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0009 道路情報館シリーズ1|札幌・千歳間道路物語

No.0009
分類
タイトル札幌・千歳間道路物語
発行年月日H15/10/01
発行者道路情報館

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目次
道路工事史上に輝く金字塔をうち立てた……2
戦後はじめての本格的な自動車道が出現した……3
工事の着手の経緯……6
昭和二十七年秋に着工となる……7
改良・舗装工事の概要……9
かくして札幌千歳間道路が開通となる……16
その後の国道三六号の工事につて……24
余録 島松駅逓所とクラーク博士記念碑……26
参考文献……28
あとがき……29

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安全保障諸費
 連合国軍の進駐以来、道路交通の確保は、占領政策の遂行に極めて大きな関係を有していたので、舗装新設及び維持修繕等については調達命令すなわちPD命令にっつて道路工事が行われた。
 その工事は、駐留軍と日本政府の関係が変化してゆくにつれて次第に扱いも変わってゆき、地域的にも限定的に、駐留軍の使用している演習場・基地・工場・病院等の施設への連絡道路として、特に駐留軍車両の通行のはなはだしい道路の改良・舗技または演習場等に安全保障諸費の費目から支出されて行われ、通称行政協定道路事業として実施された。

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道路工事史上に輝く金字塔を打ち立てた

 第二次世界大戦後のわが国道路技術の中で、まずその第一に挙げられるものに昭和二十八年(ー九五三)十一月完成の国道三六号「札幌・千歳間道路(通称弾丸道路)」がある。この道路建設の快挙は、日本全国に「北海道の土木技術」の名を高らしめたものであつた。
 この道路は日米行政協定に基づく安全保障諸費という、特別な財源で建設されたものであり、下命から五〇日内外で基本設計を取りまとめ、そして調査・設計を完了させ、契約を済まし、わずか一年余という短期間で、延長34.5kmの改良•舗装道路を完成させたものであった。

 この工事には道内外の精鋭各社が参加し、北海道開発局の直営機械班も参加して、その持てる機械力を総動員し、官民の協力で昼夜兼行で工事を進めたものであり、スピード施工を可能とするため、アスファルト舗装を採用した勇断、このほか多くの斬新な工法を採用することによって、日本道路史上に新たなる一ページを書き加える快挙となったものであった。
 当時の新聞は一斉に「わが国土本界の最高の技術、機械を投入して、道路工事史上に輝く金字塔を打ち立てた」と書き立てていた。

 昭和三六年(1961)八月、国連から道路のエキスパートとして、世界的道路の権威者である西独のエルレン・バッハ博士 (Erlenbach) が来道し「寒地道路の築造並びに維持」について視察された際「札幌・千歳間のこの道路は、計画•施工・維持等を総合して私の見た日本の道路では第一級の道路である」と称賛しているとおり、実験室で貯えられた多くのデータや、あるいは理論的に討議されてきた凍上対策工法などを、大胆に施工に取り入れられて完成したものであった。

 さらにまた、降雨・流水などによる勾配部または盛土の浸蝕防止工法、除雪工法、冬季における舗装の摩耗対策などが検討され積雪寒冷地域の道路工事における試験道路として、多くの課題を提供したモデルケースとなり、北海道のみならず、わが国の道路史上記念すべき道路となった。

 この工事で本格的に採用されたアスファルト舗装はそれ以来、全国的にコンクリート舗装に代わって採用されることとなり、このことなどから「アスファル卜舗装は、北海道に学べ!」という黄金時代を築く基となった。

戦後はじめての本格的な自動車道が出現した

 一級国道三六号線札幌•千歳間道路の通称「弾丸道路」は「戦後はじめての本格的な自動車道の出現であり、凍上対策の実施、アスファルト舗装の再興、自動車道路的構造への前進を果たし、積雪寒冷地域の試験

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道路として多くの課題を提供した」(『新北海道史』)ものであった。
 この道路が一般に「弾丸道路」と呼ばれる所以は、当時米駐留軍の要請による軍事道路と、高速道路との性格をダブらせた呼称であるとされている。 特に日米行政協定に基づく安全保障諸費という、特別財源で建設されたことからも、軍事費の匂いがあったことも否定できない事実である。

