MENU

新千歳市史 第1章 行政と議会 より抜粋

目次

第1章 行政と議会 より抜粋

札幌オリンピック恵庭岳滑降競技


恵庭岳滑降コース
 昭和47 (1972)年の第11回オリンピック冬季競技大会(札幌オリンピック冬季大会)アルペンスキー競技—滑降(ダウンヒル)は、2月5日に女子滑降、7日に男子滑降が千歳市の恵庭岳において行われた。札幌市外で開催された唯一の競技だった。
 札幌は39年1月に1968年第10回オリンピック冬季大会招致にフランスのグルノーブルに敗れ、41年4月26日にイタリア・ローマで開催されたIOC総会で開催が決定している。
 41年7月に大会組織委員会が発足し9月初めから恵庭岳滑降コースが検討され、20日に恵庭岳が内定した。しかし、40年にJOCが発行した対IOC回答書添付資料(技術パンフレット)
である『SAPPORO(第11回オリンピック冬季大会開催地に立候補している札幌の計画)』に 「(恵庭岳南西斜面のコース) 1961年4月にFIS滑降回転競技委員長フリードル・ウォルフガング氏によって視察調査され、認定された」とあった。厚生省とは未折衝であったがオリンピックは国家的事業であり許可は形骸的なものだった。
 滑降競技会場の建設には北海道自然保護協会が反対、厚生省国立公園局も同様だった。恵庭岳は国立公園特別地域にあり、エゾマッ、トドマツなどの原生林で覆われていた。厚生大臣許可は43年7月4日に下りたが、「大会終了は施設を撤去するとともに、伐採跡地には、早急に従来の林相を回復し得るような方法で植林すること」という条件が付された。
滑降コース建設
 ㈱岩倉組のコース造成立木伐採、資材輸送のため口一プウェイ工事が安全索道㈱
によって許可後すぐに始まった。起工式は9月19日、秋晴れのなか日章旗とオリンピック旗を翻させた女子滑降コースフィニッシュ地点で灘尾文部大臣、竹田組織委員会副会長、後に札幌オリンピック担当大臣になる苫小牧選出の西田信一参議院議員、米田千歳市長ら150
人余りが出席して神式で執り行われた。
 男子滑降コースのスタ—卜標高は1126m、コース全長2636m、最大斜度は37度(平均17度)、女子にあってはスタ—卜標高が870m、全長2108m、最大斜度35度(平均14度)となっていた。
 滑降競技施設建設の総事業費は最終的に8億3360万2000円となり、競技施設整備事業費全体の9%を占める大規模なものとなった。
聖火
 オリンピックムードを盛り上げ冬季スポーツの振興を図るものが聖火リレーであった。昭和46 (1971)年12月28日にオリンピアで採火された聖火は、47年元旦に羽田に到着した。
 2日、神宮外苑国立競技場から国内聖火リレーが開始され、20日には函館に着いた。道内聖火リレーは函館のほか、釧路と稚内には航空機で運ばれ3ルートで行われた。道内最終日となる29日午前、朝日町8丁目からサントリー㈱千歳プラントまでの4区間を青葉中•千歳中・千歳高生徒、陸空自衛隊員がリレーを行った。聖火は午後2時過ぎ、無事に北海道庁赤れんが庁舎前に到着した
聖火は主競技会場であった真駒内スピードスケート競技場のほか、手稲

11
山と恵庭岳の滑降競技場でのみ灯された。
恵庭岳の聖火台は恵庭岳滑降競技場聖火分火台と呼ばれ高さは約
8
揆、

8
日に工事着手し
12

25
日に完成した。
聖火は開会式当日の
2

3
日に分火され、女子滑降コースフィニッシュ

上手で競技最終日
7
日まで燃え続けた
0
滑降競技

恵庭岳の滑降コースは、昭和
47

2

3
日から
13
日までの本

1
番を迎えた。

27
日、滑降コースは
F
I
S
アルペン競技部の検査に合格、技術顧問

団であるイタリアの
R
・ブラットナーは「自衛隊員の人海戦術で見事な

コースができた」と札幌オリンピック支援集団滑降競技支援隊
(

7
特科
連隊
3
3
4

)
の労苦を讃えた。ま
た、競技レフリーの
1
人は過去
25

のうちで最高のコースであると賛辞

を送った。良好な雪質を裏付けるよ

うに恵庭岳では出場選手全員が転倒

することなくフィニツシュするとい

う滑降競技史上まれな結果を残した。
日程は
4
日女子
N
S
T
(
ノンス

トップトレーニング
)

