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0036 道路情報館シリーズ2|黄金道路物語

No.0036
分類道路誌
タイトル黄金道路物語
作成年月日H16/11/01
発行者道路情報館    

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目次
蝦夷地の山道の開削……4
ルベシベツ山道の開削……7
黄金道路の閭通……12
近藤 重蔵 蝦夷地山道開削……25
近藤 重蔵……27
おわりに……28
引川および参考文献……30
「道路情報館シリーズ」の発行にあたり……31

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以下、電子書籍化工事中

 通称「黄金道路」とは、国道336号のえりも町庶野から広循広省までの約30kmの区間をいう。この区間の道路は「黄金道路』という名前で、観光客を淡いロマンに誘い、断崖、絶壁がそそり立つ景観で魅了する。
 日高山脈の尾根は、襟裳岬で太平洋に沈んでいる。その岬から庶野市街に抜けると、断崖に荒波が打ち寄せ、そのしぶきを上げる海岸線が広尾市街街まで続く。
「空からみると、それはまるで大自然とたわむれる大蛇のようだ。太平洋の荒波を遮断してして成立する斬下にまつわりつき、時にそ”足元にit?
入したかと思うと・次には大海原に身をらせる。けわしい: 山睬のすそ野も喜々とした『蛇身」の大费な身のこなしに, 冬の
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い喑さを忘れさせる」( 「北^ 9の洩) ものであるeこの区間の道路は、古くから道南と)Q央とを結ぶ陸港の緩大黒所ンーして知られていた。寛政十年( 一九八) に. 迪・-1(蔵が件耦した「ルペシベツ山道」は、北堂で丑を開いた彼初のものであった本格的な道路に、昭和一・年( 一九二七) に若エし、延釜・二•Hknの道陷を、九” 四万h 千I1!余というr村糸じてHh^TH末に完成をkたものである。本年はそれから七卜单【京) のW 史をたどってきた『のである。 探その後も波浪・十砂柵れ、就石・ ・崩等によって(Hめつけられ、その陶持• 補修に迎bれて、jたin路であったへほ削ffilは昭和一—六年四リから工4<が船められ、延長約ー・五・ー・、総r費約百六十九億四千万円を投じて同六いー年( ー九八六) 十一月に一次改築が終わった。• 方えりも町側は昭和四トニ年J1耳から始められ、 延長約一四• ・八MBの区,fflに総. 丄費約gtーー億: ー干カ円が投入され・同. 五十八年 月に亢成したものであE•思えば近腹HI戲が昌して以来、二〇六年の於ハを経て、ここに 次改築が完了したものであった。そして現在• 日高山KI5喬定公面の「えりも黃金ライン」ー ・として産楽に、 版光にとって故要な务をIIIってい6 冨ー道路である。

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蝦夷地の山道の開削

 蝦夷地と呼ばれていた北海道では最上徳内が『蝦夷草紙』でいうように「蝦夷國中作りたる道なき國なり。得手勝手に出きたる道もあり」の状態であった。これは寛政二年( 1790) ころの蝦夷地の状況であった。
 蝦夷地にやってきた和人たちは「主として漁業により生計を營み、海岸の地に部落を成したれば、其交通も亦海岸の線路によれり。然れども市街地の外は殆ど修築したる道路なく、砂濱と平磯とを論ぜず、苟にも通行し得る限りは海沿ひに往來し、斷崖絶壁海際に聳っに逢ふて始めて山岳を越えて經路を設けたり。…要するに當時の道路は僅かに人馬を通行せしめ得るのみにして、甚だ粗悪なるものなりき」( 『北海道道路誌』) のものであった。
 また内陸部では密林に覆われ海岸よりもなお一層交通は困難であった。特に陸行して海岸の難所を船で越すときは、神に木幣を捧げて祈り、帆を下ろして謹慎して通った。西の帆越• 雷電• 神威の各岬、東の矢越崎などは皆この風習を残している。

 やがてロシアの東方進出が活発化してくると、幕府は新しい蝦夷地経営に苦慮することになる。1796年すなわち寛政八年になると、噴火湾に英国探検隊の船が停泊するという事態が出てきた。幕府はこれらの事態をみて、最早黙視することができなくなった。幕府は先ず現地の状況を正確に把握することが不可欠であった。