 「鏡のようなハイウエー。弾丸道路誕生—。昭和二十八年十一月、札幌―千歳間の一級国道三六号線の改良工事が完成すると、当時の新聞はこうはやしたてた。…すべての面で、当時としては画期的な道路で、出来栄えと同時に北国の道路史上に数々の記録をうち立てた<パイオニア・ ロード>としての驚嘆の意味も、その言葉の裏にこめられていたといってもよい。…道路の呼称からもくみとれるように<軍事用道路>であったからにほかならない。当時の米軍千歳基地は、朝鮮動乱をはじめとする極東の不安定な軍事情勢を反映して重要視され、特に小樽、室蘭といつた近隣港湾との直結が大きな課題であった。そんな時期に浮上したのが、札幌と千歳を結ぶ砂利道の全面舗装だった。…いずれにしても、ここで採用された方法や材料のすべてが、そのあとの道路づくりの基本をなし、今なお生きていることを考えると、このたった一本の道が飾ったわが国の道路史に対する『功績』は、計り知れないものがあるといえる」と読売新聞連載の『道―弾丸道路』では記している。

 この道路は北海道の否、日本道路史上に輝かしい数々の記録を打ち立てたものであった。

 この札幌―千歳間道路の完成がもたらした意義は、札幌と千歳飛行場の連絡道路としても重要であり、従来一時間以上を要していたのが今後は僅か三〇分に短縮されることによって、交通並びに産業上裨益するところ極めて大なるものがあるばかりでなく、目下工事中の室蘭―千歳間道路改良工事並びに札幌― 小樽間道路改良工事完成の暁は、更にその意義は拡大され、北海道開発上重要なる役割を果たす道路であったことは間違いなかった。
 このことは本道の道路にとっても、画期的な工事であったばかりでなく、交通上、経済上に重要な役割を果たしたものであった。

 元札幌開発建設部長であった加藤建郎は「戦後日本の道路は『北の国からの出発(たびたち)』であった。 その出発の元票となったのが『弾丸道路』の愛称で一躍全国に名を馳せた、一級国道三六号線札幌•千歳間の道路である。この道路は、予算が特別扱いであったことにもよるが、本格的な改良舗装工事を一挙に35kmを完成したこと、しかも戦後のろくに食料も無ければ土工機械も満足にない時代に、たった一年という短時日に仕上げたこと、就中道路築造技術工法が斬新的であり、かつ画期的であったことにより名を高らしめ道路築造の元票とされた所以でもある。この道路の完成によって、正に日本の道路の進むべき道が北の国から明確に打ち出されたものであり、いみじくも日本道路の夜明けを告げる『第一次道路整備五箇年計画』が翌年から始まることになるわけである。…当時提起が古くて新しい問題ばかりであり、当時陣頭指揮を採られた初代札幌開発建設部長高橋敏五郎氏をはじめ、精鋭部隊をもってなる諸先輩の慧眼と御苦労を偲び、道路の原点として我々の明日の仕事の糧にしたい」と

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昭和五十八年十一月、開通三〇周年に当たり述べている。

工事の着手の経緯

 当時この路線は、日本海の小樽港(人口18万人)より札幌市(人口32.5万人)そして千歳町(人口2万人)、苫小牧市(人口4.2万人)、太平洋岸の室蘭港(人口11.5万人)に至る本道の重要幹線の一
つであった。
 戦後千歳に米軍レスト・キャンプ、エア•ポートが施設され、更に警察予備隊関係のキャンプ其の他の施設が急激に増大してきたため、札幌千歳間の交通量は増大し、また単に道路交通量の問題のみならず、社会
上、保安上、衛生上にも道路問題の緊急解決策を要望されていた。それが安全保障費による予算が決定し、着工に至ったものであった。

 着工された昭和二十七年(1952)という年は、同二十五年六月に始まった朝鮮半島における戦争が特に熾烈を極め、この深刻さを増す戦局に、米軍は千歳飛行場と札幌•小樽を軍事的輸送拠点として、その
道路整備が急がされたのであった。
 もちろん連合軍の進駐以来、道路交通の確保は占領政策の上でも、極めて重要な課題の一つであった。
 特に駐留軍の車両の通行が激しい道路については、本州各地でもその改良と舗装が安全保障諸費の費目から支出され「行政協定道路事業」として整備が進められていたものであった。
 このような時代背景の中にあって、札幌•真駒内キヤンプの指令部と千歳基地との連絡は、夏はサマーロードと呼ばれていた月寒•島松沢•恵庭経由の地方費道札幌浦河線(昭和二十七年十二月に一級国道三六号線となる)を、また冬になればウィンターロードと呼ばれていた国道二七号(昭和二十七年十二月から国道十二号線となる)の白石大谷地から西の里•北広島•恵庭経由の道道札幌夕張線•道道江別恵庭線を使って
いた。
 駐留軍の自動車交通は激しく、毎日のようにグレーダをかけるものであったから、路面は砂漠のように白塵もうもう、沿道の家も立本も真つ白となっていた。駐留軍の兵士たちも顔中真つ黒に土粉をつけて走っていたのであった。
 昭和二十七年八月末に「これから千歳までの道路に着手し、駐留軍の作戦上での強い要請で、工期を短縮し、来年(昭和二十八年)までに完成させよ」ということになった。
 そして測量•設計•契約を済ませたのである。着工当時は「軍事道路反対」とか「用地買収に応ずるな」などの共産党系の宣伝もあり、マスコミもまた、それを「陰に陽に支持」していた。しかし用地買収は順調に進んだ。そして着工となったものである。

