世界大戦に伴う好況と物価騰貴、大正11年度からの財政緊縮方針などに遭遇し、数次の計画改訂を経て最終的には計画期間17箇年、拓殖費総額2 億1,400万円の計画となった。しかし、この間に支出した拓殖費は1億6,000万円で、多くの残事業を抱えたまま予定年限を終了し、300万人を目標とした人口は大正15年(1926)で約244万人にとどまった。
道路橋梁費は、当初7 年間の支出額が予定した年割額の57%にとどまり、大正6 年に予定年限を2 箇年延長する計画改訂を行った。また、大正9 年、10年には事業量拡大のためと物価騰貴分の計画改訂を行い、それ以降の年割額を大幅に増額して17年間の総額を4, 440万円とした。しかし政府の緊縮予算の中では、拓殖費の財源に充てるべき北海道内の歳入増加額が非常に多くなったにもかかわらず、各年度の予定額は後年度に繰り延べされて17年間の支出額は3, 910万円で終わった。これによって道路の新設は1,470里(5, 772. 7km)で計画延長の84 %、橋梁の架設は66橋で計画の1.9倍、道路の改良は294里(1, 154. 5km)で計画延長の65 %、道路橋梁の修繕は26, 790里(105, 204. 3血)で15年間計画延長の94%が実施され、大正15年度末の北海道の道路延長は、10, 010里22町(39,311.7km)となった。
ところで、この計画の期間中に 「道路法」 が制定された。
従来、わが国の道路交通は徒歩、馬、駕籠(かご)によっていたが、明治の時代に入ると馬車や自転車が輸入され、貨物運搬には大八車や牛馬車に代わって大荷馬車が使われるようになり、明治14年(1881)には東京~大阪間に貨客の馬車輸送が営業を開始した。このような情勢のなか、明治18年には国道44路線の指定がおこなわれたが、その後、閣議に上呈された21年(1888)の公共道路条例案と街路新設条例案、つづく23年の道路法案はいずれも廃案となった。また明治29年には道路法案が第十帝国議会に提案されたが衆議院本会議で否決され、さらに32年にも第十四帝国議会に提案されたが貴族院先議で審議未了となった。以上の経過は、殖産興業・富国強兵を速やかに達成しようとする明治新政府が、大量輸送機関である鉄道と海運の保護育成に重点を置き、国民の道路に対する関心もまだ低かったことによるものである。
大正3 年(1914)勃発の第一次世界大戦に伴うわが国産業の飛躍的発展は、国内商品市場の拡大と国内輸送需要の増大をもたらし、明治30年代から輸入されていた自動車の利用が急増する傾向を示すとともに、道路の重要性に対する国民の認識も高まった。ついに、最初の条例案を出してから30年、大正7 年(1918) 12月の第四十一帝国議会において「道路法」は可決され、大正9 年4月1日から施行された。
この道路法は、道路の種類、等級、路線認定の基準、管理者、費用負担、収入、監督および罰則等広い範囲について規定した道路行政の基本法であるが、その第61条で
北海道ニ付テハ道路ノ種類、等級及路線ノ認定竝第三十三條乃至第三十六條(道路に関する費用の負担)、第四十三條(負担金収入の帰属)、第四十四條(占用料等の帰属)及第五十二條(監督官庁の認可)ノ規定ニ関シ勅令ヲ以テ特別ノ定ヲ為スコトヲ得
とした。この規定に基づき、大正8 年11月25日には勅令第473号によって 「北海道道路令」が公布され、道路法施行の日から施行された。
道路法では、道路の種類を
国道、府県道、郡道(大正11年、郡制廃止にともない削除)、市道、町村道
としたが、北海道道路令では、
国道、地方費道、準地方費道、区道(大正11年、市制施行により市道)、町村道
となった。
国道は、「東京ョリ神宮、府県庁所在地、師団司令部所在地、鎮守府所在地又ハ枢要ノ開港ニ達スル路線」 および「主トシテ軍事ノ目的ヲ有スル路線」 について主務大臣が認定することとなり、大正9 年4 月1日内務省告示第28号「国道路線認定ノ件」によって全国で38路線の認定が行われた。このうち北海道に関するものは次の3路線であった。
4号 東京市ョリ北海道廳所在地ニ達スル路線
東京(日本橋)~宇都宮~福島~仙台~盛岡~青森~函館~小樽~札幌(北三条西五丁目)
27号 東京市ョリ第七師団司令部所在地(旭川市)ニ達スル路線(甲)
東京~4 号・札幌市北一条西四丁目~岩見沢~旭川(四条通七丁目)
28号 東京市ョリ第七師団司令部所在地(旭川市)ニ達スル路線(乙)
東京~4 号・青森港~室蘭~栗沢(清真布経由)~岩見沢・27号
図3 北海道国道図(大正9 年~昭和27年)
(旧)道路法による国道4 号線の終点となった札幌市中央区北3 条西5丁目交差点
地方費道および準地方費道は北海道庁長官が認定することとなり、大正9年4月1日告示第241号で地方費道31路線、準地方費道107路線が認定された。その主なものの実区間を示せば次のとおりである。
地方費道
札幌江差線 4 号・七飯町峠下~大野~中山峠~江差
札幌浦河線 札幌~千歳~苫小牧市植苗、(28号)、早来~鵡川~静内~浦河
札幌根室線 27号・滝川~富良野~帯広~大津~釧路~厚岸~浜中~花咲港
札幌稚内線 札幌~江別~月形~北竜~留萌~天塩~幌延~稚内
旭川根室線 旭川~愛別~北見~美幌rー網走~斜里~標津~別海~厚床
旭川稚内線 旭川~鷹栖~名寄~枝幸~宗谷~稚内~稚内港
帯広浦河線 帯広~広尾~えりも~浦河
帯広網走線 帯広~音更~本別~美幌
稚内網走線 浜頓別~紋別~常呂~網走
網走釧路港線 小清水~弟子屈~釧路町別保~釧路~釧路港
札幌岩内線 4 号・共和町小沢~岩内港
準地方費道
函館江差線 函館~上磯~木古内~上ノ国~江差
江差岩内線 江差~熊石~瀬棚~寿都~磯谷~岩内
札幌留萌線 札幌~石狩~浜益~増毛~留萌
浦河旭川線 門別町富川~日高~南富良野町金山、富良野~美瑛~旭川
根室乳呑路線 根室港~国後島泊村~東沸村~留夜別村乳呑路
根室藁取線 根室港~択捉島内保村~紗那村~別飛村~蘂取村
道路に関する費用の負担について、道路法は 「主トシテ軍事ノ目的ヲ有スル国道其ノ他主務大臣ノ指定スル国道ノ新設又ハ改築ニ要スル費用ハ国庫ノ負担トス」 とし、その他の費用は、国道および府県道については府県、市道については市、町村道については町村の負担とした。ただ、公共団体の負担とした費用のうち、国道の新設または改築に要するものはその一部を国庫から補助することができるものとし、特別の事由がある場合においては府県道以下の道路の新設または改築に要する費用についても同様とした。
一方..北海道道路令では、 「国道ニ関スル費用ハ当分ノ内国庫ノ負担トシ拓殖費ョリ支弁ス」と規定され、全ての国道について、当分の間、新設と改築だけでなく修繕および維持についても、その費用は全額が国庫の負担となった。また、 「地方費道以下ノ道路ニシテ道廳長官拓殖ノ為必要ト認ムルモノニ関スル費用ハ当分ノ内期間ヲ定メ国庫ノ負担トシ拓殖費ョリ支弁スルコトヲ得」 との規定が設けられ、地方費道以下についても新設や改築はもちろん、修繕や維持についても全額を拓殖費から支弁できることとなった(第5 条)。さらに、「地方費道以下ノ道路ニ関スル工事ニシテ道廳長官拓殖ノ為必要ト認ムルモノノ費用ニ対シテハ当分ノ内其ノ全部又ハー部ヲ国庫ョリ補助シ拓殖費ョリ支弁スルコトヲ得」 として、拓殖上必要なものについては幅広い国費の補助ができるようにした(第8 条)。
以上の道路行政上の特例措置は、道路が未発達な北海道の特殊性を考慮し、現に進行中の拓殖行政との調和に配慮したものと思われるが、北海道でも大正12年度以降道路の種類を改め、築造工法も大正8 年12月に公布された道路構造令に準拠することとなった。
ここで新しい道路種別による各道路の費用負担別延長を示せば表2 のとおりである。
表2 大正14年度・費用負担別道路延長(単位:km)
道路種別 実延長
国 費 負 担
地方費負担 市 費
町村費負担 計画存続中 当分期間中 計
国 道 593 593 0 593
地方費道 2,490 1,495 178 1 .673 817
準地方費道 3,334 879 114 993 2,341
市 道 628 0 0 0 628
町 村 道 3 乙,030 0 「a ●1 (り 《U
.
^ ● ~~
J ,」Jo 29,440
計 39,681 2,967 3.488 6,455 3,158 30,068
9.第二期北海道拓殖事業計画
明治43年度を初年度とする拓殖事業計画は、相当の成果を収めて大正15年度に終了したが、拓殖事業はいまだ道半ばにして前途なお遼速、しかも北海道は当時の人口問題と食糧問題を解決する場としておおいに期待されていた。
政府は昭和2 年(1927) 1 月、昭和2 年度以降約20年間に施行すべき北海道拓殖事業について、(1)北海道内における一般会計歳入と北海道に関する一般会計歳出(拓殖費を除く)との差額分を拓殖費の財源とし、この財源の範囲内で毎年度の拓殖費予算を決定すること、 (2)拓殖費は一般会計に計上し、事業により継続費とすること、 (3)継続費としたもの以外の各年度支出残額は翌年度に繰越して使用できることを明許すること、および(4)北海道拓殖費の計画は方針として帝国議会に提出すること、などを閣議決定し、第二期北海道拓殖事業計画を施行することとなった。
この計画は、国公私有未開地および海田の開発、交通・産業・土木事業等各般の施設を行い、移民約197万人を収容して総人口を少なくとも600万人にしようとするもので、昭和2 年度以降20年間の北海道拓殖費総額を約9 億6, 300万円とした。そしてこの計画の達成によって、北海道は大体において拓殖地の域を脱し、ほぼ府県と同一の制度に進むことができるものと考えた。北海道の道路は第一期拓殖事業計画終了時に約1万里(4 万km)どなり、北海道全島をおおう幹線道路網が一応形成された。しかし道路の密度は極めて低く、しかも重要な幹線道路においても車馬の通行不能区間が少なくない状況にあったので、道路の新設、改良、橋梁の架設等は拓殖上なお第一の急務であった。
この計画では、殖民原野の幹線となるべき道路および各殖民原野と鉄道、港湾その他重要な地区とを連絡する道路3, 500里(13, 744. 5km)を新設し、国道その他拓殖上重要な既成道路のうち泥炭地、急坂、路面狭隘等のため車馬の交通に支障のある箇所728里(2,858.9畑)を改良するとともに橋梁18, 763間(34, 149m)を架設することとした。また、この頃になると市道および町村道の改良を市町村自らが計画するようになったので、これらの路面改良、拡幅、勾配緩和等のエ事に対してそれぞれ3 割を補助することとし、市道20里(78. 5km)、町村道400里(1,570. 8km)を予定した。さらに道路の修繕については、従前、地方費道、準地方費道それぞれについて国費負担分と地方費負担分があったが、この計画では地方費道はすべて国費負担、準地方費道はすべて地方費負担とし、町村道については従前どおり国費開削後10箇年間の修繕を国費により行うものとして、20年間の総延長を43, 751里(171, 810. 2km)と予定した。このほか、国道、地方費道の敷地調査および境界標設置のための道路調査費、駅逓および渡船のための経費を合わせて、道路橋梁費の予定総額は2 億2, 180万円となった。
この計画は、前半には経済界の不況、連続的冷害・凶作、昭和7 年(1932)の大水害等のため著しい歳入欠陥を生じ、加えて昭和6 年の満洲事変後は殖民政策の重点が満洲に移って北海道はー時閑却される情勢となり、拓殖事業の進展は計画に対してほど遠い状況であった。また後半には、昭和12年の日中戦争、同16年の太平洋戦争と続くなかで、政府の施策は軍需資材の生産、軍事上必要な事業の推進および食糧の増産に限定され、この計画も時局に即応した改訂が加えられて当初計画とは目的・内容が全く異なるものとなった。
この計画で実施された道路の新設は、20年間で862里(3,385. 1km)、計画延長のわずか25%にとどまった。一方、馬車道を標準として築造された従来の道路は、当時の交通量の増大や自動車利用の急増に対応できない箇所が多く、これらを改造修築することが緊急に必要となった。 このため道路の改良は20年間で1, 034里(4, 060. 5km)、計画延長の142%を実施し、橋梁の架設についても21, 795間(39, 667m )、計画延長の116%を実施した。
また、市道および町村道の改良に対する補助は、北海道道路令第8 条の規定に基づいて大正13年度から始められたものであるが、この計画では、計画延長の44%にあたる187里(734. 3畑)の道路改良と、33町26間(3, 644m)の橋梁架設に対して行われた。
ここで、北海道の幹線道路を構成する国道、地方費道および準地方費道について、大正14年(1925)と昭和14年(1939)の状況を対比すると表3 のとおりであるが、この間に、
室蘭~長万部、 函館~松前~江差~瀬棚、 札幌~定山渓~喜茂別~壮瞥~伊達、
旭川~富良野~富川(門別町)、 大楽毛(釧路市)~阿寒湖畔~津別、
足寄~弟子屈、 美幌~弟子屈、 名寄~興部
など多くの区間が、準地方費道から昇格しあるいは新たに認定されて地方費道となった。
表3 大正14年‘昭和14年、幹線道路対比(単位:kni)
道路種別
大正14 年度 昭和14年3 月 増 減
路線数 実延長 路線数 実延長 路線数 実延長
国 道
3 6 4
2
一
~
593 3 596 +0 + 3
地方費道
準地方費道
2,490
3,334
55
123
3,891
3,180
29
十19
+1, 401
A 154
計 133 6,417 181 7,667 + 48 +1, 250
10.一級道路。二級道路
昭和20年8 月15日の太平洋戦争終結から間もない11月9 日、膨大な飢餓・失業人口を抱えた政府は、食糧増産と失業者・引揚者らの帰農促進を目ざす「緊急開拓事業実施要領」を閣議決定し、開墾面稽の45 %、入植戸数の20%を北海道で達成することとした。
昭和21年4 月25日に任命された第30代北海道庁長官・増田甲子七は同年7 月、新計画策定のための 「北海道総合開発調査委員会」 を設置した。昭和22年2 月には10の専門委員会からそれぞれ答申書が提出されたが、同年5 月3 日施行の地方自治法により地方公共団体となった 「北海道」は、昭和23年9 月、 「北海道総合開発計画書」 としてこれを取りまとめた。この計画では、北海道に国民の居住地として快適であり投資地として有利な理想形体を形成することに基本理念を置き、各種の資源開発に重点を置くとともに、北海道を工業的高次生産地に脱却させることを基本方針とレた。七してlU箇年間の目標を定め(.、これにより日本再建の目的に添うものとした。
一方、政府は、わが国の人口・食糧・資源等緊急問題を解決すべき北海道開発の重要性とその政治的沿革とにかんがみ、昭和22年1月8 日の閣議決定「北海道拓殖費に関する昭和二十二年度予算編成上の措置」 において、北海道の開発に関する直轄行政を処理させるため内閣に「北海道開発庁」 を置くことを予定して予算編成を行うものとした。しかしこの閣議決定は、北海道のみに他府県と異なる特別の機構を設けることについて連合国軍司令部の承認が得られなかった。そこで政府は方針を変更して、関係行政および予算をすみやかに農林省その他各省に移管すること、ただし各省による計画実行の総合調整を図るため関係各省次官に北海道知事を加えた委員会(北海道開発行政運営委員会)を設置すること、および現地機構は北海道を利用すること、を6月17日に閣議決定した。ところが23年3 月16日にいたり、再度司令部から、北海道開発に関する事項は各省がそれぞれ分担しているのでもはや特別の委員会は必要ない、委員会の名称に 「北海道」 の字句を入れてはならないとの意見表示が行われた。最終的に政府は、経済安定本部総務長官を会長とし、関係各省庁の官吏および知事からなる「地方開発協議会」を経済安定本部に設置し、北海道その他地方総合開発の連絡協議機構とすることを、昭和23年5月7 日の閣議で決定した。そして北海道は、同年9 月にとりまとめた北海道総合開発計画書を中央各省庁に持ち込んで説明したが、そのさいこの地方開発協議会が仲介の労をとり、各省庁意見の取りまとめを行った。
この計画書では、北海道の道路を一級道路、ニ級道路およびその他道路に分類し、それぞれについて10箇年間に実施すべき事業とその事業量を示した。そしてこの一級道路および二級道路の路線は、道路法の規定により認定された各路線の種類、性格等に必ずしもとらわれることなく選定されたもので、北海道の開発を全域的に進めていく上で基本となるべき道路網を示しており、この道路網はそれ以降の道路行政に大きな影響を与えることとなった。すなわち、一級道路とは、「北海道庁所在地より道内の枢要な港津あるいは国土保全上枢要な指定地に達する路線」等、北海道の道路の根幹をなすもので、数個の地方費道をつないでーつの目的をもつ路線を構成したものもある。また二級道路とは、 「管轄区域を隣接する支庁の所在地を連結する路線」等一級道路に次ぐ路線で、地方費道と準地方費道をつなぎ、あるいは町村道を加えてーつの路線としたものもある。
ところで、第二期拓殖事業計画は昭和21年度をもって終了したが、昭和22年度予算の概算要求時には、北海道総合開発調査委員会の具体案はまだ出されていなかった。そこで北海道庁は、昭和20年度以降実施中の緊急開拓事業を中心とし、第二期拓殖事業計画の残事業、応急的事業等を行うための経費として拓殖費予算を要求した。
しかし、昭和22年度事業の実施段階に入ると、道路事業では早く・も一級道路・二級道路の思想を取り入れて実施した。 「昭和ニ十二年度 北海道開発事業実施概要」では一般道路改良工事の実施成績として「幹線道路の荒廃に鑑み、国道及重要幹線道路を一級道路とし、之に準ずる地方幹線道路を二級道路として、これらの道路中交通不能区間で輸送上甚だしく隘路となっている箇所の改良工事を行なった。」 と述べている。昭和22年4月1日現在の道路現況による一級道路・二級道路の延長は表4 のとおりである。
29
表4 昭和22年4 月1 日現在 道路延長(単位:kni)
道路種別 一級道路 二級道路 小 計 その他道路 計
国 道 591 0 591 0 591
地方費道 1, 262 2.321 3,583 448 4,031
準地方費道 0 641 641 2,503 3,144
市・町村道 1)
66 66 34,206 34,272
計 1,853 3,028 4.881 37,157 42.038
内
、
浜頓別
ニヒ
一級道路
ニ級道路
Iノ
天塩
音威子府
興部
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図4 -級道路・ニ級道路の経路
その後もこの総合開発計画は長期引画として事業化されるには至らなかったが、道路事業では23年度以降も一級道路・二級道路の考え方を実施計画の基本として、これを構成する国道、地方費道、準地方費道および町村道の整備を重点的に進めた。
昭和25年5月1日、北海道開発法が公布され、同年6 月1日には総理府の外局として「北海道開発庁」 が設置された。これによって、昭和22年度以降関係各省に計上されていた開発関係予算は、26年度以降は北海道開発庁に一括して計上されることとなった。また昭和26年7月1日には
▼表5 一級道路・ニ級道路の経路(昭和22年4 月1日現在) (単位:km)
路線番号 | 起点, 経過地, 終点 | 延長:km |
1 級1号 | 札幌市北3 条西5 丁目(道庁赤レンガ正門前)~小樟市~倶知安町~長万部村~八雲町~函館市東浜町(現末広町) | 296 |
1 -2 | 札幌市北1条西4 丁目~岩見沢市~滝川町~旭川市4 条8 丁目 | 140 |
1 -3 | 室蘭市海岸町~苫小牧町~岩見沢市1条東1丁目 | 155 |
1 -4 | 旭川市4 条8 丁目~常盤村(現音威子府村)~天塩町~稚内町開運通3丁目 | 295 |
1 -5 | 滝川町材木通北3丁目~帯広市~釧路市~根室町花咲港 | 460 |
1 -6 | 旭川市4 条8丁目~上川村~白滝村~遠軽町~留辺築町~北見市 ~美幌町~弟子屈村~別海村奥行臼~和田村厚床(現根室市) | 359 |
1 -7 | 長万部村市街国道分岐~伊達町~室蘭市輪西分岐点 | 100 |
1 -8 | 札幌市南1条西4 丁目~千歳町~苫小牧町植内 | 48 |
2 -1 | 函館市万代町~福山町(現松前町)~江差町~瀬棚町~寿都町~ 岩内町~神恵内村~入矩I村野塚(現積丹町)~余市町大川町 | 500 |
2 -2 | 札幌市北3 条東1丁目~石狩町~留萌町~天塩町山手通 | 272 |
2 -3 | 稚内町ウエンナイ~枝幸村~紋別町~網走町~斜里町~標津村~別海村奥行臼 | 487 |
2 -4 | 苫小牧町錦町~浦河町~広尾町~帯広市石狩通3 丁目 | 300 |
2 -5 | 函館市若松町~戸井村~椴法華村~鹿部村~森町柳原 | 130 |
2 -6 | 函館市追分町~大野村~泊村田沢(現江差町) | 65 |
2 -7 | 八雲町砂蘭部~利別村(現今金町)~東瀬棚村東瀬棚(現北桧山町) | 59 |
2 -8 | 札幌市豊平3条6 丁目~喜茂別村~洞爺村~虻田町入江 | 125 |
2 -9 | 小沢村京助街道(現共和町)~倶知安町~喜茂別村 | 25 |
2 -10 | 札幌市北3条西4 丁目~月形村~沼田村梅ノ沢 | 122 |
2-11 | 音江村音江法華(現深川市)~深川町~北竜村~留萌町 | 58 |
2 -12 | 士別町5丁目~幌加内村添牛内~苫前村三豊 | 92 |
2 -13 | 頓別村浜頓別(現浜頓別町)~中頓別村~常盤村音威子府 | 63 |
2 -14 | 名寄町大通3丁目~西興部村~興部村市街分岐点 | 73 |
2 -15 | 下湧別村下湧別(現上湧別町)~遠軽町~留辺薬町 | 56 |
2 -16 | 網走町大曲~美幌町~津別村本岐~阿寒湖畔~白糠村大楽毛 | 152 |
2 -17 | 釧路村別保川尻(現釧路町)~標茶村~標津村市街分岐点 | 121 |
2 -18 | 帯広市石狩通3 丁目~士幌村~足寄村~阿寒湖畔~弟子屈村 | 157 |
2 -19 | 西神楽村神楽町(現旭川市)~美瑛町~富良野町本通南1丁目 | 60 |
2 -20 | 東山村西達布橋付近(現富良野市)~日高村~門別村富川町 | 111 |
合 計 | 4,881 |
北海道開発庁の地方支分部局である北海道開発局が札幌市に置かれ、公共事業費の支弁に係る国の直轄事業で農林省、運輸省および建設省が所掌するものについては、すべて北海道開発局が実施することとなった。
昭和26年度の道路事業では、一級道路および二級道路の改良‘橋梁整備・補修・維持、資源開発上必要な道路の改良、国費支弁町村道の橋梁整備。補修‘維持、開拓道路の新設・改良を国の直轄事業として、全額国費によって北海道開発局が執行した。なお、26年度には道費および市町村費支弁道路の改良・補修について国庫補助の制度が設けられた。
11.一級国道・二級国道・開発道路
太平洋戦争により極度に疲弊した日本経済は、昭和25年6 月に勃発した朝鮮戦争の特需と、世界経済の好況に伴う輸出の進展により本格的な復興期を迎えた。そして自動車輸送に対する需要が著しく増大し、産業基盤としての道路の整備を求める声が次第に高まってきた。
また、昭和22年の日本国憲法や地方自治法の施行により、わが国の政治・行政制度は抜本的な改革をうけ、制定以来約30年間にわたり道路行政の基本法として作用してきた道路法は、その中央集権的性格を払しょくして時代の要請にこたえなければならなかった。
昭和27年4 月28日、世界48箇国との平和条約が発効し、わが国は独立国として再出発をしたが、この年の第十三国会で衆議院議員・田中角榮外2 名提出の道路法案が成立した。この(新)道路法は昭和27年6 月10日に公布され、同年12月5 日から施行された。
(新)道路法では道路の種類を一級国道、二級国道、都道府県道および市町村道とした。一級国道とは 「国土を縦断し、横断し、又は循環して全国的な幹線道路網の枢要部分を構成し、且つ、都道府県庁所在地(北海道にあっては、支庁所在地。)その他政治・経済・文化上特に重要な都市を連絡するi首路ハ 」 であり、一級国1首は 「一級国1首シあわせて全国的か幹綿消路網タ構成1 日つ都道府県庁所在地及び人口十万以上の市(「重要都市」 という。)を相互に連絡する道路、重要都市と一級国道とを連絡する道路、重要な港湾・飛行場・国際観光地と一級国道とを連絡する道路又は二以上の市を連絡して一級国道に達する道路。」 とした。すなわち、(旧)道路法の国道は、軍事目的のものを除き、すべての路線が首都・東京から地方の主要地へ向かう放射線として配置されたが、(新)道路法では一級国道と2 級国道によって全国的な幹線道路網を構成するものとした。
このため国道の体系は、放射状の「線」 から全国をおおう 「網」へと質‘量ともに大きく変化することとなった。
そして国道の路線は、昭和27年12月に一級国道40路線、翌28年5 月に二級国道144路線、合わせて184路線、約24, 000km が政令によって指定され、北海道の区域内については一級国道7 路線、二級国道18路線、合わせて25路線、約4, 200~となった。北海道では既に昭和22年、全島をおおう幹線道路網を設定し、一級道路・二級道路として整備を進めていたが、ここで指定された一級国道および二級国道の路線はすべてこの道路網にふくまれるものとなり、(新)道路法の国道は一級道路・二級道路の道路網を弓は継ぐ形となった。
都道府県道とは、地方的な幹線道路綱を構成し、かつ、道路法に定める要件に該当する道路で都道府県知事が認定した路線であり、北海道では一・二級国道の指定によって従来の地方費道はそのほとんどが国道となったので、道道の路線は準地方費道を主体として認定された。また、市町村道とは、市町村の区域内の道路について市町村長が認定した路線とされた。
次に、(旧)道路法では道路をすべて国の営造物と観念し、その管理は府県知事ゃ市町村長が国の機関として行う体制をとっていた。しかし(新)道路法では一級国道と二級国道は国の営造物、その他の道路は各地方公共団体の営造物との考え方をとり、道路管理者は一・二級国道については都道府県知事、その他については各地方公共団体とされた。このため一・二級国道については、工事が高度の技術を要する場合、都道府県の区域の境界に係る場合など特別の場合の新設または、改築を建設大臣が自ら行う場合のほかは、新設、改築、維持、修繕、災害復旧その他の管理を都道府県知事が行い、都道府県道の管理は都道府県、市町村道の管理は市町村が行うこととなった。
また、道路の管理に関する費用は原則として道路管理者の負担としたが、一・二級国道の新設または改築については、建設大臣が行う場合には三分の二(大規模工事の場合、四分の三)を、知事が行う場合には二分のーをそれぞれ国が負担することとし、また主要な都道府県道もしくは市道の新設または改築については二分の一以内を、国が道路管理者に対して補助することができるものとした。
しかし北海道についてはこの道路法でも、道路に関する費用の負担および道路管理者の権限の代行に関して特別の規定が設けられた。すなわち、法案では、
(道の特例)
第89条 国は、道の区域内の道路については、政令で定めるところにより、道路に関する費用の全額を負担し、若しくはこの法律に規定する負担割合若しくは補助率以上の負担若しくは補助を行い,又はこの法律に規定する以外の補助を行うことができる。
2 建設大臣は、前項の規定により国が道路に関する費用の全額を負担する場合において、国の利害に特に関係があるときは、法令で定めるところにより、道路管理者の権限を行うことができる。
として提出された。これについて法案提出者・田中角榮は衆議院建設委員会において、 「道の特例の問題は北海道を開拓地としての太政官布告時代からの問題でありまして、現行法でもいろいろの面で北海道は特例を認められております。しかも現在の状態にありまして、北海道だけに特例を認めるということに対しても相当の議論があるところでありますし、北海道のみ道路費が重点的に配分せられるために、一般内地における道路整備が非常に遅れるというような議論もあったのでありますが、これは既得権でありますので、これを現在早急に改正をし、内地並にすることの当否に関しましては、まだ、議論の存するところでありますので、本条においては現行通り全額国庫負担を認めておるわけであります。」 と述べているが、審議の結果、 「この規定は、それが資源の開発等のために認められる以上、それと同じ条件を有すると認められた都府県の道路についても当然北海道と同様の特例を認めるべきである。」との理由により、第一項に「地勢、気象等の自然的条件がきわめて悪く、且っ、資源の開発が充分に行われていない地域内の道路で政令で指定するものについても、同様とする。」 を追加し、第88条(道等の特例)として可決された。
そして、道路法施行令では道路法第88条の規定に基づき、イ‘道の区域内の一級国道および二級国道の管理に関する費用は国の負担とすること。
ロ.道道および道の区域内の市町村道で、建設大臣が開発のため特に必要と認めて指定したものの管理に関する費用は、当分の間、国の負担とすること。(この道路を、「開発道路」 という。)
ハ.建設大臣は、道の区域内の一級国道および二級国道の新設、改築、維持、修繕、災害復旧その他の管理を行うこと。
ニ.建設大臣は、開発道路の新設および改築を行うこと。
ホ.建設大臣は、開発道路の維持、修繕または災害復旧を行うことができること。
等、北海道に関する特例の細部が定められた。
これにより北海道の一級国道と二級国道の新設、改築、維持、修繕、災害復旧その他の管理は、費用の全額を国の負担として北海道開発局が行うこととなった。
また、一級道路もしくは二級道路で、ー級国道または二級国道のいずれにも指定されなかった区間は、都市内のわずかの部分を除き、19路線の道道として開発道路に指定された。このうち小区問の2 路線は29年度中に指定を解除されたが、残る17路線・約610血については新設・改築の終了後も国道に準じて維持管理が行われることとなり、通称「維持線」 と呼ばれた。そしてその後、ほとんどの路線が国道に昇格した。
さらに、(新)道路法施行時に新設・改築や維持・修繕等を国の直轄事業として北海道開発局が実施していた道道留辺蘂上川線(石北峠経由)、同白糠本別線、同美幌斜里線、市道清水沢大タ張線、町道福島岩部線、同大滝支笏湖線、同妹背牛音江線、村道太櫓久遠線、同愛別朝日線、同羅臼知円別線その他の路線は引き続き開発道路として指定され、昭和29年4 月I日付け改正告示では、道道39路線・800km余 、市町村道411路線- 1, 800血余(うち開拓道路は推定393路線。)、合わせて450路線・約2,700km(不通区間や未供用区間を含む。)となった。なお、この指定では、新設・改築工事をすでに終了して維持・修繕等のみを行うものが道道で13路線、市町村道て366路線あり、このなかには29年度中に指定を解除されたものもあって、昭和29年度末の所管別道路延長は表6のとおりとなった。
34
表6 昭和30年3 月31日現在 所管別道路延長(単位:kni)
道 路 種 別 北海道
開発局 北海道 市町村 計
一 級 国 道 1,522 0 0 1 ,522
二 級 国 道 2,698 0 0 2,698
道 道 624 5,135 0 5 ,759
市 町 村 道 1, 480 0 44,046 45,526
計 6,324 5 ,135 44,046 55,505
その後、道路法の改正によって、昭和32年(1957)には道路の種類に高速自動車国道が加えられ、翌33年には、一級国道の新設または改築は建設大臣が行うのを原則とし、維持、修繕、災害復旧その他の管理も政令で指定する区間(「指定区間」 という。)内については建設大臣が行うこととなった。さらに、昭和39年の改正では一級国道・二級国道の区別が廃止されて「一般国道」となり、国道の建設・管理に関する国の責任が強化された。
また、昭和27年(1952)には本格的な有料道路制度を導入する(旧)道路整備特別措置法が制定さ
―級国道
一 ニ級国道
ーーーー 開発道路(維持線)
I
図5 一級国道・二級国道・開発道路図(昭和30年3 月31日)
35
れており、翌28年7 月には議員提出法案である「道路整備費の財源等に関する臨時措置法」が施行された。この法律は、道路整備五箇年計画の作成、五箇年計画期間中の揮発油税の道路特定財源化および国の負担率・補助率の嵩あげ(改築 四分の三以内、修繕 二分の一以内)を規定し、これに基づく第一次道路整備五箇年計画が昭和29年度から発足した。 そして昭和33年には国の経済計画に合わせて第二次道路整備五箇年計画が策定されることとなり、 「道路整備費の財源等に関する臨時措置法」 に代わって同様主旨の道路整備緊急措置法が制定された。
北海道については、従来、道路法第88条に基づく道路法施行令の規定によって、国道の新設、改築、維持、修繕、災害復旧その他の管理を直轄で行なっていたが、指定区間制度の導入に伴い道の区域内の国道についても指定区間として建設大臣が管理を行うこととなった。 そこで、 「一般国道の指定区間を指定する政令」では北海道の区域内に存する区間の全線が指定区間に指定され、新設、改築、維持、修繕、災害復旧その他の管理を従前どおり北海道開発局が実施することとなった。また昭和45年度に、二次改築の一部について、国の負担率および補助率が3 /4 から2 /3 へ引き下げられたさい、北海道の国道の二次改築についても従前の10/10から9 /10に、ついで翌46年度には一次改築と維持修繕について9. 5/10と8 /10にそれぞれ引き下げられ、開拓使以来100年の歴史のなかではじめて国の直轄事業に地方負担金を徴収することとなった。なお、高速自動車国道とあわせて全国的な幹線道路網を構成すおこととなった一般国道は、その後数次にわた
る追加指定を経て、昭和60年(1985)には全国で401路線、約46, 900kmとなり、北海道では44路線、約5, 900血(未供用区間を含む。)となった。
つぎに、建設大臣が開発のため特に必要と認めて指定する開発道路について、昭和29年7 月、建設省道路局長通達によってその選定基準が示された。これにより、新規に採択する路線は資源・開発のため必要な道路および開拓団地に達する開拓幹線道路(「開拓道路」 という。)と定められた。また、開発道路の管理に関する費用は、従来の全額国庫負担から維持修繕については昭和46年度に8/10へ、新設・改築については翌47年度に9.5/1 0へ、国の負担率がそれぞれ引き下げられた。これに伴い道路法第88条第2 項の権限代行に関する規定を改めて、国が政令で定める割合以上の負担を行う場合には建設大臣が道路管理者の権限の全部または一部を行うことができるものとし、開発道路についても従前どおり北海道開発局が新設、改築等を行うこととなった。
開発道路の新規路線は、昭和30年度から同60年度までの31年間に道道として31路線、市町村道(開拓道路を除く。)として18路線、開拓道路として152路線、合わせて201路線が採択された。このうち開拓道路は、農業政策の転換といわゆる農免道路事業との関連から、新規路線の採択を昭和41年度限りとし翌42年度で全上學を終了した。また、市町村道の材規路線の採択は昭相43年度を最後とし、採択された路線は新設・改築に地方負担をともなうこととなる47年度には、全線が道道に認定された。
道道として採択されたもののうち7 路線は、既設の道路を開発道路として採択したものであるが、他の路線は、それぞれ新たな道路を開削することを工事の主体とし、建設工事完了後はすみやかに道路管理者である北海道または市町村に引き継ぐものであって、通称「建設線」 と呼ばれた。上記7 路線は既に6 路線が一般国道に指定され、他の1路線は北海道に引き継がれた。また、「建設線」42路線のうち、14路線は工事を完了して道路管理者に引き継がれ、表7 の7 路線は工事中もしくは引継ぎ後に一般国道に昇格した。さらに、路線が分割されたものおよび昭和29年度以前から施工中のもの1路線を含め、昭和60年度末の開発道路は、23路線、指定延長620kmとなった。
開発道路は、未開発資源の開発を第一義として路線の採択が行われてきたものであるが、開削された路線は一般国道や道道として北海道の幹線道路網を構成し、幹線道路網充足のうえで極めて大きな役割を果たしてきた。しかし、北海道の幹線道路は国土面積1扇あたり220 m(一般国道+道道)で、その密度は東北地方の約6 割、九州の4 割弱と極めて低く、いまだ北海道は基礎的道路網の設定段階にあるといえる。
表7 一般国道に昇格した開発道路「建設線」 (単位:km )
採択年度 道路種別 路 線 名 指定延長 国 道 昇 格 3 3 3 3 3 4 4 0 3 4 6 8 1 5
市町村道 日高清水線 58 昭和45年、一般国道274号
ク 根釧開発幹線 89 45 272号
ク 若佐端野線 41 50 333 号
ク
ク
層雲峡十勝三股線
ウトロ羅臼線
33
33
45 273 号
50 334 号
ク 日高夕張線 34 45 274 号
道道 浦河大樹線 29 57 236号
計 317
「日本の道路は信じがたいほど悪い。工業国でこれほど完全にその道路網を無視した国は、日本のほかにない。」 昭和31年、建設省の要請で来日した米国のワトキンス調査団は、報告書の冒頭でこう書いた。その日本の道路は、揮発油税等の特定財源化と有料制度の導入によって道路整備費の財源を確保し、昭和29年度以降の道路整備五箇年計画の策定によって道路整備事業の効率的執行を図る道路政策によって、生活と生産活動の基礎施設として着実に整備が進められてきた。
また、昭和25年6月1日に設置された北海道開発庁は、国が樹立すべき北海道総合開発計画について調査し、および立案し、ならびにこれに基づく事業の実施に関する事務の調整および推進にあたることを所掌事務の第一とし、昭和27年度を初年度とする第一期北海道総合開発計画から昭和63年度以降10箇年間の第五期計画まで、北海道に対する時代の要請に対応してそれぞれの計画を策定してきた。そして道路については、「自動車交通可能路線の総延長を1万5 千粁に達せしめる。」ことを目標とし、幹線道路の改良や橋梁の永久構造化を重点とした初期から一貫して、北海道開発政策上の重要施策としてその整備が進められてきた。37
開発道路・ウト口羅臼線として開削された一般国道334号と北方領土・国後島(北海道開発局 釧路開発建設部 提供)
北海道の道路の延長は、三県時代末の明治18年(1885)には国・県・里道あわせて1, 194kmであったが、北海道庁初期時代の明治33年(1900)には4,280kmとなり、第一期拓殖計画末期の大正14年(1925)には国道・地方費道・準地方費道・市道・町村道あわせて39,681届となった。第二期拓殖計画期間中の増加はわずかで昭和22年4 月1日現在42, 038km であったが、(新)道路法による一級国道・二級国道・道道・市町村道は昭和30年3 月31日現在55, 505kmとなり、昭和60年4 月1日現在では80, 935血となった。この間に、一般国道と道道の幹線道路は昭和30年の9, 979細から同60年の17, 327km へと大幅に増大した。また、北海道の高速自動車国道は、札幌
北海道の幹線道路網の骨格・高連自動車国道と一般国道との連結(道央自動車道岩見沢インターチエンジ付近と一般国道234号、日本道路公団 札幌建設局 提供)
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表8 昭和印年4 月1日現在 所管別道路延長(単位:km)
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道路種別 日本道路
公 団
北海道
開発局 北海道 札幌市 市町村 計
高速自動車国道 129 129
ー 般 国 道 5,848 5,848
道 道 27 11,186 266 11, 479
市 町 村 道 4,149 59,459 63,608
計 129 5,875 11,186 4,415 59,459 81,064
オリンピック冬季大会の前年、昭和46年12月4 日に千歳・北広島間と小樽・札幌西間が供用開始され、その後も引き続き供用区間の伸長が進められてきた。