 そこで幕府は急遽御使番の大河内善兵衛、渡邊久蔵らを蝦夷地へ派遣し、実情の調査をさせる。
 この結果、広大な蝦夷地の支配を松前藩だけに任せるわけにはいかない、と判断し、寛政十年に180余名という大調査団を蝦夷地へと派遣した。そして国防上、松前藩から蝦夷地を取り上げ直轄領とすることにした。文政四年(1821) までの二十二年間幕府の直轄領としたものであった。

 寛政十一年に直轄支配とした幕府は、箱館と択捉にかけて国防上の充実と開拓上の必要性から、道路の開削に主力を注ぐこととした。これは一旦事が起きた場合に箱館から根室方面への速やかな派兵と、その連絡、そのために官船を用いると同時に沿岸道路の開削がどうしても必要となったからである。
 と同時にまた、詳しい地図も必要となり、高度な知識と技術を持った人々がこの事業にたずさわる。この時期に北方地図が飛躍的に正確となつた。

 箱館奉行であった羽太正養の『休明光記巻一』に「蝦夷の地は盡く嶮岨にして通路自在ならず、所としては人
鎖絶え其海岸搔送り舟をもって、漸々に通路をなすといえども、風順よからざれば舟行の道をたち、徒に風を待て日を送る。かくては事あらん時急を告るに妨あり、亦常に往來の煩ひなれば、ことごとく道を開て通駱をつけ往來の煩ひなからしめ」るべきとしている。この『休明光記』は寛政十一年に著されたものである

 そして寛政年間(1789~1800) に開削されたのが、幕府の直轄開削による猿留山道• 様似山道と、藩などにょる開削の礼文華山道、釧路仙鳳跡山道のわずかなものであった。続いて文化年間に仙鳳跡〜厚岸間山道、網走越え山道、斜里越え山道が開削されたのである。

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 これによって、朿蝦夷地の海岸道路開削はまだ完全なものではなかったが、それでも四六時中通行ができるようになつて、風雨の激しい日でも空しく滞在することがなくなり、かつ従来の迂回路を短縮したことによって里程を減じ得たことは、 大いに交通に便益を与えたものといえるようになった。

 しかし西蝦夷地は東蝦夷地に比べて、遅れて幕府の直轄となったこともあり、 さらには険しい海岸の多かったこともあって、ほとんど開削されなかったのであった。
 やがて、西蝦夷地では、 文化年間に従来の木古内越えを改修した木古内山道、 千歳越え、雨竜越え、余市山道が開削されたが、太田・狩場・雷電・積丹・濃昼・雄冬など海岸に難所があって、久遠から増毛までの陸行を拒んでいた。したがって松前からは殆ど船によつていた。
 西蝦夷地の道路開削が東蝦夷地よりも遅れたのは、幕府のこの地直轄が東よりも八年後の文化四年(1807)三月であったのと、東に比較して人口が少なく、かつその沿海部落も大難所によってさえぎられていたため、船を利用するのが便利であったからであった。

 やがて幕府は道路の開削を蝦夷地経営上の急務とした。しかし箱館奉行は他に急を要する台場の建設など事業が多く、その経費も限られていた。
 そこで奉行は場所請負人に目を付けた。当時この場所請負人たちは鰊などの好漁に恵まれ、 その資力も労カも豊富であったから、各場額負人に諭して道路開削を寄付さゼたのであった。

 かくして安政年間(1854~1859) 、西蝦夷地には黒松内山道をはじめ、雷電山道・余市山道・濃昼山道・阿冬山道、 太田・狩場・鶉山道などが開削され、また石狩・対雁間、銭函・千歳間などの道路も開削されて、たちまちにして西蝦夷一帯の陸路が全通したのであった。
 しかし全通したとはいえ、あくまでも当時の道路といえば「僅かに人馬を通行せしめ得るのみにして甚だ粗惡なるものなりき」( 『北海道道路誌」) であった。

 これらの山道はいずれも「アイヌから通路の話を聞き、そこで和人でも通れる道路をつくり始めたのがいわゆる新道切り開きである。そのころから明治にかけてつくられた山越え道は、殆どアイヌの交通路の筋である。そこに土木工事をして和人でも通れるようにし、できたら荷を積んだ馬でも通れるようにしたのであった。今旧道と呼ばれて残っている処が多い」 と『アイヌ語地名の研究』ではいう。