昭和二十七年秋に着工となる

 この工事は延長34.5kmの改良•舗装工事であって、昭和二十七年十月一日に起工し、同月下旬より路線改良の土工工事を開始した。
 この工事に参加したのは、㈱大林組、鉄道工業㈱、清水建設㈱、三井建設㈱、㈱中山組、菅原建設㈱、北拓建設㈱、㈱地崎組、岩田建設㈱、垣原建設㈱、㈱広野組以上十一社のほか、直営機械作業班三班であった。
 ここではブルドーザが42台、スクレーパ13台をはじめ、各種の重機械が稼働し、十二月下旬積雪のため作業中止となるまで、切盛土量67.2万m3の約7割余を仕上げた。
 それより五箇月間現場は厳寒積雪のため殆ど中止状態であったが、五月中旬地下凍結の融けるのを待つて土工工事を再開し、特殊箇所を除いて六月ないし七月中に大略完成した。

 舗装工事については、日本鋪道㈱、日本道路㈱、大成建設㈱、㈱大林組、伊藤組㈱、㈱地崎組の六社が参加し、昭和二十八年三月より準備を進め、六月初旬から土工工事完了部分より舗設作業を開始し、九月末ま

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でに総・面積26.4万m2の大部分を完成させ、十月中に各種の仕上工事が終わった。
 この舗設速度は最盛期において一箇月間に10km余という快速であり、本道としては全く前例のないものであった。
 また千歳橋については清水建設㈱が、漁川橋についは下部構造を㈱大林組、上部構造を函館船渠㈱が請負い、それぞれ所期の通り完成した。

 路肩、側溝、支道取付等の細部の仕上工事は、舗装の仕上がりを待って八月中旬より直営によって開始した。しかし全部の仕上がりまでにはなお、多少の日時を要するものであった。
 また全長34.5kmの間には、局部的ではあるが、上質不良のため当分仮舗装のまま存置する区間や、盛上が未だに安定しない部分等があり、今後の補足工事を必要とするが、十月末日をもって、一応全線にわた
り交通に開放出来る段階となったものである。

改良•舗装工事の概要

 次にこの工事の内容を簡単に紹介すると、舗装幅員は全線にわたり直線部7.5m、曲線部8.0mとし、この他に豊平・月寒間にはそれぞれ1.5mの側道を両側に付けた。
 また月寒より千歳市街間は、幅20cmのコンクリー卜縁石と、幅80cmの芝地との合計1.0mの路肩を付けた。従来の路肩は0.3〜0.5mと貧弱なものであったが、中央の反対を押し切り1.0mとしたものである。
 勾配は一般に3%以下を標準としたが、山間部でこれを6%まで許すこととした。
 線形改良で最も重要視したのは自動車の安全走行に関する事項であり、基本的には「山速里鈍を原勲とした。
 例えば見透距離、カーブの半径、カ—ブのカント、縦断曲線等については、現国道築造基準を約二倍に拡大し、これの適用に当っては区間毎に時速45km/h、60km/h、75km/hの三種の速

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度を想定して設計した。
 あくまでも「自動車主用道路」と計画せざるを得なかった。これは混合交通を許しながらも、自動車を対象とする道路であるということからで、自動車の「専」用道路でないことから「主」用道路としたものである。
 また、土工工事で最も力を注いだのは、冬の凍上や、春の軟弱化を防止する路盤•凍上抑制層を築造することであった。
 すなわち「凍上対策」を北海道で初めて実施したのであった。
 このために豊平・月寒では在来砂利道路の上に厚さ約40cmの切込砂利路盤を設け、また、月寒・千歳間の標準工法としては、上層に厚さ30cm内外の切込砂利を、そのド層には厚さ50cm以上の排水性の優れた
難凍上性火山灰による凍上抑制層を設けた。
 この工事の機械化作業は、当時としてはちよつと見られない壮観を呈したものであった。土工工事の最盛期の現場では、広々とした現場には人影がまばらであって、機械ばかりが動いている大工事現場―アメリカの工事写真を見るような異国風景が、そこに展開していた。
 土工作業が多くの困難を排除して、ほぼ予定の期間までに間に合ったのは、各請負者の努力があったからであり、各社の犠牲も大きかった。