5
日女子滑

fスイス、オーストリアなど
13


41
選手
)

6
日男子
N
S
T

7

男子滑降
(
スイス、オーストリア

ノルウェーなど
20
カ国
55
選手
)
となっていた。
女子では
17
歳の彗星マリーテレーゼ・ナディヒが、男子では後の長野と

ソチのオリンピックで滑降コースを設計したベルンハルト・ルッシが金メ

ダル、ともにスイスだった。女子の表彰式は
8
日に手稲山女子大回転競技

場運営本部で、男子は
10
日に真駒内屋内スケート競技場で行われた。
競技期間中、札幌市内からは
1

13
往復の北海道中央バスが、湖畔から

はオコタン行の支笏湖観光運輸

の客船が観客輸送唯一の手段だった。
野ざらしの顕彰碑

昭和
61 ( 1 9 8 6 )

10
月、『朝日新聞』は 「汎幌

オリンピック滑降競技入賞者顕彰碑が恵庭岳山中に野ざらし状態で放置さ

れている」と日本体育協会
(
日体協
)
の現地調査の結果を報じた。
恵庭岳の顕彰碑は縦横
1
• 2
打の白御影石の台座に
1
打四方の黒御影石

の銘板を取り付けたもので、銘板には滑降競技男女の
1
位から
6
位まで

の入賞者名と国名
3
文字コードが刻まれていた。『朝日新聞』の報道以降

千歳市教育委員会は、日体協、道体協、札幌市を訪れ所有権と管理責任が

どこにあるのかを調査したが、はっきりしたことは分からずじまいだった。
千歳市は移転先として「開催地である千歳での移転を考慮願いたい」と

口頭で日体協に申し大れ、翌年
3
月には千歳移転が正式に決まった。
恵庭岳山麓の雪解けを待って市教委職員が顕彰碑を市内へ搬出した。当

切、青葉公園に新たな台座を作り公開することを考えたが検討の結果、
10
弓にはスポーツセンタ—
1
階ホール・アリーナ入口の壁に銘板が取り付け

られた。いたずらを恐れての措置だった。
銘板の設置にあたって、失われたシンボルマークプレートが復元された。
組織委員会が林相復旧計画のある恵庭岳に顕彰碑を設置して
15

放置

の新聞報道から
1
年、銘板は千歳のスポーツの殿堂に安住の地を得た。
オリンピックの傷跡

滑降競技場建設の条件となったコース跡の緑化復なっていた。
女子では
17
歳の彗星マリーテレーゼ・ナディヒが、男子では後の長野と

ソチのオリンピックで滑降コースを設計したベルンハルト・ルッシが金メ

ダル、ともにスイスだった。女子の表彰式は
8
日に手稲山女子大回転競技

場運営本部で、男子は
10
日に真駒内屋内スケート競技場で行われた。
競技期間中、札幌市内からは
1

13
往復の北海道中央バスが、湖畔から

はオコタン行の支笏湖観光運輸

の客船が観客輸送唯一の手段だった。
野ざらしの顕彰碑

昭和
61 ( 1 9 8 6 )

10
月、『朝日新聞』は 「汎幌

オリンピック滑降競技入賞者顕彰碑が恵庭岳山中に野ざらし状態で放置さ

れている」と日本体育協会
(
日体協
)
の現地調査の結果を報じた。
恵庭岳の顕彰碑は縦横
1
• 2
打の白御影石の台座に
1
打四方の黒御影石

の銘板を取り付けたもので、銘板には滑降競技男女の
1
位から
6
位まで

の入賞者名と国名
3
文字コードが刻まれていた。『朝日新聞』の報道以降

千歳市教育委員会は、日体協、道体協、札幌市を訪れ所有権と管理責任が

どこにあるのかを調査したが、はっきりしたことは分からずじまいだった。
千歳市は移転先として「開催地である千歳での移転を考慮願いたい」と

口頭で日体協に申し大れ、翌年
3
月には千歳移転が正式に決まった。
恵庭岳山麓の雪解けを待って市教委職員が顕彰碑を市内へ搬出した。当

切、青葉公園に新たな台座を作り公開することを考えたが検討の結果、
10
弓にはスポーツセンタ—
1
階ホール・アリーナ入口の壁に銘板が取り付け

られた。いたずらを恐れての措置だった。
銘板の設置にあたって、失われたシンボルマークプレートが復元された。
組織委員会が林相復旧計画のある恵庭岳に顕彰碑を設置して
15