 道内各地の山越え道は「どれもうまい通路である。沢を登り、山の鞍部を越え、向う側の沢を下るのであるが、目的地に向かって、一番近い道筋が選ばれていた。その沢の入口から鞍部が見える処は殆んどない。測量図もない昔にどうしてそれが分かったのかと思ったことが屡々だったが、 考えて見ると、当時のアイヌは狩猟民だった。山歩きに慣れていて、山に詳しかったのだから、当り前のことだったのだろうか。山にとりつく辺など、急傾斜のものもあったが、平気でそこを上下したらしい。当時の人は強壮で、崖があればよじ登り、薮の処は押し分けて通った。それでそこがル(通路) なのであった」と同書にある。
 そこでアイヌに通路の話を聞き、それを参考にして各地の山道を開削したのであろう。

ルベシベツ山道の開削

 寛政年間に開削された山道の中で、特筆されるのは、ルベシベツ山道」であろう。近藤重蔵が私費で開削したという有名な山道である。
 独断で重蔵が松前藩の領地に道を開いたものであった。すなわちルベシベツからビタタヌンケまでの間の三里余の新道を開いたものである。
 特に蝦夷地三大難所の随一といわれていた日高の険道「幌泉〜広尾」間には、有名な難所が続いていて、

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古河古松軒宛書翰( 寛政一一年) の中で、重蔵はこの区間の状況を「ホロイズミ、ビロウの間、驗蛆( けわ
しいこと) 尤も多く、●幌巖( 山や岩石がけわしく高いさま) 絶壁、突兀として馬足不通、其間チキシコルイ、トモチクシ等の峻、蟻附( 蟻のように群がり付くこと)蟹歩( 蟹のように横にあるくこと)始めて魚腹を免れて、石頭岩牙を躍歩( 飛び上がり歩くこと) し、飛泉( 滝のこと)を登り、水中を行して始めてビロウへ出」と書き送っている。

 それまで蝦夷地にあった道は、自然に踏み分けられた道だけであって、道を造ろうとして造った道はなく、これが蝦夷地最初に開削された道であった。「本道道路開噤の嘴矢( 昔戦争を始めるしるしに、かぶらや」を敵陣に向けて射かけたことから、すべて物事の最初たることをいう) 」であるとされる。
 寛政年間の幕府による蝦夷地直轄は、徳川幕府開府以来の大事業であった。
 そこで幕府は寛政十年(1798) 、蝦夷地直轄の下見分として、目付渡邊久蔵らを蝦夷地へ派遣する。この時に使番・大河内善兵衛の下に属していた近藤重蔵は、幕命によって太平洋岸と千島の島々までを検分することになった”
 近藤重蔵は、最上徳内らと千島の国後• 択捉に渡って、択捉島のカムイワッカナイに、ロシア人が立てた十字架を倒して「大日本恵登呂府」の標柱を建てたのはこの時である。
 この時の巡視には多くの有為な人材が参加したが、なかでも史上に有名なのが近藤重蔵であった。時に重蔵は二十八歳、水戸藩士木村謙次( 下野源助と変名・四十七歳) と、その道の第一人者最上徳内( 四十四歳)らが一緒であった。

 重蔵が帰路についたのは十月の末であった。当時の広尾から幌泉間の海岸には難所が多く、波の穏やかな時でさえ海岸の通行は危険であった。
 近藤らは日高の国境を前にして風雨に遭い、数日間広尾に足止めされてしまう。なにしろ風が強く、季節はすでに厳しい冬に向かっていたのである。そこでむなしく天候の回復を待った。
 ひと足先に箱館に向かっていた徳内から重蔵は、この地方のアイヌが苦労するをみかねて「是非、山道を開いてアイヌたちを安心させてほしい」という手紙をもらっていた。そこで一同に山越えの道を開くことを計り、その開削を下野源助に命じた。
 このころ暇夷地三大難所の随一といわれていた広尾• 幌泉間の海岸には、有名な海に迫る断崖絶壁が続き、 波の穏やかな時でも崖を昇降し、また特に波の静かな時には波間を見計らって岩礁伝いに海岸を命がけで通行していた。したがって海岸線の通行は常に困難であった。このような有様を見た重蔵は、 往路の際も考えていたというが、背後の山に道を開くことを決心した。そこで通辞を通してアイヌと相談し、自費でルベシベツからビタタヌンケまでの山道約三里余を開削することにした。