 上輪厚地区の現場では、粘質土地帯であったことから最後まで困難を極めた。特に湧水が多かったことから、深い溝を掘り乾燥を図りながらの土工作業となった箇所であった。
 舗装工法については交通量、工事材料、施工能力等種々の角度から検討して次の三種類を採用した。

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豊平・月寒間の延長2.4km区間は、前後の既設舗装との統一をはかり、また骨材の入手が容易で、路床・路盤が概して安定していることなどから、厚さ20cmのコンクリート舗装(セメント量340kg/m3)とした。ここでは初めて凍結融解の繰り返し作用を受けるような地域では抵抗が強いとされたAE材を使用し、た簡易フィニツシャを用いて舗設した。

 月寒・島松間の延長18.5kmには、厚さ6cmの砕石基礎と、その上に4cmの滲透式アスファルトマカダムエ(4.5L/m2)を、その上に厚さ5cmの中粒式アスファルトコンクリート(アスファルト8.0%石粉4.0%)舗装とした。
 この工区は切盛土が大きかったことで多少の沈下が予想され、さらには施工速度の早い工法が望ましかったことなどから採用したものである。
 舗設作業は、アスファルト・スプレッダをグレーダによって引くという簡単な機械によるものであったが、わが国における初のアスファルト混合物の機械による舗設となったものである。

 島松・千歳の間の延長13.6km区間には、厚さ18cmの転圧コンクリート(セメント210kg/m3)を、その上に厚さ5cmの細粒式アスファルトコンクリー卜(アスファルト9%、石粉6%)舗装とした。
 この区間は、最重交通で特車を含んでいること、砕

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石の需給が悪く出来るだけ使用量を少なくすること、全線にわたり仮道があったことなどからこの工法とした。
 以上の路盤エ、舗装基礎の工法等については、わが国ではあまり前例のないものであって、斯界の注目を浴びたものである。
 また橋梁については、千歳橋を橋長37.0m、幅員17.0m(車道12.0+歩道2@2.5m)の鉄筋コンクリートT桁橋に架換え、漁川橋を橋長74.0m、幅員8.5mの鋼鈑桁橋で新設したほか、10個所の小橋梁を改造又は新設した。
 小橋梁については画期的なものとして、傾斜高欄を採用したことである。
 そのほかには、カントの強い急曲線部で、自動車が路肩に飛び出す危険度の強い所には、縁石を10cm高くしたりした。また、沿道の美化のための並木や、防護柵などは予算の関係から中止となり、法留工も開通後に施工せざるを得なかった。

 付帯的な工事は、電気通信管理局所管ケーブル、北海道配電㈱所管の電柱等の改装•移転をはじめ、一般家屋34戸の移転・改造、田畑12町歩、原野13町歩の買収•補償等を行った。

 工事期間中の一般交通については千歳•島松間に新たに平行して仮道を設け、柏木・札幌間は広島経由の道路に切り替えたことにより、各種作業は殆ど障害を蒙ることなく、予定の通りに進めることができた。

 工事の内容は概略以上の通りであるが、これに要した総工費は、用地補償費などを含め八億七、ー九六万円であった。
 また労力の延人員は約三三九、〇〇〇人である。
 主なる工事材料では、砂利・砂•砕石等の石材が約191,000m3、セメントが約7,100t、アスファルトが約3,200t、鉄鋼が材約450t等となっている。

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かくして札幌干歳間道路が開通となる

 昭和二十七年十月十五日、工事のため翌二十八年十月末日を期限に交通禁止の掲示を出してから、ここに一年と半月余、この間例年にない低温、雨天等に見舞れたのにもかかわらず、殆ど予定表の通りに工事を進めることができ、開通の式典を挙げる運びとなったものである。
 開通にあたり高橋部長は「直接工事を担当された諸会社の熱誠なる御努力は勿論、関係各方面の絶大な御協力、御支援の賜でありまして、ここに厚く御礼を申し上げる次第であります」と挨拶している。

 開通式は工事報告に続いて、建設大臣(代理遠藤主査)の告辞、開発庁長官(代理川戸主幹)、知事(代理野口副知事)、米国側代表、議長(代理伊藤道議)、広瀬札幌商工会議所会頭、関係市町村長からの祝辞があって、閉会の辞があり、300余名の参集者を集めた竣工式は無事終了した。

 この式の後、30数台の車に分乗して千歳へと向かう。豊平橋では記念の花火が打ち上げられ、定鉄豊平駅踏切を過ぎたところで、池田開発局長が五色のテー プをカットして渡道式が行われ、沿道民からの歓呼を浴びながら、祝賀会場である千歳へと進む。