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参 考 文 献
1 吉崎昌一 遺跡がつぶやく北海道のヒト 昭和49年
2 小学館 万有百科大事典
3 中央公論社 日本の歴史
4 文芸春秋 大世界史
5 北海道新聞社 北海道道路53話 昭和54年
6 北海道新聞社 北海道大百科事典 昭和56年
7 北海道新聞社室蘭支社 むろらん百年 昭和47年
8 日本道路協会 日本道路史 昭和52年
9 道路行政研究会 道路行政 昭和63年
10 道路法研究会 道路法解説 昭和59年
n 北陽クラプ 歴代北海道庁幹部人名録 昭和60年
12 北海道開発協会 開発要覧1988年版 昭和63年
13 北海道廳 新撰北海道史 昭和12年
14 北海道廳 北海道道路誌 大正14年
15 北海道廃 岩村長官施政方針演説書(新撰北海道史)
16 北海道廳 北海道十年計査ノ大要(新撰北海道史)
17 北海道鷹 北海道十年計査実施成績要領(新撰北海道史)
18 北海道歴 第一期北海道拓殖事業計畳説明書(新撰北海道史)
19 北海道廳 第二期北海道拓殖計豊案説明(新撰北海道史)
20 北海道廳 北海道第二期拓殖計画実施概要(新撰北海道史)
21 北海道鹿土木部道路課 道路概況 大正14年
22 北海道廳上木部道路課 北海道交通要覧 昭和6 年
23 北海道鹿上木部道路課 北海道道路概要 昭和15年
24 北海道 北海道総合開発計画書 昭和23年
25 北海道 新北海道史 昭和45年
26 北海道開発局 昭和二十二年度 北海道開発事業実施概要 昭和26年
27 北海道開発局 昭和二十三年度 北海道開発事業実施概要 昭和26年
28 北海道開発局 昭和二十四年度 北海道開発事業実施概要 昭和26年
29 北海道開発局 昭和二十五年度 北海道開発事業実施概要 昭和27年
30 北海道開発局 昭和ニ十六年度 北海道開発事業実施概要 昭和28年
31 北海道開発局 昭和二十七年度 北海道開発事業実施概要 昭和29年
32 北海道開発局 北海道の道路 昭和33年
33 北海道開発庁地政課 開発道路 昭和62年
34 佐藤彌十郎編著 岩内町史 昭和41年
35 松崎岩穂著 上ノ國村史 昭和31年
36 寺島柾史著 根室郷土史 昭和26年
37 函館日日新聞社 函館市誌 昭和10年
38 旭川市 旭川市史 昭和34年
39 小樽市 小樽市史 昭和33年
40 釧路市 釧路市史 昭和32年
41 釧路市 新釧路市史 昭和49年
42 札幌市 札幌市史 昭和27年
43 砂川市 砂川市史 昭和46年
44 滝川市 滝川市史 昭和37年
45 滝川市 滝川市史 昭和56年
46 千歳市 千歳市史 昭和44年
47 苫小牧市 苫小牧市史 昭和50年
48 紋別市 紋別市史 昭和35年
49 稚内市 稚内市史 目番043年
50 厚岸町 厚岸町史 昭和50年
51 厚田村 厚田村史 昭和44年
52 虻田町 虻田町史 昭和56年
53 今金町 今金町史 昭和33年
54 えりも町 えりも町史 昭和46年
55 長万部町 長万部町史年表 昭和48年
56 上士幌町 上士幌町史 昭和45年
57 様似町 様似町史 昭和37年
58 白滝村 白滝村史 昭和46年
59 大成町 大成町史 昭和59年
60 七飯町 七飯町史 昭和51年
61 浜益村 浜益村史 昭和55年
62 東瀬棚町 東瀬棚町史 昭和28年
63 広尾町 広尾町史 昭和35年
64 北竜町 北龍町史 昭和43年
第2章 北のみちの歩み
北のみちのあらまし
1 松前と江差へのみち・下海岸のみち
津軽海峡沿に函館より西へ松前を経由して江差までの道と、東へ恵山を経由して内浦湾の森までの道。
2 にしんのみち
北海道西海岸の日本海沿に、江差より北上し瀬棚、岩内、余市、小樽、増毛、留萌、羽幌、天塩を経由して稚内までの道。
3 本願寺のみち(虻田~札幌)
内浦湾の伊達より洞爺湖の東側を廻り、喜茂別、中山峠、定山渓を経由して札幌までの
4 本府へのみち
函館から森に至り、内浦湾を海路で室蘭に渡り、室蘭より太平洋岸沿に苫小牧、千歳を経由して札幌までの道。さらに札幌と小樽を結ぶ道。
5 中央道路(札幌~旭川)
札幌より石狩川沿に岩見沢、滝川、深川と北海道の中央部を通り旭川までの道。
6 北見へのみち(旭川~北見~網走)
旭川より東へ北見峠を越え、白滝、遠軽、留辺蘂、北見を経由して網走湖の西側を通り、オホーツク海岸の網走までの道。
7 太平洋岸のみち(苫小牧~釧路)
苫小牧より太平洋沿岸を東へ、日高の静内、浦河を経由して襟裳岬を廻り、さらに十勝の広尾、大津を経由して釧路までの道。
8 択捉へのみち(釧路~択捉)
釧路より太平洋沿岸を東へ、厚岸、根室を経由して、さらに根室海峡を渡り国後島、択捉島を結ぶ道。
9 知床へのみち
根室より東梅を経て、風蓮湖の海岸沿に本別海、標津を経由し、さらに知床半島を横断し、オホーツク海岸の斜里までの道。
10 太平洋からオホーツク海へのみち
太平洋岸の釧路より北上し釧北峠を越え津別、美幌を経て、オホーツク海岸の網走までの道。
11 宗谷場所から斜里場所へのみち
北端の稚内より宗谷岬を廻り、オホーツク海沿岸を南下し、枝幸、紋別、網走を経由して斜里までの道
12 上川から宗谷へのみち
旭刀はり北上し塩狩峠を越え天塩川沿に、名寄、中川を経由して稚内までの道。
13 十勝へのみち
旭川より富良野を経由して、狩勝峠を越え帯広までの道。太平洋岸の広尾より帯広を結ぶ道と、富川平取より日勝峠を越え清水とを結ぶ道。
1 松前と江差へのみち・下海岸のみち
〔1〕松前と江差へのみち
紺 野 哲 也
第1節 概要
中世期末から蝦夷地(北海道)での支配権を確立していった松前藩が、北海道の南端松前半島の最南端の地松前をその拠点としたことから、その海岸線には早い時期から和人の集落が点在し、それらを結ぶ道路が通じていた。この道が現在ー般国道228号(函館市から桧山郡江差町まで)の原形となっている。松前藩は財政基盤である蝦夷地の海産物の輸送に専ら船を用いたので、海上輸送は発達したが、陸上交通はあまり省みられず、この海岸線は先発後進の典型的な地域となった。18世紀末に蝦夷地を踏査した最上徳内が『蝦夷草紙』に 「蝦夷地に道路なき事也、得手勝手に通りて自然に出来たる道路也、蝦夷人の風俗にて皆跣歩すれば、其路の広さわずかに六寸斗なり」 と記したように、川沿いに上流へ上り、峠を越えて別の川の上流に出ると言うような踏み分け路がほとんどであった。明治に入って開拓使の時代、この道は江差を越えて後志の岩内、小樽
を通り札幌までが西海岸道と呼ばれていた。函館から江差までの状況は次のようなものであった。
函館より上磯村に至る三里
余函館湾に沿いて平坦、上磯
村より谷好、富川諸村を経て
茂辺地村に至る二里半弱其間
山道嶮ならず、茂辺地村より
石別村を経て泉沢村に至る三
里余山道は甚だ艱ならず、泉
沢村より札刈村を経て木古内
に至る二里弱稍平坦、木古内
村より知内村へ二里二十三町
余又稍平夷にして、知内村よ
り福島村に至る七里余は之を
知内山道と称し最も嶮難なり、
福島村より白符、宮歌諸村を
江差
日本海
旨 A
中山峠 横津岳
大野
上8
厚沢部
g
了マ、’二
「 、1、g縄:
上ノ国
月」半
A 島
大千軒岳
松前 福島
白神岬
峠 I
木古内
ョ 知内
‘g矢越岬
国道227号函館~(中山峠)~江差
国道228号函館~(臼神岬)~江差
道道江差木古内線
江差~(上ノ国)~木古内
図1 一1 松前と江差へのみち
43
経て吉岡に至る一里余海岸に沿いて平夷なり、吉岡村より礼髭、荒谷、大沢諸村を経て福山市街に至る三里二十五町余の内札髭より荒谷の間吉岡嶺一里半は頗る嶮難にして、福山より根部田、札前、赤神、雨垂石諸村を過ぎ茂草村に達する間三里二十五町は少しく凸凹あれ共悪路にあらず、茂草村より清部を経て江良町村に至る一里二十五町余は大約福山茂草間に同じ、江良町村原口村間二里弱は平坦、原口村より小砂子村に至る一里二十五町余大に嶮難なり、土人呼びて小砂子山道と称す、小砂子村より石崎村に至る一里半弱は嶮岨にして小砂子山道に次ぐ、石崎村より塩吹村へ一里半弱其の三分の二は山間にして稍嶮岨なり、塩吹村より木の子村へ僅かに二十五町余稍平坦にして、木の子村より上の国村に至る二里余は所々に山坂あるも甚だ嶮難ならず、上の国村より北村を経て五勝手村に至る一里半余は稍平坦、河水其の間に流れ霖雨暴漲往来を絶つことあり、五勝手村より江差市街海汀及日広野(以下略)
(『北海道道路誌』)
中核となる松前が、北海道経済に占める地位を急速に低下させていったこととあいまって、道路の改良は中々進まず、その後もこの状態がしばらく続くことになる。中でも小砂子山道の難所の開削が遅れ昭和53年に小砂子大橋、同61年に小砂子トンネルが改良開通してようやく全線面目を一新することとなった。
函館市と江差町を結ぶ道路はもう一本一般国道227号がある。むかし鶉山道と呼ばれていた山道で、19世紀の半ば函館の開港に合わせて蝦夷地を直轄した幕府が、道路の整備を基本政策とした時、民問人によって開削された道路である。日本海側と太平洋側を結ぶ最短ルートであったことと、さきに開かれていた松前半島を回るルートの開発がその後遅々として進まなかったこともあって、重要な街道となった。しかし、鶉付近の山道がかなりの難所のため、本格的な開削は明治に入ってからであった。開拓使時代の状況は 「函館より大野村へ四里二十三町道路平坦、大野村より市ノ渡村を経て鶉村へ十一里十八町山谷嶮岨なりに屡々修築し歩行稍便なりと雖も未だ全く整頓に至らず、鶉村より俄虫、土橋、目名、田沢、泊諸村を経て江差に至る六里弱山坂凸凹、大河委蛇好路ならざるも甚だ嶮ならず(『北海道道路誌』)」 とあり、その後明治18 –19 (1886)年の大改修でようやく馬車通行が可能な道としc整備される。以後しばしば改修が行われ、大正12年には最大の難所中山峠にトンネルが掘削される(翌年6 月完成)が、昭和に入っても道路維持の状況は「ほとんど砂利道で、一冬越して春になると、道路という道路は膿んで破れた砂利層からアンコのように泥が吹き出してくる。この頃は道路工手の一番辛いときで、砂利を入れても路面は落ち着かない。役所は砂利敷き工事に力を入れろとハッパをかけるが、なかなか思い通りにはいかないc ツルハシやスコップ、鋤れんなと’をリヤカーにつんだ道路工手が、一日中あちこちと手直しして歩いた。道路の担当区間は10kmから20細ごとに道路工夫が助手1 -2 名とともに配置され道路ゃ橋梁の維持補修をしていた。作業内容は砂利敷き、砂利散布、不陸ならし、穴埋め、側溝手入れ、水切り、草刈りなどであった。補修材料は砂利、砕石。道路のところどころに砂利置場があり、そこから馬車やリヤカーで小出しに出していた」 と、当時の作業員が回想する状態で、これはこの道路に限らずこの時代の全ての道路に当てはまるものでもあった。
昭和30年代に入って、明治の大改修以来の全線改良工事が開始され、昭和52年(1977)には函館江差間69. 5km全線の舗装が出来上がった。この間、昭和41年には新中山トンネルが完成、中山峠越えがさらに容易になり、道南の東西を結ぶ幹線道路の地位を揺るぎないものとしている。
第2 節 松 前 街 道
1 .松前藩の成立
中世期、蝦夷地の南部は津軽の十三湊(青森県市浦村)を本拠地とした安東氏の勢力下にあった。その後、隣国との抗争に破れた安東氏が、蝦夷地に逃れるというような事件もあり、15世紀中葉には安東氏配下の武士が来島し在地領主となり、東は志濃里(函館市志海苔町)から西は上ノ国(桧山郡上ノ国町)までに12の館が作られたという( I新羅之記録』)。松前藩の藩祖武田信広は、有力在地領主の一人花沢館(上ノ国町)の蠣崎季繁の客将で、長禄元年(1457)のコシャマインの蜂起の際、策を用いてコシャマインを討ち頭角を現した人物で、その戦功により蠣崎氏の養子に入っている。コシャマインの蜂起は、康正2 年(1456)志濃里村で起きた和人によるアイヌ殺害事件に端を発し、以後70年間にもわたって続発して起きた道南アイヌの蜂起事件中最大の蜂起で、茂別館と花沢館を除く諸館が攻め落とされていた。これら一連のアイヌの武力蜂起の背景には、アイヌの漁業権の侵害、アイヌの抑圧の強化、アイヌとの交易上の不正等があったようである。
次いで二代目光広の時代の明応5 年(1496)には、津軽安東氏と最も近い位置におり、安東氏の蝦夷地代官ともいえる有力在地領主大館(松前町西館)の下国恒季が、行状不良から自害させられるという事件があり、次いで永正10年(1513)にはその下国恒季に代わった相原季胤が、アイヌの攻撃を受けて自害(大館を攻めたのは光広という説もある)、蠣崎氏[慶長4 年(1599)に松前氏と改姓]に対抗しうる在地領主は消滅した。翌年光広は、大館(移住後徳山と改める)に移住、安東氏の代官の地位を手に入れ、蝦夷地での現地支配者となった。しかし、アイヌとの抗争は続き、永正12年(1515)ショウコウジ兄弟の蜂起、亨禄2 年(1529)の西部の首長タナサカシの蜂起、天文5 年(1536)のタリコナの蜂起などがあり、光広は陰謀を駆使してこれらを破り、同時にアイヌとの交易の決まりを作り、和人の居住地についてアイヌと協定、西は上ノ国、東は知内までを初期和人地とした。
光広の曾孫慶広は、天正18年(1590)中央政権との外交交渉を行い、京都聚楽第で豊臣秀吉に謁見し、文禄元年(1592)には諸大名と同等の待遇を獲得、次いで慶長9 年(1604)には徳川家康より黒印状を受け、蝦夷地交易独占権が公認された。ここに安東氏の代官の地位を脱却して松前藩が成立し、慶長11年には福山の台地に居館を移している。
しかし、江戸期に入ってもアイヌはしばしば蜂起し、寛永20年(1643)にはヘナウケが、寛文9年(1669)にはシャクシャインが蜂起している。シャクシャインの蜂起は近世期最大のもので、幕府にも急報され、津軽藩に援軍を要請―したほどであった。この蜂起も策を用いてシャクシャインを酒席で斬殺して終息させた。以後アイヌには全面的服従を強いる体制を整えていった。
2.松前藩の交通政策
このようにアイヌとの抗争に次ぐ抗争の中からのし上がって蝦夷地を掌握した松前藩は、アイヌの動向に神経を尖らせ、要害の地である福山(松前)を蝦夷地支配の根拠地とし、陸上交通に対して保守的な政策を基本に据え、蝦夷地の道路開削などはほとんど行わなかったようである。
また、前述したように和人居住地を設定し、アイヌのみが住む地を蝦夷地、和人が住む地を和人地とし、和人地には従来からいるアイヌ以外の居住を許さず、蝦夷地には和人の往来を禁止した。和人地の範囲は、江戸時代に入ると東は石崎(現函館市石崎町)、西は乙部村までとなり、寛永10年(1633)に諸藩の視察のために派遣された巡見使も松前藩領としてここまでを視察し、以後将軍代かわりに派遣されか巡見使も同じ範囲迄を視察するのを通例とした。その後和人地の範囲は次第に広がり
(1/200,000地勢図「函館」より)
江戸時代末には東は長万部村、西は熊石村までに拡大しているが、和人地の道路さえも山道の難所解消等に努力することなどはほとんどしなかったようである。
江戸幕府が18世紀末から20年間余蝦夷地を直轄としたとき新道の開削を精力的に進めた後をうけて、文政4 年(1821)には蝦夷地は再び松前藩領となったが、この時期、幕府が開削した新道に対する松前藩の対応が、松前藩の道路政策を象徴している。幕府直轄時代の文化7 年(1810)に開削された網走越え山道を、40年程後に踏査した松浦武四郎は、 「文政の初頃迄土人和人共往来せしを、松前へ復領に成りしや新道通行法度(禁止)に成り、土人も通さざる所になし、入口の高札も捨てたりしを、この度又公領に成しに付、引渡の時改て松前家にて高札を作り立てたり」 と記しているほどである。
3.幕末期の現況
松前半島の海岸線を巡るこの街道は、松前藩が松前を根拠地とする以前から和人の集落を結ぶ道として利用されていたが、松前藩が国防上の意味合いもあって、巡見使を迎える時などに、清掃ゃ草刈りなどが行われる程度で、ほとんど整備されることはなかった。その後、明治維新を迎えると松前が政治都市としての地位を失うと同時に、経済的地位も急速に低下して、典型的な先発後進地域となったこともあり、自動車が普及し始める大正末期まで、ほとんど道路改良には手を付けられることはなかった。伊勢国ー志郡那須川村生まれの探検家で、幕末期に蝦夷島全域をくまなく踏査した松前武四郎の記録「蝦夷日誌」をもとに、 「蝦夷巡覧筆言引 や「松前紀行」「村垣淡路守公務日記」 「罕有日記」などで、幕末期のこの街道の状況や沿道の集落の様子を再現しておくと、次のようになる。
箱館を出発し海岸沿いに亀田村、七重浜を過ぎると、有川村(現上磯町)に入る。人家100軒、小商人2 -3 軒、皆漁者で旅籠屋が1軒あり。続いて戸切地村(現上磯町)は人家100軒、小商人3 -4 軒で旅籠屋が1軒あり、家並は続いており、漁者・船持・耕作人等が住み、浜には鰯小屋があり、綺麗な砂浜となっている。次に畑の中の清冷な川(幅5 -6 間橋あり)を過ぎると、三ツ谷村(現上磯町)に入る。人家40軒ばかり、小商人1軒、漁者のみの村で耕作物が少しあり、此辺りの浜は皆小砂利浜である。半里ほど行くと富川村(現上磯町)で、人家が道に沿って立ち並び、凡そ50 –60軒、小商人1 -2 軒、旅籠屋1軒で漁者のみの村となっており、亀田郷中で最も大きな広野がある。次が茂辺地村の出郷の矢不来村で、人家6 軒、皆漁者である。続いて茂辺地村(現上磯町)に入る、人家80軒ばかり、小商人2 -3 軒、旅籠屋があり、漁者のみの村で、茂辺地川は川幅10間、小石の多いJIに、洪水の節は川止めとなり、冬秋は橋を渡り、夏分は渡船があり、渡し賃は1 人16文である。是れより野道を行き小石坂を下がると、道は狭く急になっている。1里ほどで当別村(現上磯町)となり、人家100軒ばかり、小商人、旅籠屋があり、漁者多い。この村は村自体が出岬に位置し、この岬から箱館の山背泊(箱館で最も西の船入り澗) まではわずかに2 里である。次いで三ツ石村(現上磯町)を過ぎ、小石浜を1里ほど行くと釜屋村(現木古内町)、泉沢村(現木古内町)、札刈村(現木古内町)が浜沿いにほぽ1里ほどの間隔で続き、どの村も人家40-50軒ばかり、小商人・漁者・畑作り等ありで、旅籠屋もあるという村々である。また1里ほど行くと木古内村(現木古内町)となる。人家80軒ばかり、小商人3 – 4
軒、皆漁者のみで、旅籠屋がある。この村から湯の岱を越えて上ノ国の北村へ抜けて江差へ通ずる木古内山道が通っている。 3 里ほどで知内村(現知内町)に入る。人家30軒余、旅宿あり、小商人・漁者・樵者・畑作りが住み、村内に砂金の有る所があり、知内金として知られている。知内川は船渡しは、 1 人24文。野道を行くと、湯元(知内温泉)への入り口追分に至る。此辺り木立草深く、小石坂がある。川は急な流れで転太石は滑りやすく、大変な難所となっており、雪消えの頃には毎年死人が出ていた。近年新道ができてかなり改善された。しばし行くと知内峠にかかる。右手の方千軒ケ嶽、左手の方に七ツ岳立並ぶ。峠の細道は一騎立で行き九折(つづらおれ)すると、川越え道川端道が続く。この山道を行くときは馬を雇う者が多い。此辺両方山木立で、大篠原川を越える事48余も続き、福島村(現福島町)に入る。人家120-130軒、小商人5 -6 軒、旅籠屋2 軒、漁者並に畑作り等が住む。松前より箱館え行く者はここで一泊する。村内に一種の妓あり、馬鈴芋という。少々崖崩れの山の岬を回りて小石浜を行くと、小石浜に人家が15-16軒点在する白府村(現福島町)となる。漁者のみの村で、小商人が1軒あり、村の前には図合船がかかれる澗がある。また小石浜を行くと宮のうた村(現福島町)に出る。峨々たる山の間に人家
35-36軒、小商人2 軒道端にあり、船問屋1軒、500-600石位の船6 —?艘もかかれる船澗がある。村を出て岬を回ると、吉岡村(現福島町)で、人家200軒、小商人並に船問屋・漁者等があり、沖ノ口役所があって別けて繁盛している村である。続いて切り立った崖伝いに砂浜を行くと礼髭村(現松前町)となる。人家30軒ばかり、小商人2 軒、漁者のみで、此所より向(津軽)三馬屋・今別がよく見える。白神岬を越えて難所の道を行くと荒谷村(現松前町)に出る。人家百軒ばかり、小商人漁師・水主等が住む。船持ちも多く近来富賈も多く出ている。砂浜を通り木立のない野が続き、幅30間ばかりで、長5 -6 間の仮橋(洪水の時は落ちる)が架けられた大沢川を越えると大沢村(現松前町)となる。人家凡40軒、漁者・小商人5 -6 軒もあり、畑作り・場所出稼人が多い。海岸は岩石多く、澗が2 箇所(下の澗・中の澗)あり、図合船のみかかる。越えて根森村(現松前町)となる。小商人・漁者・畑作りが住み、人家30軒ばかり。この辺皆砂浜で西南の風強い時は砂を吹き上げ、
人家が一夜の間に埋まることもあり、それ故丈高き虎杖(いたどり)で垣を結んで住んでいる。この虎杖垣の高さは1丈余もある。続いて福山(現松前町)までの浜伝いに上及部村(現松前町)、及部村(現松前町)がある。及部村の山手には松前藩の御仮屋があり、白神や津軽を眺望することができるところで、しばしば藩主がやってきて遊ぶ所となっている。
福山城下生府町を出て立石野(東西凡そ50町、南」ヒ15-16町で番所、刑場、台場、念仏堂などがある)を過ぎ海岸通りを行く。赤岩が崩れて海岸線をなしていることから赤崩ともいわれるアカヒラに出るが、汐が満ちると通行不能になる。立石野番所から1里2 町余で、根府田村(現松前町)に入る。人家37軒、皆漁者で商戸も2 軒ある。皆切り尽くしたようで樹木が近くにない。26町行くと札前村(現松前町)となる。人家30余軒、紫海苔、布海苔が多く採れ、日々松前城下へ商いにでる、馬に付けた二つの籠に蚫、海鼠、小魚などを入れて、履き物わらんじ又は下駄等を履いて行く、海岸砂道なる処は至って下駄が歩行よろしきものである。村を出てしばし浜道を行き、小石原また岩道となり、14町余で赤神村(現松前町)となる、人家14-15軒、漁者のみで、小商人は1軒、虎杖(いたどり)よく育つので、西面に虎杖の垣を作り風波よけとする。村を越え浜道を行くと10町40間で雨垂石村(現松前町)に至る、人家18-19軒、皆漁者、暇な時薪を取り松前へ売りに行く、海岸総て小石浜で、村を出てしばし小石原を行く、道は良く、11町50間で茂草村(現松前町)となる、人家25-26軒、漁者のみ、小商人は2 軒、野山樹木無く広野となっており、土質もよく開墾すれば数万町歩の畑にできるところとおもわれる。村を出て砂道し
ばし行く、道はよく、川を越えると少し野道にかかる、32町20間余で清部村(現松前町)、人家3n軒ばかり二漁者のみで酒店、小商人がおり,すこし町並みとなっている、海岸は総て砂で、陸には樹木が生えていない。村を出て砂浜を行くと川原に出る、清部川で春の雪解けは難所となる、続いてさらに広い川原江良町川に出る、沢には肥沃の地が広がっている、23町20間で江良町村(現松前町)に至る、人家65軒、旅籠屋2 軒、小商人酒店があり、漁者多い、江良町川は春の雪解けには船で渡す、次の村までには坂、沢、川がいりくんで、 1 里30町で原口村(現松前町)となる、人家30軒、旅籠屋1軒、小商人2 軒、漁者のみの村である。村を出て平地を少し行き坂を越えると、 「所々に大ワシリが海より切立にて通行成難く、孫太郎坂を上り山の腰を通り、坂下り沢の中に小流あり、又坂上る崩道至ってせまく [ヲツコの木沢(原口村より山道27町)]、下り坂の内険阻沢中に小流あり、又上り坂険阻[カキカケ沢(ヲツコの木沢より3 町)]、下り坂険阻沢中に小流あり、又上り坂険阻[五郎左衛門坂(カキカケ沢より4 町)]、下り坂険阻沢中に小流あり、又上り坂険阻此辺岩山にて木なし[彦四郎沢(五郎左衛門坂より2 町)]、坂下り沢中に小流有り、又坂上り是れより山の腰を通り夫より小坂下り [堂ノ沢(彦四郎沢より6町)]小砂子村へ出る」 といわれた大難所が続き、所々に桟橋が設けられ、小砂子村(現上ノ国町)に至る、人家35 –36軒、漁者のみで人家は山腹に建てられている、隣家とは九折(つづらおれ)を上り下りして往来するところである。村から羊腸十余曲がりを下り、小石砂利の浜道を行くと、岩場の大難所が続く、メノコワシリ(メノコはアイヌの女性、ワシリは大岩のある大難所のこと)と云う大難所などで、これを越えると石崎村(現上ノ国町)に着く、人家50軒、旅籠屋2 軒、小商人が3 軒あり、皆漁者で、しかし畑も多く作られており、夏場は薪を松前へ運んでいる。波が高い時は山道回りとなる。小石浜を行くと15町で羽根差村(現上ノ国町)となる、人家20軒、漁者のみ、小商人が2 軒ある。村を出ると海岸奇岩怪石畳々として甚だわるく、飛越し飛越して行くと27町で汐吹村(現上ノ国町)に達する、人家37-38軒、漁者のみでーすじ町である、山は屏風を立てたる如し。村を出て浜道小石原行くことしばし、汐吹村の支村扇子石村に至る、人家20軒、皆漁者、小商人2 軒、村のうしろは崖、前は岩石多い海岸となっている。村を出ると転太石多き浜が続き、滝沢を越えると皆小石浜となり、28町余で木ノ子村(現上ノ国町)に至る、人家46軒、この村少し平坦で畑少しあり、馬が多く、漁者のみ、小商人も2 軒。村を出て砂浜を少し過ぎると山手は平原となり、2 里5 町で上ノ国村(現上ノ国町)にはいる。人家200軒ばかり、村の上は絶壁、村の下は直に海岸となっている。続いて12町27間で北村(現上ノ国町)となる、人家70軒、樹木多くして人家ー条の町をなす、酒屋、小商人2 -3 軒、畑作多くできる。村を出て浜道を行きトド川を越え五勝手村(現江差町)に至る、人家150軒、漁者のみの村である。この村から1里で、江差(現江差町)に着く。福山城下から17里21町の地である。
4 .箱 館 戦 争
明治元年(1868) 10月から翌年5 月まで蝦夷地をゆるがせた箱館戦争では、この街道の全線で戦闘が展開された。10月20日に噴火湾の鷲の木(現森町)に着いた1日幕府脱走軍は、26日に五稜郭に入り箱館を制圧、28日には土方歳三を隊長に700名ほどが松前藩の出方を窺うべく海岸道を松前へ向かった~ 11月1日、脱走軍が知内村に入り宿陣しているところに、その夜松前勢が夜襲を仕掛けたが、逆襲されて松前勢は敗退した。次いで4 日には松前勢が要害を築いて布陣した吉岡峠を巡る攻防がなされたが、百戦錬磨の脱走軍は白兵戦を挑んでこの峠も抜いてしまった。翌5 日は福山城の攻防戦となり、脱走軍は決死隊を繰り出してその日の内に松前城下を制圧した。その後この一隊は江差へと向かうが、15日塩吹村まで来たところで、江差港に入った開陽丸から、松前勢が総退却していたので、無血のまま江差にはいった旨の通知が入った。ところがその夜、開陽丸が強風のために座礁し、数日後には沈没するという事件が起き、脱走軍兵士の士気は大きく低下、気落ちしたままこの道を五稜郭へもどった。
翌2年は反対に江差の北方で戦端が開かれ、全線で戦闘が展開された。 4 月9 日、体制を整えた新政府軍は、江差の」ヒ40同まどの乙部村に上陸、その日の内に江差まで進攻、江差は新政府軍の手に落ちた。新政府軍は、江差で陸軍を三分して箱館に向かうこととし、松前への海岸道、鶉山道、木古内山道をそれぞれ進撃した。松前へ逃れた脱走軍江差守備兵は、11日体制を立直し、江差奪回に向かった。かれらは、松前をさして進撃してきた新政府軍と根部田村で遭遇、これを撃破した。さらに押し進んで、茂草村でも新政府軍を撃破、12日には江良町村まで進んだ。しかしここで五稜郭から兵站が伸びすぎるとの指令が入り、松前に戻った。しかし14日には、鶉山道、木古内山道とも新政府軍を撃退したとの情報が入り、再び江差を奪回すべく江良町まで進軍したが、再度五稜郭からの指令で松前に戻っている。この間、新政府軍は12日に第2 陣が江差に到着。
さらに15日には第3 陣が江差に着いて諸道口へ派遣され、武器弾薬の補給体制が整備されていった。
17日朝、新政府軍は進撃を開始した。まず春日艦が江良町村、清部村を砲撃し、脱走軍を松前へ退却させた。陸軍はこれを追って松前へ迫る。脱走軍も折戸浜の台場に拠って防戦につとめたが、山手を回った新政府軍に背後を衝かれ混乱に陥った。さらに甲鉄、朝陽、丁卯、陽春、春日の五艦に福山城を砲撃され、脱走軍は支えきれずに全軍敗走を重ね、18日福島に入り、この日の内に知内村を通って木古内へ引揚げ、木古内口の守備隊に合流した。一方、 4 月10日、江差を発し木古内間道を進んだ新政府軍は、11日朝、木古内の胸壁に攻撃を仕掛けたが、脱走軍の守りが固く退いた。直後、脱走軍陣営には五稜郭から大鳥圭介が到着し、今度は脱走軍が稲穂峠に滞陣する新政府軍を攻めたが、攻めきれない。翌12日再び新政府軍が木古内を攻めるが、戦闘5 時間に及んだのち退く。この後、小競り合いを続けていたが、大鳥圭介は18日の夜、作戦会議のため五稜郭へ帰った。20日朝、江差からの増援部隊が到着し増強なった新政府軍は、濃霧の中を進んで、いきなり脱走軍の木古内守備隊へ切り込んだ。不意を衝かれた脱走軍は総崩れとなって札苅村まで敗走。勢いに乗った新政府軍は追撃の手をゆるめず、さらに泉沢村まで進んだ。この時、松前から引揚げてきていた脱走軍のー隊が応援に駆付け、さらに泉沢村へ逃れた木古内守備兵も
陣を立て直し、反撃に転じて新政府軍を挟撃したので、新政府軍は稲穂峠方面へ退却した。
脱走軍は再び木古内に入ったが、この夜五稜郭から大鳥圭介が駆付け全軍に茂辺地・への転陣を命じた。守備隊はこれを拒んだが、遂に説得され総退却に決し、21日茂辺地へ転陣。次いで22日には最後の守衛地と定めた矢不来を固めることになり、額兵隊、衝鋒隊が胸壁を築いて守備につき、その他の諸隊は五稜郭
旧幕府脱走軍上陸地鷲の木史跡
加
へ戻った。脱走軍が木古内を退却したことを知った新政府軍は、22日前進を開始、木古内に入った。ここで松前口の諸隊の到着を待ち、翌23日泉沢村に進み駐屯した。しかし、兵站線が伸び過ぎ武器、兵糧の補給が遅れ、数日ここに滞陣し、茂辺地攻撃は29日に決定した。
29日朝、泉沢村を発して茂辺地へ入った新政府軍は、猛烈な応射を受けて劣勢となった。しかし茂辺地沖に進んだ甲鉄艦、朝陽艦からの陸上砲撃が開始されると、脱走軍陣営は大きく動揺し、衝鋒隊の一方の隊長天野新太郎の戦死で総崩れとなった。続いて富川、矢不来でも新政府陸海軍の歩調を合わせた攻撃の前に脱走軍は敗走を続け、衝鋒隊のもう一方の隊長永井蠖伸斎も戦死し、有川村まで退いた。この時急を聞いて駆付けた榎本釜次郎が叱咤激励したが、ここも支えきれず、遂に七重浜まで退き、夜になって五稜郭へ帰陣した。乙部村で戦端が開かれ、松前半島の道路を踏査するかのように進められてきた戦闘は、茂辺地から有川にかけての激戦を最後に終息し、五稜郭、箱館の攻防を残すのみとなったのである。
5 .明治期の状況
明治維新を迎えてもこの道路の状況に大きな変化はなかった。明治25年(1892)に亀田~木古内間の道路が改修され、翌26年には木古内~知内・出石間の新道が開削され、知内橋も架けられた(大正7 年に架け替え)。同27年(1894)には出石とーの渡間に新道が開かれ、萩砂里橋も架けられた。ようやく馬車が通行出来る道路になったのである。明治38年(1905)には知内村でも乗合馬車が営業を開始している。しかし、その後も道路の改良はあまり進まず、明治末期に至っても「本道路ハ、函館港ョリ松前郡福山ニ通スル要路ニシテ、上磯郡茂別村マデハ、往年開鑿以来年々修理ヲ施シ、交通ニ支障ナシト雖モ、其通行最モ盛ナル上磯亀田間ハ、全ク道路ナキニアラザルモ、開闢以来未ダ曽テ修理セシコトナシ、故ニ路面所々ノ凸凹甚タシク、稀ナル悪路ニシテ、通行ナス能ハザルヲ以テ止ムコトヲ得ス、海岸或ハ民有地ヲ侵シテ河流ヲ徒渉シ、辛フシテ交通
絶ェズト雖モ、夏期霖雨ノ際、冬期前後ノ如キハ、人馬ノ交通貨物ノ運輸ヲ、阻害スルコト数日ニ亘リ、其不便ハ夙ニ公衆ノ認ムル所ニシテ、之レガ為メ産業ニ及ホス影響モ亦尠ナカラザルナリ」 といわれる状態であった。もっともこの現況報告は、明治39年(1906)に上磯村が凶作窮民救済事業として、函館~上磯間の道路整備事業を北海道庁に要請した際の意見書で述べられていたもので、若干の誇張はあったかもしれない。
一方、日本海側の道路に馬車が通行出来るように整備されるのは、ようやく大正8 年(1919)頃で、明治期は、江戸時代以来の人馬がようやく通行出来るだけの細い道のままであった。このため陸上での物資輸送の手段は、道産馬(ドサンコ)に直接荷物をつけて運ぶ 「だんづけ」 だけであった。大正初期、根部田村(現松前町館浜)でこの 「だんづけ」 を仕事としていた人の回想によると、 「当時の道路は、道幅が狭く、主に浜を歩いていたので馬車を使えなかった。それで“だんづけ”で品物を届けた。25貫目のいか行李を二つつけるほどの力持ちであった。 1 人5 頭まで持てるきまりがあり、警察から鑑札をもらって先頭の馬につけた。根部田から福山までいか行李を運び、帰りはナワ、ムシロ、米、みそ、呉服などを運んできた。冬道は馬の足跡が凍って凸凹になり、馬がこれに足を取られて転ぶこともあった。」 とのことである。まったく松浦武四郎が『蝦夷日誌』で紹介している札前村の風俗そのままなのである。
6 .乗合自動車運行以後
大正7 年頃から道南各地で乗合自動車の運行が開始される。 この路線にも、大正8 年7 月上磯~知内間に乗合自動車が運行される。大正2 年9 月に函館上磯間に上磯軽便鉄道が開通(五稜郭上磯間8. 8km)していたので、上磯駅に連絡する足として運行が開始されたのである。上磯自動車会社の経営で、毎日2 往復、上磯発は午前7 時と午後1時、知内発は午前10時と午後4 時であった。しかしこの乗合自動車も冬季間は運行中止になったので、大正9 年(1920)には木古内の函館新聞取次店鈴木商店が自動車代用馬橇を運行している。冬季間も自動車が運行出来るようになるのは、昭和20年代の後半からである。その後大正12年(1923)には、渡島乗合自動車株式会社(木古内村)が創立され、大正15年(1926)には吉岡・福島・福山行の運行を開始した。昭和4 年には社名を木古内乗合自動車株式会社と改め、さらにマツマエ自動車株式会社となり、昭和19年のバス事業統合の際、道南14社のーつとしてこれに参加、函館乗合自動車株式会社となった。
大正期道路の改良はあまり進んでいないが、大正3 年(1914)に上磯村で凶作窮民救済土木事業として道路砂利敷工事が実施されている。以後事業費の全額が労働賃金となる凶作窮民対策としての道路砂利敷工事は、しばしば実施されたようである。
また、知内橋の付近は、大雨のたびに水があふれ、橋はもとより、国道にも濁流が渦を巻き、何日も通れないことがしばしばであった。このため、昭和11年から知内川切換工事が始まり、昭和18年に竣工し、橋も延長108 m の新知内橋となった。その後昭和34年には永久橋に架け替えられた。さらに昭和40年からは改良舗装工事が開始され、昭和47年に完了している。
この国道の改良舗装工事が本格化するのは、昭和30年代に入ってからで、上磯町が昭和24年に請願していた上磯町富川から茂別村(茂辺地村と当別村が合併)への海岸道路新設も、ようやく着工されるのは、昭和37年からで(完成は昭和48年)であった。
近年、この一般国道228号の日本海側は、その昔陸の孤島といわれた小砂子にもトンネルが開通整備され、 「追分ソーランライン」 と通称されて、観光道路としての位置付けもなされ、沿線の町村は観光開発にも目を向けるようになってきている。
7 .小砂子山道
松前から蝦夷地に向かう道路があまり発達しなかったのは、松前藩の消極策もさるγとながら、松前氏が政治的配慮から本拠地として選んだ松前が、険阻な千軒山系を背後に抱えた蝦夷地の南端であったことが大きく影響している。千軒山系を突き切ることは不可能である以上この山系の東西の両端の峠を越える以外に松前と各地を結ぶ方法がなく、東は知内山道、吉岡峠、西は小砂子山道が難所として立ちはだかり、この道の開発をさまたげていた。
この小砂子山道は、松前と江差を最短距離で結ぶ幹線道路に位置していたので、大難所ではあったが古くから細々と利用されていた。江戸時代ここを旅した古河古松軒は「東遊雑記」に「(江良町を出て)御宿(小砂子)迄の間十四坂有り、一つとして嶮ならざるはなし。 此所の坂は上りては下り、下りては登りて平地更になし。四里の間は嶮岨の坂にして馬にも乗られず
人々困りしことなり。左は大海にて高波も寄る故ぞ浜路たえて坂越の往来無事と見えたり。此の山中は熊の出る所にて、人足などに恐ろしき物語り聞きしなり。」 と記しており、また菅江真澄も、小砂子山道を振り仰いで「白雲のかかれる峰をいくわたか、九曲おりゆく谷のはるけさ」「蝦夷喧辞弁(えみしのさえき)」と詠んでいる。
その後もほとんど手が加えられることがなかったが、明治8 年11月には郵便業務のため小砂子山道も修理が行われた。しかし、大正末年になっても小砂子山道4 里余の道は、明治以来の小道のままで、石崎から大滝の十三曲りなどの曲折はまったく手が付けられず、/J 子では病人は船で石崎まで運んでいた。冬場海が時化ると陸の孤島となった。
「一尺五寸幅の道で背丈以上もある草が両端に生繁り 道端がぶどうずらで道が見えなく歩きながらぶどうを取って食ぺたものだ。日中でも薄暗く熊が出没することがたびたびであった。
富山の薬屋か加賀の醤油屋などめったな時でないと人が通らず、子供たちは旅人が来ると珍しがって喜び、木に登って姿の見えなくなるまで見送った。とにかくひどいところで、江良~上ノ国間十一里だが十三曲がりや七曲がりなどがあちこちにあり、小砂子は雪が降ると陸の孤島となってしまう」 と大正初期の小砂子山中の様子が.一、ヌ、―—-・薫マ喜一-‘ー二 -~ j 」て ・一.」一二一‘二
回想されている(「桧山路」)。 1
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昭和5 年にようやく小砂子山道開鑿工事が始められ、 9 年に完成。13年には江差~松前間に1日2 往復の乗合バスの運行が開始されたが、まだまだ難路であることには変わりはなかった。
その後、日本が戦争の泥沼に陥っていったことや敗戦後の混乱などで道路整備が遅れ、
『い
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小砂子トンネル(昭和引年開通)
‘
本格的に道路整備が開始されるのは、昭和30年代に入ってからであったが、小砂子山道の改良工
事は更に遅れ、昭和61年に小砂子トンネルが開通して、ようやく全線が近代的な道路に生まれか
わったのである。
8.木古内山道
この山道は西在と東在を結ぶ東西横断道路で、鶉山道が開削されるまで唯一のものであった。
古くは長禄元年(1457)に松前藩の祖武田信広がコシャマインとの戦いに勝って上の国に凱旋する
と、茂別館の下国家政が中野路を経て山越えに上の国にきて信広に会ったと「新羅之記録」に記
されており、この中野は木古内山道中の地名であるので、木古内山道は古くから人が通る山道で
あったことが知られる。この山道は、木古内から稲穂峠、湯ノ岱を越えて上ノ国の北村に出て江
53
差に至る道で、延長約8 里、木古内川の渓谷を上り、稲穂峠を越え、天の川に沿って下る、俗に
上り四十八瀬、下り四十八瀬と呼ばれた難道であった。文化4 年(1807)には幕府の手によってこ
の山道の改修が行われ、湯ノ岱に峠番所が置かれた。番所では往還する旅人の旅行手形改めを行
い、湯ノ岱には宿場を設置されたといわれ、このための山道は湯ノ岱越えともいわれた。またこ
の山道は主として箱館と江差、東在と江差を往還する東在からの出稼者に多く利用され、福山城
下と江差の往還にはほとんど利用されることはなかった。それは福山城下から東在に通じる陸路
は、福島村、知内村間の海岸は断崖絶壁で人馬の交通を阻害し、海岸道路はなく、山道は知内峠
が高峻、谷深く危険で、なかなか改良が進まず通行には困難が伴い、船による連絡にたよる状況
が続いていたからである。
このように福山城下と西在を結ぶ道路がない状態にひとしかったため、松前の商人伊達林右衛
門が松前藩の要請に応え、安政4 年(1857)に城下及部川から千軒岳を越え湯ノ岱に至る約11里の
山道の開削に乗り出したが、あまりにも難所が多く全線の竣工をみずに終わった。
寛政元年(1789)にこの道を通った菅江真澄はこの山道の様子を『蝦夷喧辞弁(えみしのさえ
き)』に「あら山なかをはるばると行道あり、浦人ら、なべてチコナヰ(木古内)越えといふ。
この山越えして来るすぎょう(修行)者、仏法僧(このはずく)の声昼さへ聞し、いとものすご