 源助は鉞二丁、鉈一丁のほか、鎌と唐鍬などと草鞋十足を携えアイヌ68人で開削に当たった。この区間にはわずかに狩人が知っているという細い道があ

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った。これに沿って山道を開削したのである。
 この時に開削された「ルベシベツ山道」は「是れ實に蝦夷地道路開鑿の●嘴矢にして貝功績甚だ偉大」と『北海道道路誌」など多くの文献は重蔵に対して賛辞を贈っている。
 なにしろそれまで蝦夷地には自然に踏み固められた道はあったが、道を造ろうとして造られた道はなく、これが警地最初の道路開削のものである。

 「樣似から幌泉までは斷崖絶壁が直に海に迫り、怒濤岸を嚙んで歩行も出來ぬ險路だ。行人は波のひき間を見て疾走し、斷崖に蝸附し岩と巖との間を蟹歩しで行くのである。だから往々にして波に浚はれたり或いは巖から墜落して惨死するものがなくなかった。寛政十年近藤重藏守重が●択捉からの歸途、この險に差か●り、熟々其道路開●應の必要を感じアイヌを役してルベシペツからヒタタヌキまで新道を開いて行人の難苦を救ふた。
これ本道開拓史に特筆すべき蝦夷地新道の濫觴である」と、河合裸石は『蝦夷地は歌ふ』に記している。
 源助は、血気さかんな重蔵を助け、書記として活動し、このルベシベツ山道の道路開削を成功させ、その由来を板に彫り、それを十勝神社に奉納した。
 その後、萬延元年(1860) になり、この板が朽ちて読みにくくなったので、十勝詰の幕●橘正豊、西正友らが相談し、名文家と知られた箱館奉行支配調役の茶溪鈴木尚太郎重尚に揮毫を頼んで桜の木に刻んで再製し、奉納されたものである。
 現在この「東蝦新道記」は、北海道指定有形文化財に指定され、保存されている。それには大意、

蝦夷東北の徼(国境) 、射麻児(様似) より尾朗(広尾)に至り、海岸の驗を渉る。鞘筑子
ffl
内の如きは、峻巖
(
岩山が険しく高いさま) 絶壁登降超恕( 前へ出ようと
しながら進みかね、もじもじしているようす) 、蟹歩
(
蟹のように横に歩くさま) 螺躍、蟻附( 蟻のように
群がり付くこと) 猿攀( 猿のようによじ登る) 誤って

歩を失えば則ち雍粉( こなごなになる) に非ざれば、
必ず魚腹なり。夷族の此鹼間に死するものも亦之有
り。江戸のB 軒使近藤君、はじめて此の驗を徑り新に
道を山後に開かんとの意有り。恵登呂府より安歸の
日、風雨阻み、道路塞がり、濡滯( とどまる) 數日な
リ。ここにおいて概然( いきどうり嘆く) 發奮通詞某
及ぴ夷族と商議( 相談する) し、資を出し財を投じて、
留邊志別より水を遡って神芟留に至り針を按じ( しら
ベる) て南し、 流れに沿って下り、鯉田奴月に出づ。
登降三里に近し。木を伐して流れに架して橋となし、
石を碎いて谷に投じて梯となす。行路初めて跋渉( 山を越え川を渉る) 危くなく人夷これによるべし。これ
江戸の餘澤( 前人の恩恵)

かの夷族に及び、 近藤君
の人を思い、夷を思うの陰徳( 人に知られる善行) た
る所以なり。余其の事にあずかり、姓名を記して戸勝
( 卜
勝)






大日本 寛政卜年戌午 十一月朔庚申
江戸幡蚌使近藤君重藏 從者下野源助録
金平 通詞 豐吉 孫匕 夷族六十八人
というものである。
この原文を刻んだ「近藤重蔵道路開削記模碑」が黄
金道路沿いのルベシベツに建てられ、裏面に「この碑
文の道路はここより分岐したるものにして本道道路
開鑿の疇矢とす 昭和九年九月 北海道廳」と刻ま
れている。この碑こそ近藤重蔵の道路開削の功績を
称え、この璧を永遠に伝えているものであろう。
近藤重蔵守重は「偏執的なほどの情熱と、勇気と、

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