 この日は朝から、しとしとと雨が降っていた。高橋部長は後になって、しみじみと喜びをかみしめて「起工式の時とは違い、この時は札幌も少しわき立って、敵意を抱いていた報道機関なども、特号活字で一面卜 ップ記事に扱った」とする。この日は全道的に気温が下がり、手稲連峰もうっすらと雪化粧となつていた。

 高橋部長にとっては、苦労した所長連中がジープに乗って露払いとして、行列の最先端を悠々と走つているのを見ると、過去一年間の出来事が走馬灯の

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ように思い出され、また沿道の一木一草も、戦友のように思われたのであった。
 当時の新聞は「道土木史に金字塔」という大きな見出しで「現在のわが国土木界の最高の技術、機械を大量に投入して正味一カ年で完成」し「工事規模はもとより、延長、工事期間において、本道道路工事史に輝く金字塔を打ち立てた」などと賛辞を呈していた。
 祝賀会は千歳高等学校で午後一時から行われた。この弾丸道路完成を記念して記念の絵葉書が配られ、五円切手に図柄が完成した道路を疾駆する乗用車、永久橋を描いた記念の郵便局日付印が捺印されていた。

 思えば少数精鋭、文字通り昼夜兼行の作業であったが、現場マンは過酷な任務に耐え、誇りを持って立ち向かって完成させたものである。しとしとと降る雨の中、局長の乗用車がテープを切ると、工事関係者の目には、きらりと光るものがあったと伝えられている。
 この道路が地域住民と駐留軍と約束した期限までに完成したことは、現場担当者の努力と、絶大な協力があったからだと高橋部長は述懐する。
局 の道路課長として予算要求などに当った上戸斌司は「私ども関係者は前日に修祓式を行い、竣功の当日、池田局長の乗用車が豊平の定山渓鉄道の踏切のかたわらに設けられた五色のテープを切って、しとしとと降る雨の中を、静かに千歳に向かつて進んでいったのを見ましたときは、歓喜にむせんだものであった」と感激する。関係者にとって、この瞬間は感激であったことであろう。

 なお開発局と新聞社が共催で自転車によるロードレースがあり、また、弾丸道路の完成を記念して、バスによる試乗会も行われている。

 工事費の内訳と土工•橋梁•舗装工事量を次頁の表に示す。
 なお主要機械類は、ブルドーザが42台(内大型7、中型16、小型19)であり、キャリオールスクレーパが13台、ローラ53台(マカダムローラ・タンデムローラ)、タンピングローラ9台、タイヤローラー2台、パワーショベル1台、トラツク類120台、モーターグレーダ1台、アスフアルトプラントが6基などとなっている。

 またセメンとおよびアスファルトは、官給であった。

 なおこの工事は、札幌・千歳間道路工事の記録として、紹介編・施工編という二編の映画に取りまとめ残されていて、当時の工事状 況などを今に伝え、観る者に感動を与えてている。

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 昭和二十七年九月の第一次指定以来、北海道に投入された安全保障諸費の総額は、道路事業で一九億〇五五ー万円にも達する。これに港湾事業の二億七、七九〇万円が加わると、実にニー億ハ、三四一万円というものであった。
 道路事業では札幌•千歳•室蘭間、札幌•小樽間などの在日米軍の駐留部隊の利用度の高い道路はもちろんのこと、門別周辺の道路が整備されたのである。『新北海道史』では「これらは一般開発事業の及びもつかない豪勢な工事単価と、スピード工事ぶりが目立ち、遅れがちな開発事業を促進したが、おりからの再軍備反対•日本の軍事基地化反対の声が高まるなかで、一般には軍事色の濃厚な工事としてむかえられた」とある。そのなかでも代表とされたのがこの「弾丸道路」であったとする。
 この弾丸道路と呼ばれたのは「当時は、軍事道路の性格をこめて批判的な呼称」とされたものであったが、このような道路は「当時では一般的な使用法であり、千歳道路にかぎったことはなかった」ものである。
 それが「長い間、愛称として残り『弾丸のようにスピードが出せるからだ』などという神話が生まれたのは、その道路技術上の近代的性格によっていた」からだと『新北海道史』は説明する。
 そして同史は「安全保障諸費と公共事業費とを合わせて八億二、〇〇〇万円で施工したその後の札樽国道の改良•舗装工事に比べれば技術的に劣るとしても、弾丸道路は戦後はじめての本格的自動車道の出現であった」とする。

 この道路は北海道における道路のあり方、進むべき方向を示された道路であったとしてもよいであろう

 今日誰いうとなく世間では、この道路を弾丸道路と呼んでいるが、これは誇大な表現で計画者にとっては真に迷惑な話である」と開通時の『北海道開発局号外』 では記している。
 そして「この道路は決して自動車専用道路ではなく、あくまでも国道なのであるから、同時に歩行者も自転車も馬車も通るのであって、このような混合交通は弾丸道路ではあり得ないのである」と説明する。