き山中にて、鬼熊の荒れ渡れば、人多からば、ゆめゆめ行くまじき道なり。さらばとて、かね打
ち鳴らし、太田(太田権現)まうですとて急ぎたり。」 と記している。
明治に入っても人馬をようやく通すことが出来るだけの状態が続いた。明治42年(1909)になっ
て木古内道車馬道の計画がたてられ、大正2 年(1913)秋に北村~湯ノ岱間が竣工、湯ノ岱木古内
間は大正7 年(1918)に起工、同10年(1921) 5 月に竣工、木古内~上ノ国間に馬車が運行されるよ
うになった。
9 . 白神岬海岸道の開通
白神岳と天狗山が津軽海峡に落ち込み断崖となっている白神岬は、岩場伝いに漁師が往来する
だけで、道路といえるものはなかった。この岬にはミナイコ崎という異名があった。昔女性がこ
こを通る時、着物の裾を腰までまくり上げ水に濡れない様にして通ったので、後ろから行く人は
その姿を見ないようにと名付けたのが由来とのことである。この岬を迂回する吉岡峠の道が、松
前と函館を結ぶ本道であったが、かなりの難所であったので、明治15年(1882)に吉岡峠をさけて
白神岬を通る海岸道の開削計画が立てられた。しかし、経費-I-万円の半額が地元住民負担という
計画で.実現できなかった。以後長い間閏削計画け現実のものとたらなかった一
日本が敗戦の混乱から立直り始めた昭和25年、松前町側から開削工事がはじまった。最初の計
画がなされた明治15年から数えて78年後であった。次いで昭和27年には吉岡村の礼髭(現福島町
松浦)からも工事に入った。 5 年後の昭和32年には白神トンネルが掘り始められ、翌年12月に完
成し、昭和43年までに福島町松浦~松前町荒谷間の7. 3km全線が開通した。トンネルは延長が267
m、幅員5mで、トンネルの福島町側には、明神(延長104m)、松浦(延長428 m )の覆道が設
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けられ、トンネルの松前町側には、赤石(延I
長86 m)、立石(延長51 m )、白神岬(延長80
m )、白神(延長32 m)の覆道が設けられ、海
岸擁壁も6kmにわたって設けられた。松前と
函館の時間距離は大幅に短縮されたのである。」
第3 節 江差街道
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18世紀末、江戸幕府は蝦夷地を直轄地とし、 一麟灘■鱗瑶慧難
箱館を基地にその経営に当たった。このため天然の良港箱館は、蝦夷地の玄関として、又蝦夷地
の海産物の集荷地として次第に発展して行った。その後、蝦夷地は一旦松前藩に復領となり、箱
館はしばらく停滞することになったが、安政元年(1854)に結ばれた日米和親条約で、箱館は開港(翌
安政2 年から)されることになり、再び江戸幕府の直轄地に組込まれ、蝦夷地経営の根拠地とな
った。この箱館と、幕府がその経営に力を注いだ練漁の漁場である西蝦夷地の場所とを結ぶ道路
の整備は、緊急なものとなった。しかし、幕府は箱館開港ということで、警備のための台場の築
造など対外的な配慮のための経費がかさみ、道路整備まで手が回らない状態であったので、当時
相当な経済力を持つようになっていた場所請負人の力に期待、場所経営上不便な箇所を開削し、
完成後献納するようにとの施策をとったところ、出願者が続出、鶉山道も開削されることになっ
たのである。
1.鶉山道安政期の開削
この山道は、江差側からは「大野越え」、大野側からは「鶉越え」 と呼ぱれた。開削以前は川
沿いに上流に上り、峠を越えて別の川の上流に出る幅の狭い踏み分け路で、この峠(中山峠)
は、東西を分ける境目で「御堺」と呼ばれ、安政期以後は松前藩領と幕府領との境界となった。
鶉越えの開削を最初に行ったのは、厚沢部の鶉にいた長吉(のち麓の姓を賜う)と大野の市ノ
渡にあった大悲庵(現曹洞宗円通寺)住職道仙で、安政元年(1854) 6 月長吉は鶉側から、道仙は
大野側から工事に着手したが、資金難で工事は途中で断念された。しかし開削は延長8 里に及ん
だと伝えられる。
その後安政5年(1858) 3 月、太田・狩場山道開削中の六代目鈴鹿甚右衛門が、この山道の開削」
を幕府の箱館奉行と松前藩に願い出ている。これは大野側が幕府領、厚沢部側が松前藩領であっ
たためである。この時のことは、当時の箱館奉行村垣淡路守の「公務日記」の3 月17日の項に
「一 松前伊豆守領分江差町甚右衛門代新兵衛、芦沢部(厚沢部)より大野越新道、自力を以て
切開致度段、願之通、奇特の事に付早々取掛ぺき旨申渡、右の段松前家来にも為達候事」 と記さ
れ、早速許可を出し、松前藩にもその旨通知したことを知ることができる。工事には先に鶉山道
の開削に挑んだことのある麓長吉が起用された。長吉は人夫約70人を募集、これを二手に分け着
55
工した。大野方面は、市ノ渡から川汲沢を上り毛無山を通るルート、鶉方面はイヤシナイ (意養)
から上目名に出て西鶉に渡り、次いで鶉川の右岸を稲倉石へ行き、ここで川を渡って右折、大野
側に連結するルートであった。9 月に道路は完成した。工事費は約800両であった。安政5 年(1858)
8 月に先の箱館奉行村垣淡路守は、蝦夷地巡見の帰途この道を通り、その模様を『公務日記』に
記している。その概要は次のようになる。 「8 月21日 快晴(この日は乙部出立して)俄虫村を
過ぎて(この辺道悪い)鶉村の百姓家で小休止(この日、江差の甚右衛門、津軽の庄兵衛代理新
兵衛に逢って新道開削を賞誉)、此辺野原広く山間の畑多く風景はよい、是より平地を10町ほど
も行くと、江差の甚右衛門が此度切開いでいJる道になって道路の状態は大変よくなる、 2 里ほど
行き同村山中の仮小屋え7 つ時(午後4 時)前に着き宿泊する。 8 月22日 曇天 今朝6 半時前
鶉村山中仮小屋出立、 5 -6 町行くと山坂登りになる、 2 里で『堺』となる、公私(幕府領と松
前藩領)の堺なれど未だ税もなく、境界をはっきりと決められてはいない、小休所の腰掛の近く
にヲンコの大木有り、昔、最上徳内の印付し木という、此大木堺木にて然るべしと存ぜらる、是
より市ノ渡の地先となる、 2 里、山中腰掛にて昼の弁当、是より少々下りて又登りケナシ山とい
う、木更になし、毛無山小休、高山也、則、市ノ渡金山(毛無山)の絶頂也、此処よりは箱館は
地下に見へ、山頂よりエトモ(室蘭)の辺シリベツもみゆるよし、江差の海もみゆるよしなれ
ど、雲深くして更にみえず、残念、下り切りて市ノ渡川に出る、是迄新道也、夫より市ノ渡村に
出て昼前より四里、大野村に出る、山中紅葉の道こそ至極景よし」。
今の国道は大野川に沿って左岸に位置しているが、安政期の開削は大野川の右側毛無山を通る
道であった。文久元年(1861) 6 月には、鶉村の村役人宅に駅場が開かれている。
2 .長坂庄兵衛と鈴鹿甚右衛門父子
長坂庄兵衛は津軽郡下前村の生まれで、弘化3 年(1846)20歳のとき江差に寄留、西海岸地方が’
漁場として開拓できる箇所がまだ多くあるのに、通行が不便であるため未開拓であるのに着目、
道路をつけることを決意した。 一方、鈴鹿家は、江差の左平治町で橋本屋という屋号で呉服商と
質屋を営業する江差地方屈指の富商で、代々甚右衛門を名乗る名望家であった。長坂庄兵衛は、
五代目の甚右衛門の弟作兵衛の協力を得て太田・狩場山道の開削の準備を進めていたが、安政2
年(1855)11月に作兵衛が死去し、計画は挫折しかかった。しかし、翌3 年(1856)五代目の甚右衛
門を甚右衛門の息子甚助の協力で説得、10月には鍬入れにこぎつけた。庄兵衛は以後、自ら陣頭
に立って工事を進め、 2 年後に山道は完成した。この間、安政4 年(1857)には五代目の甚右衛門
は死去したが、其助が六代日の甚右衛門を襲名、遺志を継いで工事を継続した。投入した工事費
は4, 000両に近い巨費であった。庄兵衛は、その後臼別(現大成町宮野)と太田の漁場を開拓して
いる。また、六代目甚右衛門は、前述したごとく安政5 年(1858) 3 月には鶉山道開削にも着手、
約800両を要し半年後に完成している。安政6 年(1859)甚右衛門は永代、長兵衛は孫の代迄苗字を
許された。この時期蝦夷地各地で山道の開削が行われ、何人もの人が賞誉されているが、ほとん
どが銀数枚の下賜で、甚右衛門と庄兵衛は破格の処遇であった。文久元年(1861)には大代目も病
う6
死している。大正4 年(1915) 8 月甚右衛門は従五位を追贈され、曽孫が姥神神社境内に石碑「贈
従五位鈴鹿甚右衛門碑陰記」を建立した。
3.箱館戦争と鶉山道
箱館戦争の時には2 度にわたってこの山道が激戦地となっている。旧幕府脱走軍が明治元年11
月に松前を攻撃に向かった時、松岡四郎次郎(脱走軍江差奉行)率いる別動隊(一聯隊)が松前
藩の館の新城を攻撃に行ったが、中山峠を越えた稲倉石で松前藩兵と激戦になった。脱走軍は三
上超順等の松前藩兵を白兵戦で打ち破り、館城に向かっている。この時、脱走軍は難路を雪中行
軍するということで、大砲は引いて行かなかったということである。次いで翌年4 月、江差から
向かった新政府軍と土方歳三率いる脱走軍が中山峠から若干大野寄りの二股で対峙、一昼夜に及
ぶ銃撃戦を展開した。この戦闘は箱館戦争最大の銃撃戦で、この戦闘に参加したフランス人ホル
タンはそのときの模様を 「十六時之間戦い今朝(4 月14日)第六次敵勢立退申候、此立退し訳は
味方弾薬乏しく敵も亦同様たればなり、敵の死傷相分からず、然ども我は胸壁あり彼はなきを以
て其死傷推量すべし。味方の人其顔を見るに火薬の粉にて黒くなり、恰も悪党に似たり」 と記し
ている。この後もう一度激戦に及んでいるが、新政府軍はついに抜くことはできなかった。二股
はかなりの要害の地であったようである。また、このとき新政府軍の参謀を務めた山田市之允
(顕義)は、のち内務卿となり、明治15年(1882)に函館を訪れた際、鶉山道について次のように
語っている。 「ー手の兵を率い彼の小道に差しかかりしが、道路ことごとく壊れ、嶮路とはいい
実に困難少なからざりしが、漸く兵達に往々道を繕はせつつ進みたるなどのあり。大いに昔を忍
ばるる心地せり」。道路を新しく開削するのは大変な大事業であるが、その道路を維持すること
も中々困難なことで、安政の開削以来10年を経たこの時期、山道はかなり痛んでいたようである。
4 .本願寺道路
東本願寺は江戸時代から蝦夷地での布教に熱心で、幕府との関係も緊密であった。明治維新を
迎えると、新政府の施策に対して積極的に協力する姿勢を打ち出す意味もあって、明治2 年(1869)
6 月、法主光勝は蝦夷地開拓のための新道切開きを請願し、北海道の開拓のために設置された開
拓使の指揮のもとに工事を進めるようにとの許可を得た。翌明治3 年(1870) 2 月、18歳の現如上
人は180余人の僧侶を連れて京都を出発、先頭に「勅書」 「開拓御用東本願寺新門主」の2 本の旗
差し物を掲げ、途中の各地で浄財を募り、 「トトさんカカさんゆかしゃんせ、うまい肴もたんと
ある、おいしい酒もたんとある、エゾ、エゾ、エゾ、エゾ、エイジャナイカ」 とうたいながら移
住も勧誘、5 箇月後函館に到着、直ちに有珠と札幌間(現国道230号)27里の新道、茅部の砂原か
ら軍川間3 里余の駒ケ岳の中腹を通る新道と共に鶉山道の改修に着手した。鶉山道の工事は、安
政の開削を担当した麓長吉が請負っている。道幅9 尺、総工事費は3, 800両、ほぼ大野川と鶉川の
北側を通るルートに改修された。しかし、土木技術が未熟なこともあって、最短ルートであって
も、断崖絶壁などは迂回する方法がとられ、今後の改修に待つ箇所が残されることになった。
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その後、開拓使は何度か山道を修繕している。明治5 年(1872)の点検修理、同8 年の小鶉橋
(長さ21.7m ) 、峠下川橋(長さ21.7m)の架け替え、同12年の字峠(大野側)開削などであり、
また地域住民の負担による修理も行われている。しかし 「漸々道路ヲ修メタルヲ以テ稍々行旅ニ
便スト難モ未全クノ良道ト云フベカラズ」 (「駅路沿革志」)で、本格的な現地調査の上、大規
模な改修工事が急務となっていた。
5.函館県による改修
開拓使函館支庁の業務を弓は継いだ函館県は、内務省に山道の視察を依頼、明治15年(1882) 9
月に内務省御用掛古市公威が出張してきて、市ノ渡村から江差までの全線を視察、 「大野川々脈
ノ屈曲、衝当シ断崖ヲナセル形状ヲ視、如斯土地ノ線路ハ更ニ山腹ヲ択ムカ、丘上ニ置キ、漲流
土崩ノ障害ヲ避ケザルベカラズト 下二股天狗岳ノ険道ヲ過ギ上二股ニ至リシ 此等ハ宜シ
ク延長ノ高橋ヲ架シ、随テ線路ノ勾配ヲ緩慢ナラシメザルベカラズト 中山峠ニカカル 鶉
川ヘノ勾配ニ次デ甚ダ至難ヲ覚へ、新線ヲ置カンニハ、宜シク左方則チ旧峠ノ北側ニ沿ヒ、徐降
シテ鶉川畔ニ及サンコトヲ要ス (鶉村を過ぎ)焼山下タノ難所ヲ通覧シ、俄虫村、土橋ノ諸
村ヲ過ギテ目名村ニ至レリ、同村近傍ノ低窪ハ甚ダ好カラズ、宜シク平坦ノ土地に路線ヲ置クベ
シ」 (「鶉山道巡視日誌」)と所見を述べ、鶉山道開削の重要な指針となっている。
明治18年(1885) 3 月18日県内の道路の整備を政府に上請した。緊急整備路線として、鶉山道開
修、瀬棚~国縫間の新道開鑿、知内山道と吉岡山道の開鑿、黒松内山道の修築、森~函館間の改
修の五路線を挙げ、なかでも鶉山道開修が第一位に位置付けられ、その理由として次の3 点が挙
げられ、鶉山道の現況と同時に、この道路が道南地方の交通に占める役割が詳述されている。
ー 此山道ハ函館ョリ江差ニ通スル捷路ナル以テ、函館・江差ノ関係ヲ第ートシテ、之ニ
次ギ江差ョリ南ハ桧山全部、北ハ爾志郡及ビ後志国久遠・太櫓・瀬棚諸郡ョリ函館地方ニ
往復スル人馬ハ、皆路ヲ此山道ニ属スルガ故ニ、渡島・後志両国ニ取リテハ第ーノ要路ニ
シテ、此道路ノ通塞陸運ノ便否ハ、此戸口ノ増否、物産商業ノ消長ニ大関係ヲ有スルモノ
トスル。元来江差ハ良港ー非ズト雖モ近傍各郡水産物饒多、近来小樽港ト伯仲スルノ勢ヲ
為シ、将来ノ繁盛ヲ期スベキ地方トス。然ルニ函館ニ通スル陸運ノ便ナク、僅ニ鶉山道ヲ
経テ往来セリ。此山間一里余ハ険難ヲ極メ川沢相連リ断崖相接シ、平生人馬ノ往来不便ヲ
見ルハ勿論、夏秋ノ候、二、三日降雨スルトキハ大野・鶉ノ両河其他諸川一時ニ出水漲溢
シ、崖ヲ崩シ樹ヲ頽シ剰へ断崖ョリ土石ヲ墜落シ、為ニ水路変ジ行旅ノ困難名状スベカラ
ズ。 月ツ往々行人此危険ヲ侵シ圧死スルモノアリ。 又川流深浴、通行スル能ハザル為メ、
福山又ハ木古内山間ヲ経過シテ江差ニ達スルモノアリ。去レドモ福山街道ハ知内山道ア
リ、福山ョリ江差ニ至ル間小砂子山道アリ、里数稍短キノミ。故ニ運輸ノ便ヲ図ルハ、実
ニ目下ノ急務トスル第ーナリ。
前略 十月ョリ四月迄凡七ケ月ハ運輸(海運)不便ニテ陸運ニ依頼セザルヲ得ザルナ
リ。江差方面水産物、此海運不便ノ時期収穫スルモノ第一鯣ノ如キハ九月頃始メテ製造ヲ
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了リ概ネ函館ニ出シ、販売地ニ廻送スルモノナレバ、陸運ノ賃銭ノ高価ナルニ拘ラズ鶉山
道ヲ経テ函館ニ輸送セリ。此際降雨アレバ物品ヲ泥濘ニ投ジ、或ハ濡損スル等損害ヲ招
キ、遂ニ影響ヲ当道産物ノ声価ニ及ボスニ至ル。加之生産者ハ直ニ需要品ヲ函館ニ購入ス
ルヲ例トシ、十月以降米塩其他百物高価ノ時ナルヲ以テ、出人相償ザルノ患アリ。此亦漁
業者ニ取リテハ不幸大ナルモノト云フベシ。又旅人ノ通行ハ漁業被雇人其多ヲ占メ、重ニ
船便不便ノ期節ニ来往シ、為メニ危険ヲ侵シ困難ヲ極ムル尤甚シ。通常商人モ冬春二季ハ
船便ヲ待ツノ暇ナク概ネ此山道ヲ往復シタリ。是此ノ道路開盤ノ急務トスルノ第ニナリ。
一 鶉山道ヲ改築スレバ、第ー其路線ニ沿テ人民移住シ、荒蕪ヲ開拓シ物産豊饒ヲ期スレ
バ、札幌・函館間新道開鑿、沿道戸口ノ増加ニ徴シテ明瞭ナリ。而シテ桧山郡鶉・館両村
間ノ広濶ナル原野凡五百町歩ヲ開開スルヲ得。従ツテ之ョリ生ズル利益ハ今日之ヲ明言ス
ルヲ得ズト雖モ、仮リニー反歩金四円ヲ得モノトセバ、則チ金弐万円ヲ得ベシ。続テ厚沢
部ノ荒野一千町歩余ヲ開墾スルヲ得ルガ故、農事ヲ振作スルハ此山道開通ヲ以テ第ーノ要
務トス。但シ商況活発ニ趨キ百物消流ノ道ヲ拡ムルハ必然ノ勢ナリ。工業ノ如キモ自今観
ルベキモノナシト雖モ、戸口増殖ニ従ヒ振起ルハ、理勢ノ然ラシムル所トス。是此ノ道路
開鑿ノ急務トスル第三ナリ。
明治18年(1885) 8 月、ニ箇年計画で工事に着手、大野側から区問を限って請負工事とした。翌
年3月行政改革で函館県が廃止され北海道庁が設置されたが、工事は引き継がれて11月に馬車が
通行可能な道路としてほぼ完成した。道幅は坂道が3 間(5.4m ) 、平坦路は4 間(7.2m ) 、下
二股の坂道のみ2 間半(4.5m ) 、橋梁48、延長]4里6 町10間4 尺(55. 6km) 、工事費は100, 840
円であった。~日道より1里1町18間(4.1km)短くなっている。この完成に合わせてこの山道の検
分を行った函館支庁長時任為基と道庁土木課長湯地定基の検分報告である「鶉山道検分日誌」
が、当時の道路の様子を非常に詳細に伝えているので、道路に関する部分を要約しておく。
明治19年(1886)11月28日午前7 時函館を発す。随行員は15人でその他に函館逓信管理局長海上
胤範、函館北溟社社主伊藤鋳之助、.函館市民総代渡辺熊四郎が同行。乗合馬車5 輔・荷馬車3 輔
外に騎馬が若干。これより先、この工事の監督木村成苗から「降雪のため道路が悪くなっている
ので、騎馬で来られたい」 との電信が入っていたが、山道開鑿の検分には馬車が一番と、馬車で
出発した。 まず、大野村に入る前、七重浜で車輪が土砂に埋まり難渋した。正午に大野村を出て
新道に入り、田圃の間を過ぎ、左沢に沿い右絶壁の下を回り、字下金山に至る。谷川の沿岸処々
に堤防を設置し、右盤石を削って崖際を道路とするところ3 箇所、皆2 , 3 町を隔てて各長さ半
町程、多くは火薬で爆破したところである。上金山から手赤禿岩の付近は巌を削り道を通じ、両
脇に岩石聾え立つ。其高さ凡そ10間余、景色佳絶なり。字二股に至り、道は登りとなり道幅も狭
くなり(15尺)、岩山の岩を破壊して坂道を作る。右脇の崖の高さ80尺、本道で第一のものであ
る。馬車は次第にゆっくり進むようになる。数町行くと大滝の瀑布に出、長さ10間ほどの橋を過
ぐ。阿七沢に架かる橋で深さ60尺、足が竦むほどである。この辺は険難の箇所であるが、坂は緩
やかになっており、馬車の運行を妨げなくなっていた。 2時55分字上二股の旅籠宿古田重三郎方
59
に着く。n月29日午前5時50分上二股を出発、黎明に至らざるよりー行皆徒歩、字長坂下では長
さ52間、高さ6 尺の石垣で絶壁の下を支える・。函館から10里の距離。次いで字中山に至る。ここ
から次第に坂路となり、旋回して峠の上に出る。旧道は屈曲険難で特に旅する時の困難地点であ
ったが、新道はかなり平坦になっている。また渓谷には長さ15間の橋が架けられている。ここか
ら下りになり字峠下で休憩、道はほぽ平坦となり馬車で行く。字稲倉石に近づくと、右脇は盤岩
を削って道を作る。その長さ30間高さ48尺で、腰には石垣が55間程築かれている。江差の代表者
が稲倉石で出迎える。字木間内を過ぎると、道は十数町にわたって直線となり、両側に廣野があ
り、所々に新墾の地が見える。新道路線となった民有地は皆献納された。午前10時45分鶉村に
着、昼食をとり12時に出発、俄虫村に入る。右は峨々たる山が迫り、左は湛々たる深淵で長さ
50間あり、火薬を用いた痕が残るほどの難工事箇所であった。(後々ここは「ハッパ」 と俗称され
る)。続いて俄虫村を過ぎ、厚沢部川に架けられた鶉山道中第ーの大橋(45間内16間は釣り橋)
を渡る。次は急坂のある旧道を大きく迂回して田沢村に出て土橋村に至る。丘阜を穿ち平道と為
す。田沢村では人が大勢集まる。この地方嘗て馬車を見たることなし。次の泊村から江差まで
は、旧道は海浜の際を渉る道であったが、新道は少し山手を岩を削って道を開き、崩壊し易い箇
所は木棚で支えた。午後2 時55分中歌町爾志桧山郡役所前に着く。
しかし、江差市街の道路はこのとき狭溢、凸凹多く、坂路は危険という状態で、馬車は鶉山道
として整備された所までで、市街地は通行不能であった。このため江差市民が企画した鶉山道完
成の祝賀会が、時任函館支庁長の「其費金ヲ転ジテ市街道路改正ノ費用ニ充ツルカ、又地方税協
議費等ノ未納ニ充ルナレバ、又一方ノ用ヲ為スベシ、数百金ヲ散ジテー夜ノ酒食ニ浪費スルハ未
ダ今日ノ事ニアラズ」 との苦言で中止になるという一幕もあった。また、この工事で江差街道中
最大の俄虫大橋ができて、渡船場は廃止された。この渡船場は、亨保13年(1728)に設置されたと
いう。渡し賃はー人銭12文で、造材関係者通行の要衝であった。
ところが、早くも翌年には新道は雪解けで幾箇所も応急修繕しなければならない状態となって
いた。このように雪解けや水害などで毎年修繕が必要であったが、中山峠付近などは補修が行き
届かず次第に悪路化していった。
6.大野新道
江差から鶉山道を越えて大野に入ると、以前は函館までは七重浜の浜道を通る箱館街道(明治
6 年=1873に札幌本道が出来るまで森方面への幹線であった)を通っていたが、北海道庁が設置
された明治!q年(1886)に函館と大野を最短距離で結ぶ新道が企画され、同22年に竣TL大野新道
と呼ばれた。旧道に較べると約8km短縮された。平野の低湿地に設けられた道路であったので、
山道の開削とは逆に土盛り用の土の確保が重要な工事で、工事には地元の人々も多数参加し、西
桔梗(函館市)や七飯から運河を掘り、船で土を運んだという。また七重浜砂丘の砂も利用され
た。しかし、出来上がった新道は地盤がなかなか修まらず、雨降りあがりなどはとくにひどく何
度も砂利を追加したので、道路面は次第に高くなっていった。さらに、大正期には凶作窮民救済
印
事業として道路の砂利敷工事が度々実施され、渡島と桧山を結ぶ幹線道路としての面目を保つよ
うになっていった。
7 .馬車会社の設立
人とダンコ馬(駄馬)がようやく通行できる程度であった鶉山道は、明治19年(1886)の大改修
で馬車運行の時代を迎えることになった。大改修の翌年には江差の松沢伊八と畑中半右衛門が郵
便馬車会社を設立、 7 -8 人乗りの乗合馬車が函館江差間を約10時間で結ぶことになり、運賃は
1 円50銭であった。馬車は函館と江差の両方から毎朝出発し、中継ぎ地は大野(市ノ渡)、中山
峠、鶉の3 箇所で、大野と鶉では馬を交替し、中山峠では旅客を交換して戻った。しかし、冬は
馬車の運行が不可能となったため、翌年から冬場は馬そりで代行した。運行当初の明治20年(1887)
7 月から12月までの乗客は、函館から江差へ1,321人、江差から函館へは1, 234人であったと函館
新聞が伝えている。
その後、明治30年(1897)頃に乗合馬車組合が結成され、郵便馬車会社の事業を引き継いだよう
であるが、明治35年(1902)に函館大野間に鉄道が開通し、大野に本郷駅が開設されると、 「江差
本郷間乗合馬車組合」として、本郷~中山峠~鶉~江差間で営業を続行した。
8 .乗合自動車の出現
大正9 年(1920) 8 月、それまで独占企業として営業を続けてきた乗合馬車に、強力なライバル
が出現した。江差自動車合資会社が設立され、乗合自動車を運行することになったのである。
フォード小型車(6 人乗り)1 台と大型車(12人乗り)1 台で、大野と江差から1往復(料金は3 円
50銭で馬車より50銭高い)であったが、所要時間が3 時間から3 時間半と、馬車の10時間から大幅
な短縮で、「はじめから自動車を利用する客が多く、馬車4 分、自動車6 分ぐらいの割合であった」
と、最初の自動車運転手大坂兵造氏が回想している。このため、馬車組合の自動車に対する敵愾
心は相当なもので、 「自動車対乗合馬車事業者の反目は一般旅客に対し悪感を抱かしむること甚
だしく、遂には江差行を躊躇せしめ 馬鹿に世間の評判が悪い」(『江差日日新聞』大正9. 11.
30)と新聞に書かれるほどであった。しかし、悪路(路面の凸凹がひどく、車体が跳ねると乗客は
天井に頭をうちつけ、下がると腹の底にデンとこたえる有様で、雨のあとなど峠付近は地面がう
んで車輪が埋もれ、乗客が下車して車体を押してこの難所を通過しなければならず、タイヤは一
回往復すると取り替えねばならぬほどであったという)とたたかう自動車会社の経営は相当難し
かったようで、営業不振から3 年後には馬車組合に身売りしてしまった。馬車組合は大正12年
(1923) 5 月早速大野自動車合資会社を設立、 1 日2 往復、料金は4 円50銭であった。 1 社のみの
運行であったので営業は軌道に乗って行った。この時から乗合馬車が姿を消したが、積雪期間は
馬そりを運行していた。昭和11年(1935)10月鉄道(江差線)が開通し、馬そり運行も終焉を迎え
た。函館新聞(大正12年6 月24日)によって、函館を中心に道南地方の自動車運行状況をみてみる
と、 「函館市街に初めて自動車を見たのは大正5 年(1916)の春である。自家用に過ぎないもので
61
あったが、とにかくデンビー(会社名)の車が最初で、 6 年には蓬来町(待升)にI台。駅前の
勝田旅館に1台。これは同家のお客用として設備されたものであった。その後自動車は諸所に見
え出して来て、河合繁氏の経営する「5 人乗り」 やビリケン自動車も見えて、営業用の車が漸く
ー般に認められたのは大正7 -8 年(1918-1919)頃であった。函館自動車会社が組織されたのも
大正7 年(1918)の事で、当時乗用の外運搬用の貨車もあって、旭自動車会社が生まれる。上磯~
知内間も自動車、本郷~江差も自動車と変遷して、今日(大正12年6 月)では17台(函館市街で)の
自動車が毎日運転されている」とあり、江差街道に乗合自動車が運行されたのは、函館市中の自
動車運行開始からあまり時を経ない時点であったことがわかる。しかしこの記事はなぜか大正3
年(1914)に川田竜吉男爵(男爵芋を普及させた人として有名で、このときは函館船渠会社の専務
を務める)が導入し、自分の農場と函館船渠との往復のため使用していたと伝えられる蒸気自動
車には言及していない。
自動車の登場は、道路の整備技術に一大革新を要求することになった。砂利道は、馬の足掛か
りもよく、鉄輪により巻き上がる塵埃も少なく、馬車の運行には適した面を持っていたが、自動
車はそのスピードと重量によって塵埃も猛烈に巻き上がり、砂利道が破壊されることになり、耐
久性のある路面の要求が高まっていった。函館iIi内では大正9 年(1920)に道内で始めてのアスフ
ァルト舗装が実施されており、また、この年には函館道路改善会が組織され、道路改善促進のた
め奉仕活動を展開し、市民の世論喚起に努めている。
9.中山隧道
山中の難所は大規模な土木工事を必要としない尾根道を通る峠越えとして開削されてきたが、
自動車も通るようになると、中山峠付近の急勾配は、改良が必要な箇所として注目されるように
なり、これに対応出来るだけの土木技術も発達してきていた。厚沢部村では村を挙げて峠道の改
良を熱望、当時の村長佐野勇松は、将来を展望して当初は夢物語とも受け取られたトンネルを掘
る案で村中を取りまとめ、請願運動を精力的に展開、道庁のゴーサインを取り付けた。大正12年
(1923) 5 月にトンネルの掘削に着手、翌年b 月完成した。 トンネルは山頂から約30 fliほど下がっ
たところに設けられ、延長116.6m 、幅員5.5 m、工事費は10万余円を費やした。トンネルに使用
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大正13年完成の旧中山トンネル(厚沢部町史)
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昭和41年完成の現中山トンネル
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62
された間知石は、ほとんどが稲倉石でハッパをかけて採取したものであった。このハッパ作業中
事故が発生して石工が1人死亡し、採石場近くの雑木林に遭難を悼む石碑が建てられている。
トンネルが完成し通行が容易になると、大正13年(1924)11月には大野自動車の姉妹会社桧山乗
合自動車会社が設立され、厚沢部、上ノ国、熊石への路線を拡張していった。しかし翌大正14年
(1925) 1 月には渡島交運合資会社が進出、競争が激化、運賃も1円50銭まで値下げ、さらにサー
ビスの品物(手拭いや煙草)を付けるほどであったが、経営を度外視したような競争をいつまで
も続けていくわけにはいかず、その後はそれなりの妥協が成立して運行を継続している。先の大
野、桧山自動車会社は、昭和11年(1936) 4 月に合同し、大桧山乗合自動車合資会社となってい
る。このころから、日本が泥沼の戦争にのめり込んでいき、ガソリンの不足が深刻となり、この
路線にも木炭自動車が導入され、厚沢部の木炭で運行を継続する状態が続いた。さらに戦争末期
には産業統制が強化され自動車会社も統合するようにとの指導をうけ、昭和19年(1944) 6 月、道
南の14社が合体して函館乗合自動車株式会社(函館バス)が誕生した。
しかし、中山峠は雪が降ると馬車運行時代と同じように車での走行は不可能となった。春の雪
解けを待って、 1 日でも早い運行開始に向け雪割り作業が開始され、半月以上も骨の折れる作業
が続くこともあったという。昭和26年に北海道開発局が設置され、同28年にこの道路が二級国道
に指定されたころでも、中山峠は除雪区域には含まれておらず、この峠の除雪が開始されるまで
にはさらに数年を要したのである。
10,全線大改修
明治期以来進められてきた道路作りは、人馬が通れる程度からやっと馬車道を標準に建設され
たもので、急速に普及してきた自動車交通に適しないものであった。自動車交通に耐える道路造
りが必要だということは、昭和初期頃から検討されていた。しかし戦争に突入していったため道
路整備は棚上げにされたままで敗戦を迎え、その後は戦後の混乱期の空白時代となり、国道昇格
後になってようやく道路の舗装、永久橋への架け換え、道路の拡幅工事と自動車道としての整備
に着手することとなった。まず昭和33年(1958)に大野新道の舗装工事(6. Sm道路)が始まった。
この年は大野十字街付近400111が舗装された。順次延長され、大野町域の舗装は、昭和41年(1966)
までに完了した。次いで同36年には鶉~峠下間の整備工事が第3 次道路整備五箇年計画(昭和36
~40年)に組込まれた。北海道の道路網の整備が、札幌を中心に北へ東へと進むなか、先発後進
地として取り残されていた道南の道路もようやく本格的な整備が進められることとなったのであ
る。このとき、まだまだ急カーブと急勾配の多いトンネル付近の道路整備に見直しがかけられ、
新中山トンネルが掘られることになり、昭和37年12月に着工した。新トンネルは旧トンネルの
約50m下方を最先端の工法(鋼製H 型支保工を用いた底設導坑先進工法)で掘り進み、昭和41
年(1966) 10月に完成、延長は580 m幅員も7m に拡幅された。また、厚沢部寄りの急傾斜、急カー
ブ解消のため三角沢にも橋(昭和42年完成、延長98 m ) を架けるなど、峠下の麓橋までをほぼ直
線道路とし、大野側も天狗橋付近までの急カーブを解消し、この区間だけで約3 km短縮された。
63
この工事は、道内初のジョイントベンチャー ーか・‘=
「中山隧道工事共同企業体」 によって施工さ
れた。以後工事の規模は大きくなり、共同企
業体による工事請負は一般化して行く。この
後、トンネルの大野側出口付近が、冬場吹溜 ‘ ,
まりがひどくなるので、延長160 m のスノーシ フ女どゼ事雲1き7ご移
ェルターが設置された(昭和48年完成)。こ
の間、昭和39年の道路法改正により、翌年4
月から一般国道227号となり、昭和53年には函 大野パイバス(昭*fl63年完成)
館~江差間延長69. 5kmの全線の舗装改良工事が完了した。
その後、急激に自動車が増加し、幹線である一般国道5 号が函館付近で飽和状態になったこと
から、大野新道を拡幅する工事計画がもちあがり、昭和54年、上磯町萩野付近から工事が始まっ
た。拡幅の難しい大野町の市街地を通る部分は切り替えバイパスとし、その他の箇所は拡幅工事
が進められている。昭和62年末には大野バイパスも出来、道幅は以前の2 倍以上になっている。
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一】
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(2〕下海岸のみち
第1節 概 要
北海道の南端、亀田半島の海岸線を津軽海峡から太平洋に出て噴火湾へ回る函館市から茅部郡
森町にかけての沿道には、北海道で最も早く和人が渡来したといわれている下海岸の集落が点在
し、これに重なるようにその昔箱館在六ケ場所といわれ、昆布や鱈を始め豊富な海産物を獲って
きた集落が連なっている。現在は函館から森ph まで一般国道278号となり、峠越えの難所にはトン
ネルが掘られ、全線が舗装され、さらに近年は各所で拡幅工事が実施され、拡幅が難しいところ
にはバイパスが設けられ、年毎に道路の整備が進展、踏分け道の面影を残しているような所は全
くなくなっている。
現在下海岸という場合、函館から恵山岬に向かって、函館の湯川を越えたあたりから恵山付近
までの海岸線を指すようであるが、何時頃からそう呼ばれるようにたったかは不明である。しか
し明治初期に書かれた「函館月次風俗書補拾」に「下モ在とは銭亀沢、志のり、小安等の諸村也」
とあるところから、明治初期にはすでに現在と同じような意味合で「下」が用いられていた。 も
ともと、松前から見て西側が「上」で東側が「下」 と呼ばれていたようであるが、幕末から明治に
かけての頃から函館から見て東側を「下」 と呼ぶようになっていったようである。
下海岸の集落は、松前藩の草創期、和人とアイヌとの抗争の中、志苔館の盛衰という形で北海
64
道中世史に登場し、志苔館の
滅亡とともに歴史の表舞台か
ら一旦消えるが、江戸時代に
入ると、箱館がまだ集落らし
きものを形成する以前から志
苔、塩泊、石崎などが集落地
として記録されるようになり、
18世紀末箱館の隆盛と時期を
同じくして箱館在六ケ場所と
ともに海産物の出荷地として
再登場してくる。
しかし、陸上交通は、踏分
け道も難所に差し掛かると、
これを迂回して険難な山道を
通るか縄とじ船などで岬を回
四
大野
/
『原
一.・・“’’、
く▲駒り岳
I / ・;ニプ i =了大沼国定公園
、’ ▲横津岳
5
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上石
七飯
津軽海敵
亀m
国道278号函館~(恵山)~(鹿部)~森
道道函館南茅部線函館~(川汲)~南茅部
鹿部
1
1
菊茅部
川汲峠
椴法華 )
II,山岬
恵山 戸
汐首岬
図1一3 下海岸のみち
るという状態であり、海産物の輸送は主に船で行われていた。 この状態は幕末から明治にかけて
も大きな変化はなかった。しかしこの時期には本州から連れてこられた馬が雪中放牧されるうち、
北海道の風土に適合した強靱な馬(ドサンコ)となって、駄馬輸送が広く行われるようになった。
この駄馬輸送は、明治末道路の整備が進んで馬車輸送が本格化するまで、陸上輸送の中心であ
った。
明治初期開拓使が置かれていた時代、この道は函館から長万部までを通して東海岸道と呼ば
れ、函館から森までの道筋の状況は次の通りである。
函館より下湯川村に至る一里二八町余は砂路、下湯川、志苔、銭亀沢、石崎の諸村を経て
小安村に至る三里余皆平坦、小安村より戸井村に至る二里二十三町はやや平坦、戸井村よ
り尻岸内二里十二町余内二里は山道なるも嶮ならず、尻岸内村より椴法華村に至る四里弱
は山道にしてやや嶮なり、椴法華村より古部、木直の小村落を経て尾札部村に至る五里弱
は巉巌崎嶇わずかに獣蹄を通ずるのみ、行旅多く海路を取る、その海里六里余、明治十三
年修路後陸行また多く、尾札部村より臼尻村に至るニ里余は海汀に循う、臼尻村より熊泊
村に至る一里半弱坂路やや平坦、熊泊村より鹿部村に至る三里強の内ー里海岸巌石多し、
鹿部村より砂原村へ四里半強の内二里半坂路、余はやや平坦、砂原村より掛澗、尾白内諸
村を経て森村に出る二里半余は大抵平坦。 (「北海道道路誌」)
昭和に入ると大型自動車が通行可能な道路に整備され、バスも運行されるようになったが、峠
越えなどは尾根道を通る難所も多く、いつも路外脱輪の危険性をはらんだ運行であった。
昭和42年(1967)に全線の拡幅改良工事が開始され、昭和45年に道道からー般国道278号に昇格す
ると、拡幅可能な箇所は拡幅、拡幅力灘しいところは山手に新しくバイパスを新設し、道道時代
65
のまま残されているところはほとんどなくなっている。
第2 節 下海岸への道筋
この道の昔の様子について、江戸時代から明治期にこの道を歩いた旅人の歩みにそって、点在
する村々の昔の姿からながめてみると次のようになる。
1 .下湯川村(現函館市域)
箱館から津軽海峡沿いに東へ進むと、高大森という海岸より一段高くなった砂地が続き、その
後しばらく砂浜を歩いて行くと下湯川村に入る。この下湯川村は、古くは上湯ii’村とともに単に
湯川村と呼ばれていた。寛永10年(1633)、江戸幕府は3 代将軍家光の将軍就任に際して、諸大名
の政治視察のために巡見使を派遣し権威の強化をはかったが、松前藩に派遣された一行の視察地
の中に湯川村の地域も含まれ、和人地として、松前藩から化外の民として位置付けられていたア
イヌ人が住む蝦夷地とは一線を画していた。元禄13年(1700)の「元禄郷帳』 でも湯川村で、上下
別々の集落として記録されるのは、江戸幕府が天明5 ‘-6 年(1785 -1786)に行った蝦夷地調査を
もとにして書かれた『蝦夷拾遣」が最初のようである。
湯川という地名は市川十郎の『蝦夷実地検考録』に 「湯の川は乾の湯沢より出て、村中温泉湧
出るゆえ、名に負たり 少温の湯也、眼病に効有」 とあるように、温泉の流れる川が地名の由
来で、松前藩8 世氏広の嗣子千勝丸が湯川の温泉に入って病気が治ったため、生母清涼院が承応
3 年(1654)お礼として社殿を寄進したといわれているほどで、古くから治療効果のある温泉とし
て知られていたが、明治19年(1886)に石川藤助が高温で湯量豊富な湯元を掘り当てて温泉町とし
て繁栄に向かうまでは細々とした温泉地であった。
江戸時代、松前藩は統治政策上の意味もあって陸上交通の便をはかることにあまり熱心でなか
ったため、幕末期においても松浦武四郎の「蝦夷日誌』に 「汐の干満にて両道あり、満る時は上
へ回りて、十る時は川尻を渡りて浜通り通るなり、湯川尻上湯の川、下湯の川落合て此処に至
り、此処砂川にてぬかり、甚わたりにくし」 と記されているごとく海岸線湯川尻の道路は、松倉
川の河口では汐が干いた時にのみ渡ることができた道であった。この道は箱館からの脇道で、本
道は亀田村を経由する道であった。
明治に入ってもこの状態は変わらず、明治43年(1910)に馬車が通行できる道に整備されるまで
は、松倉II!河口は渡し船によってよらやく渡ることができる状態であった。
大正7 年(1918)には、松岡陸三が創立した旭自動車がこの道を自動車道に整備して自動車専用
道路とし、函館の松風町から湯川の根崎まで乗合自動車の運行を開始した。昭和3 年には根崎か
ら下海岸へ向かう下海岸自動車が運行を開始し、旭自動車との接続便も運行されることになった。
66
2.志苔村、銭亀沢村(現函館市域)
下湯川村を出て海岸沿いの砂浜道を行き瀬戸川を過ぎると、志苔村に入る。この村は、松前藩
が道南地区の支配権を確立する以前から開けており、この付近一体は宇賀の浦と呼ばれ、元弘4
年(1334)に書かれたといわれる 『庭訓往来』には全国の特産物のーつとして 「宇賀の昆布と蝦夷
の鮭」が挙げられている。この村には、中世の道南12館のーつ志苔館がある。志苔館の館主は小
林氏で、アイヌとの交易を行い、日本沿岸、北陸地方と交流があったといわれている。 コシャマ
インが蜂起した長禄元年(1457)の館主は小林太郎左衛門良景で、彼の祖父次郎重弘の時に蝦夷島
に渡ったと伝えられている。 コシャマインの蜂起の原因は、 『新羅之記録』によると、 「志濃里