放置

の新聞報道から
1
年、銘板は千歳のスポーツの殿堂に安住の地を得た。
オリンピックの傷跡

滑降競技場建設の条件となったコース跡の緑化復なっていた。
女子では
17
歳の彗星マリーテレーゼ・ナディヒが、男子では後の長野と

ソチのオリンピックで滑降コースを設計したベルンハルト・ルッシが金メ

ダル、ともにスイスだった。女子の表彰式は
8
日に手稲山女子大回転競技

場運営本部で、男子は
10
日に真駒内屋内スケート競技場で行われた。
競技期間中、札幌市内からは
1

13
往復の北海道中央バスが、湖畔から

はオコタン行の支笏湖観光運輸

の客船が観客輸送唯一の手段だった。
野ざらしの顕彰碑

昭和
61 ( 1 9 8 6 )

10
月、『朝日新聞』は 「汎幌

オリンピック滑降競技入賞者顕彰碑が恵庭岳山中に野ざらし状態で放置さ

れている」と日本体育協会
(
日体協
)
の現地調査の結果を報じた。
恵庭岳の顕彰碑は縦横
1
• 2
打の白御影石の台座に
1
打四方の黒御影石

の銘板を取り付けたもので、銘板には滑降競技男女の
1
位から
6
位まで

の入賞者名と国名
3
文字コードが刻まれていた。『朝日新聞』の報道以降

千歳市教育委員会は、日体協、道体協、札幌市を訪れ所有権と管理責任が

どこにあるのかを調査したが、はっきりしたことは分からずじまいだった。
千歳市は移転先として「開催地である千歳での移転を考慮願いたい」と

口頭で日体協に申し大れ、翌年
3
月には千歳移転が正式に決まった。
恵庭岳山麓の雪解けを待って市教委職員が顕彰碑を市内へ搬出した。当

切、青葉公園に新たな台座を作り公開することを考えたが検討の結果、
10
弓にはスポーツセンタ—
1
階ホール・アリーナ入口の壁に銘板が取り付け

られた。いたずらを恐れての措置だった。
銘板の設置にあたって、失われたシンボルマークプレートが復元された。
組織委員会が林相復旧計画のある恵庭岳に顕彰碑を設置して
15

放置

の新聞報道から
1
年、銘板は千歳のスポーツの殿堂に安住の地を得た。
オリンピックの傷跡

滑降競技場建設の条件となったコース跡の緑化復元工事は昭和
48
年から
61
年までの間、
32&
で行われた。急斜面からの土砂の流出に配慮し、施設の解体材、ロープウェイ駅舎の基礎コンクリートなど目立たない低構造の工作物や金網が有機的に使われた。
 植栽樹種は画一的にならないよう配慮されたというが、伐採樹種だったトドマツは植栽されず国家的大事業の後始末としてはお粗末なものだった。滑降競技から
40
年以上を経た平成
28 (
2
0
1
6
)

3

6
日の『北海道新

聞』は、林相復元を航空写真とともに次のように伝えた。
一帯を管理する石狩森林管理署によると札幌五輪の翌年からコース跡にア

カエゾマツなどの針葉樹と、イタヤカエデなどの広葉樹が植林された。ただ、
標高の高い部分を中心に周辺の自然林よりも針葉樹の密度が高かったという。
 針葉樹は冬になっても落葉しない種類が多く、この時期は植林したコスが新緑の帯のように見える。同管理署は自然林と同じ密度とするため、2004年に針葉樹を間引くなどした。それでも、元の姿に戻すのは難しい。

この記事が気に入ったら
いいねしてね!

  • URLをコピーしました!

コメント

コメントする

目次