 開通時の多くの新聞は「弾丸道路完成―國道三六號線札幌•千歳間」とか「その名も弾丸道路」という見出しで報じていたものであった。「丸一年の突貫工事で完成した札幌千歳間弾丸道路がえんえんと一条」とか「札幌千歳間の弾丸道路がわずか一年で舗装、改良を完成」とかと載せていた。
 しかし「当時米駐留軍の要請による軍事道路と、高速道路との性格をダブらせた呼称」と同時にまた「日米行政協定に基づく安全保障諸費という、特別財源で建設されたことから、軍事費の匂いがあったことも否定できない事実」であった。

 舗装工事の全般を担当した武山廣志は「軍事色の濃厚な色彩で迎えられ」たことから「報道関係のすべては、この道路を弾丸道路と皮肉って命名」したとする。これら多くの説があるが「駐留軍の要請が強く働いていた」ことも事実である。

 高橋部長は「何かすばらしい道路を作ったように誤解している人が多いようにおもわれる。確かにその当時としては、弾丸道路の俗称ができたほどに、ー般道路から飛躍していたかも知れないけれども、技術的にみれば、現代道路に対する試作品の部類で、その後に施工した国道12号の技術などとくらべても、低かったのである。というよりも、頭で考えることだけは先走ったけれども、予算も設計施工技術も、まだ十分に追随できなかったのである」と述べている。
 この工事に「特別な価値があったとすれば一つは大工事を短期問に、それも慨してトラブルも少なく

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やってのけたこと、もう一つは、凍上対策の実行、アスファルト舗装の再興(当時はコンクリート舗装一辺倒でアスファルト舗装は衰微の極にあった)、自動車道路的構造への前進、その他道路技術上のいろいろの問題で、現代道路への先駆的な役割をつとめたことだと思う」とする。

 この札幌・千歳間の道路は「現代の自動車道路としては『試作品』」であった。
 ここで試みられた様々な実験と機械導入による大規模匚事の短期間施匚方法、凍上対策の実行、アスフアルト舗装の再興等は、北海道の寒冷地での道路建設のあり方を模索しながら実施されたもの」(『北海道道路史』)であったが、しかしこの道路建設の成功によって、積雪寒冷地における道路建設の技術が確立したことは特筆に値するものである。
 「ここで形成され始めた新たな技術は、北海道内外の各地の舗装道路に適用され、改良を加えられていった」(『北海道道路史』)ものであった。

 工事が円滑に終わったことについて、高橋部長は「何よりも開発局の手厚い庇護があげられる。本省もこの工事の予算が特殊なものであったせいか、現場の先走りを黙認してくれたが、開発局は足下での工事なので、何かと現場注文したいことも多かったと思われるのに、それを抑えて、ただ予算などの心配をしてくれた。私も最初の打合せや仕様書などは厳重にしたが、乱れない限り現場に任せきった。このような命令系統の重複がなかったから、この工事では誰もが、ポストと才能に応じてついに、しかも愉快に働くことができたように思う」と、しみじみと語る。
 さらにはこの工事は「職員の士気高揚に役立ち、大工事を恐れなくなったこと、技術面でも研究的になり、施工適期を考えたり(今日の早期発注に通ずるもの)、仕様書などを重視するようになった」ものという。

 そして高橋部長は「このころから北海道内の工事は、急速に大型化して道民の目をみはらせるものがあった。それまでとかく、不当に白眼視され勝ちだった開発局の威力宣揚時代でもあったように思われる」のであったと後に語っている。

 高橋部長は『札幌・千歳道路工事報告』の中で「札幌千歳道路工事は、一応終わったけれども、道路技術者としての私達にとって、本当に実のある仕事はこれから始まろうとしている。今までの仕事は、私達の過去の知識から一歩も出ないもので、現在は、どうにかでっち上げた一つの供試体を、試験機にかけたばかりの段階である。私達はこれからいろいろのことを知ろうとしており、そのための『わな』をこの道路に仕掛けておいたので、何かの獲物―将来の進歩に対し踏石になりそうなものも、一つ位はあるものと期待している」と記している。

 武山廣志も完成にあたり「高橋敏五郎氏の指揮のもとに、一糸乱れぬ団結と、業界の協力は、日本における舗装界に数多くのレコードを打ち立てた。しかも施行にあたっての公約を全うできたことは終生忘れることのできない感激であった」という。
 「毎日が新しい問題ばかりだったから、どうしても家路につくのは夜半となる」日々が続いた。それだけに完成したとき「今日でも深い愛情を持ち続けている」道路であるとする。
 さらに武山は「北海道は、寒冷積雪の悪条件で、常に私たちに試練のむちを与えてくれる。だから私たちは安閑とすること許されない。毎日毎日を向上のための努力に費やすべきである」ともいう。