の鍛冶屋村に家数百有り、康正2 年(1456)春、乙孩(アイヌの男)来て、鍛冶にマキリを打たし
たところ、乙孩と鍛冶がマキリの善悪、価のことで口論になり、鍛冶がマキリで乙孩を突き殺し
たので、夷狄悉く蜂起」 とあり、アイヌとの交易のトラブルが原因のようで、小林太郎左衛門良
景は、箱館の河野政通とともにコシャマインに攻め落とされ、戦死している。この戦いの後、生
存者は松前方面に移住したと伝えられている。
この時代は、船による海上交通が主な交通手段で、アイヌによる踏み分け道以外道路といえる
ような道は存在しなかった。
寛文9年(1669)の弘前藩の実地調査記録『津軽一統志』に「一 しのり 澗あり、家二十四~
H 一五軒から家有り」 と記されているので、この時期には、中世期の繁栄ぶりには及ばないが、
かなり和人の住む集落になっていたようである。
湯川村からは平坦な海岸道が続いていたが、幕末に至るまで大きな変化はなく、松浦武四郎の
「蝦夷日誌』には、銭亀沢村と志苔村について次のように記されている。
◎銭亀沢村 人家三十余軒。小商人ニー三軒。漁者のみなり。村内に産神社并小流有。う
しろ平山樹木なし。村の下は砂浜、鉄砂多し。浦高札并に会所有。此処に長崎役人出張す
るよしなり。巡見使も此処にて昼支度のよしなり。
土産 昆布 鱈 鯡 数の子 海参 蚫 ホッケ 油コ 布海苔 紫海苔 カスべ 其外
雑魚多し。馬有畑物よろし。昆布惣高ー力年揚高二千石目の見積也。
◎志苔村 人家五十余軒。小商人有。漁者のみ。此辺り昆布漁を第一とするなり。山有と
も近くには樹木なし。故に皆メナの沢に到りて切出るなり。村内産神社并に制札并に小流
あり。又此村の上に小林氏の古城跡と云うもの有なり。聊の館あと也。然れども土人是を
掘、また草等を苅時は崇り有とて尊敬する也。土産銭亀沢に同じ。セト川一此処湯の川村
との堺なり。
明治に入っても同様な状態が続いたが、明治43年になってようやく馬車が通行できる道に整備
され、戸井村まで1日1往復の乗合馬車が運行されたが、庶民が気軽に乗ることが出来るもので
はなかった。
大正時代に入っても 「平地は地質脆弱にして春秋の霖雨の際は泥濘深く未だ交通至便と云うを
得ず」 (『函館支庁管内町村誌』)であった。
67
その後、自動車が通れる道路として整備され、大正9 年には藤野自動車がT型フォードで湯川
から戸井まで1日2 往復の運行を開始し、昭和3 年(1928)には下海岸自動車が創設されてこれに
代わり、昭和7 年には根崎~椴法華間48kmが竣工したのにともない、乗合自動車も椴法華まで延
長されている。
また、昭和43年7 月16日には、道路改良工事の最中志海苔町247番地先海岸から推定50万枚(現
在市立函館博物館に37万枚余を保存)にも及ぶ多量の中・世期に備蓄したと思われる三つの大瓶に
入った古銭が発見され、志苔が中世期以来の集落であることが確認された。 むかし銭亀が埋めら
れたので銭亀沢村としたという伝承が実証されたのである。
3.古川尻村・石崎村(現函館市域)
岩肌が黒いため黒岩といわれた岩石を跳び跳び行き汐泊川を渡ると、古川尻村に入り、次いで
崖が海岸まで迫った足場の悪い地帯を過ぎると石崎村に入る。汐泊川中流域の高台にはチャシ
(汐泊チャシ)跡が残されており、その昔汐泊川に上る鮭を捕獲して生活していたアイヌの存在
をしのばせる。この地帯も、中世期から和人が住み着いていたようで、 「蝦夷実地検考録」や
「蝦夷日誌」に「日蓮上人の高弟日持上人が異境布教を志して永仁四年(1296)に蝦夷地にやって
きて、函館山の頂上に題目を大書した鶏冠形の巨石を残し、その後石崎に数年間住んだ後、中国
に渡ったという」伝承がある。
寛永10年(1633)、松前藩を見分に来た幕府の巡見使分部左京、大河内平十郎、松田左衛門は、
石崎までを巡見した。以後将軍かわりに派遣される巡見使は、石崎までを視察するのを慣例とし
ており、この付近までが和人地と考えられていたようである。しかし、元禄13年(1700)「元禄郷
帳」では、さらに東に位置する小安村、汐首村までが東在の村として位置付けられ、次第に和人
地の範囲が広がっていった。
よた、これは小安村までの行程でもいえることであるが、通行上厳しい難所がなかったニとも
あって、明治末期に馬車道として整備されるまでは、大きな変化はなく、幕末期の両村の状況は
「古川尻村 人家二十二~二十三軒。小商人一軒。余は皆漁者のみなり。川あり、橋有り、少し
の船澗になるあり。此沢は奥ふかし。石崎村 人家五十余軒。小商人二~三軒。漁者のみなり。
此村より昆布は皆長崎屋(長崎俵物指定問屋)へ納めて、即御用物に相成候よし。他の売買を禁
じて其禁甚し。」 (「蝦夷日誌」)で、他の村々と同じく昆布漁に大きく依存する村であった。
第3 節 箱館六ケ場所の村々
1.小安村、戸井村、原木村(現戸井町)
石崎村を出て砂浜の海岸道を進むと小安村に入る。寛文9 年(1669)の弘前藩の実地調査記録
「津軽ー統志」に 「一 おやす 家十五軒」 とあり、寛永10年(1633)の巡見使の視察地からはず
れ、和人地の外と位置付けられた小安村にも和人が住むようになった。次いで元禄13年(1700)の
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調査記録「元禄郷帳」では、汐くび村とともに東在の村の中に数えられるようになって、和人地
の枠に入るようになった。
続いて箱館からでもその姿が確認できる汐首岬を過ぎ、ゴロタ道といわれた石コロだらけの道
を行くと戸井村である。汐首岬は津軽海峡を隔てた対岸、本州の最北端下北半島に最も近いとこ
ろである。この付近も早くから和人が渡来したところで、奥州の藤原泰衡の一族が12世紀末に鎌
倉幕府の手を逃れて来住したとの伝承が残されているほどである。
この付近から森村にかけては、前述した志苔村以東の村々と同様によく昆布の獲れたところ
で、18世紀初頭頃から箱館在六ケ場所と呼ばれるようになった。戸井村には運上所が置かれ、和
人の蝦夷地出入りをチェックしていた。元文期(1736- 1740)の蝦夷地各場所の状況を記した「蝦
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サンタロトンネル(昭和60年開通) 日浦海岸の素掘りの旧トンネル群
夷商賈聞書」に、戸井村の状況が「トヱト申す地、佐藤加茂左衛門殿(知行主)預り、出物赤昆
布ウンカ昆布ト申大名物、黒昆布シノリ同前、フノリ。秋ノ猟ハ鮫・鰯、箱館ト申所之人間共運
上ニ申請支配仕、運上金之議、年々不同、小船にて箱館へ通」 と記されている。また、寛政3 年
(1791)有珠山に登ろうとした菅江真澄が「トユイ(戸井)の浦について、ここより蝦夷舟のりて
鎌宇多、原木を経て日浦の山陰をゆけば 」(「えぞのてぶり」)と記しているように、この辺
から東の地域は、船による交通が主であった。この状態は明治期に入っても同様で、明治末期に
は小蒸気船が函館戸井間を運行し、鰯漁時期は定期運行であった。次いで大正7 年(1918)には」ヒ
海道庁命令航路が開かれることになり、函館の海運業者が定期船を運行し、陸行する者が減少す
るほどであった。
次いで更に大きな石が数多くころがっている大ゴロタ道を行くと原木村へ入る。ここも昆布場
所で、幅広、丈長の良質の昆布がとれた。また鮪も良く獲れ、明治期に入って鮪がたくさん獲れ
た時期には函館までドサンコ馬で大量に輸送した。この当時の子供たちは「馬という動物は鮪を
運ぶものである」 と思っていた程であったと言い伝えられている。
蝦夷地にはもともと馬は生息しておらず、ドサンコ馬は和人が本州から連れてきた馬が、厳し
い自然環境の中で忍耐力の強い馬となったもので、険阻な山道を行くとき、その忍耐力は陸上輸
送に欠かせないもので、この付近の村々には戸数に数倍するドサンコが飼育されていた。この駄
馬輸送が陸上輸送の中心であった時代は、昭和初期に道路がトラック、バスが通行できる道路に
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整備されるまで続いた。
9.尻岸内村、古武井村、根田内村(現恵山町)
原木村を出て日浦峠の難所を越え、日浦の浜に出て立岩の岩場を過ぎると、尻岸内川の川口に
広がる小さな平地、尻岸内村に入る。 「津軽ー統志」に「尻岸ない 小舟澗有り ヤクモタイン
(アイヌの乙名)持分」 とあるが、家数の記載はない。また「蝦夷商賈聞書」には「シリキシナ
イと申地、木村与右衛門殿御預り、出物類右(戸井村の事)同断也、運上不同、箱館者共支配仕
候、是も小船にて度々通」 とあり、この地もやはり船が主な交通手段であった。 「蝦夷日誌」に
は 「人家十余軒、小商人ー軒、漁者のみ也、上に少し畑有り、村内に産神社、制札、会所有り」
とあり、産物として 「鰯、鱈、鯡、数の子、昆布、油コ、ホッケ」 などがあげられているが、こ
れらの産物はこの付近の村々に共通している。次いで大ゴロタと小石の砂浜を過ぎると、 「津軽
一統志」に「こふい、から家(漁の時期だけ寝泊りする家)二~三軒」 とある古武井村に入る。
幕末期、この付近の砂鉄に目をつけた江戸幕府は、五稜郭の設計者である諸術調所教授武田斐
三郎に命じて、この地に溶鉱炉を作って製鉄事業を起こそうとしたが、難事業で充分な成果を上
げないうちに放棄されている。
さらに小石とゴロタ石の浜を行くと「津軽一統志」に 「ねたない 小川有り」 と記録された根
田内村で、 「人家四十軒、小商人四~五軒、只酒・米・紙・煙草・わらじを得るのみ也。村内皆
礁石(軽石)、酸川恵山湯本より流れ落ちる、魚類なし、その水硫黄の気多くして呑みがたし」
(『蝦夷日誌」)とあるように 「いおう山にて往古より今に山の焼ける事絶えず」と云われた恵山
の麓の村で、この付近までが箱館六ケ場所の内尻岸内場所と云われたところである。
ゴロタ道と峠越えの道は、明治維新後も変わらず、明治34年(1901)に恵山汽船共同組合が結成
され、汽船運行が行われたように海運が交通の主力で、大正7 年(1918)にまとめられた「函館支
庁管内町村誌」でも「遭路極メテ険悪ニシテ橋梁ョク備ラ1、特ニr.1浦峠’、函館以東有名ナ’l・難
所トス 陸路ノ交通不便ナレド古武井・根田内・尻岸内・日浦等ノ各海岸ハ函館間船舶ノ航行
絶ユルコトナシ」 と云われる状態であった。
ようやく昭和5 年頃に準地方費道としての整備が進み、バスの運行が可能となり、昭和8年に
は古武井までバス(下海岸自動車株式会社)が運行された。しかし、海岸線の細い道と険しい尾
根道の続く道路は、少々の悪天候でも直ぐに不通になってしまう心細い道路であった。
3 .椴法華村
根田内村を出て海岸通の難所を避け山道の難所を行くと、ゴロタ石の浜椴法華村に出る。 「津
軽一統志」には単に 「とどほっけ」 とあるのみであるが、元文期(1736- 1740)の蝦夷地各場所の
状況を記した「蝦夷商賈聞書」には 「トドホッケよりヲサべ(尾札部のこと)迄十里ばかり、此
間蝦夷村沢山に有り、昆布大出所也。新井田兵内殿御預り、運上金ー力年に四十両宛、箱館者共
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運上に申請、二百石ばかりの小船にて度々箱館え通」 とあり、重要な昆布場所となっている。箱
館六ケ場所の内尾札部場所に属しているが、尾札部村とは「古部」の難所で隔てられており、噴
火湾沿いに、並ぶ村々とは一線を画し、下海岸と呼ばれている地方の東端となっている。「古部」
は『蝦夷日誌』に 「尾札部より海上一里、陸道二里、甚難所也。海上よりこのところを見るに、
山の間のわずかの地に人家六~七軒住居して、なかなか人の住むべき所とは思われず」 と記され
たこの道の難所中の難所であった。
大正期に入っても「目下戸井村椴法華間ノ道路開鑿ノ準備中ナルヲ以テ、遠ラズシテ車馬ノ交
通自由ナルニ至ラン」 (『函館支庁管内町村誌』)という状態で、一応車の通行が可能な道路に
整備されるのは昭和7 年で、昭和9 年には湯川からの乗合自動車の路線がようゃく椴法華まで延
長された。
4 .尾札部村、川汲村、臼尻村(現南茅部町)
椴法華村を出て古部の難所を越えると尾札部村に入る。 『津軽一統志』では 「おさつへ狄おと
なアイツライ持分 家二~三軒」 とあるアイヌの集落であったが、延宝5 年(1677)能登国の飯田
与五左衛門が尾札部に来住したのが、和人の定住の最初と言い伝えられているように、次第に和
人が定住するようになり、箱館在六ケ場所のーつといわれる時代になると前述したように 「昆布
大出所」 の地として場所請負制度の下、松前藩の財政のささえとなっていった。
亨和期(1801- 1803)に和人地に組入れられ村並となり、幕末期になると、 「人家八十軒斗、小
商人二~三軒、漁者のみなり」 (『蝦夷日誌』)とかなりな規模の集落となっている。
道路の状況は、海上交通に頼っていたため、大正期に入っても大きな変化はなく、大正7 年に
まとめられた『函館支庁管内町村誌』にも 「昔ョリ人馬ノ往復ノ結果自然ニ道ヲナセルモノニシ
テ所謂山道ナリ。川汲山道ハ勿論、臼尻ヲ経テ鹿部ニ到ルモ徒歩ニョル外ナシ。一般住民ハ運輸
ノ便ヲ海上に俟ツヲ以テ、陸上ヲ措キテ顧ミズ」 と記されているほどであった。
次いで砂浜道を行くと川汲村に入る。この村も 『津軽一統志」では 「かつくみ 小船澗有り」
とのみあるだけであったが、宝暦2 年(1752)に来住した陸奥国の酒井重兵衛、仙石喜八郎が和人
の定住の最初と伝えられている。幕末期には 「人家二十余家、小川有り、この左右に建並ぶ。尤
川沢奥深し、小商人一軒、漁者なり」 (『蝦夷日誌』)となっており、小集落をなしていた。
この沢奥には、安永年間(1772 – 1780)に発見されたと伝えられる川汲温泉があり、さらにその
奥には川汲峠を越えて亀尾、湯川村に抜ける川汲山道がある。この道は大正末期に若干整備され
て乗合自動車も運行され、噴火湾岸と函館を結ぶ重要な道路となっていた。
また砂浜道を行き岩岬をーつ越えると臼尻村に入る。この村は『津軽一統志』や『元禄郷帳』
には見えない村で、享保3 年(1718)に陸奥国佐井村の東出多五右衛門が来住したのが和人最初の
定住者と伝えられている。元文期(1736-1740)の蝦夷地各場所の状況を記した『蝦夷商賈聞書』
に 「臼尻よりマツヤと申所迄、松前志摩守運上金揚ル、出物昆布ばかり、小船にて村々より箱
館え昆布積候」 とあり、幕末期には「人家五十余軒、小商人二~三軒、皆漁者なり。尤旅籠屋も
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二軒あり、然ども鱈漁の時は随分繁華なり。前に弁天島と云あり、風の模様により図合船この左
右に懸る也」 (「蝦夷日誌」)とあり、かなりの集落に成長している。
しかし、道については大正期に入るまで大きな変化はなかったようで、大正7 年(1918)の「函
館支庁管内町村誌」でも 「蝦夷地ニハ造リシ道路ナク、得テ勝手ニ通リテ自然ニ出来タル道路ナ
ルノミ 漁村ニ於テハ、道路ノ良否ヲ念頭ニ置クモノ殆ドナク、漁村唯ーノ交通運輸ノ機関ト
シテハ、一隻ノ磯船ヲ以テ足レリ 函館ョリノ船便ハ多ク川崎船ニ依リ」 と述べられている状
態であったが、さきに述べたように大正末期に川汲山道が開鑿されると 「貨物ヲ安ク費リテ、高
値ニテ購フガ如キ」 との状況は少しずつ改善される方向に進んだ。
5.鹿部村(現鹿部町)
椴法華村からこの村までが箱館在六ケ場所中尾札部場所と呼ばれていたところである。元和元
年(1615)に南部大間の司馬宇兵衛と云う人が来住したのが、和人が住むようになった最初と伝え
られているが、この村も「津軽ー統志」や「元禄郷帳」には見えない村で、他の六ケ場所の集落
と同じように昆布場所として次第に開けていった。しかし、19世紀初頭はまだアイヌの村(コタ
ン)という様相で、寛政3 年(1791)にこの地方をアイヌの船で旅行した菅江真澄は「えぞのてぶ
り」 に次のように記している。
海べたに温泉のありて湯けぶり昇るを、カンジ(舵)とるメノコ(婦人)ども、この湯
をさしてナシュヒルカといひもてイタク(物語)せり。ナシュは病の名疝気をいひ、ヒル
カとはそれによけんといふイタク(詩)なり。
きぬ。 シャモ(和人)は此コタンをシカべ(鹿部)とのみぞいひける。 いづれもこのあた
りは、ひろめ(昆布)やよけん、世にいひもてはやされし宇賀の昆布といふは、ここなる
雲河の岸べの磯に採りつれと名の流ぬ。今もひろめは、此浦のこゆるかたこそあらねと人
の専らI.・、^.りu 星かあらぬかと見えて、海ノ、’’たのくさむらにすだく蛍の浜風rさそわわて
苫屋の軒近く飛めぐり窓のうちまで吹人る。われこの島に三とせ四とせ歴ぬれど、かく蛍
のいたらんは見しがはじめなれば、いとどめづらしう、とに出て見たたずむ。
幕末期になると 「人家十軒余、惣て当村懸りと云は五十~六十軒も有よしなり。尚夷人小屋二
十七年前は三十軒余も有しに、段々抹絶して今はわずかに此村懸りに七~八軒斗のよし也。夷人
の種は三~五年の間には絶べきやうに思はるるなり」 (「蝦夷日誌」)となって、和人の集落と
してこの付近の中心地と位置付けられるようになっていた。
交通手段はやはり船が主なもので、明治期に人ってもてこの状況に大きな変化はなく、明冶30
年(1897)に運行を始めた函館~森間の汽船による沿岸航路が、この付近の人々の足となってお
り、大正7 年(1918)の「函館支庁管内町村誌」でも当時の道路交通事情を「本村ニ於ケル運輸交
通ハ鹿部以東ニ於ケル道路ノ不完全ナルヲ以テ名アリ、従来月六回ノ汽船便ヲ依リ、貨物ノ輸出
セラルルヲ以テ、敢テ痛痒ヲ感ゼザルガ如キモ、一朝天候不良ノ為メ貨物ノ輸出ノ停滞ノ場合ハ
不完全ナル里道ニ依リ、駄送スルノ止ムナキニ至リ、殊ニ冬季間ニアリテハ往々交通ノ杜絶スル
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アリテ、コレニ依リテ受クル住民ノ苦痛ハ頗ル甚大ナルモノアリ、急遽道路ヲ開鑿シ、交通ノ便
ヲ計ラザレバ、地方ノ産業勃興発展ヲ期シ難キ」 と述べている状況であった。
函館に出る際、海岸の道を行き森、鷲の木を回って行くのは遠回りということで、軍川から藤’
城(七飯町)へ抜ける軍川山道が安政3 年(1856)に開かれ、明治36年には軍川~鹿部間に客馬車
の運行が開始されたが、道路の状態は前述の通りであった。
しかし、大正14年(1925)には鹿部~大沼間に自動車が運行され、次いで昭和4 年には同区間に
大沼電鉄が運行されるようになり、函館までの時間距離が大きく短縮されたのである。
6 .砂原村(現砂原町)
鹿部を出て砂浜を少し行き、その後すこし難所の海岸線をさけて野道を行くと箱館在六ケ場所
の内茅部場所のーつである砂原の浜にでる。この村も 『津軽一統志』や『元禄郷帳』には見えな
い村であるが、寛政3 年(1791)に書かれた 『えぞのてぶり」には 「このコタン(サハラ)はシャ
モのも家居してければ、なにくれとめやすげにかたらひて、こと(異)国より日の本に入来しこ
こちぞさられたる」 とあり、和人の集落地となっていたことがわかる。またエトモの浦(室蘭)
や虻田へ向かう船もこの浜から出帆して、鱈が大漁の時代はかなりな賑わいであった。
ところが、幕末になると 「人家古来は百軒もありしと聞けり、今は五十軒斗なり。是はまたむ
かし鱈漁の時は甚繁華なりしと聞けるが、今は甚難渋村にして、近頃人家も外へ引移しよしな
り」 (『蝦夷日誌」)となり、さらに明治に入ると函館~森村間に札幌本道が開らかれ、室蘭へ
の渡船場も隣の森村となって、一時砂原村は旧道に取り残された村のようになった。
しかし一方明治3 年(1870)には砂原~軍川間に本願寺道路が開かれ、函館への時間距離が大幅
に短縮され、また昭和2 年(1927)には東森~砂原間(翌年森まで延長)に渡島海岸鉄道が開通し
(のち函館本線大沼~森間東回り線に組込まれる)て、一応「本村ハ漁業ヲ以テ主業トナスト雖
モ、本村ノ消長ハ係ケテ本村ノ交通如何ニ関スルモノノ如シ 森村砂原村ノ貨物ノ集散地ニシ
テ該地方ニ於ケル交通ノ中心点ナリシ」 (「函館支庁管内町村誌」)と述べられるような状態と
なっている。
7.森村(現森町)
砂原村を出て浜道を行くと尾白内を経て森村に入る。森村は、砂原村と共に箱館在六ケ場所の
内この付近の総称とも云える茅部場所の中心地である。 「津軽一統志』には 「もり小川有」 とあ
り、 『蝦夷商賈聞書』には、森の名は見えないが「カヤべと申地、北見与五衛門殿御預り、鯡、
数子、昆布夏の出物、十月之初より膃肭臍取申候、運上金二十両壱ケ年に指上ケ、亀田村と申所
の者共年々商買仕」 とある。
幕末期になると尾白内村が「人家皆小屋の掘立なれども、金銀の回りは甚以よき処なり」、森
村が「此辺の夷人金銭通用」 (『蝦夷日誌』)とあって、蝦夷地流通経済の拠点となっている。
また森村は、函館から噴火湾回りの海岸道の終点と云うよりも、函館から大野回りの旧本道の
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要衝であり、明治6 年(1873)七飯回りの札幌本道(現一般国道5 号)が開かれてからは、函館と
道央を結ぶ幹線道の要衝としてより明確なものとなっていった。
第4 節 海岸道の全通
1 .自動車の運行
明治に入っても江戸時代以来の道路の状態は変わらず、函館から下海岸へ向かう道路は、湯川
でも松倉川河口を渡し船によってようやく渡ることができる状態であった。明治43年(1910)に馬
車が通行できる道に整備され、戸井村まで1日1往復の乗合馬車が運行されたが、庶民が気軽に
乗ることが出来るものではなかった。明治34年(1901)に恵山汽船共同組合が結成され汽船運行が
行われるように、海運が交通の主力であったのである。大正時代に入っても 「平地ハ地質脆弱ニ
シテ春秋ノ霖雨ノ際ハ泥濘深ク未ダ交通至便ト云ウヲ得スー…・橋梁ョク備ラズ特ニ日浦峠ハ函館
以東有名ナル難所トス 陸路ノ交通不便ナレド古武井・根田内・尻岸内・日浦等ノ各海岸ハ函
館間船舶ノ航行絶ユルコトナシ」 (『函館支庁管内町村誌』)であった。
明治30年代に入ると函樽鉄道敷設の計画がなされ、函館側と小樽側の両方から工事に着手する
こととなり、明治35年(1902)に亀田~大野(本郷)間、翌36年(1903)には本郷~森間が開通(37
年には函樽全線が開通)、大沼と軍川駅も開業した。これに伴い鹿部・臼尻・尾札部の沿岸道路
開削を願う気運が高まってきた。この年、各村代表が沿岸道路開削を協議し、各村100円ずつを
出費して設計書「臼尻村‘熊泊村里道変更線開鑿工事設計并に一覧図」 を作成、北海道庁に提出
している。
昭和3 年尾札部村稲荷浜の竹中重蔵が、尾札部~大船(熊泊)間に乗合自動車を運行、尾札部
~川汲温泉間でも営業を開始した。竹中重蔵は、慶応2 年(1866)能登(石川県)の珠洲郡上戸村
‘現珠洲市、で牛才れ 郷里の学柿の新昌を務めたあと、能登の蛸島の倭船で北海道江差に渡っ
てきた。その後函館に出て商家に勤めたが、皮膚病にかかり川汲温泉で湯治し、その縁で川汲温
泉に寄寓した。のち函館に店を構え、樺太練の売買で大金を手にし、川汲に移住して雑貨商とな
り、一代にして富を築き、当時の最先端の事業である自動車運送業にも関心を示し、竹中自動車
部を興したものであった。
昭和4 年4月I日、鹿部~大沼間に電車が開通し、昭和5 年6 月には、黒羽尻トンネルが完成
すると、竹中自動車部は大船から路線を延長、大沼電鉄の鹿部駅に接続させた。
昭和5 年の営業成績を見てみると、車両は新ノォード29年型(4 気筒)、 0 人乗りが3 台て、
1 年問の乗車延人員は29, 980人、運賃収入は9, 986円50銭であった。
さらに昭和6 年には見日岬の迂回道路が完成、竹中自動車は尾札部から見日までに路線を延長
している。また昭和8 年にはポン木直の出崎の崖淵に迂回路が設けられ、山越えをせずに通れる
ようになったが、乗合自動車路線は見日までのままであった。その後、竹中は昭和11年に車両と
路線を大沼電鉄株式会社に譲渡し、自動車会社の運営から手を引いている。
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石川県能登半島産のものであった。古銭には麻紐が通され、整然と備蓄されたものであった。
古くは中国の前漢時代の「半両」 銭から明の太祖の時代の1368年に鋳造された「洪武通宝」 ま
これより先、函館では大正7 年(1918)10月に、松岡陸三が創立した旭自動車が、函館の松風町
から湯川の根崎までの津軽海峡沿いの海岸道6 血を自動車道に整備して、自動車専用道路とし、
乗合自動車の運行を開始していた。大正9年には藤野自動車がI型フォードで湯川から戸井まで
1 日2 往復の運行を開始し、昭和3年には根崎から下海岸へ向かう下海岸自動車がこの路線を引
受けて運行を続け、旭自動車との接続便も運行されることになった。昭和7 年には下海岸の準地
方費道根崎椴法華問48細が竣工し、路線中の難関古武井と椴法華間の道路も開通した。これに伴
い昭和8 年(1933)には古武井まで、昭和9 年には椴法華まで運行が延長されている。しかし、海
岸線の細い道と険しい尾根道の続く道路は、少々の悪天候でも直ぐ不通になってしまう心細い道
路であった。
2.陸の孤島古部に黄金道路
昭和27年木直~古部間の開削工事に着手、昭平(130年12月19日に立岩トンネル、獅子鼻トンネ
ル、古部トンネルが開通、陸の孤島と云われた古部にも道路が通り、 「内浦湾の波荒ぶ、風雪二
百有余年、孤島の桜今咲かん、あ、栄光の路線開く(2 番、 3 番略)」 という 「開通祝賀の歌」
も作られたほどであった。この古部への道路開通は、北海道新聞の翌年の新春(1月元旦号)を
飾る記事となっており、古部の住民の喜びと、それまでの古部の状況が詳しく紹介されているの
で、次に掲げておく。 「“陸の孤島”として明治初年入植のままの姿で取り残されていた茅部郡
尾札部村字古部部落に待望の道路が開通したのは、旧臘の17日。部落の人たちは孤島から開放さ
れた春を迎えて大きな喜びに包まれている。この道路は開発局函館開発建設部が、同村木直から
僅か5, 726 mに1億2,400万円を投じて6 年がかりで完成した黄金道路だ。幾世代もの間夢に描い
た“街に続く道’’である。古部は渡島半島の横津山系が津軽海峡に急なガケを作って落ち込む岩
の、わずかな間にできた部落で黒潮がごうごうと音を立てて岸を洗っている、総勢600人が住む小
さな漁業の部落で、本村へ通じる道は、干潮時に浅瀬を渡り歩くだけで、それも波のない夏の間
だけだ。もちろん馬車の交通はありようがない。磯舟で海上を漕いででると同村木直まで50分、だ
から浅瀬を幼い子供と3 人連れで歩いていた
老婆が波にさらわれて危うく一命を落とそう -/、一、一
としたこともあり、海がシケで半月も交通が ‘
途絶えることも珍しくなかった。 この部落に ,
“木直まで立派な道路ができるよ ” と部 多
落の人たちの胸を弾ませたのは、道総合開発 蓄
事業のーつとして、尾札部村~椴法華~恵山
間を結ぶ渡島半島環状道路を建設すると決定 狒胃一g
した昭和25年で、工事はこの年から始まった。 古部トンネル開通式(昭和30年)
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岩を切って海を埋めていく工事は、まるで海の中に道路を作るような困難なものであった。それが
6 年間の工事で長さ160 m と108 mの2つの長いトンネルを掘り抜いて全長5, 726 mのトラック、バス
がならんで通る立派な道を完成した。アスファルト道路をつくる3 倍の費用1億2,400万円が注ぎ
込まれたのである。この道は文化が流れ込む道、産業が興る道、100名足らずの小中学校の児童生
徒がヒマさえあれば作業現場を訪れ、トラックのエンジンやハッパの音を聞いて完成を待った道、
開通の日の12月17日の感激がいつまでもつきない道を子供らはきょうの元日、小旗をかざして新
たな世界に拓けた道を明るく朗らかにかけてくる」。
3.全線開通と国道昇格
その後この海岸道を分断していた古部~椴法華間に昭和36年から大開削工事が開始され、昭和
39年に滝ノ沢トンネル(延長850 m)が開通、屏風岩トンネル、銚子岬を回って椴法華村に通じ、
下海岸から函館への道路が接続した。昭和41年10月14日、古部~椴法華間道路開通式が現地で挙
行された。北海道新聞はこの模様を次のように紹介している。 「道道尾札部戸井函館線の改良工
事を始めてから15年、中でも同路線の“断点”であった南茅部町古部と椴法華村との間の道路新
設は、昭平L132年から着手して10年の歳月が流れ、総工事費も6 億3, 163万円が投じられ、10月14日
開通した。この断点に立ちはだかる断崖は全長5, 974 mで、うち5, 124m は嶮岩の開削、海岸の埋
立て等によって造成し、最難点には全長850 の滝の沢トンネルが、昭和38年から3 箇年の歳月と
3 億929万円の巨費を投じて開削された。このトンネルは、幅6mで最新式の照明設備も備えてい
た。下海岸と昔の六ケ場所が初めて道路で結ばれたのである」 (昭和41. 10. 16の北海道新聞の記
事を要約)。またこの日、函館バスは、函館~椴法華~鹿部~大沼~函館の環状線と、函館~川
汲~椴法華~函館の環状線の近日開通を広告している。
なお、屏風岩トンネルから銚子岬を回り海岸道は、昭和49年(1974)に銚子トンネル(1, 437 m)
が、すこし山手に開通してからは、利用されなくなっている。
また、戸井町から南茅部町にかけてのトンネルは、武井トンネル(昭和50年改良、延長126m ) 、
戸井トンネル(昭手ロ44年改良、延長250m ) 、 日浦トンネル(昭干Wi,年改良、延長oiroJ.) ni)、サン
タロトンネル(昭手U60年改良、延長1,355m ) 、古部トンネル(昭和61年改良、延長240 m)のよ
うに、海岸の自然岩をくり抜いて作られていたトンネルが改良されたり、尾根道の峠越えがトン
ネルに改良されたりしている。この海岸道は、それまで下海岸線と、六ケ場所線が別々に管理さ
れていたが、昭和45年4月1日、函館~森間が一般国道278号に昇格、ようやく1路線として函館
開発建設部が管理する体制が確立されたのである。
また、この改良工事では、海岸線の細い道の拡幅が最重点であったが、拡幅が不可能な箇所も
多くバイパス路線も多く取り入れられている。まず、昭和43年には根崎に1.5kmのバイパスが設け
られ、次いで函館市谷地山~戸井町汐首までの5.4kmの釜谷バイパス(着工昭和50年、完成昭和57
年)、戸井町日浦~恵山町女那川までの3. 8kmの豊浦バイパス(着工昭和55年、完成昭和60年)、
砂原町字彦澗~押出の5.8kmの砂原バイパス(着工昭和58年、完成昭和62年)、森町尾白内~ー般
76
国道5 号交点までの尾白内バイバス(着工昭和52年、完成昭和58年)等が完成し、産業道路の大
動脈となると同時に、観光道路としても近年脚光を浴びるようになってきている。
4 .志海苔の古銭
この道路の改良工事は昭和42年から本格的に開始されたが、昭和43年7 月16日、道路改良工事
の最中、函館市志海苔町247番地先海岸から三つの大瓶が発見された。旧道開削中のブルドーザー
が地下lm位の所で大瓶(直径60c皿、高さ80m)二つを掘り当てた。中には古銭が一杯つまって
おり、翌日すぐ近くでもうーつ発見された。瓶は最初の二つが福井県の越前古窯、残りのーつが
で、94種37万枚余が確認
されており(市立函館博物
館に保存)、ほとんどが中
国及びその周辺地区の銭
貨であるが、中には日本
最古の銅銭である 「和同
開珎」などの皇朝銭(飛
鳥時代から平安時代まで
に12種類鋳造され皇朝12
銭ともいわれる)も8 種
類も含まれていた。発見
された場所が、道南12館
事
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謡1- .議七ザ
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簿一
のーつといわれる志苔館 志海苔古銭出土地 古銭と大カメ(市立西館博物館蔵)
から数10 mの地点で、志苔館主となんらかの関係を有する者が備蓄したものと推定されると同時
に、中世期日本海岸の地方と経済的交流のあった人々の集落がこの地方にあったことが実証され
たのである。
また、むかしからこの付近には銭亀が埋められたと云う伝承があって、銭亀沢村と命名されて
いたわけであるが、そのことが実証されたわけである。
5 .川汲山道
噴火湾岸の村々(六ケ場所)と函館を結ぶ道として、この一般国道278号とは別に、現在道道と
なっている川汲山道が古くから開けていた。箱館戦争の時、鷲ノ木から上陸した旧幕府脱走軍の
土方歳三率いる別動隊が、森から砂原の海岸線を行軍してきて、この山道の峠を越えて湯川へ向
かった所である。川汲を出て川汲温泉を通り、川汲峠を越え、鱒川(現函館市鱒川町)に出て
(昔は宿屋が5 軒あり、 5 軒町の名も残っていた)、上湯川から函館に入る道であったが、大正
14年(1925)に川汲山道が開削され、亀尾への道が開かれると、鱒川越えは廃れていった。
大正14年(1925)11月には、湯川の藤野自動車部が乗合自動車の運行を開始した。しかし、川汲
77
の人々はこの自動車を余程の事がないかぎり利用することはなく、練場へ行く人も、商用で函館
へ行く人々も、昔のように2 本の足で歩いていったという。
戦時中乗合自動車の運行は一時中断していたが、昭和25年より函館バスの定期運行が開始され
た。しかし、冬期間は積雪のため不通となったので、川汲山道の改良が重要緊急課題としてクロ
ーズアップされるようになり、昭和39年から三百三十三曲がりと言われ、至る所が危険箇所であ
った峠の改良に着手、昭和42年2 月17日には川汲隧道(延長1, 150m)が貫通、昭和43年に全線が
開通した。昔六ケ場所と言われた噴火湾沿いの村々と函館を最短距離で結ぶ道路が完成したので
ある。
参 考 文 献
〔1〕松前・江差のみち
1 函館市 函館市史 通説編第1巻 昭和55年
2 函館市 函館市史 別巻亀田市編 昭和53年
3 函館市 函館市史 史料編第1巻 昭和49年
4 北海道庁土木部道路課 北海道道路概況 大正14年
5 北海道開発局 北海道の道路 昭平n59年
6 函館日日新聞社 函館市誌 昭和10年
7 松前町立館浜小学校 続,網保田 昭和58年
8 知内町 知内町史 昭和61年
9 知内町 知内町史概説 昭和52年
10 上磯町 上磯町史 年史編 昭和45年
11 松浦武四郎 三航蝦夷日誌 昭和45年
12 佐藤玄穴郎 蝦夷拾遺 天明6 年
13 最上徳内 蝦夷草紙 寛政2 年
14 古川古松軒 東遊雑記 天明8 年
15 管江真澄 蝦夷喧辞弁(えみしのさえき) 寛政元年
16 東大出版会 村垣淡路守公務日記(幕末外国関係文書付録) 大正6 年
17 森春成・高井英一 罕有日記(続函館市史料集3 ) 昭和48年
18 大野町 大野町史 昭和50年
19 (掬松本組 国道227号 中山トンネル 昭和62年
20 厚沢部町 桜鳥 厚沢部町の歩み 昭和44年
78
21
22
23
24
25
26
27
28
29
30
31
32
33
34
35
36
37
1
2
3
4
5
6
7
8
9
10
11
12
13
14
15
厚沢部町
北海道土木技術会
北海道開発局
道土木部・土木協会
北海道開発局
江差町
大蔵省
木古内町
葉梨孝幸
函館建設業界史
北海道開発局
高橋壮四郎
北海道庁
梅木通徳
函館開発建設部
函館開発建設部
函館開発建設部
函館市
函館市
函館市
高橋壮四郎
梅木通徳
尻岸内町
戸井町
戸井村教育委員会
函館バス
北海道庁
北海道庁土木部道路課
砂原町
北海道開発局
北海道土木技術会
北海道開発局
桜鳥 厚沢部町の歩み 第2 巻
北海道舗装史(上巻)
北海道開発局二十五年史
北海道土木行政のあゆみ
道路現況調書
江差町史
開拓使事業報告 第1編地理
木古内町史
桧山路
道南の槌音
白神岬
蝦夷巡覧筆記
北海道道路誌
北海道交通史
国道別バイパス調書
道路現況図大野国道227号
道路現況図松前国道228号
[2〕下海岸のみち
函館市史 通説編第1巻
函館市史 別巻亀田市編
函館市史 史料編第1巻
蝦夷巡覧筆記
北海道交通史
尻岸内町史
戸井町史
戸井郷土誌 第2 集
函館バス20年のあゆみ
北海道道路誌
北海道道路概況
砂原町沿革史年表
北海道の道路
北海道舗装史(上巻)
北海道開発局二十五年史
昭和56年
昭和60年
昭和52年
昭和56年
昭和62年
昭和57年
明治18年
昭和57年
昭和50年
昭和57年
昭和62年
寛政9 年
大正14年
昭和25年
昭和62年
昭和62年
昭和62年
昭和55年
昭和53年
昭和49年
寛政9年
昭和25年
昭和45年
昭和48年
昭和43年
昭和39年
大正14年
大正14年
昭和55年
昭和59年
昭和60年
昭和52年
79
16 北海道土木協会 北海道土木行政のあゆみ 昭平1156年
17 函館建設業界史 道南の槌音 昭手1157年
18 北海道開発局 道路現況調書 昭和62年
19 渡島教育会 函館支庁管内町村誌 大正7 年
20 国鉄北海道総局 北海道鉄道百年史 上巻 昭手1151年
21 函館日日新聞社 函館市誌 昭和10年
22 鹿部村教育委員会 鹿部村沿革史年表 昭和50年
23 森町 森町史 昭和55年
24 椴法華村 椴法華村史年表 昭平1151年
25 南茅部町 南茅部町沿革史年表 昭和42年
26 南茅部町 南茅部町史 上 昭和62年
27 南茅部町 南茅部町史 下 昭和62年
28 大蔵省 開拓使事業報告 第1編地理 明治18年
29 北海道 新羅之記録(北海道史史料1 ) 昭和44年
30 永田方正 北海道蝦夷語地名解 昭和2 年
31 北海道庁 津軽一統志巻第10(北海道史史料1 ) 昭和44年
32 菅江真澄 ひろめかり 寛政元年
33 北海道庁 休明光記(新撲北海道史史料1 ) 昭和11年
34 函館開発建設部 道路現況図恵山国道278号 昭和62年
35 松前町 蝦夷商買聞書(松前町史史料3 ) 昭和54年
写 真 提 供 者 ー 覧
松前バイパス(昭和55年開通) 函館開発建設部
旧幕府脱走軍上陸地の鷲ノ木史跡 南 沢 茂
小砂子トンネル(昭和61年開通) 函館開発建設部
白神岬 同
大正]3年完成の旧中山トンネル 桜鳥ー厚沢部町の歩み・厚沢部町史
昭和41年完成の現中山トンネル 函館開発建設部
大野バイパス(昭和63年完成) 南 沢 茂
サンタロトンネル(昭和60年開通) 函館開発建設部
日浦海岸の素堀りの旧トンネル群 同
志海苔古銭出土地 函館開発建設部
80
2 にしんのみち
小 林 真 人
第1節 概 要
北海道の西海岸、江差から日本海に沿って稚内に至る道の沿道には、荒廃した袋澗や錬番屋な
どが点在し、往時の練漁地帯の名残りを残している。現在は-般国道229号(小樟~江差)、一般
国道231号(札幌~留萌)、一般国道232号(稚内~留萌)などほぼ完全に舗装された道路が沿岸
を走っているが、江差から北上すると帆越岬、茂津多岬、弁慶岬、雷電岬、神威岬、雄冬岬など
に代表される峻険な海岸線が続き、道路開削の困難さを物語っている。
江戸時代に蝦夷地を治めた松前藩
は、上層の家臣に俸禄のかわりにア
イヌの人びとと交易する場所である
商場を与えたが、その経営には夏に
大型縄綴船が1隻派遣されるにす
ぎず、陸路の通行は厳しく制限され
た。その後、商場の経営や鮭・鱒な
どの漁業を商人が請負う場所請負制
が発達し、また、江差地方の練漁が g ‘s加F
凶漁に見舞われ、和人地の漁民も鯨
を追って蝦夷地に入漁するようにな
ると、場所請負人の経営の拠点であ
る運上屋と各番屋を結ぶ踏分道が
次第にできあがった。天明のころ
(1780年代)になると北方ロシアの南
下の脅威が現実イヒし、軍事上の必要議
から岬を迂回する山道も開かれてい 耕賓 嵐、、
ったが、いずれも粗末な刈分け道路r r
にすぎなかった。
幕末期(1860年前後)には、大網
の使用が広く許されて、西海岸各地
で練が大量に漁獲され、締粕や身欠
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倶知安」一 ‘夢 、
恵山岬
津軽海峡
今.
園 -1 にしんのみち(江差~小樽~稚内)
82
練などが本州各地に送られた。これらの輸送に従事したのは、北前船と呼ばれる大型和船であ
り、明治期になると汽船ゃ鉄道も利用された。それにともない沿岸に点在する練漁の集落と、港
や最寄の停車場との道路の整備がすすめられた。
しかし、道路交通が漁獲物の主要な輸送手段となることはなかったので、道路の整備が遅れ、
戦後になっても、海の荒れる冬場には、全く交通手段を持たない 「陸の孤島」と呼ばれる集落も
少なくなかった。西海岸の道路が本格的に整備されるのは、昭和30年代も半ばを過ぎて、モータ
リゼーションが急速にすすんでからである。
第2 節 蝦夷地、和人地の境をこえて(江差~島牧間)
1 .幕府巡見使と熊石番所の設置
寛永10年(1633) 7 月9 日に大名分部左京佐光信、使番大河内平十郎正勝、書院番松田善右衛門
勝政からなる幕府巡見使一行が福山に到着した。前年に二代将軍秀忠が退隠し、家光がその跡を
継いだのにともない、諸大名の政治を監察させ、幕府の権威の強化をはかったものである。
一行は、西は乙部‘瀬茂内、東は潮泊・石崎まで視察し、 7 月26日に福山から小泊に向けて帰
帆している。巡見使の派遺がきまると、松前藩では、酒井伊兵衛広種を監使とし、高橋儀右衛門
をして巡見使が回る東西の行程をはからせた。乙部・瀬茂内、潮泊。石崎は、馬足の通じる東西
の限りであったという。江差から乙部・瀬茂内までの区間に馬足の通じる道があったことになる。
この時期の松前藩では、いまだ和人地、蝦夷地の区別がなく、夏期になるとアイヌの人びとが
縄綴船に乗り、車櫂と莚帆をあやつって福山城下に渡来し、浜辺に仮の丸小屋を建てて住み、蝦
夷地の産物の交易にあたっていた。 そのため、巡見使を迎えるにあたっては、巡見使が回る藩領
域を確定しなければならなかったであろうし、キリスト教の弾圧、鎖国体制が強化されつつある
状況下においては、和人の居住しない地域を幕府にどう説明するかは、頭の痛い問題であったに
ちがいない。蝦夷地と和人地を区分し、その境界の熊石に関所を置いた時期については定説はな
いが、この巡見使の来藩にその契機をもとめるのも有力な説である。
松前藩は、翌々年の寛永12年(1635)には、村上掃部左衛門に蝦夷島の巡回、いわゆる「島めぐ
り」 を命じ、地図を作成させているが、これは、それまでの城下交易をやめ、蝦夷地と和人地の
通行を制限し、蝦夷地内にアイヌと交易する場所である商場を設け、それを俸禄として上級家臣
に与える商場知行制に移行するための動きと考えられている。寛永20年(1643)の西部島小牧のア
イヌ・ヘンナウケ、寛文9 年(1669)のシャクシャインの連続するアイヌの蜂起には、城下交易が
廃止され、蝦夷地内に縛りつけられたアイヌの人びとの不満が底流にあった。シャクシャインの
蜂起に際し、津軽藩の隠密船が西蝦夷地のアイヌから得た情報の中に、 「松前え我等事参候事も
かたく御法度に被仰付候得は、皆々狄共謁申候ニ付、とてもケ様の被成方にては行さきつづき申
間敷と…余り迷惑に存、与市の大将チクラケ七十あまり候得共、御訴訟のため、又当御代御目見
仕度存候て松前え参候得は、御法度の所え参候とて、首を切、髭を切とて、色々御せめに逢い、
83
漸々命たすかり罷帰、其節面目なく存、蝦夷促し軍仕筈に御座候へとも、仲間より異見申候ニ付
堪忍仕罷在候」とか、 「節木内より上国の狄共御近所え御寄不被成候故渇命に及候」 とあり、 ま
た、アイヌの人びとが、 「何とぞ前々の様に罷成候得は、松前迄狄共参候様に被成被下候はば、
左様の事仕間敷」 と訴えているのは、このことを如実に物語っている。
巡見使は、ほぼ将軍代替り毎に派遣されている。天明8 年(1788)に松前に来た巡見使藤枝要人
らに随行した古川古松軒の記録が『東遊雑記』として残っている。この時も巡見の範囲は、西は
乙部村までで、寛永の時と変らない。
『東遊雑記』に、 「乙部浦、百軒余の町にて漁士ばかりの町なれども家居あしからず。この地
においては先例ありて、蝦夷人御巡見使御三所へ御目見に出ずることなり」 とあるように、乙部
村まできてアイヌの人びとのお目見えを受けるのが定例となっていた。この時も久遠、太櫓、瀬
田内の乙名など14人が乙部村にきて、藤枝要人、三枝重兵衛、川口久助の3 人からなる巡見使に
あい、酒を賜り、鶴の舞、弓矢の術、シナ打ちなどを見せている。
幕府は巡見使の下向にあたって特別なことをしないようにと達していたが、藩側では領内の百
姓を動員して準備をすすめた。道路の清掃や普請は特に念入りにおこなわれた。巡見使の廻る西
は乙部村から東は銭亀沢(黒岩)に至る和人地東西の道路は、これによって整備がすすんだと思
われる。
2 .太田山参詣と帆越ごえ
太田山権現は、西蝦夷地太田山にまつられ、東蝦夷地の有珠善光寺如来堂と並び称される霊場
である。松前藩は、蝦夷地にみだりに入ることを禁じていたので、回国巡礼者や山伏は、ひそか
に参詣したといわれる。寛文年間(1660年代)に渡来し、各地に鉈作りの仏像を残した円空も、
太田山より有珠に至る蝦夷地を巡拝している。寛政元年(1789)に文人菅江真澄が、太田山参詣し
か日寺には 岸を登るかめに鉄鎖が設けられ!参籬者のために、鍋、枕、火打ちなどが備えてあり
相当な参詣者があったことを物語っている。
菅江真澄の太田山参詣の道中を、その紀行文「えみしのさへき』でみてみよう。寛政元年4 月
20日に超山法師と同道で生符の下国季豊邸を出発した。陸路を江差まで行き、 4 月28日便船をえ
て江差津花から出帆、相沼の浦の阿部某に宿り、翌日再び船で熊石を過ぎ、和人地と蝦夷地の境
であるイナヲ崎をめぐり、クドウの運上屋に泊まった。翌30日太田まで便船を得、帆越岬をめぐ
り、上陸して太田山に参詣し、太田の運上屋に泊まった。
帰路は陸路をどっているので、蝦夷地と和人地の境の山道の様子を詳細に伝え〔いる。 5 月I
日に太田の運上屋を出発し、いよいよ帆越ごえにかかった。
夜明けの海上を左方(右方か)に見ながら山にわけいる。いわゆる帆越ごえである。この
山一帯は篠竹ばかりが生い茂って、行手を見わけることもできず、おおよそそこと心あて
にかきわけて行くと、袖はあさ露にすっかりぬれてしまった。相泊という磯辺にくだると
丸小屋がひとつ造られてあるのは、木樵がこの山路にはいって仕事をするために設けたも
84
小田
白糸岬」
茂津多岬
ご
日畳部岬
尾花岬
▲天狗岳
太田
帆越岬司
虻
三本杉岩
切梶
良瑠石
’ぢ
轟山
冷水
賀老
川上
丹羽
若松
沢
原歌
太櫓越峠
宮
メ
今金
至寿都
湯ノ沢
老
プ岳
ト‘撫.見市
至江差
至訓縫
八
図2 -2 昭和初期の主要な道路(熊石~茂津多)
のという。… 幌島、添泊、不毛地と
すすみ、無水という崎の、岩がたくさ
ん立っ.ているところをたどり、ここか
らうたづたいに行けと、浦の人が道を
教えてくれた。うたとは、すべて崎か
ら磯つづきの砂浜をもっぱらいい、奥
蝦夷の海岸のところどころにたいそう
多くある。小うた、あとろしをへて、
くどふにきて、運上屋のあるじ、厚
谷、下国などという人々と語らいなが
ら、ここに泊まった。
帆越岬という名は、船がここを通る時に帆
を下げ、太田山を拝していく習慣があったこ
とに由来するといわれている。帆越岬を迂回
する山道は、篠竹をかきわけてたどらねばな
らない粗末な道だったのである。 2 日は雨の
ために久遠の運上屋に逗留し、 3 日にヒタカ
泊り、湯の尻、レンガヰウダ、小川尻、ウシ
ジリをへてひらたない(久遠郡平田内)に着
いた。
雨のため平田内に長逗留し、 7 日になって蝦夷地と和人地の境をこえ、道をたどって、熊石に
むけて出発した。
弓を頭にひっかけ、重そうなこも包みにイカヰフをそえて、それを背負ったアヰノが行く
ので、これで荒熊の恐れもない、さいわいな案内者だと思った。かれに行く先きの地名を
間うと、まず、寄木うた、カイドロマ、イシカイドロマ、キシノワシリ、チラチラ、あな
ま、ニビシナヰ、やげま、たきのま、タンネヒラ、ポンナイ、でけま、セキナイ、クロワ
シリ、まるやま、ビンノマ、ポロモヰ、けたけなか、熊石と指を折り数えた。 この和人こ
とばに通じるアヰノと語りながら浜路をいった。群だつ岩をわたり、谷をくだったり、高
い峰をわけて来ると、桜が咲いていた。超山法師は、よい便船があるから船路で行くとい
うのでここで別れた。
征鼓をうちながら、背負い籠に、きびの国、むさしの国と名札をさした太田山詣での修行
者ふたりと道づれになって、セキナイの山川をわたり、熊石に着いた。
蝦夷地と和人地の境の道は、磯辺の岩をたどり、峰に登り、谷に下るといった難路であったが、
アイヌの人や太田山参詣の修行者と同道するなど、かなりの利用者があったことを知ることがで
きる。菅江真澄のこの紀行をみると、当時の陸路通行の最大の障害は雨であって、小さな川もた
85
ちまち増水し、渡ることができずに、しばしば逗留せざるをえなかったのである。
3.鈴鹿甚右衛門、長坂庄兵衛の道路開削
蝦夷地を再び直轄した幕府は、場所請負人に命じて、安政3 年(1856)から5 年にかけて蝦夷地
内の道路の整備をはかった。そのなかで、蝦夷地と和人地の境である関内から西海岸を寿都にい
たる道路の整備は、江差の問屋商人橋本屋鈴鹿甚右衛門と箱館の土木請負業者長坂庄兵衛が自ら
箱館奉行に出願し、私費をもって開削した点で特異である。甚右衛門は、さきにみたように箱館
~江差問鶉山道の開削もおこなった。
江差の関川家に残っていた「定書井用留」 (「江差町史」資料・編第4 巻)中の安政3 年(1856)
2 月18日付の覚書によれば、当初は鈴鹿甚右衛門、関川与兵衛、石岡吉兵衛、村上久兵衛、京屋
亦八の5 人の江差商人と長坂庄兵衛の6 人によって密かに計画されたらしい。 その企図はかなら
ずしも明らかではない。 「近年前浜打続不漁、殊ニ度々出火ニ付市中在々小前ニ至迄追年困窮ニ
及候ニ付、全く市中一同為方ニ相成申すべき儀ニ付」 と朱書してあるので、この工事が不況下に
あった江差地方の回復につながると考えられたことは問違いない。しかし工事にともなう資材の
調達や労賃の支給による潤いが期待できたとしても、当時の道路築造による経済効果は海運に比
べれば無に等しかった。蝦夷地の管轄が松前藩から幕府に移るという転換点にあたっており、蝦
夷地を治めることになった箱館奉行がその防備のために道路の整備を急務としていたという事情
を考えると、この私費による道路開削の企図が、箱館奉行の意にそい、箱館奉行との関係を深め
ることにあったことは容易に推測されるところである。
前記の覚書には、多額の費用のかかる難工事なので、何事も寄合って腹蔵なく話し合い、智恵
をだしあって決めること、経費の節減をはかること、どのような難事があっても変心しないこと、
名誉ある大工事なので竣工のときは全員の名目で書付をつくり差出すこと、等々が決められてい
たが,どの上うな・’とがちったのでちろうか,安11:6. 年(1RcS〕1i月 V 箱館奉行所Iー提出さ4iた許
可願には鈴鹿甚右衛門と長坂庄兵衛の名前しかなかった。
願書はすぐに許可になり、同年12月には長坂庄兵衛が人夫募集の手配のために弘前に渡ってい
る。翌安政4 年正月に甚右衛門は死去したが、家督をついだ甚助(六代目甚右衛門)が引き継い
で工事の準備をすすめた。
計画によると、工事は関内~太櫓間約12里(47. 1血)と太櫓~寿都間約24里(94.2km)の2 つ
に分かれ、いずれも山中の難所に道路を開くことを主目的にしていた。準備が整い工事がはじま
ったのは安政4 年(1857) 3 月26日で、箱館奉行支配ド役山田織之助、同心粗頭折江善兵衛の検分
のもとに鍬入がおこなわれ、まず、関内~太櫓間道路の開削が関内方面からはじまった。
関内~太櫓間には、関内~太田間に帆越岬を迂回する難道、帆越越があり、太田~太櫓間には
尾花岬、日昼部岬などが立ちふさがり、日昼部(ニチュウべ)越には道らしい道もなかった。
松浦武四郎は、安政3 年に西蝦夷地新道見立のため、西蝦夷地を巡見したがその途中4 月13日
に太櫓アイヌのホンアキと和人]人をともない太田山を訪れ越前の僧宗倹にあっている。
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この模様を、武四郎は、のちに次のように記した。
左リ眼下にホグシ(小岬)、ホロホグシ(大岬)、ホツケ澗(小澗)の上を過、一歩を過
ば数仭の断崖より海底に身を沈むの嶮所也。其ホグシは帆卸の転か。此岬を過る時は必ず
帆を少し下げ太田山を拝し行が故号ると。しばし峰ま、行、太田の方よく見ゆ。是より山
の平を下る事十余町(此間山中凡三十町計、海岸境より九丁廿四間)下る。樋の沢(岩
岬)、此所ヲハナ岬と対し一湾をなす。爰に小堂を建、参詣者の籠堂とす。内を伺ふや、
一人の僧有、備前の産にて宗健(真言宗)と云よし。三、四年住て頗る土地の事に委敷故、
新道の事を談るに、左候はJ我が見込を以て開度よし言しが、其事を官に伺もせでニベシ
ナイより切上、此所え切下げしが、其功を妬みて小吏に追はれ、箱館に出来り、審に又其
事を訴えしが鎮将深く是を憐愍玉ひ、其功を賞して再住致させられける。 (時事通信社刊
『蝦夷日誌』)
恐らく、この年宗倹(宗健)は関内側のニベシナイから帆越岬を大きく迂回し、太田に下る山
道を開削したのである。 しかし、官に届出なかったため太田山を追われたので、箱館奉行に訴え
出て名誉を回復し、官より30両をたまわり、再び太田山に住したという。すなわち、関内~太田
間帆越越えは、この宗倹によってすでに開削されている。
武四郎は安政3 年(1856) 4 月13日に太田を通ってフトロ運上屋までたどりついているが、 「実
ニ是よりニツチウべ越えにて難渋致しぬ。後此事を考ぶるにクドウよりフトロ道は、彼クドウの
ウスベツより大切に致す方宜しかりしをと思ひぬ。タ方辛じてフトロ運上屋へ着したり」 (『自
筆松浦武四郎伝」) と記した。
この太田から日昼部岬を迂回する山道の開削が、関内~太櫓間12里(47. 1km)の最大の難関で
あったが、安政4 年(1857)閏5 月には関内~太櫓間の開削をおえている。武四郎が、のちに 「此
度、又是(太田) より上り、二つの峰を越てラル石(フトロ領)え山越する新道を切開たり」 (時
事通信社刊『蝦夷日誌』)と記しているように、太櫓場所の良留石に抜ける山道で、太櫓山道と
呼ばれ、明治になっても使われた。 『開拓使事業報告』に 「久遠村ョリ太田村ヲ経、太櫓村ニ至
ル七里余、太櫓山道ト称シ、天狗岳ノ嶮アリ」 と記しているのがそれであり、天狗岳を経由する
山道だったのである。
関川と長坂は、関内~太櫓間の開削をおえると、すぐに太櫓~寿都間にとりかかった。瀬棚を
すぎると狩場山地が行手をさえぎり、茂津多岬をこえて島牧の小谷石までは、幾条もの山脈が海
に落ち込む難所である。文化年間、幕府直轄の時に多額の経費を費して道路を開削している。瀬
棚から須築をすぎ、茂津多岬をこえ、床前まで切り開いて中断された。弘化3 年(1846)に武四郎
がここを通ったときには、荒廃し、あちこちで寸断されていた。松前藩が陸上交通を制限してい
たことにも荒廃の原因があったらしく、武四郎の『再航蝦夷日誌』には、中歌と島歌の間にある
「アフラ」 (虻羅)のところで、 「公料の節多くの費用を懸て有難も此処へ山越道を開き玉ひし
が、今は松前家に而此道を通る事を禁じ、夷人たりとも極々内分ニ而此処を往来させるよし也」 と
説明しており、島歌と美谷の間にある 「キリカウ」 では「是より山道スツキへ越る道も公料のせ
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つ有し也。小流有。又此処にアフラより越道も有しとかや。然るニ此間の山越と云は尋常の場所
に而は無きが故ニ、其道よく案内せし老夷どもの居る内に開き置なばよろしかるべきものをや。
今五、六年もセば此処の問、道案内之夷人もなくなりセば、西場所にして外冠これ有り候トモ何
処より注進すべけんや。海上の事は風無時わ如何致し候とも致し方無きものぞ」 と記している。
したがって瀬棚から島牧、寿都方面へは船で渡る以外なかったのである。中間には西蝦夷地三
大鹸岬のーつである茂津多岬がひかえていた。「シツキと申候処はセタナイよりシマコマキ迄の間
十一里十八丁の場所中に、モツタと申す西蝦= ニ奉- ‘ ” –
夷地三大岬の第二の難場これ有り候。此岬ヲ
堺としてセタナイの方は山瀬嵐と相成候。崎
より又北はシツ、出しと云出の風これ有り。
実に長途余程難渋の難所の由に御座候」(松浦
武四郎「燼心餘赤」)とあって、岬を境に風向
きが違う難所であり、茂津多岬を回ることが
できずに船を引き返し、何日も日和待をしな
ければならないことも稀ではなかった。
ぎ -・」.
」一 麟.-
V
敬」騎加
w -7j い )
‘
熱嘉無纛■懲
ー般国道229号瀬棚町の三本杉岩
筆
先きの幕府直轄の時にも切り開くことができなかった、この茂津多岬を迂回する須築~小谷石
間の茂津多山道をはじめ、諸所の山道を開削し、太田~寿都間の全道路工事が終了したのは安政
4 年(1857) 10月のことである。工事の模様を、高倉新一郎の「北の先覚」には、 「言語に絶する
難工事だった。人夫は津軽、江差、遠きは佐渡、越後、能登等から二百人を募集、六組に分かち
関内より寿都界まで三十六里間に一里毎に順次一組を配置し、七人の支配人をして監督せしめ、
別に百石積の帆船を購ひ、切開き工事場に米喰、器具等の物資を運搬させ、五箇所に宿舎を設
け、夜を日についで工事を急いだ。 山高く、谷深く、架橋実に四十箇所に及び、五人の死者、二
十五人の負傷者を出したほどなので、T夫の挑亡者相継I いだと叙述している^
工事が終わるとただちに箱館奉行に検分を願い出るとともに、安政4 年12月18日には甚右衛
門、庄兵衛が施主になって江差称名寺で施餓飢供養をいとなみ、死者の霊をなぐさめた。しかし、
検分が遅れ、翌春の雪解けで橋の流失、道路の決壊、崖崩れが相次いだので、破損箇所の修築を
おこない、すべての工事が終わったのは安政5 年(1858) 6 月のことである。総工費は予定の3 倍
の4 千両に達し、日数は予定の5 倍を要したという(「江差町史」通説編第2 巻)。そして関内
~太櫓間を太田山道、瀬田内~寿都問を狩場山道と称したらしく、 「太田山道、狩場山道開整図
絵」が残された。
4 .仮定県道江差瀬棚線の開通
明治になっても、長坂庄兵衛、鈴鹿甚右衛門の開削した熊石から太櫓に抜ける山中の道は、江
差と、瀬棚を結ぶ重要路線であり、郵便逓送路が設けられ、移住者や行商人が利用した。ここに
本格的な道路開削がおこなわれるのは、道庁時代に入り、仮定県道江差瀬棚線の工事が始まてとて
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からである。明治23年(1890)には熊石トンネルが開通し、江差~熊石間に車馬が通行できるよう
になり、 2 頭引の客馬車が運行したという。明治28年に着工した賀老(北桧山町字二股)~瀬棚
間の道路が明治30年に開通し、翌31年(1898)には太櫓峠を越える新道ができ、江差~瀬棚間仮定
県道工事が終わった。
太櫓峠越の新道の完成により、久遠~瀬棚間の道路事情は一変した。長坂庄兵衛、鈴鹿甚右衛
門の開いた太田山道を利用する者は激減し、 「通行するものは逓送人のみ」 (明治31年『太櫓郵
便局業務概要書』)といった状態となり、明治32年には逓送路も新道に切り替えられた。太田山
道は、草木にうもれ、現在ではたどることさえ困難になってしまった。
太櫓峠越太櫓山道は、国道229号の難所の1つとして残され、 ドライバーをなやましていた。昭
和49年に改良工事に着工するまでは、俗に 「百曲り」 といわれ、大小160箇所のカーブに、60本の
カーブミラーが立っていた難コースであった。
改良工事は、10箇年の歳月と総工費81億円をかけ、昭和58年11月に終了した。峠道9. 6kmを7. 6
血に短縮し、大成、北桧山町界には桧山トンネル(1, OlOm)ができ、車で約10分で走ることが
できるようになったのである。
5 .茂津多道路の開通
瀬棚~島牧間は、狩場山地が断崖となって日本海に落ち込み、藻岩岬、茂津多岬、白糸岬など
峻険な岬が行手をさえぎっていた。幕末に江差の問屋商人鈴鹿甚右衛門、箱館の土木請負業長坂
庄兵衛によって、茂津多岬を迂回する山道が開かれたことは、すでにみたとおりである。しかし、
平坦なのは瀬棚付近だけで、北にいくにしたがい狩場山地が行手をさえぎり、明治8 年(1875)に
開拓使が瀬棚村須築から原歌村小谷石問の持田(茂津多)山道に新道を開いたが、それも、長い
間放置されたままに残された。部落と部落を小径がつないでいるだけだったのである。
明治33年(1900)に島歌郵便局から札幌郵便局長宛に『電信事務開始調査事項調書」が提出され
ているが、その中の 「水陸運輸ノ状況」 は、島歌付近の交通の様子を 「海ハ西南ノ風ヲ受ケ、四
時波荒クシテ、江差港ョリ寿都トノ中央ニ位シ、其ノ距離ハ何レモ参拾里内外ニシテ、舟楫便ナ
ラズ陸ハ海浜ヲ通ズー條ノ線路アルモ鳥道トー般ニシテ未ダ道路ト称スベキナク」 と、海陸とも
交通が不便であり、陸路にいたっては 「鳥道」 と同じであるとしている。明マ台23年(1890)以来、
村民が労力をだしあい、あるいは巨額の義金を投じて数箇所の隧道を開削してきたが、この時期
にいたっても、風波のある日は、潮水が行人の足を洗い、水産物はもとより、日用品にいたるま
で、風波静穏な日を待って小船で運搬しなければならなかったという。
さらに本村島歌村より茂津多岬寄り、獅子岩をこえて1里20余町(6. 1血)ほど離れた美谷では、
「一朝暴浪怒意ヲ呈シ、朔風波ヲ蹴ツルノタハ、通行頓ニ絶ヒ、時ニ貴重ノ生命ヲ海藻ニ化スル
ノ不幸亦尠シトセズ」 という道路が本村との問にあるだけで、特に桐勝より字横滝に至る間がひ
どく 「僅力ニ岩石ノ穴部ヲ伝ヒス往来ノ便ヲ保持スルノミ」 という状況であった。そのため学令
期の児童を日々安全に通学させることができなかったので、部落の人びとが協議し、許すかぎり
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の私財を投じ、明治21年(1888) 7 月に私立校舎を創立し、児童を就学させている。 (明治26年3
月1日「美谷貯金創立旨意」)
また、瀬棚郡の最北端に位置し、茂津多岬を境に島牧村に接する須築は、藻岩岬と茂津多岬に
囲まれた摺鉢底状の地域に形成された集落で、明治35年(1902)には82戸、482人を数え、練漁期に
は2,000人以上の入稼人があって、一市街の戸口を凌ぐ状を呈したというが、陸路はないに等しか
った。本村島歌村に達するために越えねばならない1里余の藻岩の山道は、 「実に巍峩タル山脈
重畳、其険侵ス可カラズ。ー歩ヲ誤ラバ渓谷ニ生命ヲ害フニ至ル。如何ニ巨萬ノ費ヲ投ジテ開鑿
スルモ到底車馬ノ通行ハ夢想ダモ視ル不能。旅人ハ僅力ニ渉歩スルニ不過。為メニ道路ハ人跡ヲ
踏マザルノ結果、鬱叢タル雑草、繁茂セル篠竹等ノ密生シ、自然道路ヲ閉塞シ‘漸一、二尺ノ道
路形ヲ存スルノミ」 と表現され、島牧村に通じる。さらに峻険な茂津多山道については、 「超コ.