 開通した翌年には、気温が下がると転圧コンクリ—卜に収縮目地の開口が目立ち、積雪期に入ると今度は車輪の滑り止めチェーンによる舗装面の激しい摩損が現れてもきた。また融雪期では凍上現象が見られる箇所も発生してきたのであった。それらの対策に着手となる。
 さらには盛土が高く勾配のきつい個所に、コンクリート製のL型縁石を設置して降雨時の流水を導いたり、切土法面に柳柵を設けて緑化したりの、道路の

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設の施工を行なった。また崖下に飛び込む自動車に、危険を警告する標識の役目としての安全柵の設置もした。この柵は鉄筋コンクリートの角柱にPC板を取り付け、着色夜光板を貼り付けたものである。

 なにしろ高橋部長の頭には「一度破壊された自然の美は、一朝ータに復元出来るものではない」という考えがあり、維持作業の片手間でやれる程度のものであれば積極的にこの美化にも取り組んだ。

その後の国道三六号の工事について

 その後の札幌・千歳間道路は、昭和三十三年(1958)の月寒市街の拡幅につづいて、同三十九年の恵庭市街の整備、同四十二年からの月寒市街から月寒種羊場間の整備、引き続いての同四十三年(1968)から清田から大曲間の線形の大改良、そして昭和六十一年(1986)には、島松沢の急勾配と線形の大改良が行われた。

 さらには恵庭市街地の交通渋滞の緩和や「水と緑のやすらぎプラン」と、快適な冬の生活環境づくりを目指す「ふゆトピア」事業とが一体となった道路空間の建設を目指し恵庭バイパスの建設が行われて、札幌・千歳間道路が整備され、今日に至っているものである。

 また日本道路公団施工の「道央自動車道•千歳〜北広島間」道路、延長23.3kmが、昭和四十六年十二月四日に、事業費160億円を投じて、暫定二車線で供用を開始した。その後昭和四十七年九月に四車線道路として完成をみた。
 当時、偉大なる先輩たちが、この弾丸道路建設にかけた情熱と、多くの斬新的な工法などが今日もなお生かされていて北海道のこれからの道路のあり方、進むべき方向を示された記念すべき道路であったといってもよい。

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余録 島松駅逓所とクラ—ク博士記念碑

 島松駅逓所は北広島市と恵庭市との境界の島松に建っている建物である。駅逓所の建物としては、その構造、設備を後世に良く伝えるものとして、北海道最古のものとされる。昭和四十二年北海道は、所有者の中村久次に駅逓所の保存を申し出た。その結果、昭和四十三年三月二十九日に北海道指定史跡となつた。
 島松駅逓所は明治六年(1873)に、函館と札幌間の「札幌本道」が開通した時、同年十二月七日に島松村に設置されたもので、駅逓の建物はトタンふきになった外は、昔そのままの建物となっている。この建物は木造平屋であって三四〇m2のものである。
 明治十四年、明治天皇は北海道をご視察された帰途、この島松駅逓所でご休憩なされることになった。そこで持主の中山久蔵はこのことを大変光栄に思い、従来の建物南側に十畳二室と上手便所等を行在所のため増築し、中手座敷の背面側も改造した。明治十四年三月に改築に着手し 行幸までに完成させたものであった。「後方に山を背ひたる面積二百坪の宅地に新
築せり、建築材料は槐桂概等悉く良材を用ひ構造亦堅固にして建坪八十八坪七合五勺の平屋なり、建築費実に一千三百五十を要したと謂ふ」と『広島町の歩み』 にある。久蔵は自作の稲と水田をご覧に入れたり、天皇のご下問にもお応えなされたとされる。
 島松駅逓所は札幌と千歳のほぼ中間にあったことから、結構旅人に利用された駅逓でもあった。しかしその後は鉄道の開通
などとともに、何日も宿泊すると経費と時間がかかることや、道路がかなり荒廃したことなどもあって、駅逓業務は自然衰退し、明治三十年には廃止となった。この建物は昭和八年の文部省告示第三一三号よって、史跡として指定されたことがあった
が、終戦とともに措定が解除されていた。
 平成二年十月に、七年ががりの修復工事が完了した。現存する道内八箇所の駅逓所の建物の中でも、もっとも古いものであり、昭和四十三年に道路をはさんで反対側に住宅を新築するまで、久蔵の子孫が住んでいた。しかし百年の風雪により老朽化が激しく、腐朽・破損の度は加速的に増してきて、倒壊の危機を招いてきた。 同駅逓所は、昭和五十九年七月二十五日に文部省から「島松駅逓所は、明治以降最も早く設置された主要道沿いの駅逓所であり、後世の改変も比較的少なく、北海道開拓史上の貴重な遺構であり、史跡に指定して保存を図ろうとするものである」として、国の史跡に指定された。そこで町教育委員会は一億七千五百八十五万二千六百四十円を投じて全面修復に入つていたものである。
 明治十年(1877)四月十六日、任期を終えて北海道を去ることになったクラーク博士が、島松駅逓に立ち寄り一服する。見送ってきた佐藤昌介らに対して、未練を断ち切るように「Boys Be Ambitious」の名言を残して馬にムチをあてて、室蘭から船で母国アメリカに帰った。その日の朝、名残を惜しむ職員生徒たちと博士の官舎前で記念の写真を撮り、思い思いに馬に跨って博士の馬を追いながら室繭街道を南下して、島松駅逓で休憩となる。博士は一人ひとりと握手し、慈愛をこもるまなざしで学生たちに「青年よ汝等は常に大志を懐き、国家有用の材たれよ」と叫ぶと、長鞭を馬腹にあて、やがて疎林の中にその姿を消していつた。
 昭和九年にクラーク博士の記念碑を建てようとする議が有志の間に起こった。そこで佐藤昌介らが「記