ルニ竹笹等ノ密生シタルケ所ニ於テハ立脚ノ儘通過出来ザルケ所数丁、匍匐行程数丁、人家ノ絶
テナキ四里強ノ道路ヲ径行スルノミ。又以テ困難ノ状察スルニ難カラズ。羆熊ノ巣窟跋渉常ニシ
テ、其危険極リナシ。為メニ旅人ノ多クハ海路ヲ取リ、山道ヲ通過スル者ナキガ如シ」 と述べら
れていた。 (明治35年瀬棚村大字島牧村字須築「郵便、切手受取所設置請願書」)
この「巨萬ノ費ヲ投ジテ開鑿スルモ到底車馬ノ通行ハ夢想ダモ視ル不能」とされた地に本格的
な道路工事が始まるのは、戦後も昭和35年(1960)になってからである。
桧山管内瀬棚町と後志管内島牧村を結ぶこの路線は、道路法、北海道道路令の施行にともない
大正9 年(1920) 4 月1日付で認定された地方費道札幌江差線に属し、戦後、昭和27年の新道路法
の制定にともない昭和28年5 月に二級国道小樽江差線となり、さらに昭和40年4 月の道路法の改
正でー般国道229号(小樟~江差)と変わった。そのうち瀬棚と美谷間は、次第に道路の改良がす
すみ、昭和25年から函館バス株式会社によって東瀬棚~美谷間にバスが運行された。残された瀬
棚町美谷と島牧村第二栄浜を結ぶ14. 8kmは、長い間不通区間のままで、地図の上だけに記されて
いる 「幻の国遭」 の・一つであノた。
美谷と第二栄浜を結ぶ茂津多道路の工事は、昭和35年に美谷側からはじまり、ついで昭和41年
には第二栄浜側から工事にとりかかった。
- 8畑のうちトンネル、覆道、海岸擁壁が10血も続いている。荒波の間隙を続けられた海岸擁
壁工事や断崖の壁面に宙吊りになっておこなわれる落石防止網の取り付け作業など難工事が連続
し、工事のスピードアップを図るために海上からブルドーザや建築資材の陸上げもされた。茂津
多の海は、 9 月を過ぎると様相をかえ、しけの日が続いた。断崖にへばりつくように建てられた
作業員宿舎では、便船も途絶え、簡易電話までが断線して全く孤立することさえあったという。
天候が回復しない場合には、生鮮食糧品を供給するために食糧運搬班が編成され、明治8 年(1875)
に開拓使によって開かれた途ぎれ途ぎれの山道をたどった。 (「北海道道路53話」)
昭和49年(1974)に最大の難関であり、1, 974 mと当時全道最長を誇った茂津多トンネルが完成し
たが、その後、政府の総需要抑制政策のあおりを受けながらも、昭和51年に完成し、同年11月6
日盛大な開通式がおこなわれた。当日は、美谷と第二栄浜の両地点で工事関係者がそれぞれ開通
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式をおこなったあと、瀬棚町と島牧村の境界である茂津多トンネル入口(島牧側)で合流、北海
道開発局長、瀬棚町長、島牧村長の3 人がテープカットをおこなった。
着工から16年間、13のトンネルの延長は5. 7km、総事業費は117億8, 700万円にのぼり、最新の技
術を駆使した質の高い道路である。
この道路開通により、瀬棚~札幌間が200kmで結ばれ、従来の長万部回りと比べると距離にして
50血、時間で1時間短縮され、単にこれまで隔然とされてきた後志と桧山が結ばれるだけではな
く、函館経済圏に依存してきた桧山が道央圏と直結することによる経済効果と、函館から海沿い
に小樽に達する広域観光ルート、いわゆる 「日本海追分ソーランライン」が切れめなくつながっ
たことによる観光開発の進展に期待が寄せられた。
第3 節 千石場所の道(島牧~小樽)
1 .島牧~寿都間道路
昔、瀬棚方面から船で茂津多岬をまわって入った島牧は、江戸時代には島小牧場所といわれ、
松前藩が支配していた時は家臣並川氏の知行所であった。天明・寛政期(1790年前後)に和人地
鰊漁が皆無同然の大凶漁に見舞われると、松前藩は、和人地漁民の蝦夷地入漁を許可した。入漁
者は漁獲練の二割を場所請負人に納めたので、これを二八取漁業と呼んでいる。 当初は期限を区
切っての許可であったが、やがて恒常化し、多くの二八取漁民が茂津多岬をこえて、島小牧から
歌棄、磯谷辺に、さらに積丹半島の神威岬をこえて忍路、高島から小樟内場所まで続々入漁した
ので、この地帯の練漁獲量は著しく上昇した。江差追分に、 「忍路、高島及びもないが、せめて
歌棄、磯谷まで」 とうたわれた練千石場所の形成である。その意味では、島牧(島小牧)は、千
石場所の入口にあったということができる。
しかし、陸路の面からみると狩場山から流れる幾条もの山脈が行手をさえぎり、寿都から伸び
てきた道路は、小谷石(小田西)で行き止まりである。島牧はいわば陸の袋小路であった。小谷
石は茂津多山道(持田山道)の登り口にあたっており、ここから瀬棚方面に向かって、荒廃し、
通る人も稀な山道が途切れ途切れに通っていたことは、前節でみたとおりである。
この状況を、明治30年代初頭に北海道庁によって実施された後志国島牧郡の殖民状況調査(北
海道立図書館所蔵河野常吉資料『北海道殖民状況報文、後志国』所収)には、
駅路ハ寿都郡ョリ来リ。屈曲ナシテ海岸ニ沿ヒ原歌村小谷石ニ尽ク。寿都市街ョリ本目村
ニ至ル四里間ハ目下新道開鑿中ナレバ、成功ノ上ハ車馬ノ往来自由ナルベシ。本目村以西
ニ至リテハ、或ハ岩礁ノ間ヲ伝ヒ、或ハ山腹ヲ攀チ、加フルニ各川流ハ渡船ニ由ル。甚ダ
困難ナリ。郡民遂ニ此苦痛ニ堪へ難ク、一昨年来継続事業トシテ道路開鑿費ニ巨額の金ヲ
寄附シ、之レニ国庫金ヲ加ヘテ道路改築スル事トナリ、現今永豊村以西ハ測量中ナリ。原
歌村小谷石ョリ瀬棚郡ニ出ズル持田山道ハ、明治八年開拓使茲ニ新道ヲ開キタルモ、其後
二十数年間今日ニ至ルマデ…回ノ修繕ヲ施サズ。今ヤ榛莽范々トシ旧形ニ復シ、之レヲ通
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ズル能ハザレバ、岬頭天気ヲ候シテ僅力ニ漁舟ニ賃シテ海上ヲ渡ルヲ常トス。然レドモ漁
夫ノ快ク之レニ応ズルモノ少ナク、賃金ノ如キ僅々二里余ノ海程ニ二円余ヲ払ハザル可ラ
ズ。原歌郵便局ノ郵便物ハ原歌、瀬棚両郵便局ノ距離十三里余ノ間、ーノモッタ岬ノ為
メ、四十里余ヲ迂回シテ寿都、長万部ヲ経、利別山道ニ由テ瀬棚局ニ達ス。又沿海十六
里ノ間船舶ノ碇泊スベキ港湾ナク、海産物収穫ノ時ニ於テ時々原歌、永豊ノ沖ニ和船来泊
ス。又函館、小樽通ノ汽船原歌村ノ沖ニ懸リ、貨物、旅客ヲ出入スル事アレドモ概ネ夏季
ニ限リ、冬季ハ殆ンド運輸ノ途ヲ杜塞シ、往々貨物ノ欠乏ヲ訴ヘリ。郡民ハ川崎船ヲ以テ
海上平穏ノ日ニ寿都港ニ往復セリ。蓋シ海陸共ニ運輸交通ノ不便ナルハ本部ノ発達ヲ妨グ
ル事少カラズ。
と記している。明治31年(1898)から寿都~島牧間の海岸道路工事がはじまった。まず、寿都~本
目間の車馬道工事がおこなわれ、多額の寄附金をえ、それ以西にも継続事業として工事がすすめ
られた。昭和3 年(1928)には、札幌自動車合資会社が寿都~原歌間にバス路線を開業した。
2 .雷電山道の開削
文化、文政期から天保期(1800- 1840年代)にかけて、鰊漁業、とりわけ二八取漁業が発達す
ると、早春に西蝦夷地に稼ぎに入る和人が増え、これにともない茂津多岬の嶮をさけ、陸路を
とるものも多数にのぼった。 『湯浅此治日記」 (『松前町史』史料編第2 巻)の弘化元年(1844)
12月13日の条にみえる 「西蝦夷地え練漁出稼のためヲシャマンべ山越陸通行いたし候者」 につ
いての上申書によると、年間2, 500人程で、箱館町々より500人、箱館付在々および六カ場所より
1, 000人、城下および城下付在々より300人、残りが江差および江差付在々である。
山越えして蝦夷地と和人地の境である山越内の関所で改めをうけ、長万部、黒松内を経、ヲム
ナイで別れて、寿都、島牧方面へ、あるいは磯谷、歌棄から岩内方面にむかったのである。
この長万部から黒松内を経る道を黒松内越と称した。第ー次幕領期の頃I寛政11年~文政4 年
= 1799- 1821)には、黒松内に礼文華のアイヌのヲベフキが1 人住んでいて往来する者を木賃に
て泊めていたというが、その後、天保2 年(1831)には、松前城下の利右衛門がアイヌのエヒソ、
ラムカクシ、シネハンコといっしょに、谷地に木を並べ、川に橋を架けるなどして道路の手入れ
をおこなった。そして、幕府が再び蝦夷地を直轄すると、安政3 年(1856)には黒松内越に車馬の
通じる新道が築造された。長万部~黒松内間は、中の郷の源兵衛、千代田の才兵衛、一本木の新
兵衛、庚申堂の儀兵衛という箱館在の4 人が箱館奉行に出願して築造した。
3 .黒松内山道の開削
この道筋には、多くの川があったので、往来する者から途中の栗木岱で1人につき114文づつの
橋銭を取り、新道築造の費用にあてたという。 (『蝦夷日誌』時事通信社刊)黒松内以西、歌棄
場所のヲショロ(潮路)までの4 里(15. 7km)の山道はのちにみるように佐藤定右衛門、栄五郎
父子が自費で切開した。
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本来、蝦夷地に和人が永住することは、固く禁じられていたのであるが、二八取漁業が盛んに
なると、和人地前浜練の不漁を理由に島牧・寿都から積丹岬までの間に定住するものがあらわれ、
特に天保の飢饉を境に急増し、松前藩も、これを黙認しなければならなくなった。
新設の箱館奉行は、安政3 年(1856)に支配組頭らへ蝦夷地移住者を永住させるよう留意するよ
うに指示するなど、当初より和人の蝦夷地定住を促進させる方針をとっていたが、安政4 年2 月
には、オシャマンべより西蝦夷地への新道、いわゆる黒松内越が竣成したのを機に、新道近在で
の田畑開発、旅篭渡世、木賃宿経営を許可し、さらに文久元年(1861)には東蝦夷地ヤムクシナイ
での旅人改めを廃止し、蝦夷地往来を自由にした。
一方、歌棄、磯谷から岩内への陸路は、雷電山からの山脈が断崖となって海に落ち込み、雷電
岬をなし、行手をさえぎっていた。弘化2 年(1845)に、ここを通った松浦武四郎は、 『再航蝦夷
日誌」のイソヤの項で、 「ヲタスツ従リ壱里廿七丁、余ハ此間を陸通り越たり。道随分よろし。
此村よりイワナイへ雪路山越道有るよし也」 と記し、シリベツ川口では、 「此川恐らくは東部よ
り見ゆる羊蹄山より落るが故此名有るかと思わる。川幅凡八十間と聞り。舟渡し也」とし、また、
「此川傍より雷電越と伝をしてイワナイへ越る道有と」 と述べている。さらに雷電岬の方へ進む
と、セウツカにも、イセハチトマリにも雷電越の道があった。イセハチトマリの項で、 「此処よ
りイワナイ越は夷人どもも冬分雪路を越るに一日か、るよし也。其余は通ふものなし」 と述べて
いるように、どの雷電越も、冬の雪路を利用したり、尻別川の支流、その他の小河川の沢目を利
用した踏分け道で、緊急時にしか使用されない難道であったらしい。
海岸沿いの道は、カモイシリハで切れ、磯谷と岩内の場所堺は、さらに雷電岬に寄ったアブシ
タであった。この海岸沿いに道ができるのも安政3 年(1856)である。この年は蝦夷地の各場所の
場所請負人に場所内の道路の整備を命じたが、この雷電山道の開削もそのーつであった。歌棄・
磯谷の場所請負人であった佐藤定右衛門、栄五郎父子は、黒松内山道とともに、磯谷場所のノッ
トから岩内場所界のアブシタまでを開削し、アブシタから雷電岬をこえて岩内にいたる道を岩内
場所の場所請負人である仙北屋佐藤仁左衛門が開削した。
松浦武四郎が「安政丙辰四月廿六日、磯谷より隊長(向山)に別れ、土人二名(スイド、サケ
ノカロ)、和人(庄内塩越村常吉、松前富次郎)を召集出立、ヲタノシケ(イソヤ従リ凡ーリ)
より右山に入、カモンナイ(小川)を上る。是今の新道より遥に上也。按に今の新道は冬分風強
く吹拂て通り難からんと思ひ、余が見込は大いに異り、是れ従り凡拾丁も上也」 と記しているよ
うに、武四郎の見立とはちがって海岸に近い峻険な箇所に新道がつくられたのである。北海道開
教のために、北海道にわたり各地で道路開削などに従事した東本願寺法主現如上人の一行も明治
3 年(1870) 7 月に、この雷電山道を通っている。この現如上人一行の事蹟を顕彰した錦絵が残さ
れているが、その中に三世広重の作とされる 「雷電越の危難」と題する1枚が残っており、解説
に 「雷電越は西地第一の嶮山なるが、此処も新道開け、今度この桟道にて荷負える馬谷底に転び
しが、何の怪我もなかりし」 とし、北海道人、すなわち松浦武四郎の 「あかつきの峯の谷間も御
仏の、みな御光明のうちにぞありける」 という歌が記されている。真に断崖につけられた桟道で
93
あって、非常に危険な道だったのである。
4 .雷電国道の開通
明治4 年(1871) 3 月には雷電越荷別内より磯谷郡浜詰までの路傍の竹木の伐採に着手され、同
年3 月には、斗南藩が歌棄山道の修補を官に請い、許されている。黒松内山道も長万部の名主弥
兵衛などに請け負わせて、明治4 年から5 年にかけて、橋梁の架設や道路の修理をおこない、明
治10年(1877)には、農学校雇土木学士ウィリアム・ホイラーの地形踏査にもとづき、将来、車馬
道となすことも、あるいは鉄道を敷設することも可能なように路線を選定して改築に着手し、同
年12月に竣工した。道程7 里11町8 間(28. 7km)、 道幅2問(3.6m)で、ドッタ、湯別、二股な
どの諸川に26箇所の板橋を架け、土木学士および官吏の費用をのぞき、 3 万4,694円余を要した。
旧道に比べれば里程を短縮し、かつ平坦になったという。
明治35年(1902) 6 月から函館~小樟間北海道鉄道の工事がはじまり、明治37年10月には全線が
竣工し、島牧・寿都・磯谷・歌棄方面の客貨は北海道鉄道の各駅に集中し、これにともない海岸
線とこれらの各駅を結ぶ道路も整備されていった。大正7 年(1918)編の南尻別村の「村沿革誌」
(「蘭越町史」昭和39年刊所引)には、
明治37年、函樽鉄道ガ本村ノ中央ヲ貫通スルモノ、誠ニ本村勃興ノ気運ヲ促進シタルモノ
ニシテ、爾来、移民年歳増加シ、人貨ノ呑吐、日ヲ追フテ繁劇ニ趨クノミナラズ、歌棄・
磯谷ノ人貨モ亦本線ニ集中シ、本村ハ真ニ磯谷・歌棄両郡ノ集散地トシテ許ルスベキニ至
ル。其線路延長十四哩余ニシテ置タルモノ四カ所、昆布・蘭越・目名・上目名ニシテ、各
商賈連担シ、往来絡繹タリ。特ニ蘭越ニハ磯谷村ョリノ定期馬車アリテ、乗客ノ送迎至便
ナリ。
とあって、蘭越~磯谷間に定期の客馬車が走っていたことを知ることができる。大正期には、そ
のほかにt 磯谷~寿都間、磯谷~黒松内問、あろいけ各鉄道駅を起点l-客馬申、客’f II シ営t,者
が少なくなかった。
また、寿都~黒松内間寿都鉄道が大正9 年(1920)10月24日に開通し、昭和に入ると、寿都、島
牧、磯谷、蘭越などを結ぶバス路線も充実していった。しかし、海岸道路は、雷電岬にさえぎら
れ、車馬はおろか、わずかに危険を冒しての徒歩による通行が可能な程度で、岩内方面との交流
は全くたたれていたといってよい。
雷電山道は、明治17年(18別)に札幌農学校教師ホイラーが実測したことがあり、昭和17年(1942)
にも実測を完了し、着工間近かであったが、第二次世界大戦のため日の目をみなかった。戟後、
寿都、磯谷、島野、岩内の関係町村の総意で、雷電道路開削期成同盟会が結成をみ、強力な請願、
陳情運動を展開した結果、昭和26年(1951)から着工した。
この工事は、岩内~磯谷間の山道を廃止し、新らたに海岸道路を掘削するもので、当初計画で
は、総工費7 億円余、各年継続事業とし、昭和37年(1962)竣工の予定であり、昭和26年10月1日
盛大に起工式がおこなわれた。
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工事は岩内側の敷島内を起点として、磯谷方面にむかって進められ、昭和27年(1952)に敷島内
トンネルが完成、昭和31年には、難関のーつであったビンノ岬トンネルが完成、昭和33年には樺
杣内トンネル、鵜の岩トンネルが完成した。昭和33年度迄に全体の25%が完了したが、地元民の
早期完成の要望が強く、昭和34年から工事の終点である磯谷側の磯谷橋からも工事がはじまった。
昭和36年、には弁慶トンネル、雷電トンネル、磯谷トンネルが完成し、湯内川橋と雷電橋の架設を
おこなったが、弁慶トンネルの施工にあたっては、現場が道路から孤立していたため、資材や器
材などの運搬を舟に頼らなければならず、困難をきわめたという。昭和37年には2 億円の巨費を
投入して工事を急ぎ、敷島内、ビンノ岬、鵜の岩、刀掛、イセバチの各トンネルを完成させ、翌
38年10月をもって工事を終え、雷電国道の名で親しまれることになった。
道路の延長は、13.14km、この短い区間に13年にわたり、8 億3,000万円をこえる事業費が投入
され、 9 箇所のトンネルが掘削された。工事関係人員は延べ48万人で、 トンネルなどに使ったセ
メントが1万5, 000 t 、道路開削にともなう石垣ゃ擁壁などに要した雑割石13万個など膨大な資
材を投入、切盛土は29万言にのぽった。
この道路は鉱山資源や林産物などの開発に寄与する産業道路として期待されたが、刀掛岩など
の海岸線の雄大な景観が昭和38年(1963) 7 月24日にニセコ・積丹・小樽海岸国定公園に指定され、
道路開通直後から雷電温泉の整備がすすみ、旅館がたちならぶ北海道では珍しい海岸温泉郷とな
るなど、観光道路として重要な意義を果たした。
5 .余市山道の開削
雷電岬をめぐると往時の岩内場所である。弘化3 年(1846)にここを訪れた松浦武四郎は、その
中心地の繁栄を
ホロレウケ、二八小屋多く七連多しと聞り。越て浜中。此辺り凡毎年人間三千人斗ヅ、入
込候由。其帳面前三千人ならば凡隠れもの又三千人も有る也。是にて此処の繁華しるべし。
七連、按摩、髪結床等有。其餘また小間もの店も有る也。別而此処は七連多しと。此先フ
ルウ場所は小場所にし而二八小屋少き故ニ七連もなし。又ヲカムイを越ると女は居らざる
が故に、皆フルウ、シャコタン辺の船此処へ入れて遊ぶが故ニ此処のにぎやかなること実
に筆状しがたし。 (『再航蝦夷日誌』)
と記している。まだ表向きでは和人の定住が許されていない時代であり、定住者はきわめて少な
く、多くは春の練漁中に出稼にくる人々であった。七連(ナナツラ)というのは、売女のことで
あって、 「是は、箱館在中、又江差辺より皆眺漁事の最中出稼ニ至る。七連の名は眺の茅に貫し
を七連ニ而一夜の花代と定めしなれば也。扱其一連と云は五十尾ヅツを一連と云也。又一懸と云
は十尾を貫きしなり。其五懸を一連と云。是等のことによく弁え閲玉ハバよろし。扱然るに而は
中々来らで金仁朱、又漁猟いそがしき時は一貫文位ヅツもとること也。凡此女二月彼岸過ニ此処
に来り、六月迄ニ弐十七、八両、三十両ヅツもとり帰る也。決而よきあしきの分ちはなし」 とあ
るように、一夜の花代が七連、すなわち鰊350尾であったところからきている。神威岬を界に女人
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禁制であったので、シャコタン辺の船も岩内に停泊して遊ぶために、岩内はこのような歓楽の
街になったのである。
神威岬については、松浦武四郎の『再航蝦夷日誌」に、
ヲカムィ。訳し而神岬也。此処、西部蝦夷地の三大岬にして甚の難場なり。岬より凡三百
間も海中ニ高五丈も有べき、法師の帽子を着せし如き形ちの岩石有。此近くニ来るや波浪
荒く其崎ニ打当り、涛砕けて烟霧の如く水主船方迄も着きの、ひたしたる位也。扱其処に
到るや夷人どもは木幣を取出して嬬々と唱言をして其神厳ニ手向て此処を過ける。(中略)
此処迄人間共女を連行とも、是より奥ニは堅く女を禁ずる也。若し又隠して彼地に携行と
きハ大颶にて船を没却すると云伝ふ也。若又東部より石カJ 越して連行時は、彼地大風雨
のするよしニ而夷人ども甚是を製セリ。又長く風雨のつづく時は女狩りとてヲタルナイ、
タカシマ等の二八小屋多き処をせんさくする事也。故に此処より奥女人一人も居ることな
し。
とある。神威岬は西蝦夷地三大岬のーつであり、アイヌの人びとは、舟でここを通過する時には、
イナウをささげて祈るという。神威岬より奥地に和人の女性を入れないのは、アイヌの人びとの
間に、和人の女性を舟にのせて神威岬をこえると、大風が吹いて舟を沈没させると言い伝えられ
ているからだとしているが、舟に女性をのせて難所をこえると沈没するという習俗は、和人の船
乗りにも共通する。神威岬より奥地に和人の女性を入れないのは、松前藩の政策ともかかわって
いるのかも知れない。いずれにしろ、この時期のアイヌの人びとが和人の二八小屋を襲い、和人
女性をさがすなどということができたとは到底思われない。ひそかに山路を越る和人女性も多か
ったであろう。
神威岬が難所であるのは、波浪が荒かっただけではない。文化4 年(11807)の田草川伝次郎の
『西蝦夷地日記』に、 「ヲカムイ崎、西地第一之難所にて崎迄はシリベツ出し之風東南より吹、
崎より上之方イシカJ 物と唱、向ふよh 風吹来由l一而、向風強時は船進退成り難きよtー 之れに
依り通船至而日和待等之れ有るよし」 とあるように、岩内方面から 「シリベツ出し」 という東南
の風にのって出船しても、岬をこえると 「イシカ,物」 という向風が強く吹く場合が多かったか
らである。
岩内のアイヌは古くから堀株川をさかのぼり、岩内と尻別の分水嶺である稲穂峠(現在の倶知
安峠)を越て倶知安原野のソウズケに鮭漁にでかけていたし、あるいは、これから分岐して岩内
場所と余市場所の界である、もうーつの稲穂峠(現在の稲穂峠)をこえて、余市場所に通じる山
道も利用していた。両稲穂峠の山麓附近が、アイヌ語でルベンべ(路)、サクルベシぺ(夏の路)
と呼ばれているのは、そのことを如実に物語っている。
積丹半島の西の付根の岩内場所と東の付根の余市場所に本格的な山道が開かれるのは、文化年
間のことである。文化3 年(1806)に松前藩が支配していた西蝦夷地の様子を知るために、幕府目
付遠山金四郎、勘定吟味役村垣左太夫が福山から西蝦夷地を巡見しているが、その時の日記(『遠
山‘村垣西蝦夷日記』)に次のように、余市山道の開削の必要性がとかれている。
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シリフカ川、幅十間計。川端に鮭の漁小屋これ有り。年々猟事多き場所に御座候由。此沢
合より山河を越、ョイチ場所え向道これ有り候由に付、相糺させ候処、春の内雪積候節は
蝦夷人通行仕候へ共、雪解の頃より秋迄は岩根伝ひの道も之れ無く、蝦夷も往来仕らず候
旨に付、今般支配向き、並吟味方下役共山路分試仕らせ候。右山越の道出来仕候得ば、ヲ
カムイ崎と申候西地第-ー難所の患も之れ無く、其上日合も掛り申さず、旅行相成候に付、
追ては新道を開き然る可き場所に御座候。
すなわち、部下に命じて、アイヌの使用していた路を実際に踏査させ、新道の開削を提唱した
のである。
文化3 年(1806)のこれら幕吏による福山、西蝦夷地巡視の結果、松前藩の西蝦夷地統治能力に
疑問が生じ、翌4 年幕府は松前藩を転封し、全蝦夷地を直轄し、ロシアの南下に備え、西蝦夷地
の警衛を強化した。遠山、村垣の提唱した余市山道の新開も、文化6 年(1809)に岩内場所請負人
菊池新左衛門、古宇場所請負人福島屋新左衛門、余市場所請負人柏屋喜兵衛の3 人によって実行
に移されている。
当御場所(岩内)より余市越の処は、文化六年六月高島御詰合木原半兵衛殿、当所(岩内)
請負人南部大畑菊池新左衛門、古宇請負人松前町福島屋新左衛門、余市請負人柏屋喜兵衛
へ仰付けられ候。三場所より夷人共十四人宛、番人壱人宛附添、山道御切開遊ばされ候。
菊池新左衛門よりは二葉松六百本、杉苗六百本を植付、岩内領「シリフカ」川源「シャマ
ツケナイ」え止宿所取立、四季共往来絶えず之れ有り候処に御座候得共、近年夏分は笹も
道え生立候。自然道筋狭く相成候に任せ、当時にてはほとんど道形斗りに相成候。愈旅人
往来も夏分は相絶、唯秋冬春のみならで通行仕らず候由承り申候。 (『燼心餘赤』)
と、安政3 年(1856)に新道見立に、岩内に逗留した松浦武四郎が記しているように、幕命により
高島詰の木原半兵衛が指揮をとり、関係する3 場所請負人が、それぞれアイヌ14人に、番人1 人
を出役させて、山道の新開がなされたのである。沿道に植林がなされ、シャマツケナイには止宿
所が設けられた。かなり完備した山道であったらしく、 「四季共往来絶えず」といった状況だっ
たらしい。
しかし、ロシアの南下の脅威がさり、文政5 年(1822)には松前藩が復領し、山道の手入も粗雑
になっていったらしく、幕府が再び蝦夷地を直轄した、この安政初年ころには、夏分は雑草が生
い茂って通行するものがなく、秋、冬、春だけに利用されていた。
武四郎は、さきの文章につづけて
其道筋「シャマツケナイ」迄は総て平野にて、其より先、上り下りの坂道も御座候へ共、
峠と申程の処は唯「イナヲ」峠と申余市境にーケ所之れ有り候斗りの事に御座候。其坂道
を越候はば、又余市川の傍少々下り候て凡二里半許にて平野に出申候。其より二里許にて
余市運上屋に着仕候。 当二十四日当所詰合小泉幸之進儀隊長衆御回浦前に右の道見置
度候由にて、同心村山録之進と番人一人を余市越見立として差立てられ候由。右録之進
「シャマツケナイ」迄参り申候。同所へ痘瘡にて逃居候土人等を大勢召連られ罷越され由、
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実に感腹の儀に存じ奉り候間、右之道筋再興に相成候様仕度、手入も差て入費に及申間敷
存じ奉り候間、早々仰置かれ候様仕度候。
と献言した。岩内~余市間岩内越は、稲穂峠の部分をのぞけば、比較的平坦で、山道の開削も容
易だとしている。 「隊長衆」といわれているのは、この安政3 年(1856)に西・北蝦夷地を松前藩
から受け取るために派遣された箱館奉行所
の組頭向山源太夫篤の一行のことで、これ
を迎えるために、松前藩の岩内詰同心とお
もわれる村山録之進が余市越山道の点検の
ために派遣されたのである。
そして、この年の秋、関係場所請負人に
よって、まず岩内から岩内と余市の場所境
である稲穂峠までの山道が新開された。 山
道の開削を記念して右記のような高札が稲
穂峠にたてられており、岩内場所請負人仙
北屋佐藤仁左衛門、古宇場所請負人福島屋
田付新右衛門、余市場所請負人竹屋長左衛
門、忍路場所請負人住吉屋西川徳兵衛らが金や労力をだしあって造ったことが知られる。
また、稲穂峠から余市方面、海岸までの道は、翌安政4 年(1857)に竣工したらしい。余市場所
請負人林家の『諸用留』 (『余市町史』第1巻資料編1)に、 「安政四巳歳六月、ョイチ岩内越
山道始メテ切開。但し、海岸入口よりトワフニ迄ョイチ浜中持、同所よりシカリベツ迄ヲショロ
持、同所より稲穂峠まで運上屋モツ」とあって、余市場所請負人竹屋、忍路場所請負人住吉屋、
余市場所の浜中、すなわち鰊二八取漁民の三者によってなされたのである。なお、同じ林家文書 イワナイ方ョイチ境追 秋切開し也、其前ハ草木生茂て、 して、各々力を合せて安政三年乃 小松前町徳兵衛等の御国恩の為と 新右衛門、同枝ケ崎町長左衛門、 此新道ハ松前唐津内町仁佐衛門、 さへ‘り いたく難儀せしを今斯、心安く往 流水道を遮里をうをう通行之者も ず て今此由を志るして諸人ニ示須 返する事永久の功徳少から須よっ
に、ョイ4場所言打役のi17鳥庄一郎が作成した『ヲイチ場研岩内越山道新開取調書!(『全市町
史』第1巻資料編1)には、
ョイチ場所運上屋ョリ十丁南字タクより山中字ルヘシ
一、切開新道 七里余辰六月より取掛・同八月迄成功
但、道筋厳石之れ有り候山々八、九ケ所も御座候而、大雨、深雪の節は、馬起立相立
申さず候。昼所三里程行シカJ ヘツに小屋之れ有り。運上屋より六里二十四丁行泊所
ーケ所、ョイチ岩内境迄十九丁登り、稲穂峠と唱申候。
右切開入用凡三百両程
是はョイチ請負人升屋長左衛門、ヲショロ請負人住吉屋徳兵衛自分入用を以、冥加とし
て切開申候。
右の通御座候。以上。
巳+月 ョイチ詰下役
平島庄一浪B
迄
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とあるので、安政3 年(1856)の辰年に主要部分の工事をおこない、安政4 年6 月に、ョイチ運上
屋からイナホ峠までの全工程が完了したのである。
道筋には、適宜の場所に、小休所や昼所が配置され、稲穂峠の両方の登りロには、通行屋(御
泊所)が設けられた。この通行屋は一般に笹小屋といわれている。
安政4 年5 月に、余市山道を通った松浦武四郎は、岩内側の笹小屋に宿泊し、のちに「越てパ
ンケシャマツケナイ(左小川)、シャマツケナイ(左小川)、笹小屋(今年より和人住して木賃
泊りもなす)。今までは正月二日此笹小屋を立、与市越の宿をなしたる計也。今年普請をなせし
と云り」 (時事通信社刊『蝦夷日誌』)と記している。 シャマツケナイに笹小屋があったことが
知られる。毎年正月の2 日頃に簡単な笹小屋を造り、堅雪の頃に通行する人びとの便をはかって
いたが、この年に本格的な普請をおこない、木賃をとって宿泊させたのである。 「共和町史」に
よると、岩内の笹小屋の位置は、共和町大字小沢村字シャマツケナイで、国道沿い望煙橋より南
へ’200m はなれた東側にあったといい、樹齢100年をこえる梨の古木が残っているという。
武四郎は、岩内の笹小屋をたって、つづら折の急坂をのぼり、稲穂峠をこえ、余市側の笹小屋
をみているが、 「扱、此処(イナヲ峠)より下り坂に懸るに、ョイチの方は岩内分より道も大に
よろし。三、四下りて樹木原に懸る。其中を下ることしばしにて(十八丁)笹小屋。此処はむか
しより何も小屋形は無りし由なるが、当年、始て此処え小屋を建たり。未だ普請成就はせざれど
も、大勢の内匠にて当時最中取懸り居たり」 (『丁巳東西蝦夷山川地理取調日誌」)と述べてい
るように、まだ、普請中であった。笹小屋というには、大がかりな普請である。稲穂峠のすぐ下
の樹木原に笹小屋があったことが知られる。
6 ,当丸峠越の道
当丸峠越の道路の開削は、緊急開拓事業のーつとして、昭和23年(1948)に樺太引揚者37戸が、
神恵内のトーマル地区に入植したのに始まる。翌24年開発道路トーマル殖民地線として、神恵内
村~殖民地間10. 7kmの道路開削に着手した。新道路法の制定にともない、この路線は二級国道小
樽江差線の一部に組みこまれ、国道として本格的な新設工事に着手し、昭和42年(1967) 8 月10日
に、古平町六志内~神恵内村間26. 8kmが開通した。
しかし、冬期間には4m に及ぶ積雪におおわれ、各所で大小の雪崩が発生するため11月の初め
から5 月下旬までは全面交通止めになったし、また、この区間のほとんどが地すべり地帯に属し
ているため、土砂崩れや落石などが頻発し、その度に交通止めを余儀なくされるなど、道路の改
築は不可欠であった。昭和51年から53年にかけてこれら交通障害を解消するため、防災対策計画
樹立にむけて調査実施し、特に障害の多い古平町六志内~神恵内村清川橋間17. 45kmに、地すべり
解消、落石・雪崩防止、線形・勾配の改築など本格的な改築工事を実施し、昭和60年10月下旬に
全線開通をみた。
この路線は昭和40年(1965) 4 月1日より一般国道229号(小樽~江差)となり、昭和56年4 月30
日に一般国道229号が神威岬を通る海岸回りにルート変更がなされたのにともない、当丸峠の横断
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道路部分が一般道道古平神恵内線に指定され、昭和57年度から開発道路として北海道開発局で道
路工事を担当・施工し、昭和61年4月1日付で北海道に移管されている。
一般道道古平神恵内線の総延長は、31. 7km、改築工事の施工区間は17.45km、昭和42年の開通以
降、同60年まで18年間の歳月を費し、107億700万円の事業費が投じられた。幅員8. Sm、時速50km
(-部30km)で設計され、最小曲線半径43m、幅員1. 5m以上の歩道延長は、延べ7. 0血である。
主要構造物をみると、橋梁が14箇所である。神恵内村当丸に建設された橋長512m の大雪崩橋が
最長で、昭和58年10月に架設された。幅員は7. 5mで、14径間の鋼橋である。トンネルは、六志内
トンネル、清川トンネル、神恵内トンネルの3 箇所である。このうち最長の清川トンネルは、延
長455 m 、車道幅員6. Urnで、両側に0. 75mの歩道が設けられた。また、落石、雪崩等の危険を避
けるために、 4 箇所に覆道が設けられた。六志内覆道、当丸覆道、熊見覆道、大雪崩覆道である。
この道路は、西積丹と札樽圏の連絡を短縮するとともに、積丹半島を横断し、西積丹と東積丹
を直結する観光道路として重要な役割を担っている。
7 .積丹国道古平~余市間の開通
古平町においては、大正12年(1923)11月の町会に、古平町を貫通する余市~美国間の自動車道
を開削するための調査機関の設置をもとめる建議案が提出されている。冬期間になると道路は不
通となり、唯一の生命線である海運もしばしば途絶したので、同町では、積丹半島鉄道期成同盟
会を組織し、鉄道建設の実現をめざしてきたのであるが、大正11年(1922) 9 月1日におこった関
東大震災のため、その前途は暗いものとなった。そこで、 「這般、京浜地方ノ大震災ニ基因シ、
一切ノ政府事業ハ、緊縮又ハ繰延、中止等ノ方針ナリト聞ク。爰ニ於テ、本町ニ組織セル、積丹
半島鉄道期成同盟会ノ事業タル、鉄道モ亦影響ナシトセズ。果シテ然リトセバ、当分開通ノ見込
ナキ、鉄道ノミニ期待スルハ、恰モ隔靴掻痒ノ感ナキ能ハザルノミナラズ、夫レダケ地方民ノ苦
痛トスル所ナリ。故ニ 鉄道ニ代ハル-V.涌機関ヲ備フル為メ 白動屯道ノ開1甬ヲ図ルハ、最千機
宜ニ適スル方法ニシテ、延テハ鉄道助成ノ目的ニモ副フ所以ナリト認ム」 という理由で、車道築
造を優先する方針に転換したのである。この建議案が採択され、翌13年(1924) 1 月の町会に町長
三上良和の名で 「道路調査委員選挙の件」 が提出されて可決をみた。 これにもとづき、町会議員
のうちから選出された3 人の調査委員が重道の基礎調査をおこない、陳情をおこなった結果、大
正14年には道庁の係員が余市~古平間自動車道路新設の測量をおこなうにいたったという。 (昭
和52年3月刊、 『古平町史』第2 巻)
その後の経緯は4、明であるが、 「北海道中央ハス株式会社二十五年史」は、加藤幸古らによっ
て大正15年(1926)に組織された札幌自動車合資会社が、事業拡張に乗り出し、昭和3 年(1928)に
余市駅前~古平間にバス路線を開業したとしている。また『加藤幸吉の追憶』は、 「昭和三年に
開業した最初のバス路線には、余市駅前・古平間十六哩八分の山道越えの線がある。この路線に
充当した自動車はシボレー三台で、昭和四年(1929)には大川町二〇三番地・大川町二二九番地間
の、 また同十一年(1936)には古平。余別間のバス路線をそれぞれ買収して、その運行を強化し
100
た」とするとともに、当時、札幌自動車合資会社の社員であった藤本銀次郎の次のような回想を
のせている。
昭和三年春の頃かと思います。余市と古平間の路線のことをお話しされて、なにしろ山道
と曲りが多い区間なので現在は舟で人びとは行き来しており、風の強い日は、舟を休むた
め古平の人達は一番不便をしていること、古平も人口が多い町なので、バス事業も採算が
とれることなどを申しておりましたが、ついにその年の八月上旬、余市・古平間の山道の
道路工事を開始し、九月の末の山ぐみの実が赤く実りだした頃、この道路の八分通りでき
たとき、この山道の試運転に札幌から自動車をもっていきました。その夜は余市の旅館に
一泊して、タ食後加藤さんと共に床やに行きました。そのときお客のお話ですが、今日は
舟がなくて古平に行かれなかったこと。 これが自動車でも開通すれば、いくら舟が休んで
も心配はなく、古平の人達は札幌まで行っても日帰りができること。しかし何と申しても
曲りが多いあの山道では、一つ間違えば何十丈という谷底に落ちる恐れがあるので、自動
車ゃ命がいくらあったとてもかなわないことなどを申しておりました。 この話を加藤さん
はよく聞いておられ、旅館に帰ると、 「先きほどの床やのお客の話は単なる障話として聞
いてはいられない。この山道で自動車営業を続けていくには、おそろしい事故を如何にし
て未然に防止するかということだ。それには第一には道路状態、第二には優秀な運転者が
必要だ」 と申されました。また 「明日の古平の運転には十分に注意して、悪い箇所や運転
上道路の不備の箇所はどんどん請け負い者に申しつけ、手直しさせて、常にお客さんに楽
な気分で、安心して乗っておられるよい道路に仕上げなければならない」 と何度も申され
ました。かくして営業開始と同時にフォード号トラック車一台を買い入れて道路修理専門
にあたらせましたが、ニカ年以上も道路の修繕および改造などを道庁土木事務所の修理を
待つことなく、自費であの立派な道路を完成し、あのカーブの多いしかも急坂のはげしい
山道を営業開始以来、今日に至るまで営業を続けている
昭和3 年(1928)に道路工事がおこなわれ、バス営業のための試運転がおこなわれたのである。
しかも、十分に採算がとれるという目論見で、札幌自動車合資会社が、請負業者を自費で道路修
繕をおこなったらしいのである。
ところで、古平町の沿革誌料は、昭和4 年には古平町の漁場経営者である種田富太郎が町の有
志とはかって乗用車をもち、古平~余市間の交通にあてたとしているが、 (斉藤兵市『積丹国道
開発にともなう住民生活の社会的効果に関する調査』)、その経営の実態は明らかではない。さ
きにみた昭和11年(1936)の札幌自動車合資会社による古平~余別間の開業経営の拡大は、種田ら
の経営の買収によるものである。
この間、北海道庁も手をこまねいていたわけではない。昭和3 年(1928)および4 年の2 箇年に
わたり、道路改良のための路線の実測をおこなっている。調査線は、余市町梅川町の既成の山道
の上り口附近を起点に、出足平峠前後の急曲、急坂の緩和を計り、出足平村(余市町白岩)の入
口付近を横断し、さらに山地を湯内村(余市町豊浜)西側の山裾をたどって海岸に出、これより
101
海岸沿いに古平町沖村地内の湯内峠に通じる既成山道の上り口付近に出る路線であった。その
後、昭和12年(1937)にも、海岸ルートとの比較をかねて、既成山道の改良測量がおこなわれた。
既成山道は、標高500 m ほどの複雑な山地を通過するため、蛇行、急勾配の連続であり、 900
以上の急カーブが360箇所もあるところから名づけられたという一年峠が行手をさえぎっていた。
ガソリンを多量にくうため、旅客自動車輸送が主で、物資の輸送は海運にたよらざるをえなかっ
た。しかも、旅客自動車の運行も降雪の関係から5 月上旬から10月上旬までの夏期にかぎられて
いたのである。冬期の古平では、時化がつづき、余市との船便が途絶えると重病人がでても施す
すべがなく、運搬できなくなった漁獲物が滞り、価格は下落のー途をたどった。雪道を山越すれ
ば8 時間で余市に出ることができたが、吹雪にまかれる危険が常につきまとい、記録に残るだけ
で28人の死者を数えるという。
沿線住民の宿願であった道路工事がはじまるのは、昭和23年(1948)のことである。終戦直後の
財政難およびGHQ との関係などから時期早尚との意見もあるなかで、北海道の強い要請が効を
奏し、湯内村~沖村間の実施が決定し、同年8 月より直営工事として着工された。
湯内村~沖村間の8 kmの山道は湯内峠を中心とする急峻、複雑な地形のため、余市~占平問山
道中、最も危険な箇所であり、山地帯に良好な路線を求めることができず、海岸沿に新線を設定
することになった。新線の延長は約2kmで、山道の1/4に短縮することになる。主要資材が統制下
にあり、電力の供給も難しい中で、困難な隧道の掘削や擁壁工事をすすめねばならなかった。こ
の間、昭和24年(1949)には路線の再検討がなされ、断崖直下では危険が多いなどのため、工事内
容を大幅に見直し、路線をできる限り海側に設定した。
昭和25年以降、工事予算が次第に増額し、工事も進捗し、昭和27年(1952)度には概ね完成し、
昭和28年春より湯内村~沖村問
の改良線の供用が開始された。
旧道の運行時間30分に対し、新
道は僅か5 分であった。
昭和27年以降になると国の財
政事情が好転したのにともな
い、余市~古平間のその他の区
間についても改良工事の見通し
がつき、路線改良のための測量
がおこなわれ、既往の計画では
山地帯に設定されていた出足平
村~湯内村間を、冬期交通の維持、および沿岸漁家の利便を考慮し、海岸沿いに新線を設けるこ
とに変更した。 これにより出足平峠を経由する余市町梅川町~出足平間だけが山地線となった。
また、古平町沢江村~沖村間の海岸道路は、岩石の崩壊や雪崩による死亡事故が続出していた
ため、新たに改良路線に取り入れた。
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道路改良(昭和33年10月竣」) 郎凧
―般国道229号余市-ー古平間道路改良工事 《j
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102
梅川町~湯内村間の工事は、湯内村側から出足平村にむかってすすめられ、昭和30年(1955)度
には、出足平村~湯内村間が完成、最後の残存区間である出足平村~梅川町間のエ事も昭和31年
度以降予算が飛躍的に増大したこともあって着々とすすみ、昭和33年(1958)10月余市~古平間の
全改良工事が完成した。昭和23年以来、10年間に投じられた国費は9 億2,800万円、工事延長は14
血余である。作業員の延人数は75万人余に達し、 9 人の犠牲者を出している。戦後最初の海岸道
路工事であったこともあって、 トンネル工法や技術者の養成など、その後の海岸道路工事に裨益
するところが大きかった。
余市~古平間道路は、開通当初は通称積丹国道と呼ばれ、その後雷電国道と呼ばれるようにな
った。すぐに札幌までの直通バスも通り、所要時間は、古平~余市駅間40分、古平~小樽間1時
間10分、古平~札幌間2 時問20分であったという。冬期間においても割安なトラックで物資の輸
送が可能になり、寄宿生活を余儀なくされていた古平の余市高校生も自宅から通学が可能となっ
た。
第4 節 雄冬岬をこえて(小樽~増毛)
1 .銭函~茨戸間運河
小樽と札幌を結ぶ道路については、「4 本府へのみち」で詳述しているので、参照されたい。
小樽~銭函間は、山が海にせまり、カムイコタンをはじめ断崖が続いていたが、銭函~石狩間
は単調な砂浜が続き、徒歩での通行が古くからおこなわれていた。しかし、後背の軽川原野、花
畔原野は、泥炭湿地であるため、小樽~札幌間を連絡する道路も、鉄道も、これを避けて山際を
通り、海岸沿いの本格的な道路は築造されなかった。これにかわるものとして明治28年(1895)に、
北垣国道北海道庁長官の発案になる銭函~茨戸間運河工事がはじまっている。計画によれば、翌
29年までの2 箇年の継続事業とし、経費概算7 万5, 000円余であった。延長8, 041間(14. 6km) 、
敷幅12尺(3. 6rn ) 、法2 割、運河常水3 尺5寸(1. im ) 、西側は総て板柵とし、閘門を3 箇所
に設け、石狩川付近に防水門を設ける設計であり、石狩川流域の村落で生産した農産物を石狩川
に下し、茨戸から運河により銭函に運漕し、同所において一旦陸揚し、さらに小蒸気船ゃ川崎船
に積み換へて直に小樽港に輸送するか、あるいは銭函から鉄道便に托送する計画であった。
運河は明治30年(1897)に竣工したが、できあがってみると、運河の下底は、石狩川の常水面よ
り高く、水を導くことができなかった。僅かに小樽内川以南、銭函間に小船を浮かべることがで
きたにすぎない。運河としての役割は果たせなかったが、原野の排水に大きな効果をあらわし、
付近一帯はたちまち乾燥し、掘上土を利用したー条の道路が運河に沿って走ることになった。
2 .石狩河口橋の架設
札幌から石狩河口を通って厚田、浜益方面へ抜ける道路交通の最大のネックは、石狩河口に橋
がなく、渡船にたよらねばならなかったことである。この路線は仮定県道西海岸線に属し、道路
103
法、北海道道路令の制定にともない、大正9 年(1920) 4月1日の道庁告示で、札幌を起点に、留
萌郡留萌町を終点とする準地方費道札幌留萌線に認定された。その後、新道路法の施行によって
昭和28年(1953) 5 月18日二級国道231号線(札幌~留萌)となり、昭和39年(1964)の道路法の改正
により、昭和40年4月1日から一般国道231号として今日に至っている。
石狩河口の渡船は、国道上の渡船として残ったが、その起源は江戸時代の場所請負人の駅逓業
務にさかのぼる。石狩場所は、安政5 年(1858)から他にさきがけて場所の改革がおこなわれ、場
所請負人を廃止し、海岸や石狩川筋の鮭引場は出稼人に分割された。しかし、従来の場所請負人
であった阿部屋村山家(名義は阿部屋伝次郎)が本陣取扱人に就任して駅逓業務を継承したの
で、渡船も、その駅逓業務も同家で取り扱ったとおもわれる。明治2 年(1869) 6 月阿部屋の失脚
により石狩本陣の取り扱いは、山田文右衛門の手に移っている。
明治5 年(1872)になると、開拓使石狩出張所が現在の若生町におかれ、厚田・浜益方面への官
吏や貨物の往来がひんぱんになったために、石狩の住人小山屋某が開拓使取締りの下に私設渡船
場を設けたという(札幌開発建設部、石狩町編「とせん」)。明治5 年は、本陣の制度が廃止さ
れた年であり、同年1月に各郡本陣を旅籠屋並と名づけ、同年4 月にはさらに改正されて東西郡
会所あるいは旅籠屋並を旅寵屋と改める布達がだされ、旅人は「相対止宿」となった。明治4 年
に従来の場所請負制に対する全面的な見直しがなされたのにともない、かれらが担ってきた駅逓
業務も改正せざるをえなかった。明治5 年に石狩河口の渡船が民間に委ねられたのも、その一環
であろう。
明治5 年(1872)以降、渡船の経営者はめまぐるしくかわった。小山屋某のあとは、会津藩士の
金沢又右衛門、その子の又太郎、さらに松木五三郎とかわり、大正10年(1921)には五三郎の子、
清太郎がつぎ、平岩良二、山本林蔵をへ、昭和9 年(1934)に田中周作がこれを請負った。その
後、昭和16年に札幌北自トラック、昭和20年(1945)からは、再度山本林蔵が経営し、昭和27年8
月にいたった。
この間、明治37年(1904)から従来の個人経営を改め、町が特別会計で施設を整備し、経営を個
人に請負わせてきたが、昭和27年8月1日個人請負経営をやめ、石狩町の直営有料渡船場となっ
た。そして、昭和30年9 月11日からは、札幌開発建設部が無料国営渡船場として維持管理にあた
ることになり、事業を石狩町に委託した。
当初は、客船2 隻、馬船1隻、磯船I 隻、職員7 人で出発し、客船も改廃をくりかえし、のち
には車運船(フエリー)も投入された。公共性の強い事業であるため、冬の結氷期や融氷雪期の
運航条件の悪い時期にも、それほど欠航することなく続けられ、石狩川の風物詩として人びとに
親しまれた。
石狩河口橋の建設がはじまったのは昭和42年(1967)、河口より上流約4 kmの地点に設けられる
ことになった。第1期工事は、 6 年の歳月を費し、昭和47年7 月に完了し、一般の交通に開放さ
れることになり、同年7 月20日工事関係者が出席して開通式がおこなわれ、石狩町在住の4 組の
親子三代夫婦を先頭に渡り初めがおこなわれた。
104
石狩河口橋が開通した当時に使用していた石狩渡船は、客船2 隻(25. 57人乗)と車運船3 隻
(乗用車6 -8 台)であり、 1 日の最大交通
量は、車2,000台、人1万L000人を超えるこ
とも稀でないといわれていたから、この石狩
河口橋の開通の果たした役割は非常に大きか
った。中央バスでは、開通日の翌日、21日か
ら札幌~浜益間に直通バスを走らせている。
一方、石狩渡船を利用する車は、河口橋の
開通とともにがた減りになり、車運船(フエ
リー)は昭和47年(1972) 7 月31日までサービ
叫ド
(
ー般国道231号石狩町石狩河口橋
ス運航を続け、廃止になって国の手を離れ、客船は町営無料渡船として昭和53年3 月31日まで続
き、以後、代替バスにかわっている。
一方、昭和48年度からはじまった第2 期工事も昭和51年にその全工事を完了した。石狩河口橋
およぴ取付道路事業費の総計は、第1期工事が23億3, 500万円余、第2 期工事は40億4,200万円余
にのぼる。つり橋の一種の斜張橋で、橋長l,412.7m 、最長スパン(橋脚間隔)160 mで、石狩川
をひとまたぎしている。
3 .アツタ場所からハママシケ場所ノ\
ホリカムイより石狩川を渡るとすぐのシップ(聚富)は、すでに厚田場所である。シップから
北上し、モウライ(望来)、コタンベツ(古1,-川)をへ、厚田運上屋のあったヲショロコツ(押
琴)をすぎ、厚田川を越え、ヤソスケ(安瀬)までは、比較的なだらかな丘陵地帯が続き、歩行
に困難な場所は少なく、自然に径路ができあがっていったと思われる。
ヤソスケから北、ハママシケ場所(浜益)のビザンベツ(毘砂別)浜までは、増毛山地の東端
をなす安瀬山、濃昼岳、カシガリ岳などの600m級の山々が急激に海に落ち込み、岩石むきだしの
峻檢な地形となって、行手をさえぎっていた。
安政3 年(1856) 5 月21日に松浦武四郎がしたためた箱館奉行支配組頭向山源太夫宛の「アツタ
よりハママシケ迄新道見込書」 (「燼心餘赤」)には
当月八日石狩御出帆に相成候。船中より御覧も之れ有り候通「ヲショロクツ」運上屋迄の
処は陸路もよく通じ、兼て稼人等往来致し来り候得共、同所より「ハママシケ」迄の処は
「アイカップ」岬の大難所之れ有り候。又「ハママシケ」 より 「マシケ」迄の処、是又御
覧の通り 「ヲフイ」井に「カモイノミウジ」等申大難所之れ有り候。九月中旬より二月下
旬迄は通船睦ケ敷き場所に之れ有り候処、私共深く此処の儀は骨折り探索仕候に、其手懸
りと仕候は運上屋より字「ヤシツケ」迄の処は浜通り宜敷候。其より先の通字「コキビ
ル」迄の処、山越極難渋には御座候得共、此処越、右「コキビル」より「ヲクリケ」迄の
処凡十七、八丁斗りの処、岩路之れ有り候て当時番屋も之れ有り候。左候処、此処沢目を
105
上り凡二里か二里半も上り山越仕候はf 、浜マシケ川上に出申候由に御座候。此儀何分難
渋には御座候へ共通路附置度存じ奉り候。
と記してある。アツタ場所とハママシケ場所の間には愛冠岬、ハママシケ場所とマシケ場所の問
には雄冬岬などがあり、山道もなく、 9 月中旬より2 月下旬までは、日本海の荒波のため海路も
ままならず、全く孤立していたのである。 アツタ場所とハママシケ場所の間では、場所境のゴキ
ビルからハママシケ場所のヲクリゲの間には 「岩路」がすでにあったので、ヤソツケ(ヤソスケ)
からコキビルまでの間と、ヲクリケからハママシケ運上屋方面への山道を新開する必要があっ
た。これらの2 つの山道は、他の各地の山道と同じく、箱館奉行の命をうけた場所請負人、すな
わちアツタ場所請負人浜屋与三右衛門、ハママシケ場所請負人伊達林右衛門の手によって安政3
年(1856)から4 年にかけて新開されている。
浜屋与三右衛門の手になったヤソスケ(安瀬)からイナウ峠(濃昼峠)をへてコキビル(濃
昼)までの山道、いわゆる濃昼山道は、安政3 年の冬にとりかかり、翌4 年の6 月ころには完成
していた。この安政4 年6月2 日に箱館奉行堀利熙の巡見に付添って濃昼山道を通行した松浦武
四郎は、
偖今般新道の命あり。去辰の冬より此頃(丁巳六月二日)迄に切開に成りし由にて、鎮将
堀君通行し給ふに附従て出立しけるや掌を立つるが如き九折に道切附、いまだ土の辷り落
るを(五、六町)山の腹通り行、澤に入、木立原しばしにて(七、八町)チカフチャラツ
ナイ(谷川、此末流瀧に成おつる)、此まで澤に入る。両山奇岩怪石簇々として変るべき景
地有るや。其川中まで渉り上
る(七、八町)。二股(右本川、
左ルベシへ)、是より左股に入、
特生繁りて雑樹陰森たり(五、
六町)v ますます山I しく成た
り。又左りの空澤を上りて(四、
五町)、
のぼり来て まつ風待と
幌
誰もみな 柏の下枝 ゑだ扇
にして
峠、此處眺望よろし。後ろは惣
て山に隠るれども、向はコガ
ネ山よりショカンベツ岳まで
一目に見え、風景よろしき事
なり。是れより(五、六町)笹
原を下り、椴、楓等の木立I.u
の後の聾たる處、木の根に 図2-4 昭和初期の主要な道路(厚田~留萌)
日本’毎 阿分
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~増毛山週I
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石井川
砂川
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106
足踏かけ二十餘町、暫時にコキビル川の南に出たる。実に其嶮なかなか筆の及ぶ處にあら
ず。此切方にては幾年を過るとも馬足覚東なく覚ゆ。
( 中 略)
ゴキビル(出稼有、川有、幅五、六間、小舟渡し)、名義水渦巻といへる事なり (シリカ
ト申口)。またホキンビリにて、即ち蔭のまた蔭といふ儀なりと。此辺岬の蔭なる故に號
るか(地名解)。此所此岬とアツタ領の岬の間にて水の渦巻が故に號くとかや。此川を以
て境目とす(石狩境目より六り十五町廿五間)、またヤソツケ切口より海上は一里一町、陸
は二里廿四になると(シリカト申口)。昔は境目をビシャンベツにて取りしが、アツタは土
人が少き故、コキビル迄の所を浜益へ呉遣したりと云り。 (時事通信社刊『蝦夷月誌I )
と、山道の様子を記している。 山道の延長は2 里24町(10. 5km) 、安瀬を登り口とし、濃昼峠を
こえ、濃昼川の南にで、川口の濃昼までである。 「掌を立つるが如き九折に道切附、未だ土のこ
り落る」 とか、 「此切方にては幾年を過るとも馬足覚束なく覚ゆ」とか述べているように、武四
郎のこの新開の濃昼山道にたいする評価は冷たいものがある。それは単に路線の選定だけではな
く、場所請負人の山道普請人夫の徴発の方法に批判的だったためでもある。
安政4 年(1857)の武四郎の日誌(『丁巳東西蝦夷山川取調日誌』)に、 「扱此処(ヤソスケ)
より浜はコキヒル迄の間岬有て歩行にて通り難き故に、此般此処を請負人え仰付けられ、御切開
に相成候由。又請負人よりは其を浜中の出稼の者え、一軒に附何百間の何十軒のと割りて切開し
たりとかや。請負人は只其世話を致せし許の事也けるが、一割二分の割を運上屋え納め、其上、
さまざまの役物をとられ、又人足に遣はれて、其上に此山道を切開まで致しても、追々と人数の
増来ること、実に此処等は漁業の夥敷事分明なるべし」 とあるように、アツタ場所に入漁してく
る鰊取漁民を使役し、 ]軒毎に切開間数を割り当ててエ事を進めたのであり、場所請負人が自費
で新開したのではなかった。これらの練取漁民は一般に二八取漁民といわれ、漁獲高の2 割を場
所請負入に納めるのが普通であったが、アツタ場所の場合は1割2 分であったらしい。場所内の
アイヌの人数が少なく、場所請負人の任務であった駅逓業務の人夫などに二八取漁民を使役しな
ければならなかったからであろう。
伊達林右衛門が担当したコキビルからハママシケ方向へは、松浦武四郎の提唱したコキビルか
らヲクリゲに至り、そこから沢伝いに山越えし、浜益川の上流に出るコースをとらず、ヲクリゲ
から愛冠岬の上部を迂回してビザンベツ(毘砂別)浜へでる山道が新開された。
すでに岩路のついていたコキビル~ヲクリゲ間にも、山道が新開されている。
赤岩岬(大岩)、本名フレシユマエンルンといふ。此岬コキビル岬と対して湾をなす。此
處新道切口あり。上り口九折、陰森たる雑樹老しげり、上りて峠に至る。コキビルの山道
は切方甚だ雑なれども、此方の山道は頗るよく切始めたり。余帰りの時に爰に至しかば、
最早切仕舞たるに驚きぬ。峠より下を俯ば、白浪岩根を洗ひ、眺望云ん方なし。山の腹ま
で千四百間にてヲクリケ浜に出たり (此間一り十町と云) (時事通信社刊『蝦夷日誌』)
と武四郎が記しているように、濃昼山道に比較すると、道路のできが良かった。ヲクリケ~ビザ
107
ンベツ間送毛山道についても、
ヲクリケ(砂浜)、名義ヲクリキナといえる草有りより號ると。此処少し湿地あり。ヲク
リキナは恐らくは谷地草かと思はる。紫革の種にて、日光にてウルイと云、東地には多き
物也。新道此所へ出る(銚番ヤ、かやぐら二)。近年迄土人も住せしなり。當時出稼立続
けり。また一町計砂道を過て山道入口あり。雑樹陰森たる處九折を上る(廿二町)。峠迄
薬皮多し。下り(三十五丁)てビザンベツ浜に出る。此山道、厚田より此方三山道の内、切
方第一にして、不日に馬足も立様になるべし。 (時事通信社刊「蝦夷日誌」)
とあり、 「三山道の内、切方第一ー」 と述べているように武四郎の点数はきわめて高いのである。
安政4 年(1857) 6月2 日箱館奉行堀利煕に付添って濃昼山道を通った時には、コキビルから船で
ハママシケ運上屋にむかっており、その時には、コキビル~ビザンベツ間はいまだ工事中であっ
た。天塩まで行き、そり帰りの7 月4 日ハママシ運上屋を出発し、 1人で詳しくこの山道を検分
した。その模様は「丁巳東西蝦夷山川取調日誌」に詳しい。
それによると、 「此方の道もヲフイの方の如く巾三間半(6.4 m)に切て、実に目を驚かす計
の事」であったという。雄冬山道と同じく、道幅を三間半に切開したのである。このような立派
な道ができたのは、開削方法がよかったからである。
コキビル~ビザンベツ間の山道の選定にあたったのは、岩内の出稼人柳川屋甚蔵である。この
年(安政4 年)の春、堅雪の節に、番人の茂吉、乙名シカノスケとともに踏査し、見積りをたて、
閏5 月8 日頃から人足30人を人れて開削にとりかかったという。 ビザンベツとヲクリケに人足の
泊まる笹小屋をたて、雄冬山道の工事が終ると、その人夫も投入して工事を急いだ。
眺取仕舞の者を遣ひ、一人手間何程と間数にて渡も有り、其休みには棉皮、樺皮を剥し、
其をまた買上げ、よく働く者は二人前、三人前の稼を致し、稼次第賃銭を得る様に致し、
其仕法頗るよろし。依て其故に出来し道もまた宜しかりしなり。 (時事通信社刊「蝦夷日
誌I )
とあるように、練漁の終ったあとの出稼漁夫を人夫に使ったが、アツタ場所とちがって、切開間
数に応じて賃金を支払い、また工事の休み間に人夫が採った椙皮、樺皮も買上げるなど、人夫の
使役に意を用いたので、 5 月から7 月までという短期間に立派な山道ができあがったのである。
4 .増毛山道の開削
ハママシケ場所とマシケ場所の間には、峻険な増毛山地がそびえ、海路も雄冬岬の難所がひかえ
ていた。暑寒別岳」,491m から西走する脊梁山脈が、群別岳L375m 、浜益岳1,25 om、雄冬岳1, 198
m、などの1, 000 m級の峰々を形づくり、急激に海に落ちこむところにある雄冬岬は、茂津多岬、
神威岬とならんで西蝦夷地の三大嶮岬に数えられるばかりではなく、 「ヲフイ岬は夷地第ーの嶮
岬にして、往昔より九里八十間の問波浪強敷故、九月中旬より通船難く、是が為に如何なる非常
の事たりとも其注進を滞する事有て、只山猟の土人のみ山脈を知って通行するよし」 とあるよう
に蝦夷地第一の難所であった。九月中旬より翌春までは、海路も途絶した。
108
ここに山道が開削されるのは、安政4 年(1857)のことである。箱館奉行の命をうけたハママシ
ケ、マシケ両場所の請負人であった伊達林右衛門の手でなされた。松浦武四郎の『東西蝦夷山川
地理取調紀行』 (時事通信社刊『蝦夷日誌』)に 「安政丁巳五月十八日鉞を入、閏月九日此地見
分として越、翌午七月十日出来の為に見分し」 とあるところから、安政丁巳年、すなわち安政4
年5 月18日にとりかかり、翌安政5 年(1858) 7 月10日に竣工したといわれてきた。
しかし、この通説には異論がないわけではない。安政4 年の調査行を記した武四郎の『丁巳東
西蝦夷山川地理取調日誌』によると、すでに完成した増毛山道を詳しく見分しているからである。
箱館奉行堀利興に随行して、 6 月3 日に海路をハママシケより、マシケ運上屋に到り、翌4 日マ
シケ場所方面でおこなわれていた山道工事の様子を見分、その後、天塩まで到り、その帰りの7
月2 日マシケ運上屋に着き、翌7 月3 日マシケ場所の支配人黒沢屋直右衛門を同道し、ほぼ完成
した増毛山道を見分している。 『自筆松浦武四郎自伝』の安政4 年7月1日の条をみると、 「七
月朔日、増毛出立。山道を踏試として陸行。支配人黒沢屋直右衛門を同道致し、ヲフイ峠に金毘
羅の社を建、是に止宿所取立候様申附置。後、織部正殿に尾不居社と四字の額を乞ひて認め貰ひ
送る」 とあって、増毛山道の見分の日付には、食違いがみられるが、この時に金毘羅社を建て、
後に堀奉行に 「尾不居社」 の四文字を書いてもらい、掲げたのである。
武四郎の『東西蝦夷山川地理取調紀行』 も 『自筆松浦武四郎自伝』 も後年の編集にかかるもの
であって、個々の日誌類とは齟齬が多い。ただ安政4 年(1857)閏5 月9 日に 「此地見分として
越」 たとは到底考えられない。
一方、安政5 年の武四郎の足跡をたどると、 6 月はじめにソウヤに入り、日本海岸を南下し、
増毛山道を通行するのは、 6 月中旬である。安政5 年のことを記した『戊午東西山川地理取調日
誌』 と 『自筆松浦武四郎自伝』とも食違いが多く、正確な日程を明らかにすることはできない。
たとえば、 『自伝』で6 月3 日のこととされるコイトイ沼調査が、 『戊午日誌』では6 月5 日、
6 日でラウントウにも足をのばしており(『戊午古以登以日誌』)、 『自伝』で6 月5 日になってい
る野寒布岬調査が『日誌』で6 月7 日(『戊午西部北岬誌』)、 『自伝』で6 月8 日、 9 日になって
いる古丹川調査が『日誌』では6 月11日、12日(『戊午西部古多武別誌』)、増毛山道を越えた後、
石狩から銭函にまわり、そこから千歳越新道の見分に出発するのが、『自伝』では6 月20日、『日
誌』では、 6 月18日(『戊午東西新道誌』)である。いずれにしろ、安政5 年(1858)の増毛山道の通
行は、 6 月中旬でなければならない。
以上みたように、 『東西蝦夷山川地理取調紀行』の増毛山道の完工の記述は信頼性に欠けるの
である。安政5 年の『戊午日誌』には、増毛山道の見分の記述がなく、 『自伝』にも、安政5 年
6 月11日の条に 「小使トンケ、番人召連れ山道通行、ハママシケへタ方着す」とあるだけである
こと、ところが安政4 年(1857)の『丁巳日誌』によれば、ほぼ完成した増毛山道をマシケ場所支
配人をともなって、詳しく見分していること、さきにみた 『自伝」の7 月1日の記述もこれを裏
付けていること、等々を考えれば、安政4 年7 月に増毛山道が竣工したとみたほうが妥当なので
ある。
109
「丁巳日誌」を中心に山道工事の様子をみると、マシケ側も、ハママシケ側も、山道の選定は、
マシケ場所支配人の黒沢屋の発意により、松前及部村の百姓作右衛門が、マシケ小使トンケ、平
アイヌのシロ、ハママシケ乙名シカノスケ、脇乙名ショウサカ、平アイヌのアワサシ、その外マ
シケ、ハママシケ双方から4 人宛アイヌを出しておこなった。作右衛門は山道工事を一手に請負
うつもりで南部領鹿角郡から人夫50人を募集したらしいが、一手に引請けることができずに、マ
シケを去った。そのため、工事の指揮にはマシケ側が番人幾次郎、孫三郎があたり、ハママシケ
側は通辞の伊六があたった。ハママシケ方面は5 月16日、17日ころにとりかかり、人夫46人を使
役し、閏5 月をへて、 6 月13日まで、わずか56日間で工事を終えている。人夫賃銭は、極上が12
両、中男10両、並が8 両とかなり高価であり、工事が終わると人夫は、送毛山道の工事にまわっ
た
マシケ場所方面は、 5 月下旬ころから、錬場の仕事が終った出稼人を雇って、はじまっている。
「丁巳日誌」に 「扱其人足使ひ方は、五月下旬より追々鰊場仕舞候者を、一日金ー朱ヅ、にて相
雇ひ遣ひ居候。其余閑休等の節椙皮を剥候はf、壱貫日七十五文ヅ、に買上候様申聞し、其故M
場仕舞勘定にて国元え路用も漸々残るや残らず哉の人足、何れも当盆前まで四両位、多きは五両
も別段の金を取しとて、一同悦び居候。其上、右新道仕舞次第秋味手伝に雇、漁中壱両三歩ヅ、
に遣ひ候由の仕方に仕る由に承りけるが、実に其故人足共もーしほ出精、ハママシケに負けざる
様に切候等と勤居候こと、実に北方の風習賞するに余り有る事なりけり」 とあって、武四郎が賞
讃するほど労働条件は良く、ハママシケ側に負けないように工事を急いだという。ハママシケ側
は6 月13日で工事が終ったが、マシケ側は、 7 月3 日に武四郎が黒沢屋を同道して見分した時に
は、工事は終ってはいなかった。 「ホロベサキノホリヒラを廻りて行や、まだ此辺は笹を払し事
なるが故に道も余程取りぬ。此辺より人足等追々道に居たり」 と、 まだ人足が働いていたのであ
る。 また、ハママシケ場所とマシケ場所の境日であるガンビタイとホロクンベツの下の間では、
両者の境目の主張が異h .切h 開かかい才才にかーていか一
しかし、山道はほほ完成しており、マシケ運上屋につくと、同道してきたマシケ支配人の黒沢
屋直右衛門に、山中にI 箇所止宿所が必要であることを説き、金毘羅を建立すれば額面を寄付す
ると申し渡している。
山道の里程は、浜益側の幌より増毛のポンナイ浜まで、道程9 里半(37. 3km)ほどである。幌
の北側の山腹をのぽり、浜益御殿の麓をめぐり、御殿峠をこえ、山陵部を雄冬山の麓に達し、こ
こから下って増毛別苅、モンナイ浜に達する難道であった。御殿峠付近は1, 000m に達する高所で
ある0
5.増毛国道の開通
増毛山道は、安政4 年(1857)に築造されて以来ほとんど手を加えられずにきたため、明治期に
なるとほとんど荒廃し、開拓使御雇外国人のライマンに 「人間の建築とは思われ難し」 と酷評さ
れた。
hlO
この増毛山道とは別に、増毛山道の登り口である幌から別れ、海岸沿いに床丹、千代志別を通
り、タンパケ岬の上をまわって雄冬灯台のそばに抜け、ここから雄冬の浜に下る道があった。一
般に雄冬山道と呼ばれてきた。もともとは、浜に点在する番屋を結び、番人やアイヌの人々が緊
急の時に利用することによって自然に出来あがった踏み分道だったらしい。明治30年(1897)代前
半になったとおもわれる「北海道殖民状況報文・石狩国」の浜益郡の項に、次のようにある。
運輸交通ノ不便ナルハ本道罕ニ見ル所ナリ。県道ハ厚田郡ョリ通シ、当郡ノ海岸ヲ経テ天
塩国増毛郡ニ至ルト雖モ、厚田郡ニ出ルニハ、濃昼、ウクリキ両山道ノ嶮所アリテ、夏期
ハ漁夫、商人等ノ往来スルモノアリト雖モ、冬期ニ至レハ積雪深ク道路ヲ埋メ、僅ニ交通
スルモノアルニ過キス。又増毛郡ニ至ル海岸道路ハ絶壁海岸ニ時チ、諸所嶮峻ナル所アリ。
従来頗ル交通ニ困難ナル所ナリシカ、明治二十六、七年ノ交、郡民醸金シテ群別ョリ雄冬
岬ニ至ル数里ノ間、絶嶮ヲ夷ケ、橋梁ヲ架シ、爾来、交通稍便利トナリ、旅客ハ総ヘテ此
道ニ依テ往復ス。増毛山道ハ古来難所ヲ以テ其名著ハレ、且道程長キヲ以テ旅客ノ困難ス
ル者多カJ シカ、海岸道路成功以来、全ク交通スル者ナシ。
すなわち、雄冬山道は、明治26年(1893)から27年にかけて浜益郡民が賃金をだしあって工事が
おこなわれ、旅客が比較的容易に交通ができるようになり、そのため増毛山道は、全く廃道にな
ってしまったらしい。明治26年には、北海道庁内務部土木課の鹿島久太郎から時の増毛外5郡郡
長林顕三に道路調査報告「増毛浜益間道路開鑿調査報告書」が提出されており、明治27年に浜益
村を事業主体とし、国庫の補助金をえて、雄冬山道の工事がおこなわれたのである。支出された
村費は、大部分が村民の寄付によったものであろう。
また、 「殖民公報」第57号(明治43年11月刊)の「増毛厚田間各山道状況」は、
昔時、増毛山道又は雄冬山道と称せしは、増毛場所より浜益場所に通する山道にして、人
により其呼称を異にしたれとも、其後、此山道は大部分荒廃して僅に其南北両端の小部分
を利用するのみ。別に道路を開き、中間雄冬の海岸に出て、同所より北を増毛山道、南を
雄冬山道といへり。
雄冬山道は増毛市街より西方三十町なる別刈の海岸より山道に入り、約三里にしてフユシ
に達す。同所には官設駅逓所一戸あり。フユシより約二里、右折して急坂を下り海岸に在
る岩雄に達する道と山間を直行する道とに岐ると雖も、山間道路は旧道にして通行者なく
荒廃に属せり。岩雄は約百戸の漁業部落なり。夫より赤岩と称する断崖の海汀を過き約一
里にして雄冬に達す。此間、数箇の岬角あり。
極めて急峻なるを以て岩石に攀ち、辛ふして越ゆることを得。雄冬は百戸余の漁業部落な
り。本山道は岩雄、雄冬間の外は皆山間を通し、概ね熊笹、其他の雑草道を狭み、樹木頂
上に迫り、降雨、若くは融雪の際は、流水の為め道路恰も溪状を呈する所あり。
雄冬山道は雄冬より幌に至る四里余の間を称す。雄冬より急坂を上り、海岸線約一里にし
て山間線に合す。此山間線は増毛山道の連絡道路なり。即ち山間線に出て、より約一里に
してチシベツに達し、一里弱にしてトコタンに達し、約二里にして幌に達す。チシベツ、
111
トコタンは共に数十戸の溪間の漁業部落にして、幌は百八十戸の小市街をなす。本山道は
増毛山道と其状況を同じふし、迂曲高低甚しく、歩行甚た困難なり。冬期間交通殆んと杜
絶す。
と伝えている。 このころには、雄冬部落から増毛方面への山道も開かれていたのである。この
「殖民公報」の説にしたがえば、安政4 年(1857)に開削されたハママシケ場所とマシケ場所を結
ぶ山道、すなわち雄冬岬を大きく迂回し、浜益御殿のすそ、御殿峠の高所を通る山道は、増毛山
道、あるいは雄冬山道の両方で呼ばれていたことになり、海岸沿いの各部落を結ぶ山道が開かれ
ると、雄冬部落を境に、増毛方面にむかう雄冬~別苅間が増毛山道、浜益方面にむかう雄冬~幌
間が雄冬山道と呼ばれるようになったらしい。
北海道庁時代に入ると、明治37年(1904)から石狩と浜益郡群別問の仮定県道の開削工事がは
じまり、明治41年(1908)まで続いた。さきにみた村民の出費による群別から先き、雄冬までの
雄冬山道の工事も、この仮定県道工事に刺激されたものであろう。しかし、浜益郡への道路交通
が、この仮定県道工事によってそれ程改善されたとはおもわれない。北には、すでにみたように
増毛、雄冬の両山道の難所がひかえており、南の濃登、送毛の両山道も、険しさでは、それ程、
劣るものではなかった。明治43年(1910)頃の濃昼山道は、 「石狩国厚田郡に属し、濃昼、ヤソス
ケ問約三里(118km)の問を称す。此問道路は一線にして或は山間に入り、或は海岸絶壁の上を過
き、曲折高低最も甚たしく、樹木陰鬱として昼尚ほ暗き所あり。降雨の際の如きは交通殊に:難
にして、冬期は交通杜絶す。近来厚田より船客、又は鮮魚搭載の目的を以て、毎日一回若しくは
数回小船を本山道問の海上を通するを以て旅客の八、九分は皆船便に依れり」 という状況であっ
た。このように南北に険しい山道があるため、浜益郡への自動車交通は、滝川方面からはじまっ
ている0
浜益~新十津川問の連絡里道工事は、明治35年(1902)から38年にかけておこなわれた。この路
綿は浜器川のト流泥川から浩水峠をこえて使富川ト流の北幌加にで.西徳富を涌って新ート津川に
通じた。道路の開削にともない、明治37年4 月に西徳富駅逓所、同年5 月に泥川駅逓所が設けら
れ、さらに明治42年(1909)には中間に幌加徳富駅逓所が設けられている。また、明治39年には青
山奥から浜益や新十津川方面への原野道路がつくられている。
浜益~滝川問の路線は、大正5 年(1916)に大改修が加えられ、泥川から当別の青山四番川に抜
け、当別と樺戸の郡境に掘削された青山トンネルを抜け、そこから南幌加をへ、西徳富に通じる
ようになったという(『浜益村史」昭和55年刊)。現在の主要道道滝川浜益線の原形であり、歩
行に楽な平坦地を通っくいるため、従来の清水峠越道路は廃道となり、濃登、送毛山道を通行す
るものも殆どなくなった。この道路の開削にともない、大正8 年(1919) 3 月に西徳富駅逓所が廃止
されて、 4 月から新置の南幌加駅逓所にかわり、大正12年3 月で幌加徳富駅逓所も廃止された。
大正12年に、滝川~西徳富間に定期バスが運行されると、この道路の利用価値は飛躍的に増大し、
浜益の練場出稼者の多くは、国鉄滝川駅で乗り降りし、小樽からの汽船便利用者も、荒天が続き
そうな場合には、鉄道で滝川を経由した。
1 12
昭和4 年(1929)滝川~浜益間道路を自動車道路に改修するための測量がおこなわれ、昭和5 年
から工事がはじまり、昭和9 年に工事が完成するとすぐに、滝川バス株式会社により滝川~浜益
間直通バスの運行が開始されている。第二次世界大戦後になると、この路線の改良がすすみ、青
山トンネルも大型車輸の増加に対応できるように付け変えられ、昭和35年(1960)度より舗装工
事もはじまった。そして昭和37年度からは冬期間の完全除雪も実施にうつされ、 「陸の孤島、浜
益」の名を返上することができた。この間、当別~青山四番川間の改良工事もすすみ、すでに冬
期交通が確保されていたので、札幌方面との冬期自動車輸送も確保され、昭和40年(1965)には当
別~青山四番川間のバスが浜益、幌まで延長されている。
ー・方、石狩からの海岸道路の本格的な改良工事は、昭和30年代に人ってからである。まず、昭
和27年(1952)度から昭和29年度にかけて、浜益~厚田間のうち、毘砂別~送毛問送毛山道の準備
的な改良工事がおこなわれている。旧来の山道利用を基本に、一部改良を含めて路線を設定し、
切盛土工や管渠工を主とし、毘砂別登口から切り始め、人力施工で工事がすすめられた。沿線住
民の期待が大きいため、送毛部落にできるだけ早く達するように、構造令の最低規格を適用し、
曲線や縦断勾配なども特例で規格外を使用し、工費の節減をはかった。昭干1129年(1954)度は予算
の都合から工事を中止し、路線ルートの基本を決定するための測量調査だけがおこなわれ、工法
や施工法を再検討した。この昭*1127年からの工事は、葛折れの急坂路で、のちの本改良工事の際
に、資材運搬路として利用された。この間、昭和28年(1953)に、この路線が二級国道231号線(札
幌~留萌)に指定された。
昭和30年(1955)度から従来の請負方式を直営方式に改め、作業に機械力や火薬を導入するなど
施工方法を一新し、同年9 月に改めて起工式をおこなった。昭和27年から連年続けられた調査、
測量では、従来の山道より海岸寄りの緩斜面に重点がおかれていたのであるが、工期と工費面で
難点が多く、できるだけ早く送毛部落まで車を通すために、やはり従来の山道線に沿って工事を
すすめることになり、昭和33年(1958)に送毛山道が完成、浜益から送毛まではトラックが通れる
ようになった。つづいて昭和34年から送毛~濃昼間の改良工事がはじまり、昭和38年には、浜益
方面からの自動車は、濃昼まで通行することができるようになった。
厚田村安瀬から浜益村濃昼間、いわゆる濃昼山道の不通区間を解消し、海岸沿いに道路を開削
する工事が、昭和39年(1964)度からはじまっている。集塊岩、凝灰岩からなる急しゅんな海崖が
連立しているため、トンネルと海岸よう壁の建設、あるいは海に張り出して桟橋を設け、その上
を道路を通すという難工事の連続であった。昭和41年には区間の中央、太島内に拠点を設け海上
輪送によって資材を搬送するなど工事の促進をはかり、 8 年の歳月と33億円の事業費を投人して
完工し、昭和46年11月5 日厚田村安瀬の滝の沢トンネル前で開通式がおこなわれた。「かいはつ」
第30号(昭和46年12月20日刊)によれば、約7.4kmの区間中にトンネルは、 4 箇所(滝の沢、ルー
ラン、太島内、赤岩)、その延長は2, 737 mに及び、区間の37%がトンネルであり、また海岸よう
壁は合計3, 387 mで、区間の45.8%に及んだという。滝の沢トンネルは、1, 242 mで、従来の稲穂
トンネルを抜いて道内で1位となった。
113
この間、毘砂別~浜益間の道路改良も昭和38年(1963)度からはじまり、昭和46年度までに一段
落した。厚田~浜益間で残された難所は、かつての送毛山道、浜益村送毛~毘砂別問11.3kmで、
すでにみたように曲線や縦断勾配などに特例で規格外を使用したため、通称「七七曲」といわれ、
平均勾配10%の劣悪な山岳道路で、自動車は時速10-20kmの低速運転をしいられていた。そのた
め、この道路の山側に大きく迂回する新ルートが計画され、昭和46年に着工した。昭和51年(1976)
篇e器、鷺篇31纂:器鸞■■響
うちでも難所の1つで、 6 年もの歳月を要し
た。なかでも、通称「三角点山」の中腹でお
こなわれた延長1,901m の送毛トンネルは、条
件の悪い岩質のため、地すべりや地下水に悩
まされた。新道は旧道に比べると、1.8km短縮
され、標高は401 nlから207 mに、最急勾配は
13%から5 %に、曲線部は125筒所から21箇所 ー般国道231号増毛町新武好
に改良されたのである。 覆道に続く武好トンネル
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浜益と増毛の中間にある雄冬は、明治期に雄冬山道、増毛山道の工事がなされて以来、ほとん
ど手がつけられずに放置され、長い間「陸の孤島」 と呼ばれてきた。ここに本格的な道路工事が
はじまったのは、昭和も戦後になってからである。
まず、昭和33年(1958)から増毛側、雄冬~ ・二
別刈間の工事がはじまっている。検討されて 、 ‘
いた雄冬 ~大別刈間の海岸ルートは、トンネ ぐり
ル工事 が多く、長年月を要するということで -与P
断念し、孤島解消のため、早期開通をめざし ,一‘,,
て山ルートをとることにし、暫定幅員で着手
した。 “
大別刈側からのー方工事のため、なかなか 寿
進捗せず、昭和37年(1962)には資材を海上輸
送し、岩尾~雄冬間を着工した。在来路を暫
‘ ニ
】 」
-h
恐 雄
こ”貫“ー一一ーーーし一rー
二護鷺ー勲糞選マ,‘亡;」雌
一‘二を¥,h鍵驚軸,尋縄r撫~こー一1”一aー=二
‘ず 与雪
ー般国道231号増毛町湯泊トンネルの
上から汐の岬トンネルを望む
定幅員の2. Smで開削し、昭和38年に完成し、この区間に軽自動車が走れるようになった。昭和42
年には、早期完成をはかるため、中間の歩古丹にも仮荷揚場を設け、ここからも工事がはしまっ
た。その後も、日方泊、湯泊、赤岩に基地を設けて工事の促進をはかり、峻険な地形のため度々
ルートの変更がなされるなどして、昭和55年(1980)11月に供用が開始された。
ー方、浜益側千代志別~雄冬間工事は、昭和48年(1973)度より、千代志別、雄冬の両側からは
じまった。昭和49年には事業の進捗をはかるため、中間のタンパケに突堤を築き、資材を海上輸
送し、昭和50年(1975)から本格的に、ここからも工事をすすめ、昭和56年11月10日に開通した。
114
灘一
J
千代志別~雄冬問5.5km余に9 年の歳月と事業費130億円が投
入されたことになる。全延長のうち3. 9血余、約7 割がトンネル
および覆道という難工事であった。 トンネルは、千代志別トン
ネル、ガマタトンネル、タンパケトンネル、雄冬岬トンネルの
4 箇所、このうちガマタトンネルは延長2, 060 mで当時は全道最
長のトンネルであり、非常警報装置、消火器、非常電話などが
設けられている。
この千代志別~雄冬間の開通により、札幌~留萌間一般国道
231号が全線開通したことになり、昭和56年(1981) 11月10日に増
毛町と浜益町の境界線にあたる白銀の滝で盛大な開通式がおこ
なわれた。
第5 節 砂浜の道(増毛~稚内)
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ー般国道231号浜益村タンパケ改
良工事一断崖に挑んで敵前上陸
第ー歩の海岸擁壁一雄冬岬トン
ネル南側より望む0979年)
1.信砂越山道
文化5 年(1808)クスリ場所詰合大塚惣十郎の指揮によって、 露
東蝦夷地から西蝦夷地増毛に馬を送るため、白糠から斜里場所“
監
に至る網走越新道の開削が始まり、文化7 年に竣工し、馬6 匹堅
が送 られたという(松浦武四郎「蝦夷日誌」、時事通信社刊 」
「原始謾筆風土年表」によれば雌馬2 匹)。このことは、石狩
方面からの馬の輸送は、雄冬岬の難険にさまたげられて不可能
であったこと、また、斜里からオホーツク海岸に沿って宗谷、
宗谷から日本海岸に沿って増毛までは砂浜つづきで、さしたる
難所もなく、馬足がかなう程度の径路があったことを物語って
いる0
また、この文化5 年には、石狩支流沿いのヲシラリカから増
毛場所ヌプシャ(信砂)にでるヌプシャ越新道も竣成している。
安政3 年(1856) 5 月松浦武四郎は、このヌプシャ越を探査して
いるが、その際に武四郎が石狩場所支配人を審問した様子を次
麓
舞、、
露鷲藤 )考
競
ぐ
糾」 熱
(
ー般国道231号雄冬岬
トンネル・雄冬市街
直
さ
1lう
のように記している。
五月七日(安政三丙辰)。石狩元小屋に於て支配人を呼、当所より川筋ウリウなるヲシラ
リカを上り、山越にして西地マシケ領ヌプシャ越の事を問ふに、左様の事-切存じ申さず
よしにて取合申さず。いかんとも致し難き故に、先年写し置し先私領の時引渡し書とヲム
シャ申渡しを示し、此の如き書物も有て見れば、其道当時は絶たり共、是を知る土人有べ
しと談ずるに、夜壱人(シノロ乙名エンリシウ、六十ー才)の者を召連来る。此者幼年の
頃、会津家御引移り之節、御供仕候由に付、此者を先導とすべしと。外に土人八名を雇
(トック乙名セツカウシ、トミハセ、イタハウシ、上川土人アイランケ、ニホウンテ、イ
ワンハカル、中川土人イコツチール)、定役立石元三郎を同道す。 (「蝦夷日誌」時事通信
社刊)
ヌプシャ越は、安政年間には、すでに廃絶していたこと、また、文化5 年(1808)に蝦夷地警衛
を命じられた会津藩士が、ヌプシャ越を通って勤務についたことを知ることができる。
松浦武四郎が指摘している 「私領の時引渡し書」 と 「ヲムシャ申渡し」は、次のようなもので
ある
ー、石狩中川よりマシケ領ヌプシヤ越新道御切開通路之儀は、文化五辰年に諸家御人数通
行に付出来仕、其後御役人様方御通行も之れなきに付、当時大破に及、休泊所も之れな
く、通路仕義相成申さず候。夷共之儀は古来より之古道通路仕候由。当時はノプシヤよ
りイシカ1内イタイベツえ出、夫よりヲシラリカえ出、夫より石狩大川船場え差往返仕
候由に御座候(文政五年午二月石狩十三場所支配人源左衛門印)。
一、小川辺住居之者共、冬春之間飯料に差支候節、マシケ、ル、モツぺ辺え山越致候夷も
之れ有る趣相聞候。右様之義之れなき様申付候。右手当として年々番人共越年候者用意
致置候間、飢饉之節は早々願出申すべく、且又、他場所飢渇に及相越候節は撫育致し置、
其段早ケ中出^ミく候亨(松前家ヲノ・シヤ中渡)v
文化2 年(1805)に幕府がロシア使節レザノフの通商要求を拒絶したことにより、文化3 年から
4 年にかけてレザノフの部下であるフヴォストフ、ダヴィドフらが樺太や千島に上陸し、運上屋
の襲撃をくりかえしたため、わが国の北辺は、にわかに緊張がたかまった。幕府はこれに対処す
るため、文化4 年に松前、西蝦夷地の収公を決定するとともに、これまで蝦夷地警衛にあたって
きた南部、津軽藩に増兵をもとめたほか、秋田、庄内、仙台、会津など各藩に出兵をうながして
いる。この時期の山道の開削は、北辺の危機に対処し、軍事上の必要から緊急に開削されたので
ある。 さきにみた網走越新道もそうであり、このヌプシャ越もそのーつである。 したがって、こ
れらの山道は、応急的に開削され、危機がさると荒廃するものが多かった。
ヌプシャ越山道も、 「ヲムシャ申渡」でみたように、アイヌが利用していた小径を利用したに