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念碑建設予定地」という標杭を建てた。しかし種々の事情から建設はされなかった。
 戦後になって「北海道教育界のシンボル、クラーク先生の功績を永く讃うべし」ということがいわれてきた。そして昭和二十五年に北大生や地元民の奉仕で基礎工事が始まり、同二十五年十二月に記念碑が完成した。山内壮夫が設計したもので、碑は約七mほどの御影石造りのパンテノン式円柱のものである。中ほどには山内壮夫の手になる博士のブロンズの浮彫がはめまれている。
 なお愛弟子達のために残した「Boys be ambitious!」 という全国誰知らぬ者のいないこの訓言について、札幌農学校第一期卒業生の大島正健は、その著書の中で「心なき人々が、青年よ野心家たれと叫んだクラークという男は怪しからぬ人間だ、などと申すのを時折り耳にするが、これは誤訳もはなはだしいのであって、先生はすべからく大抱負をいだき未来に夢を持てということを訓えられたのである」と憤慨して記している。

《参考文献》
「舗装事業のあゆみ」北海道舗装事業協会、 昭和五十五年
「新北海道史—第六巻」北海道、昭和五十二年
読売新聞連載「道」昭和五十三年より
「北海道開発局十五年小史」北海道開発局、昭和四十七年
高橋敏五郎「一級国道三六号線札幌―千歳間道路 工事報告」道路建設、昭和二十九年
     「 同 その後の札幌―千歳道路」道路建設、昭和三十年
「北海道舗装史上」土木技術会舗装研究委員会、昭和六十年
「寒地土木開発事業の偉大なる指導者」高橋敏五郎受賞記念誌、昭和五十二年
大島正健著「クラーク先生とその弟子たち」国書刊行会、昭和四十八年
「道路こそわがいのち―高橋敏五郎さんのあしあと」昭和六十一年
使用した写真は、北海道開発局•(株)北洋映画社•坂入 碩氏•三浦 宏氏の提供によるものである。

あとがき

 国道三六号札幌•千歳間道路、通称弾丸道路が開通してから、本年十一月二日で満五〇周年を迎えます。
 道路情報館ではそれを記念してパネル展を開催し、同時に多くの方々にこの道路工事の輝かしい記録のー端を紹介するために、この資料をまとめたものです。
 この道路は、戦後はじめての本格的な自動車道の出現でもありました。ここでは凍上対策の実施、アスフアルト鋪装の再興、そして自動車道路的構造への前進を果たしたものであります。そして積雪寒冷地域の試験道路として多くの課題を提供したものでした。
 この道路の開通によって、北海道の道路技術が全国に知らしめられ、ここで試みられた多くの課題は、現在の道路建設にも生かされております。
 私たちは、先人が何をやってきたのか、その踏み跡をしっかりと確かめてみましょう。そして後世に語り継いでいきましょう。
 本書は開通五〇周年を記念して、この道路建設にあたり、この道路建設に命をかけ叡智を傾け、そして指揮をとった高橋敏五郎氏の記録でもあります。ここでは多くの資料から物語としてまとめてみました。何かの参考としていただきたいと願っています。

平成十五年十月
札幌・千歳間道路物語編集委員会

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