すぎなかったのである。ヌプシャ越新道の開削については、増毛場所の請負人であった伊達家の
文書、 「諸用留」に、
去ル辰年当ましけ場所ノフシャ川通新道切開仰渡され候ニ付、右場所御普請目論見として
116
同年五月御懸り御役人中様御越年成られ、右道筋御見分之れ有り候故、る、もつへ支配人
文右衛門并私、其外当初夷人とも召連御案内仕候上、 ましけ、いしかり、両所地境之儀ル
ウチシト申所之峠ヲ先年より夷人共境ニ仕候而申上置、猶夫より先、御見分之れ有り。然
所、其節仰渡され候ニ者、いしか里之儀者休泊所等多、手遠ニも之れ有候間、追々ニ者何
連江も、先当分之内いしか里持場所之内をも、ましけ場所ニ而休泊所とも進退いたし候儀
仰渡候ニ付、御普請仕候とも、右ルウチシよりイタイヘツ迄凡四里程此所御休泊所、同所
よりヲモシロナイ休泊所まて凡弐里十九丁程之れ有り。尤当方より石かり之方江御通行御
方々様御継立者ヲシラリカ迄御賄方之儀右申上候。 ヲ干シロナイと申御昼所迄者、当まし
けニ而進退仕、其上右三ケ所通行家普請等まてもましけニ而取扱罷在候
とある。文化8 年(1811) 3 月に増毛場所支配人である久兵衛から御詰合御役人衆中にあててださ
れた嘆願書である。これによると文化5 年5 月に、蝦夷地で越年した役人が、ルルモッぺの支配
人文右衛門を案内として、道筋を確定し、恐らくは、関係する石狩場所と、増毛場所の場所請負
人に命じて開削したのであろう。要所に休泊所や昼休所がおかれていたのであるが、さきにみた
文政5 年(1822)の「引渡書」 にあるように、まもなく廃絶されたのである。
この路線は石狩、札幌方面から雄冬岬をさけて、日本海岸の増毛や留萌方面へ抜ける唯一の路
線だといってよく、北海道庁時代に入ると、再び脚光を浴びることになる。
2 .仁奈良山道の開削
初代北海道庁長官岩村通俊は、明治20年(1887)の施政方針演説で、中央道路を含む三幹線道路
を整備する方針を打ちだした。樺戸~北増毛間道路、いわゅる信砂越の路線もそのーつにあげら
れていた。岩村の幹線道路整備の方針は、三県の廃止、道庁設置の行政改革を断行するのに重要
な役割を担った太政官大書記官金子堅太郎の北海道巡見で打ち出されていた構想の具体化にほか
ならない。金子の『北海道三県巡視復命書』では、全道道路網の根幹となる中央道路の築造の急
務を訴えるとともに、委員を命じて道路線を画定すること、集治監の囚徒を道路開削に使役する
こと、道路を開築すると同時に排水路を開通すること、新開の道路に屯田兵を置くこと、四項に
わたる築造順序、方法にもふれていた。樺戸~北増毛間道路の開削も、これに沿ってすすめられ、
道庁初期の道路事業を特色づけている囚人道路のーつである。
明治20年(1887)10月道路線の測量がはじまった。『北海道庁事業功程報告』 (明治20年度)は、
その模様を次のように伝えている。
札幌区ョリ天塩国増毛郡増毛ニ至ルノ道路ハ石狩、厚田、浜益ノ諸郡ヲ経、濃昼、増毛ノ
両山道アリ。其険悪甚ク、行旅概子海路ニ由ルト雖モ、風濤起ルニ会スレハ、淹留数日、
来往杜絶スルニ至ル。然ルニ其路線ヲ転シ、石狩国樺戸郡月形村ョリ増毛郡信砂川ノ近傍
ニ出ル山道ヲ開鑿スレハ里程大約二十里許、従来ノ道程ニ比シ稍遠シト雖モ、地勢ハ石狩
及雨龍河畔ニ沿ヒ、概子平夷ニシテ、且殖民必適ノ地沿道ニ散在シ、将来ノ利益蓋シ鮮少
ナラス。依テ先其路線ヲ測リ、難易得失ヲ察シ、後開鑿ノエヲ起サントス。今其蹈檢スル
1 17
所ニ據レハ、唯信砂川傍近少ク傾斜ノ急ナルノミ。然レトモ其勾配一割ヲ上ラス。他ハ概
子険ナラス。工事亦甚タ容易ナルヘシト云 プ十月測線ニ着手シ、十二月降雪ノ為中止セ
翌21年(1888)には、測量も完全に終わり、 4 月から月形村字晩生内より樺戸監獄の囚徒を使役
して工事がはじまっている。道幅を2 間(3.6In)とし、両側、あるいは片側に幅2 – 4 尺(0. 6
-1.2m)の排水を設けた。明治22年には、中央道路工事や、屯田兵屋の建設に囚徒が使役された
ため、トツクブト近傍まで、800間(1.51cm)余を開削したにすぎなかった。翌23年も役囚不足の
ため、請負人の手に委ねばならないなど、工事は遅れがちであり、路線もー部手直しされている。
その全行程は次のようなものである。
本工事ハ、石狩国樺戸郡月形村字「オソキナイ」ニ起リ、 「トツク」 ヲ経テ、 「エタイべ
ツ」川沿岸ヲ潮リ、 「ニナンコシナイ」ニ至リ、ーノ山脈ヲ踰へ、信砂JIに譲’I.ヒテ天塩国
増毛郡舎熊村海岸道路ニ連絡シ、其延長ニ十五里二十九町五十六問、道幅二間乃至三間、
長六尺乃至百八尺ノ橋百三十九ヲ架セントス(「北海道庁事業功程報告」 明治23年度)
明治24年以降も工事が続けられたらしいが、詳細は不明である。 「増毛町史」 によれば、明治
25年(1892)秋には、道路が開通し、翌26年春に増毛郡長高岡直吉が、その検定にあたったとい
い、また、明治27年(1894)には北龍村和の吉植庄一郎が、この道路は幅が広く、除草が困難であ
ると北海道庁に陳情したとしている。
道路築造中は、増毛新道とか、増毛道路とか呼ばれていたが、・一般には仁奈良山道と呼ばれた。
また、幹線道路と期待されたわりには、道路築造の効果はあがらなかった。
「殖民公報」 第4 号(明治翼年9 月刊)は明治34年(1901)に開削すべき道路として、ホロニタ
チべ~留萌間道路をあげ、
従来増毛より雨龍に通する仁奈良山道線は道路険悪にして、人馬の通行、貨物の運輸困難
を極め、僅に郵便榔大の通行するに止まるか如き盲様なり。然るに石狩、天塩の殖M地大
に発達し、海陸の物産留萌、増毛に集中すると共に、陸路両国を連絡すへき必要に迫り、
本道開整の急務は両国の人民に依りて夙に唱道せらる。因て此道路九里二十一町二十六間
を開磐せんとす。
と述べている。仁奈良山道は、単に郵便脚夫が必要に迫られて通行するだけであり、殖民地とし
て発展する石狩と天塩を結ぶ連絡路としては、まったく不備だったのである。新しく計画されたホロ
ニタチべ~留萌間道路は、北龍と留萌とを結ぶ道路であり、明治34年(1901)中に完成している。
この道路の完成により、仁奈良山道は、ほとんど廃道に等しくなってしまったという。
3.海岸道路の築造
増毛から宗谷に至る海岸道路については、 「開拓使事業報告」第弐編(明治18年刊)が、開拓
使が廃止される明治15年(1882)前後の様子を次のように伝えている。
増毛ョリ舎熊、阿分、留萌郡礼受三村ヲ経テ留萌ニ至ル四里三十町、海岸砂石平坦ナリト
118
雖モ概子嶮悪ナリ。留萌ョリ三泊村、於平蘂川、天登雁村ヲ経テ鬼鹿ニ至ル六里余、海岸
ニ循ヒ或ハ山腹ヲ迂回シ平坦ナラス。鬼鹿ョリ又海岸ニ沿ヒ苫前郡力昼村、古丹別川渡船、
白志伯村ヲ経テ苫前ニ至ル五里、概子砂路平坦ナリ。此ョリ焼尻、天売二島ニ渡海場アリ。
焼尻へ海里十二里余、天売へ同十四里余。苫前ョリ羽幌川、築別川渡場ヲ経テ風連ニ至ル
八里、此間一里許波浪岸ヲ拍チ頗ル嶮悪、土人此ヲ走リト云。風連ョリ天塩郡遠別村ヲ経
テ天塩ニ至ル八里二丁、夫ョリ天塩川ヲ渡リ幌延、砂流、抜海、稚内、声問ノ村落、及声
問川、増保川ヲ経テ宗谷ニ至ル二十三里余、海岸砂路、抜海村字累乱ョリ山道声問村宇遠
内ニ至ル捷路アリ。峻嶮ナレトモ積雪ノ外旅人概子此道ニ由ル。
この間には、山道らしい山道もなく、わずかに抜海から野寒布岬を経ずに直接声問に抜ける山
道がみられるだけであった。とはいっても、増毛~留萌問は、 「海岸砂石平坦ナリト難モ概ネ嶮
悪」、留萌~鬼鹿間は、 「海岸に循ヒ或ハ山腹ヲ迂回シ平坦ナラス」 であり、また、苫前~風連
間のうち1里ばかりは、 「波浪岸ヲ拍チ頗ル険悪」で、波間を縫って走り抜けたため、 「走り」
と呼ばれたという。これは、初山別から風連(風連別川川口付近)間にある金比羅岬付近をさし
ていたらしい。武四郎の『蝦夷日誌』 (時事通信社刊)に、初山別をすぎ、シャリヤン泊にいた
ると、「此處より九折、少しを上り平岩、しばしを過フウレベツに下る宜し。是も文化度開きし也
」 とし、 「是より汐干の時、浜通りをば崖下(三丁三十五間)、エオヘウシナイ(小川)、エナ
ヲ岬、 此處南は苫前、北はハツカイと並出る大岩二つ三つ有。 (七丁四十八間)エカウシナイ
(小川)、此處風波ある時通り難し。依て上道出来たる也。(七丁三十間)フウレベツ(川幅五、
六間、橋有)、名義赤川と云義」 とあるのが、この難所なのであろう。いずれにしろ、増毛から
宗谷にいたる海岸通は、部分的には人手が加わっていても、多くは番屋から番屋に通う人びとに
よって踏み分けられ、自然に出来あがった道であり、いつの日か本格的な道路の築造がなされね
ばならなかった。
石狩と天塩を結ぶ仁奈良山道の開削が終わると、明治27年(1894)には増毛~留萌間道路工事と
苫前~宗谷間羽幌川橋ほか11箇所の架設工事が相次いで始まった。前者は、延長2, 714間(4.9k皿)
余、幅2 間半~4 間(4. 6m -7. 3m) 、橋梁11箇所、工費8,822円を予定し、この年9 月9 日に着
工した。後者は、羽幌川橋が、長さ35間(63. 6 m ) 、幅2 間(3. 6m)であったほか、イカウシナ
イ川橋、セタキナイ川橋、モセキタナイ川橋、初山別川橋、モオコタシベツ川橋、 トコトンナイ
川橋、ウツナイ川橋、マルマウツツ川橋、ウブケマウシュベツ川橋、クトネベツ川橋の10橋は幅
1 間(1. 8m)で、工費は4,237円で、この年11月9 日に着手した。増毛~留萌間道路工事も、苫
前~宗谷間架橋工事も、年度内に竣工せず、翌年にエ事をもちこした。
この間、明治25年(1892) 4 月19日の出水のため流失した留萌橋の架設工事が、明治26年6月8
日からはじまり、工費1, 980円費し、同年11月12日に竣工している。新橋はハウトラス式橋梁で、
全長180尺(54. 5in ) 、幅13尺(3. 9m)であった。
明治29年になると、築別、羽幌、古丹別、留萌、ヲビラシべ(小平)の各原野の仮道あけエ事
がはじまり、明治30年代から40年代にかけて天塩国や宗谷国の各原野の開拓が本格化し、これに
119
ともない海岸道路の開削も進んだ。明治35年(1902)から天塩~苫前問の道路工事が始まり、明治
36年には留萌方面天登雁村から伸びてきた道路に継続して、鬼鹿~苫前間の道路工事も着工し、
翌37年にはウエンナイ~抜海問の道路工事が竣工した。
明治40年代に人ると、明治43年(1910)には上サロベツ原野、上サロベツ原野から下サロベツ原
野間、天塩川口原野の各里道工事がはじまっており、これらによって現在の天塩大橋から稚内に
抜ける一般国道40号の原形もできあがったのであろう。
4 .主要道道稚内天塩線
天塩川の川口を船で渡り、海岸沿いに抜海
を通り、宗谷に抜ける路線は、江戸時代から
重要路線だったことはすでにみたとおりであ
る。 しかし、背後に不毛のサロベツ原野がひ
ろがっているため、道路の整備が取り残さ
れ、サロベツ原野を迂回し、山際を走る現在
の国道40号の路線が主要幹線として整備され
ていくことになった。 また、.天塩川には、江
戸時代からの歴史をもつ河口近くの基線渡船 主要道道稚内天塩線稚内市坂の下
場のほか、幾つかの渡船場がみられたが、次
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より利尻富士を望む
第に姿を消し、昭和32年(1957)に現在の-ー般国道40号にかかる天塩大橋が完成して最後に残った
振老渡船場も姿を消した。
現在、サロベツ原野の海岸沿いには、どこまでも続く直線の2 車線の舗装道路が走っている。
稚内市中央3 丁目を起点に、天塩町新栄通り4 丁目にいたる総延長68. 1kmの主要道道稚内天塩線
である。もともとは稚内ー抜海開道道抜海港線と、抜海~天塩間道道抜海天塩線などからなって
おり、昭和47年(1972)度から開発道路として工事がはじまった。昭和51年4 月の路線名の変更に
より、稚内港町3 丁目より天塩町までの区間
- 6血が稚内天塩線に認定され、昭和54年
には若干の変更がなされて今日にいたってい
る。昭和57年度には開発道路の全区間が完成
し、昭和58年1月主要道道稚内天塩線の全線
の供用が開始された。天塩川川口には全長500
m の天塩河口大橋が架けられ、昭和57年末に
完成している。昭和62年には、全線が舗装さ
繊
れた。 稚泊航路で賑わった稚内港北防波堤ドーム
天塩河口大橋はタ日と利尻富士が美しいところであり、この路線は利尻・礼文・サロベツ国立
公園のただ中を通っており、沿線には自然の砂丘や原生花園がひろがっている。天塩河口大橋か
120
ら北上すると利尻富士が刻々と姿をかえ、日本海オロロンラインと野寒布岬や宗谷岬を結ぶ観光
ルートとして期待される。また、国道40号のバイパスとしての役割や、宗谷地区の産業や経済の
発展に貢献できるであろう。
参 考 文 献
1.古川古松軒
2 .菅江員澄
3.江差町史資料編第4 巻
4 .時事通信社刊
5 .吉田武三・三一書房
6.大蔵省
7 .松浦武四郎
8 .吉田武三・三一書房
9.高倉新ー郎
10.江差町
12.島歌郵便局
13.北海道新聞社編
14.北海道立図書館所蔵
河野常吉資料
15.松前町史史料編第2巻
16.蘭越町史:蘭越町
17.田草川伝次郎
19.余市町
20.共和町
21.北海道出版企画センター
22.梅本通徳
23.古平町
24.斉藤兵市
東遊雑記
えみしのさへき
定書并用留
蝦夷日誌(松浦武四郎)
自筆松浦武四郎伝(定本松浦武四郎)
開拓使事業報告
再航蝦夷日誌
燼心除赤(定本松浦武四郎)
北の先覚
江差町史通説編第2 巻
太櫓郵便局業務概要出
電信事務開始調査事項調書
北海道道路53話
北海道殖民状況報文・後志国
湯浅此治日記
南尻別村沿革誌
西蝦夷地日記
遠山・村垣西蝦夷I.1記
余市町史
共和町史
丁巳東西蝦夷山川地理取調H誌
北海道中央バス株式会社二十五年史
古平町史
積丹国道開発にともなう住民生活の
社会的効果に関する調査
天 明 8 年
寛 政元年
昭 和37 年
昭 和 47 年
明 治18 年
嘉 永 4 年
昭 和 48 年
昭 和22 年
明 治31 年
明 治33 年
昭 和 54 年
昭 和 39 年
文 化 4 年
文 化 3 年
昭 和 47 年
(松浦武四郎) 昭 和 59 年
昭 和 45 年
昭 和 52 年
121- 札幌開発建設部、石狩町 と せ ん
- 北海道出版企画センター 戊午東西山川地理取調日誌(松浦武四郎) 昭 和 60 年
- 北海道出版企画センター 北海道殖民状況報文・石狩国 昭 和 62 年
- 北海道庁 殖民公報
- 浜益村 浜益村史 昭 和 55 年
- 北海道開発局 かいはつ(第30号) 昭 和 46 年
3L
金子堅太郎
北海道庁
増毛町
北海道三県巡視復命書
北海道庁事業功程報告
増毛町史
写 真 提 供 者 ー 覧
ー般国道229号瀬棚町の三本杉岩
―般国道231号石狩町石狩河口橋
一般国道231号増毛町新武好覆道に続く武好トンネル
ー般国道231号増毛町湯泊トンネルの上から汐の岬トンネルを望む
ー般国道231号浜益村タンパケ改良工事断崖に挑んで敵前上陸第ー歩の海岸擁壁
雄冬岬トンネル南側より望む(1979年)
ー般国道231号雄冬岬トンネル・雄冬市街
主要道道稚内天塩線稚内市坂の下より利尻富士を望む
稚泊航路で賑わった稚内港北防波堤ドーム
明 治18 年
昭 和 49 年
函館開発建設部
札幌開発建設部
留萌開発建設部
同
札幌開発建設部
留萌開発建設部
稚内開発建設部
同
122
3 本願寺のみち(虻田~札幌)
氏 家 等
第1節 概 要
本願寺道路は、本願寺街道、有珠新道、虻田街道とも呼ばれる道路である。名称のとおり東本
願寺によって開削された道路であり、東本願寺が開削した次の4 本の道路のひとつである。
1.軍3Iはり砂原に至る4 里半(17. 7km)の新道
2.江差街道の大改修
3 .山鼻より西方発垂別に至るI 里半(5.9km)の新道
4 .札幌の平岸より伊達村尾去別に至る26里10町(103. 2km)の新道
明治維新当時、明治新政府の実状と立場は最も微妙であった。国内的には、戌辰戦争による出
費が財政的な困窮をもたらし、他方、ロシアの南下によって北方警備に力を入れ、北海道の開拓
を急がねばならない情勢にあったのである。しかし、新政府にはそれらを遂行するだけの力はな
く、民間の協力と援助を必要としたのである。維新前後の動乱期に、東本願寺は幕府と新政府と
の間にあって、新政府の信用を得なければならなかった、といった見方もあるが、ともあれ、東
本願寺は宗徒の移住開拓と布教活動を行うなどの目的をもって新政府へ協力、北海道開拓、新道
開削といった大事業に着手したのであった。
新道開削の中でも本府札幌から尾去別までの開削工事は、最も困難なものであった。約1年聞
の工事期間で明治4 年(1871) 10月に完成するが、中山峠が険しい難所であるため、明治6 年に完
成する札幌新道に幹線道路としての役割を譲らねばならなかった。実質的には利川者もあまりな
く、明治27年(1894)に県道虻田新道として開
通するまでは、 荒廃した道路であった。
しかし、 この道路を唯一
‘ .:
住し、生活物資や生産物資を運搬した人々 ,麟- とっては重要な道路であったことは言っま、 i■、 夢
もない。ましてや、今日の」ヒ海道の発展にと ”鵞縄いー ー
っては、道内でも最も重要な道路のひとつで“声横こ二『 ;猫 あったことは周知のところである。 こういっ -
たことからこの本願寺道路の開削は、歴史的 中山峠に建立された現如上人の銅像
にも意義深いものであったと考えられるのである。
事,
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伊
.・け
‘
- 」・、 - 一」た
下
東本願寺の大事業に、先頭をきって指揮にあたったのは、若干19歳の現如大谷光瑩上人であ
123
った。この現如上人の業績を記念して、昭和42年(1967) 10月8 日中山峠に上人の銅像が建立され
た。
この道路は、現在の国道230号(札幌~虻田間)であるが、交通機関の近代化といった時代的背
景、あるいは北海道の表玄関である函館と札幌を結ぶ最短ルートであること、背後に観光地とし
て有名な支笏、洞爺国立公園が控えているといった諸条件から道内の幹線道路の中でも最も重要
な道路のーつである。
この道路が交通安全、舗装、滞雪帯といった面を考慮し、整備されたのは昭和44年(1969)であ
った。しかし、難所として知られる定山渓から中山峠までの間は、険しい地形と複雑な地質であ
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図3 -1 札幌~虻田間道路
りそのルートを決定するため大変な時間を要したのであった。遅れている定山渓と中山峠問の工
事に着工したのが昭和39年(1964)であり、完成したのが同44年(1969)であるが、当時としては最
も高度な技術を駆使したものであった。
このように本願寺道路から現在の国道230号線に至ろ変遷をたどってみると,現如上人が率いる
僧侶たちの尽力、移住まもない亘理藩の人々、和田村の人々、多くのアイヌの人々の協力、また、
松浦武四郎をはじめとする探検家や、幾度となく行われた道路工事に携わった人々の労力をもと
に現在の道路が存在するのである。
I24
第2節 本願寺道路前史
本願寺道路が完成する以前、有珠あるいは虻田から中山峠を経て札幌、石狩へと至る道路がな
かったのはもちろんのことである。しかし、現在のところ、飛騨屋久兵衛、近藤重蔵、松浦武四
郎など江戸時代において著名な大商人や探検家といった人々が中山峠越えをしているといわれて
いる0
ここではまず、これら代表的な人々が果して中山峠を越えたのか否か、越えたのであればどの
ように越えたのか触れてみることにしたい。
1 .飛騨屋久兵衛と峠越え
飛騨屋久兵衛が松前藩に蝦夷松の伐採を願い出て、事業を開始したのは、元禄年問といわれて
いる。以来、この事業は明和6 年(1769)に伐採の請負を返上するまでほぽ独占的に続いたのであ
る。蝦夷地から伐採された蝦夷松は、江戸や大坂へと回漕された。江戸では献上台、障子、曲げ
物などの製作に利用されたといわれている。このように蝦夷松が利用された背景には、東北地方
を中心として桧が枯渇したこと、また、蝦夷松の年輪が密で筋が通り、においがなく桧の代用品
として適していたためである。飛騨屋が伐採した材木の量は、1年間に1万石から1万8, 000石、1 年
間の運上金が600両から2,000両であった(「松前
、 % 町史」)といわれることからも、厖大なものであ
ったことがうかがえる。
享保期から明和期にかけて飛騨屋が杣入した
場所は、臼山、厚岸山、石狩山であった。石狩
山が現在のどこの山にあたるかは明確ではない
が、材木を流送していたのは、尻別川であった。
しかし、 「飛騨屋文書」によると 「当年は去
々年の山囲并去年の柚取材木共に相応出来仕候
に付、当年江戸、大坂え拾五六艘なりとも積登
せ申度存し奉り候所、借船殊の外払底にて、夷
J霊.ー Hh ,l士主、王望由巻十佐lーイ寸 左の々t;軍暫泊;イ古fト ~一一 、一 ‘ .. ’『ノ、’'”I」 」 ~.コー 、・ l Iソ、’ー’」 、 I 」 ーノノIー~ハ『~J ‘”‘I ・
‘
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寒し一
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候。殊に当年尻別え初て材木和出申候間、船積
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寿喬ぎ一
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■■搬;燕;燕1 (rvi 7s EJ ;:L1
登・
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、 灘 り11と 醸 ・熱 撃麟網『) )い 襲一
舞
難1蕪声
露ぎ聖I掌愛鷲桑無
巨
; 一い二」 ‘ ”ーハ」 にぐ-’‘り ーマ、」星一”」“、、二 いる0
「唐桧山ー手請負伐出之場所の図」 宝暦3 年(1753) 7 月28日の「蝦夷地伐木願
(北海道大学附属図書館蔵) 書」には 「石狩湊へは海上遠く、江戸、大坂廻
図3 -2
に5
船運賃高値にても望申さす、拠ところなく引越願上け奉り候。然共最早引越の儀も今、明年柚取
仕候場所ならて材木御座なく候。之れに依り此度願上け奉り候御山方仰付けなされ下置かれ候は、
此節より手船、仕入船等心懸、御当地、南部、津軽の内え中漕仕らせ、夫より江戸、大坂に雇船
にて積登せ申度存し奉り候」(「新北海道史 第7 巻」)とあり、尻別川からの流送を石狩川へと
変更を願い出ている。また、同願書には「柚共往来の儀は、尻別御山の通、臼あぶた番所より山
越に通用仕度存し奉り候。尤飯料、塩噌等の儀は、柚入仕候前年に石狩湊え手船にて遣置候様に
願上け奉り候。」(「新北海道史 第7 巻」)とあり、柚夫は虻田側から食料は石狩へと運ぶとしている。
これらのことから、石狩山というのが尻別川、あるいは石狩川(豊平川)の上流にあったことを意味すると考えられる。つまり、石狩山の位置は、中山峠の近くであると思われる。
また、この石狩山伐採事業に関連する飛騨屋文書には、亨保13年(1728)から宝暦9 年(1759)の間に製作された「唐桧山ー手請負伐出之場所の図」が岐阜県下呂町教育委員会、北海道大学附属図書館(図3 一2 )に現存している。
以上の記録等から、飛驛屋久兵衛あるいはその使用人といった人々が18世紀中頃、中山峠越えをしたものと思われるのである。
2 ,近藤重蔵と中山峠越え
近藤重蔵は、徳川幕府の幕臣であるが、北方探検家として著名な一人であり、寛政10年(1798)
から文化4 年(1807)まで幾度も蝦夷地内を探検している。この間、択捉島からの帰路、広尾海岸
沿いの道が危険であり、千島警備の上でも安全な道路が必要とし、ルベシベツよりピタタヌンケ
に至る道路を開削したことは有名なことである。
また、文化4 年(1807)、利尻島出張の帰路石狩地方の探索をした上で、蝦夷地の首府を置くな
らば、水陸交通の便からも石狩地方が良いと建言したことは、後々の歴史に大きな影響を与えた
のである。
この石狩地方を探索した時の記録は、 「タカシマ、プタルナイの奥十二里モ入然ルヘキ地所へ
陣屋取立候方ニモ之レ有ルヘク哉サツホロノ西テンゴ山ノ辺ハイシカJ 川口ョリ凡一日路ウスア
ブタョリ凡三日路是ハ口地モ四方へ出張候ニハ宜シカルヘク候ヘドモー体地所狭キ様ニ相聞へ申
候弥中土へ陣屋ノ処御取立同所へ然ルヘキ御役人ヲモ差置カレ候儀ニ候ハ、右三ケ所ノ内トクト
見分仰付ケラレ候方ト存シ奉リ候」 とあり、重蔵が、有珠、虻田上り峠越えすると3 日の所にま
でおよんでいる。しかし、との記録からでは中山峠越えをしたと断言することは難しいn
また、近藤重蔵と旅を共にした田草川傳次郎が残した「西蝦夷地日記」によると、利尻からの
帰路、10月4 日にアツタ(厚田)を出発、10日にはイシカ)(石狩)を出発してツイシカ3 へ、
10月11日はツイシカリを出発、イチャリプト(漁太)、 ]0月12日イチャリブト出発シコツ(支
笏)へ、13日イチャリブト出発ヲサツ(長都)を経てビビ(美々)へ、14日ビビを出発、中15日
勇武津出発し白老へ到着する、といった行程である。
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このように田草川傳次郎の日記には、利尻からの帰路に中山峠越えをしたことが記されてないが、重蔵が田草ill 共に来たのは石狩までで、その後の帰路は不明である。これらの記録を合わせみても、やはり近藤重蔵が文化4 年(1807)、利尻から帰路に中山峠を越えたと明確には言いがたいのである。 しかし、一般的には、近藤重蔵が文化4 年に峠越えをしたことが常識となっている。 - 3 .松浦武四郎と中山峠越え
松浦武四郎は、弘化2 年(1845)に初めて蝦夷地に渡って以来、幾度となく蝦夷地を探検し、数
多くの書物を残している。
武四郎が中山峠越えをしたのは、安政5 年(1858)であり、その記録は『戌午東西蝦夷山川地理
取調日誌』上巻に収められている。
即ち、函館を同年1月24日に出発し、 2 月1日有珠の会所に到着、中山峠へ出発にあたり武四
郎の日記には、
四日吹雪なれども三田氏代島氏同道にてモロランえ出立。余はアフタえ来り案内土人を
申付、 ト子ンバク、エナヲテキ、ショウロク、 トベヲク。此内ェナヲテキ、ショウロクえ
鍔一枚遣す。また、ウスよりコロク、イカシハコロ両人を呼、都合六人を申付。五日、酒
弐升遣し、木幣を削ずらせて山神を拝せしむ。今日吹雪。昼頃より出立せんとしトウヤえ
至るに八ツ頃に到りてますます甚しきまま帰り宿し、六日 風雪 八日 暖気にして少し
雪も落着候まま、三田氏の出立を見送り、余はト子ンバク、エナヲテキ、ショウロク、 ト
ベヲク、コロク、イカシハコロと外にアンバロと申若ゐもの一人に大五疋を召連出立する
に、会所を出て土人村の中を通り、フレナイも雪にうづもれ、何処をそれと見わけがたく、
三丁上りてフウレナイ、過、坂道を上ること五日の日よりも雪落着て橇も大に軽く、上る
こと廿丁にて
とある。案内人7 人と犬とで出発し、カンジキによる歩行であった。
洞爺から向洞爺、留寿都、喜茂別を経てルベシベナイ(中山峠)に到着したのは15日であった。
この部分の記録をみてみると、
ルベシベナイといえるに到る。此辺の名は惣て誰も未だ知りたるも無。只むかしの猟夷
どもよりコロク、 ト子ンバク等聞居て、此山は如何見ゆるによって恐らくは何と云処なら
ん、 と申事にて、敢て此辺りえ常に此者等来りし事有ることはあらず。此処にて川幅も二
間計に成、石皆赤く、樹は樺と椴計。川の端には赤楊・槲柏・せん・楓・柳も有り。此辺
針位亥子に向ふ。是より上最早小屋を架るにも樹木のみ成。水も無成が故に、爰にて止宿
と定む。扱、先此辺りにて止宿するには、第一雪をよく踏堅め置、其上え一囲も有るべき
椴の木をニツに割五本並べ、其上に川中より石をも運びならべ、其上え土有るときは土を
敷ども、土なきが故に皆朽木を軟にして是を敷、其上に火を焼事なり。また家は椴の枝を
卸し、これをもて葺ならぶ事也。然し此葉にせよ実にせよ、飯鍋の中に落る時は、至て苦
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きものなり。故に鍋かくる処は屋をふかざるなり。又敷ものも椴の葉用ひて、只其の上に
丸寝にする也。思いの外に寒からざるものなり。着ものは皆鹿の足皮を用ゆ。惣て魚皮の
方がよろしけれども、魚皮は少し火の近くえよるや、直に其処よりやぶる、ものなり。夜
に入ト子ンバク貂二疋をまた得来りしま、、是を料理し七人にて喰しばし臥たりけるが、
月の未八ツ過と思ふ頃に空を眺むれば、実に珍しき快霽なりしかば、今日は直に山越せん
と飯を炊きまし、各々焼飯を用意して天明をぞまちたりけり
と野宿をする方法、あるいは食べ物、衣服などに関することも詳細に記録し、雪中の旅の様子を
伺い知ることができる。
山頂では、
ルベシべなるべしと思ふ辺りになる哉、両方の山上に大岩があると思ひしが、其近くに
行見たりしかば、岩にてあらず皆三尺五尺位の五葉の松に雪が冠り、また嵯峨たる樺木に
雪がふり積みたるにして其辺りえ行やぬかりて、三尺四尺の枝の底に落ちて、甚過うかり
しこともありけり。また、此処は第一の頂上になるが故に、西は次に図するごとくにウス、
アフタの海辺より、東は石狩、ユウフツの海辺より、一散に吹き来る風なるが故に、其冷
き事は頬面を吹切るごとく連立しものに何事を云ふとも、風に吹取られて少も聞えず、時
々五葉の松の枝の間に落るが故に、身は雪にまみれて其の雪は衣類へ凍つき、身ゆるぎも
なりがたき計りなり、実に此辺りにては人寒地獄と云はさぞかくも有るべきかと思ふ程な
りけり。先は爰ぞ山越えと思ふ時、土人どもは雪の中に蹲踞して、荷より柳の木をぬき、
小刀もて削花を作り其山にさして、纔時拝して途中安をぞ祈り出けるが、此処左りの方は
ムイ子ビと云、ョイチの山つ‘き。左りの方は鳥帽子の如き大岩山え雪降つマき、ーツの
大山をなし、其下は雲霧ふかくして底を見わかたざりしが、其の向ふと思ふはサツホロイ
トコのよしに見ゆ。是より・爪先下り凡七八丁も下るに、ムイ子ビの東の方出るや、戊亥の
方にョイチ岳顕れ出、辰巳の方にサツホロ山々波涛のごとく、子の方にシュマノホリ等露
れたり。丑寅の方は石狩の平野、武蔵野もかくやという計りに、其四方は何処ともわかち
がたく、是より二十丁計も下り米て、樺・松の有る処に出り。此処にて火を焼、先一休し
て雪をわかし、是に彼飯を人れて喰す。
と眺望する平野や山々の様子を記してある。 もちろん、この時代ではまだ中山峠という地名では
なく、ルベシべ(越路)と呼んでいるあたりであろう。 また、周囲の地名ばかりでなく、峠での
寒さやカムイノミの様子なども記録してある。
峠からの下りは 「定山渓辺りにて」II巾に温泉有とト子ンバク、ショウワク見当りー一同驚嘆し先
は此処に来りたりせぱ最早三四日にて石狩へ下る事必せり。此間中の草臥を此処にて休むべし」
とあるように皆で休息をとっている。 この温泉はおそらく定山渓温泉のことであろう。19日には
真駒内から藻岩、豊平、琴似、手稲、星置を経て20日には石狩へと到着している。
石狩へ到着後の文面に次のように記してある。
此山道の一条は近藤守重が献策中に「ツイシカ1は蝦夷の四通発達中央の地にてアプタ
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え三十里」と志るしたるも、何によってか此の如く誌るされしと思うに、ツイシカリのルビヤンケなる者の話し 「むかし大なる殿壱人ルルモッべなるヌブシャよりヲシラリカ之越来り、其より川ままツイシカJ まで下り此処よりアブタえ越られし人有り、其後間宮倫蔵といえるは当所より川入してホロまで到り、其より奥は行くことを得ずして帰りぬ」其節
此ルビセンケは飯炊と致し行たりと。よって考る時は其大なる殿と申は、近藤守重の事ならんと。
とあり、武四郎が近藤重蔵が何故虻田からツイシカリまで30里としたかという疑問は、古老の話から重蔵がここから虻田へ向ったことによるものと考えたようである。
旅を終えた武四郎は、すぐさま道路開削についての具体的な意見を 「山越内領ヲシャマンべ又アプタ辺より札幌新道見込書」 としてまとめ次のように述べている。
東地従リ山越内領ヲシャマンべ石狩領サッポロへ新規街道見込に附、先以取敢えす右の大略申上け奉り候。
東地山越内領ヲシャマンべより二里半余東アブタ領シツカJ 迄の処は、是迄有来り候海浜街道にも之れ有り候。同所より切上石狩領サッポロ川端字トイビラ迄の処、凡経緯度は山岳の眺望の遠近を以て其大略相考候処、凡直径十八、九里も之れ有り候。此処山脈に依て山岳には屈曲羊腸を以鑿附候はぐ、凡私共見込三十五、六里に相成候。其間シツカJ を出先以一里斗山越スツ、ベツの川源を越、其よりアブタ、イソヤの境目コンボ山麓へ上り申候に、此間凡八里にて一宿仕候。其よりマチネシリ山の麓を通りヒンネシリ北の麓え廻り、シリベツ川筋え下り字ルウサン此間凡八里斗にて又一宿仕候。
其よりシリベツ川筋一里斗上り字キムンベツ川筋へ差て上り、此小川儘凡五里にて字モアンと申候処にて一宿仕候。其れよりルウペシぺ岳へ上り候道凡当時は堅雪にて甚近くは見受候得共、是又容易の峠に御座なく候。是を越申候下り候て凡六里にて今度見付候温泉元え出申候。此処にて一宿仕候。其よりトイビラ迄凡八里にも御座候。山中新規止宿所四
ケ所取立致し候。其内シリベツ川端ルウサンの儀はアブタよりは凡十里も御座候得共、当時可也馬足も相立申候。其内沼を三里斗にて越候はf一日にも随分参り候に宜敷候問、彼方には其ルウサン近辺え先づアブタ土人三、四軒も土着仰付けられ候。土地も至極宜敷候問畑地開墾仰付けられ夏秋は川漁、冬春は山猟致置せられ、コンボ山麓是又レブンキ并ヲ
フケシヘシべの三ケ所より五里半斗ならで御座なく候間、是又土人共同所の者三、四軒の移住の上畑作、并山川の漁猟致せられ、兎も角此ニケ所を行々先足留と見込御取懸り遊はされ、又石狩の方はサッポロ川筋如何に山険敷、多くは岩石にてトイビラより二、三里奥よりは畑地見込の場所も見当り申さす候間、今般探し当り候温泉迄の処凡八里斗の処、早
々道形御切開同所へ板屋にても一棟御取立置せられ、隣場よりは湯治人も罷越入湯仕候様にて、其処を足留りと仕候追て人足も相倍候様遊はせられ候はf 、右川筋の材木切出しの山稼人も追々入込候様行々は相成、土地繁昌の業とも相成候哉に存し奉り候。此辺の処は是非此湯を以て業と遊される等、然るへく、左候はぐ峠以西ルウサン峠以東湯元其間凡十二、三里の処は、又々簡弁し工風も追々と相附無益の人力を相費し、過分の金穀相費候に申すに及はす候事も之れ有るへく存し奉り候。
只今の処先以一応踏試候には中々容易ならす御入費に候間、御切開に相成候共ルウサンより湯場迄、蜀嶮にて相倍候地勢人馬の御継立も当時差当り心当之れなく候。依て行々は兎も角当時の処西はルウサンえ土人を置土地開墾を以起業を立、東は右湯治場を先以創と仕置候方と存し奉り候間、何卒右両所の儀御恩召立の程偏に希み奉り候。是又御廻浦の節篤と其他勢御覧在らせられ候御英断の程願上け奉り候間宜敷御取成の程願上け奉り候。
以上
二月二十一日
渡辺 良輔殿
石狩運上屋に於いて
松浦 武四郎
武四郎はこの道路以外にも必要な道路の開削を提言したことはいうまでもないことである’が、とりわけ、石狩平野でもサッポロに中心を置き、虻田から中山峠を越える新道を開削するという提言は、後に東本願寺によって開削されることとなった東本願寺道路に多大なる影響をあたえたのである。
以上、中山峠越えをしたといわれている飛騨屋久兵衛、近藤重蔵、松浦武四郎の足跡を各々たどってみた。 3 人が踏破したいずれの道もおそらくまったく何もない原野をたどったわけでないであろう、草分け道、あるいはケモノ道といったところをアイヌの人々に先導されて歩いた、とみるのが自然な考え方であろう。
これら3 人が蝦夷地を踏破した江戸時代末期は、ロシアの南下と同時に北方警備という国家的問題が台頭し、その解決がしだいに急務を要する問題となっていった時代である。このような背景の中で、近藤重蔵や松浦武四郎が蝦夷地の開発拠点ゃ、道路開削などに示した判断は、後世に大きく影響を与え、その秀れた洞察力には驚嘆させられるばかりである。
第3 節 東本願寺道路の開削
徳川幕府から明治政府へと政権の交替がなされた後も、北方の警備ン開拓という問題は、政府が直面する最も大きな政策のひとつであり、兵や物資を運搬する道路を開設することが急務であった。
天皇から下された御下問にも「皇道興隆ノ件」、 「知藩事被任ノ件」、 とならび「蝦夷地開拓ノ件」 と記されていることからもその重要性をうかがい知ることができる。また、明治2 年(1869) 7 月開拓使が設置され、初代長官として任命された鍋島直正に命ぜられた「蝦夷開拓詔書」
130
一
も、上記の意を解したものであった。
しかし、政府はこのような状況下にあっ
て、現実的には戌辰戦争での巨額の出費もあ
り、北海道開拓のために多くの予算をふりむ
けることは不可能であった。このようなこと
から、政府は、明治2 年から4 年にかけて民
業による道路整備を行なった。東本願寺道路
は、その代表的なものなのである。
. ,I
、
旧本願寺街道の標柱(中山峠)
1 .北海道新道開削の出願
明治維新の変革期に際し、東本願寺の立場は、今までの幕府との伝統的関係と新政府との問にはさまれて極めて微妙なものであったと考えられる。 「北海道百年」上巻では、この問題に関し東本願寺は、維新の際、幕府へ加担し、朝廷に反抗した償いとして北海道の道路開削を命令されたとの見解を示している。これに対し、東本願寺側は、 「東本願寺北海道開教百年史」の中で東本願寺は維新の際に朝廷に反抗した事実は全く無く、 「北海道百年」の記述は間違いであるとしている。
いずれにしても東本願寺のおかれた微妙な立場からみて、新政府へ協力し、何よりも松前藩時代からの教権を継続するばかりでなく、よりその力を拡大するためには北海道の開拓事業を援助することが必要であったのではないだろうか。
かくして東本願寺は明治2 年(1869) 6 月5 日、次のように北海道開拓の出願を行なった。
今般蝦夷地御開拓の御主意御下問之れ有り候由拜し承け奉り候、然る処私門末の儀は、従来松前並に蝦夷地に五ケ寺掛所取立、出稼の人敷是までも教導仕居候処、日増皈依の者之れ有り候、就ては蝦夷地の義は周回のみ通路之れ有り、山中一切道筋之れなく、何分不自由之地に御座候間、冥加として如何様の御奉公も仕るへく候得共、差当り新道切開、石狩、久摺、十勝之深山も追々四通八達の域に相成候様致し、且有志の輩は所々新開村落移住致させ、彼地土人は申すに及はす、諸方より出稼之者も異教に流れ申ささる様仕、御国恩に報い度存し奉り候、以上。
六月五日
本願寺東門主使 下 間 大 蔵 卿
弁事 御役所
このように、出願の要旨は、新道の開削、農民移住、および教化普及の三つを重点とした内容であった。
この出願に至る経緯について「東本願寺北海道開教百年史」では、 「朝廷は西本願寺に対し重ね重ね無理なことを頼んで助けて貰った。そこで、北海道開拓は、今度は東本願寺にお頼みしようということになり、三条実美から東本願寺に内談があったということである。東本願寺は朝廷からの御頼みであるから謹んでお受けした。」 と記している。また、 「新撰北海道史」第三巻通説二、では、 「その出願要領は、同時として本道における従来寺院設定、出稼人教導等の由緒を纔述し、現状内部の欠陥に即して、内部への道路開通を急務とし、移住を促進し、教化の大任を痔さんとする誠意を披露したのである。」 と述べている。
新政府が国内的にも、国際的にも最も力をいれなければならない北海道の開拓と警備、これにはまず道路の整備か不可欠であるが、しかし現実的には予算的な措置が無理であり、組織的な力を有する東本願寺に協力を得る必要があったのであろう。
この東本願寺の願出に対し、同年9月6 日には次のような御沙汰書が太政官から下された。
御 沙 汰 書
東本願寺 光 勝
今般北海道新道切立 願之通仰付ケラレ候ニ付
開拓使之指揮ヲ受ケ 尽力致スヘキ旨御沙汰候事
(「太政官日誌」)
さらに開拓使には、 「今般本願寺東門ョリ北海道新道切立之儀、且有志之僧徒新開村落へ移住人民教論致サセ度段、願之通差許サレ、万事其府へ伺出旨申渡候問、此段相達候事。但北海道土地支配仰付ケラレ候藩々へ心得トシテ其府ョリ相達スヘキ事」(「開拓使日誌」)といった御沙汰書が太政官より下されたのである。この沙汰を受け、東本願寺では早速準備にとりかかり、下調査を行うための調査隊を組織した。
これには本願寺旧家老であった松井逝水他4 人をあて、道路開削および寺院設置場所の選定といった調査目的で北海道へと出発、調査を終えたのは明治3 年(1870)の3月であった。出発に際し、松井らは、当然のことながら、虻田から札幌への道路開削などを提言した松浦武四郎に東京で会い、北海道の情報や助言を受けたのである。当時、松浦武四郎は,開拓使の判官であった。
ルートの選定にあたっては、この松浦武四郎の影響が大きかったのはもちろんであるが、開拓の進展に必要な道路整備の中でも重要なのは内陸の道路であり、当時すでに西蝦夷地と東蝦夷地を結ぶ千歳新道が安政4 (1857)年に完成していることから、虻田と本府を結ぶこのルートを選定したものと思われる。
2 .現如上人と北海道開拓への旅
「北海道東本願寺由来」によると現如上人は、 「中にも最も本道と因縁深きは、実に真宗大谷派本願寺第廿二世法主現如上人其人である、今順序として同上人の界歴を窺はんか、現如上人は諱を光堂幼名光養君と呼び愚邱は其別号である、即ち嚴如上人の長子で、母君は邦家親王の御息女高枝宮にして嘉永五年(1852)七月廿七日生誕せられ、萬延元年(1860)十二月初て得度し、文久
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